著:3スレ目>>518殿
曾根昌世 その1の続き



二年余りが過ぎ、武田軍は北条・今川との三国同盟に則って上杉輝虎の関東進出を阻害する為に上野に侵攻し、
天嶮岩櫃城を陥落せしめていた。
元服した昌世の嫡男、曾根周防守が、それに前後して武田家惣領の太郎義信の側近となった。

周防守が義信の下に出仕する前のある夜、昌世の元同僚で、今は義信の宿老になっている
長坂筑後守勝繁が曾根屋敷を訪れた。

<`∀´r >勝繁「息災にしていたようだな、孫次」

(・A・)昌世「源五も元気そうで何よりだ。おい誰か、防州をこれへ!」

( ゚A゚ )周防「曾根周防守に御座います」

<`∀´r >勝繁「長坂筑後でござる。周防守殿に歓迎をこめて祝辞と祝杯を贈呈する。さ、まずは一杯」

( ゚A゚ )周防「忝う御座います」

<`∀´r >勝繁「粗酒ではあるが、諏訪の釣閑より送られてきたものでござる」

勝繁の父釣閑斎光堅は、信玄の亡き博役、板垣駿河守の跡を継いで諏訪郡代となっていた。
それもあってか、信玄四男で高遠城主の諏訪四郎勝頼とは懇ろにしており、
勝繁も飯富兵部少輔虎昌と並ぶ義信の重鎮となっている。
こうした信玄の子らとの結びつきから、長坂家は次代の武田家を支える柱となるだろうと言われていた。

<`∀´r >勝繁「周防守殿・・・、孫次、いや内匠助殿はいずれはお家の軍政の大黒柱にもなろうお方でござる」

( ゚A゚ )周防「は・・・」

<`∀´r >勝繁「その子の周防守殿には、期待しておるゆえ、共に惣領義信様を盛り立てて参りましょうぞ」

( ゚A゚ )周防「こちらこそ、何かとご教授願います」

<`∀´r >勝繁「うむ、何より大事なのはお家への忠義。ほら、孫次にも飲酒を要求する」

(・A・)昌世「いやいや、忝い」

ささやかな酒宴は一時ほど続いたが、そろそろ帰るという時になって、不意に勝繁が声色を変えて言った。

<`∀´r >勝繁「・・・孫次、周防守殿」

( ゚A゚ )周防「はい?」

(・A・)昌世「うん?」

<`∀´r >勝繁「甲斐のお国、武田のお家の為に精一杯働こうぞ。な?」

( ゚A゚ )周防「はい、筑後殿と共に頑張って参ります」

(・A・)昌世「無論のことだ。何だ源五、いきなり真面目くさって」

<`∀´r >勝繁「いやなに、酔った勢いを整えてから言わねば言葉の真剣味も薄れるゆえな。うぇー、はっはっは」

そう笑うと、勝繁は見送ろうとする二人を手で制して、笑いながら曾根屋敷を後にした。
永禄六年のある冷える夜のことであった。



(´∀` (彡信玄「他の者どもと比べてもだいぶ老けておるのう、内匠」

(・A・)昌世「駿河侵略の策謀をしかとこの目で見届けるまでは、足軽大将取立ての儀は辞退致します」

(´∀` (彡信玄「やれやれ、頑固じゃのう。もうそろそろ一手の大将をも任せてみたいというのに」

(・A・)昌世「我がままを言って申し訳御座いませぬ」

(´∀` (彡信玄「まぁ、よいわ。じゃが、今川・北条との戦が進んだら、その時には足軽大将となってもらうぞ」

永禄八年。昌世はいまだに奥近習として信玄の側に仕えていた。

(´∀` (彡信玄「太郎がことじゃが・・・」

丁度、当主信玄と惣領義信の間の亀裂が目に見えて大きくなりつつある頃であった。
信玄は上野侵出と同時に、水面下で駿河侵出にも乗り出したのだが、今川義元の娘婿である義信にすれば、父の行為は裏切りであった。

(´∀` (彡信玄「厭なことにはなってほしくないのう」

(・A・)昌世「まことに・・・」

厭なことが何であるか、わからない昌世ではなかった。

(・A・)昌世『よいか、防州。お前は惣領の側近。くれぐれもお家のことを考え、見極めて行動するのだ』

( ゚A゚ )周防『十二分に心得ております、父上』

以前、そう言って力強く頷いた息子の決意に満ちた表情を思い出し、昌世も改めて信玄に大きく肯いた。

(・A・)昌世「我が嫡子、防州めは必ずやお家の為に粉骨するものと存じております」

(´∀` (彡信玄「・・・うむ」

しかし、奥近習である昌世の、義信側近である我が子への信頼は、むしろ願望と呼ぶべき形だったのやもしれない。

その年の、紅葉も散ろうという頃のことである。
曰く――飯富兵部謀叛。長坂筑後、曾根周防ら義信側近もこれに関与。太郎義信の関与は、謀叛の首魁たる兵部少輔虎昌がこれを否定。

(・A・)昌世「なん、と・・・」

(・A・)昌世「(源五が・・・)

