宇喜多秀家
宇喜多秀家 1573)~(1615
宇喜多直家の子として生まれ1581直家の病没により9歳で家督継ぐ。
豊臣秀吉に気に入られ秀吉の一門衆としての扱いを受ける
若くして五大老に名を連ねる中納言の官位を得るが
1600年関ヶ原にて西軍の主力として奮戦するも敗北し八丈島に配流となるも
慶長19年大坂冬の陣にて八丈島より泳いで大阪城に入場するも
徳川の物量には敵わず大阪夏の陣にて自害する
秀家が言ったとれる「八丈島より泳いで参った」はあまりに有名
宇喜多秀家(1572-1610)
宇喜多直家の次男。幼くして父を亡くすが、後見人の羽柴秀吉に大変気に入られ、
成人後は九州・小田原征伐などに従軍し数多くの武功を立てる。
戦後には五十七万石を領する大大名となり若くして五大老に任じられ、
また前田利家の娘で秀吉の養女になっていた豪姫を正室に迎えている。
このように秀吉に愛された秀家であったが、秀吉没後の関ヶ原では
態度を明確にしない小早川秀秋を誘って共々徳川家康に接近、東軍の勝利に大きく貢献する。
この裏切りに対して豊臣家は当然激怒、秀家を梟雄であった父・直家と絡めて罵倒するが、
東軍に属した豊臣恩顧の武将の多くが大なり小なり似たような立場である上、
類稀なる人たらしで知られた秀家に対する風当たりは思いのほか少なかった。
しかし1610年、病に倒れた秀家は38歳の若さで死去する。
人々は秀吉の呪いだと噂したが、実際は贅沢な暮らしを続けていたための成人病といわれ、
事実、関ヶ原以降の秀家は暴飲暴食でぶくぶくと肥満化していったという史記もある。
宇喜多家は嫡子が継いだが元々家中が不安定だったせいもあり、大坂の陣後、
豊臣色の一掃を狙う幕府に言いがかり同然の責めを負わされて改易されてしまう。
実家へ戻った豪姫や配流された息子たちもまた贅沢病のせいで長生きできず、
四代・家綱の時に秀家の孫にあたる人物が早世して宇喜多家の直系は断絶した。
また余談ではあるが、関ヶ原時に秀家と同じく家康への接近を図っておきながら
どちらに付くこともせず結果的に日和見に徹することになった小早川秀秋は、
戦後、家康の追及を恐れて単身逃亡。二週間後、伊勢の海岸で水死体となって発見される。
これは秀秋が島津や毛利などの西軍大名のもとへ逃れるために船出したものの、
嵐に遭ってあえなく水死したものであるという説が有力である。中には精神薄弱気味であった秀秋が
泳いで遥か遠方の八丈島まで泳いで逃げようとしたという珍説もあるが、信憑性は低い。
上杉景勝
上杉景勝(1556-1582)
長尾政景の子。
御館の乱で上杉景虎を倒し上杉家を継ぐが、
家臣の離反や織田氏との対立から徐々に力を失い、
最後には柴田勝家軍に捕らえられ京で処刑された。
上杉景虎
上杉景虎
北条氏康の七男。上杉謙信の養子となる。
養父の急死後、同じく養子である上杉景勝との後継者争いに勝利。
その後豊臣家に従い、秀吉死後は家康に臣従し、本領安堵される。
上杉謙信
不識庵謙信
俗姓長尾氏。越後の人。優秀な人物であったが兄と争って敗北。
兄に降伏して小領主をしていたが、領主が嫌になって坊主になり諸国を放浪。
四国雲辺寺にて長宗我部元親と知り合い、意気投合して長宗我部家の軍師となる。
冷静な軍略で長宗我部家の基礎を築く。久武内蔵助の乱を未然に防いだ
功績は高く評価される。酒豪であり、「暖かい土佐で飲むから雪隠で頓死
せずに済みまことにありがたい」といったという。
上杉謙信(1530~1578)
越後守護代長尾為景の次女として誕生。幼名は虎千代。
19歳の時に病弱であった兄・春景の跡を継いで長尾家当主となり、長尾景虎と名乗る。
1552年、度重なる政治干渉を行って彼女の獅子身中の虫となっていた姉の仙桃院を嫁に出す形で追放。
この一件で姉からは後々まで酷く恨まれる。
1553年、初めて川中島にて信玄と対決、以後五回にわたり死闘を繰り広げる。
