著:3スレ目>>284殿
1
永禄十年。
二年前、武田家嫡子武田義信は傳役・飯富虎昌を通じて謀反を起こす。
しかし計画は露見し、虎昌は謀反の首謀者として切腹し、義信も同年9月、東光寺に幽閉された。
そもそもの事の起こりは父子の感情の対立、武田家家臣団における新旧二大勢力の争い、
様々なことがあったが、直接の原因は、南進論、すなわち、対今川侵略作戦を巡る対立にあった。
穴山('A`)y「・・・・この二年間、まるでおやかた様は対外侵略を恐れているようじゃ・・・。
おやかた様は義信様が改心して許しを請うことを願っておられるのであろうが・・・
この二年間の間に織田、徳川は機内を制しつつある・・・失ったものが大きすぎる・・・」
甲斐の南、下山に根拠地を持つ穴山信君にとって、国境を接する今川、徳川、織田の動きには
常に注意を払っている。この二年の間で今川の勢力は地に落ち、そして織田徳川は一段と天下に近づいた。
穴山('A`)y「・・・・おやかた様のお優しい心はわかる、しかし二年、この二年の代償は大きい。。。」
生き馬の目を抜き戦国時代、二年と言う月日はあまりにも大きい、そして、信玄公に残されている
時間が短いことは一族である穴山信君の目にははっきりとしていた。
穴山('A`)y「・・・もっとも、おやかた様のあのお優しさがあるからこそ、我らは一致団結してこられたのだが、、、
おやかた様はもう二度と肉親を失いたくないのかもしれん・・・」
若年の頃の父追放、そして近年の最愛の弟信繁戦死、もともと敏感な文学青年気質のある信玄にとって
これに嫡男の死などというのは耐えられなかったのかもしれない。
2
永禄十年の年の内、武田義信が死去した
自害とも、病死とも言われる。
おそらく、当時の甲斐でも本当のことを知る人はいなかったに違いない。
穴山('A`)y「・・・・武田家の行く末、甲斐の行く末・・・・」
思い悩む信君のもとに府中より使者が訪れた。
[´△`]向山出雲 「穴山殿、お館様より対徳川同盟の使者として三河へ赴くことが命ぜられました」
(`・ω・´)山県昌景「
駿河侵攻の足がかりとして重要なお役目ですぞ」
余談、向山一族は甲相同盟に奔走した向山又七郎、新田次郎氏の小説に出る京都駐在武官など
外交官を排出した一族らしい、この場に登場したのはそのためである。
山県は影が薄すぎる主人公であるためにとりあえず出演。
穴山('A`)y「・・・・徳川との同盟?駿河侵攻?」
(`・ω・´)山県昌景「そうです」
穴山('A`)y「・・・・(いささか時機を失したのでは・・・)」
[´△`]向山出雲 「?いかがなさいました?」
穴山('A`)y「・・・・いや、なんでもない、そうか、ではさっそく三河へと向かおう・・・」
3
穴山('A`)y「・・・・三河と言うのはじつに温暖な地じゃ・・・」
下山からそう遠くは離れていない、が、まるで別世界のようにそこは温暖な地であった。
穴山('A`)y「・・・・我らが甲斐信濃の山河を巡って争っていたのが馬鹿らしくなるほど豊かな土地じゃな」
潮風が信君の髪をなでる、山国育ちの信君にとっては変にくすぐったい風である。
(=゚ω゚)ノ「お侍様、そんなことはございません」
ふと、見ると小太りないかにも愛想のいい青年がこちらに話しかけている
このあたりの長者の息子か?
信君も内密な同盟のため軽装で三河を訪れているためか
ずいぶんと気さくに話しかけてきた、
穴山('A`)y「・・・・ほう、そうかのう、、ワシのような貧しい土地から来たものにとってはここは天国のようじゃが」
(=゚ω゚)ノ「確かに土地の貧富と言うものはあるでしょう、しかし、与えられた地で懸命に尽くすこと、それこそが
運命を切り開くことだと私は考えます」
穴山('A`)y「・・・・(若いに似合わずずいぶんと年寄り臭いことをいうのう、、、)」
(=゚ω゚)ノ「お侍様は、、、訛りから考えて甲斐の国の方でしょう?」
穴山('A`)y「ああそうじゃが」
(=゚ω゚)ノ「甲斐の信玄公といえば貧しい山間の土地に治水を施し、万民のため政治を行っているではありませんか
あれこそ、為政者のなす道だと・・・・」
穴山('A`)y「ずいぶんと上からの発言をするのう、お主。」
(=゚ω゚)ノ「これはこれは、、、申し訳ありません、私は日ごろより信玄公を尊崇しておりますので・・・」
穴山('A`)y「そうか、、まあ、土地のものの意見と言うものも参考になる、ワシはこれから岡崎に向かうのでな、それでは」
(=゚ω゚)ノ「道中お気をつけて、、三河遠江のものはみな信玄公とその幕僚の方々を尊崇しておりますよ・・」
穴山('A`)y「ふふ、我らの国を誉められるのも悪い気がしないのう・・・もっとも内にはいろいろ問題を抱えておるのじゃがな・・・」
4
岡崎にて
¥ ¥
本多忠勝 (・∀・) 「それでは穴山殿、まもなく殿が参りますので」
穴山('A`)y「あいわかった・・・」