<`∀´r >勝繁『甲斐のお国、武田のお家の為に精一杯働こうぞ。な?』

(・A・)昌世「(防州までも・・・)」

( ゚A゚ )周防『十二分に心得ております、父上』

お家の為とは、何であったのだろう。

ヽ(´ー`)ノ?信繁『身分、立場の差なく人をよく知るのだ。そして、誼や立場に縛られて自らに嘘を吐くことなく、
    よくよく考えて、その者その者にあった頼り方、信じ方をするべし』

彼らの立場から見て、どうすることが武田家の為だと思ったのだろう。

武田家の御為に――その想いの形の違いは、やがて全てを狂わせることとなる。



昌世は、無言で周防守と対面していた。

(・A・)昌世「・・・」

( ゚A゚ )周防「・・・父上」

(・A・)昌世「・・・」

( ゚A゚ )周防「父上。これが、周防の忠義です」

(・A・)昌世「むぅ・・・」

( ゚A゚ )周防「ご迷惑をおかけして申し訳も御座いませぬ。斯くなる上は是非もなし。おさらばで御座います、父上」

息子との最後の対面において、昌世はまともに言葉を返せぬまま周防守と死に別れることとなる。
これより数日後、飯富兵部、長坂筑後、曾根周防ら謀叛に関与した義信の家臣ら20名ばかりが切腹した。

(´∀` (彡信玄「内匠、なにゆえ周防がこと、気づいてやれなかったのじゃ」

立場の違う昌世と周防守とでは間が合わず、親子の交わりを深めることもままならなかった。
それが昨今のお家の内情の中での、信玄の奥近習と義信の側近という立場では、特にそうであるといえる。
だが、無論そのようなことは言い訳に過ぎないのだと、昌世もわかっていた。

(・A・)昌世「お詫びの言葉も御座いませぬ・・・」

(´∀` (彡信玄「儂はな、お主の子がついておれば、太郎もよもやと思っておった」

(・A・)昌世「・・・」

(´∀` (彡信玄「のう、内匠。目を鍛えんと思うばかりに、目を曇らせてしもうたようじゃな。
    しばらく駿河にでも行って目を養って来てはどうじゃ」

それは、遠回りにではあるが、甲斐からの追放であった。

この謀叛に関する連座であるが、謀叛人達の親族として罰を受けた者は昌世を除いてほとんどいない。
昌世と同じく、嫡子が義信の企てに加担した長坂釣閑や、弟彦八郎信邦が関与した穴山玄蕃頭は、
今まで通り譜代の重臣として重用され続けた。
首謀者飯富兵部を兄に持つ三郎兵衛尉昌景は、逆に取り立てられ、山県氏の名跡を継ぐことを許された。

手元に置き、自らの目として大きな期待をかけていただけに、子の心を見抜けなかったことは信玄を失望させたのだろう。
同時に、曾根父子が立場的に疎遠になることで起こる悲劇を予測できなかった自らの失念も悔いて、
昌世にある意味で特別といえる処置をとったともいえる。

何にせよ、深い後悔の念にかられた昌世は、信玄の言に従い甲斐より駿河へ行くことにした。



出立前のある日。
土屋の名跡を継いだ金丸右衛門尉昌次が昌世に声をかけた。

(㍾・_・㍾)昌次「孫次殿」

(・A・)昌世「平八・・・」

(㍾・_・㍾)昌次「だから言ったではないか。一寸先は闇なのだと」

(・A・)昌世「それは・・・」

(㍾・_・㍾)昌次「孫次殿は宝の持ち腐れだ。一体、いつその力を使うのだ?」

(・A・)昌世「・・・」

この時昌世は、周防守に対した時と同じように、昌次に言い返すことが出来なかった。

出立の日。
駿河へ向かおうという昌世の下へ、真田昌幸が訪れていた。

(・∀・)昌幸「孫次殿・・・」

(・A・)昌世「おお、喜の字か。先日、長女が生まれたそうだな。おめでとう」

(・∀・)昌幸「はい、ありがとう御座います。・・・あの、孫次殿」

(・A・)昌世「何だ?」

(・∀・)昌幸「いずれまた、轡を並べたいものです」

(・A・)昌世「そうだな・・・。喜の字、じきに駿河への調略も始まろうから、よく学ぶのだぞ」

(・∀・)昌幸「孫次殿も、甲斐や信濃のとは全く違うという駿河を、存分にご覧になって来て下さい」

(・A・)昌世「うむ・・・、達者でな」

昌幸はこの後、信玄の縁戚にあたる武藤氏の名跡を与えられ、上州方面から駿河方面に異動し、駿河への調略に関わることとなる。
余談ではあるが、後に天下人をして『表裏比興の者』と称された昌幸の謀略は、この時に培われたと言ってもよい。
つまりこの別れは、十七年後の天正壬午の乱を、大勢力の手先とならざるを得なかった昌世と、
舞うように大勢力を手玉にとった昌幸との、運命の分岐点だったのではないだろうか。


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最終更新:2009年12月15日 20:18