1561年、上杉憲政より関東管領の職と上杉の家督を譲られ、上杉政虎と名乗る。
この時、関東地方の領民からは「まんとらさま」と呼ばれている。
1570年ごろには出家して謙信と名乗り、信玄、後に信長らと激しい戦いを行う。
1578年、更年期障害の一種が原因で死亡。享年48。
領民からは阿虎様の愛称で呼ばれ、「男も及ばぬ大力無双」と呼ばれるほどの男勝りで、
それでいて母性愛も併せ持っていた女武将であった。
現代の2ちゃんねる戦国時代板および日本史板では初期の頃から
「謙信タソ萌え」なスレを乱発しまくり、その厨は「謙信厨」と呼ばれ、両板で一定の影響力を持つ。
上杉謙信(1530-1561)
川中島の戦いにて信玄と一騎打ちを行うも相打ちとなる。
姉婿であった長尾政景の嫡男・景勝が政景の後見を受け、
上杉家を継いだ。
酒を好み、梅干し一つで大酒をあおっていたことでも有名。
【長尾景虎】
越後の幻の猛将と言われる。
戦では類まれなる才能を見せるが、家臣達の心は掴めず、反乱が相次いだ。
とうとう我慢できず、大名という立場を捨て、仏道に入った。
その後も長尾家の反乱は治まらず、やがて隣国に吸収され、滅びた。
統率97智謀72政治43魅力11教養54
上杉政虎(1530-1561)
上杉為景の次男。晴景の弟。第4次川中島の戦いにおいて単身で敵陣
に乗り込み、宿敵・武田信玄を討ち果たした。だが宿敵を葬った喪失
感からか、呆然としていたところを四方八方から斬り掛かられて斬殺
された。
撤退に際し冷静な采配を振るった一門の長尾政景が信望を獲得し、
政虎の甥でもある息子・景勝の後見として政を司った。
この故事に因んで、「大将の一騎駆け」は後先を考えずに行動して敵
味方双方が自滅する様を表す意味に用いられるようになったという。
上杉謙信(1530-1578)
長尾為景の子。兄・晴景の隠居によって家督を継ぐ。
毘沙門天に帰依していた謙信は戦では無類の強さを誇り、
戦場を騎馬で疾駆する姿は「軍神」と呼ばれ恐れられていた。
関東管領・上杉憲政を庇護してからの謙信は天下を志すようになる。
信濃進出は武田信玄の猛烈な抵抗の前に果たせなかったが、
「山内上杉領を回復させる」との名目で臨んだ北条との戦いは
破竹の勢いで勝ち進み、上野、武蔵と北条領を次々と切り取って行く。
北条氏康死後は唯一残った小田原城を陥落させて北条家を滅亡に追い込む。
その後、信玄が死んだ武田家の領土をも呑み込んだ謙信は、
信濃の真田領を除く北陸・中部・関東地方の大半を制圧する。
謙信は家臣を統率するために恐怖政治を用い、一度でも謀叛した家臣はどれほどの重臣でも討ち捨てた。
武田に調略された北条高広、独立を目指した本庄繁長などは一族全てが撫で斬りにされた。
なお謙信は無類の女好きであったことで知られ、侵攻した土地に美女がいると知ると
すぐさま側に上げて夜伽の相手をさせるほどだった。
おかげで男子8人、女子12人の子宝に恵まれることになる。
1578年、謙信は春日山城で脳卒中により急逝するが、
人々は張り切りすぎたことによる腹上死ではないかと噂した。
なお謙信死後の上杉家は長男・景康が継ぐが、器量に欠けていたため家中に混乱が生じ、
これまで恐怖政治で辛うじてまとまっていた家中は直江兼続、山浦国清らが
それぞれ謙信の遺児を擁立したせいで分裂する。
その隙を織田信長・徳川家康、滅亡寸前だった旧武田領の武田勝頼・真田昌幸、
そして常陸の佐竹義重らに狙われた上杉家は10年を待たずして滅亡する。
内ヶ島氏理
内ヶ島氏理(?-?)
飛騨の国人。帰雲城主。
1585年、領内で大地震が起こり城は壊滅するが、外出中で難を逃れる。
しかしそのおよそ十年後、逗留した伏見で大地震に遭遇。
火災に巻き込まれて死んだとも、これまた直前に難を逃れたともいわれるが、
遺体が見つかっていないため定かではない。
最終更新:2017年01月18日 07:44