ずいぶんと、質素な城である。豊かな国とは違い城は質素である
途中立ち寄った駿河の今川領内とはずいぶんな違いである。
穴山('A`)y「まあ、わが躑躅が崎館も城と考えれば質素かも知れんな・・」
少しの間があり、城の主徳川家康が謁見の間を訪れた。
そのときの驚きは穴山信君、生涯忘れようがないものであった
徳川
∧∧
(=゚ω゚)ノ ぃょぅ
~( x)
U U
穴山('A`)y「お、お主は、、、いや、先ほどの??土地のもの???」
徳川(=゚ω゚)ノ「いや、そうかしこまらずに穴山殿、たまたま領内散策の折に偶然あなたに出会ったので戯れに・・・」
おそらくそれは嘘である、甲斐を出てから駿河遠江、三河、旅の途中で今川方に襲われないようにずっと
信君を徳川方は影ながら警護していたのである。
居城も近くなり家康自身が出てきたのであろう。
信君もそれに気づいた。
穴山('A`)y「そ、そうですか、いや、ずいぶんと土地のものの恰好が堂にいってましたが・・・」
徳川(=゚ω゚)ノ「そうですな、それがしはよく領内も見回るゆえ、、信玄公も若き日にはよく領内を見回ったとか、そこから信玄堤が・・・」
家康の信玄に対する尊崇の念は確かのようである、そこからずいぶんと信玄の話が続いた。
5
徳川(=゚ω゚)ノ「信玄公の山間部における漆の栽培は・・・」
穴山('A`)y「い、いや、家康殿、あなたのわが主に対する尊崇の念はよく理解できました
今回私が訪れたのは・・」
徳川(=゚ω゚)ノ「信玄公のご依頼に私がそむく理由がありません。」
穴山('A`)y「(ワシを甲斐から見張っていたくらいじゃ、当然同盟の内容は既に把握済み、ということか)」
徳川(=゚ω゚)ノ「それで信玄公の金山経営ですが・・・」
家康の話は尽きることはなかった、ただの家臣である信君にすらこうである
信玄が直々に来たらいったいどうなるのであろうか。
穴山('A`)y「(それにしても・・・」
信君はふと、うれしそうに話を続ける家康を見て思った。
信玄は若き日に労咳を患いやせぎすで、家康は小太りだが
この二人、何とはなしに雰囲気が似ていると。
周りを見ると家臣団も家康を信頼しているようである。
質素倹約、国の民のために尽くす、このあたりもよく信玄に似ている。
絢爛豪華な織田家とは対照的である
穴山('A`)y「(もしかしたら家康殿は本当は織田を切り武田と結びたいのかも知れんな・・・)」
ひとしきり家康の話が終わり、ささやかな夕餉のあと、家康は信君に語りかけた
徳川(=゚ω゚)ノ「いかなるときも徳川は武田のためにお働きいたします・・・」
6
時は流れて、天正10年
織田の武田家侵攻作戦は着実に進んでいた。駿河の防備を任されていた信君もまた、この一大事に備えていた、が、
徳川(=゚ω゚)ノ「信君殿、、、申し訳ござらん、我らのような小国は信長に逆らうことは出来ません
武田侵攻作戦をとめることは出来ませなんだ・・・」
穴山('A`)y「そうですか・・・もっとも勝頼は亡きお館様とは似ても似つかぬうつけ
こうなることは必然であったのです。」
徳川(=゚ω゚)ノ「信君殿、、そのようなことを申されるな・・」
穴山('A`)y「・・・・・」
徳川(=゚ω゚)ノ「信君殿、、それがしは武田の血筋を絶やしたくない。
武田宗家は滅びます、しかしあなたにその名跡を継いでほしい
あなたにはその資格があります。」
穴山('A`)y「・・・・・」
信君にとって試案どころであった、もちろん、我が家名は惜しい。命も惜しい
だが、後世に名を汚すことは出来ない、、、
穴山('A`)y「・・・・・他の、他の家臣団もなんとか徳川殿に救ってもらえぬか・・・」
徳川(=゚ω゚)ノ「わかりました・・・・・・・しかし、信長は武田家臣団を異常なまでに恐れています。
おそらく甲斐侵攻後に徹底的な弾圧を加えるでしょう・・・」
穴山('A`)y「・・・・・」
徳川(=゚ω゚)ノ「・・・・・・・だが、恐怖による弾圧は長く続きません。」
穴山('A`)y「?それは??」
徳川(=゚ω゚)ノ「・・・・内密な話しです、もう少し近くに(ゴニョゴニョ・・」
その時、信君と家康との間で何が話されたか、歴史は記していない
しかし、信君は主家を裏切り徳川に投降、
そして武田家滅亡後わずか三ヶ月で覇王信長は本能寺に横死する
そして、このとき、「偶然」にも信君と家康の二人は畿内にいたのである。
まるで、歴史の大転換点を予期していたかのような二人の行動、
しかし、信君は不慮の事故とも言える横死を遂げる
(一説には治安不良の機内から三河へ逃れる道中、信君は持病の痔ろうで
家康に遅れをとり、土民の襲撃にあったとされる)
信君も死去し、信君の息子も夭折したが、
家康は約束どおり武田家遺臣団を家臣に加え、また、
自身の開いた幕府統治には武田信玄の遺訓に従ったのであった
最終更新:2009年12月15日 19:25