高山右近
高山長房(1552~1615)
高山右近は、1552年摂津国に生まれ、64年頃キリシタンに改宗、ユストと命名
される。73年高槻城城主、さらに85年には播磨の国の領主となり明石に居城を
置く。しかし、87年に発布された伴天連追放令の一年後に金沢へ身を引き、キ
リシタンの教えに専心する。
93年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府を「支那に至ればルソンはすぐ近く
予の指下にある」と手紙で恫喝して朝貢を要求するも、総督府は要求に応じな
かったため、秀吉は台湾王:亀井茲矩を先鋒大将とし、豊臣勝俊を総大将、副
将を高山右近・内藤如安とする総勢15万5000人のマニラ討伐軍を派兵した。
しかし、朝鮮出兵中のため派兵の人員確保は困難を極め、秀吉は九州・四国の
すべての15歳から60歳の男子を強制的に徴募した。そのありさまは「村に残っ
た男子は僧侶のみで嘆かわしい」といわしめるほどであったという。
また、総大将の豊臣勝俊は秀吉から呂宋関白の朱印状を下賜されながらも、こ
の派兵に反対して天川(現在の香港)で勝手に戦線を離脱するというお粗末な
有様で、早くも厭戦ムードが高まっていた。
総大将は高山右近が「陣代」としてつとめてマニラに上陸するも、マニラ沖
の海戦で兵糧・武器の多くを失い、上陸後は疫病で多くの兵が倒れた。
キリシタンである右近は如安と相図り、戦う前に兵糧の提供と兵士の助命を
条件にマニラ総督との間で和睦を勝手に結んだ。
一方、先鋒大将亀井が率いる2万5000人はダバオに侵攻していたが、右近は亀
井を軍議にかこつけて呼び寄せ捕縛した。
亀井は「太閤殿下に王侯に任ぜられた厚恩もだし難し」といい残し慫慂と切腹
したという。マニラ総督府は異国の者なれども同宗の者は本国の許しなく殺す
ことはできないとして、兵士を日本に送り返したのち、高山・内藤を助命しセ
ブ島に追放した。
なお、右近の棄戦に激怒した秀吉は、再度ルソン征伐軍の派兵を決定するも、
秀吉の死により実現はしなかった。
のち、罪を許された右近は如安とともにセブ島の副総督に任命され、右近
は1608年にマニラ総督にまで累進した。なお、右近の後任の副総督は山田
仁左衛門がつとめている(彼の子・長政は六昆王として著名である)。
1615年2月4日夜半、マニラ市民に惜しまれつつ、イントラムルスで帰天。
武田勝頼
武田勝頼
(1546-1604)
武田信玄4男。母は諏訪御料人。通称諏訪四郎、諏訪四郎神勝頼。
兄弟は兄に義信、信親、信之、弟に盛信、信貞、信清。
子に信勝、勝親など。
1546年、甲斐の戦国大名、武田信玄の4男として産まれる。
母が諏訪氏の出であった為、諏訪氏の名跡を継いだ。
勝頼には4人の兄がいたが、1565年に長兄である義信が父信玄に対して謀反をおこし幽閉されたため、(のち自害、病死説もあり)
急遽武田家の 後継者と目される事となる。
1573年、三方ケ原にて徳川・織田連合軍を破った直後に父信玄が病の為急逝し、武田軍は甲斐へと引き上げた。
勝頼は正式に家督を継ぎ、翌1574年には父信玄ですら落としえなかった遠江の高天神城を落城させ、
また美濃国の明智城以下18城を落城させた。その破竹の進撃に諸将たちから
『信玄公をも超えられる御館』
と称賛されたという。
1575年、三河長篠城の攻略へと向かう。
が、城を落城させるには至らず、攻略に手間取っているうちに信長自ら兵を率いて設楽原に布陣、
またそれに家康も合流したため勝頼は窮地に追いやられた。
両軍の兵力差、武田軍の地理的不利、および織田軍が大量の鉄砲を携えているとの報に勝頼は
潔く甲斐への撤退を決断する。
夜半のうちに武田軍は撤退を開始、それを知った信長は急遽追撃を決断する。
しかし信濃との国境で織田・徳川連合軍の追撃を知った勝頼は急遽軍を反転、分散させ
峠の頂上から連合軍に攻撃を仕掛けた。
武田軍の思いもよらぬ奇襲攻撃に連合軍は撤退し、勝頼の武名は全国に轟いた。
しかしこの戦で山県、真田兄弟といった名将が戦死し、
またかねてから反抗的だった穴山信君は単独で撤退してしまった。
勝頼は戦死した武将たちの後釜に真田幸村、曽根昌世、そして弟仁科盛信等を登用し
穴山らの諸将を追放するなどし家中改革に努めた。
戦後上杉、北条らと同盟し織田・徳川に対抗するが
本能寺にて信長が倒れると台頭してきた羽柴秀吉と対立する。
しかし上杉景勝が羽柴方についたこともあり勝頼は秀吉に降伏、甲斐1国を安堵される。
この時に真田、木曽氏らは秀吉により独立させられた。
のち秀吉逝去後は台頭していたかつての宿敵、家康と親しくし、
関ケ原合戦においては老齢ながら東軍として参陣し、縦横無尽の働きを見せた。
これにより甲斐、信濃中部、南部計50万石をあたえられ、家督を嫡子信勝に譲った。
1604年、甲府にて病死、波乱に満ちた人生に幕を閉じた。
武田勝頼(1546~1607)
武田信玄の四男。父の急死により
息子信勝の元服までの暫定的当主となる。
信玄を引きずる家臣達の掌握に苦労するが、
1575年の設楽ヶ原合戦で重臣連が軒並み討死したため、
その後は新たな家臣団を編成し統率力を高めることに成功する。
上杉謙信の死後、1579年に越後で御館の乱が起きると
北条氏政の要請に応じて景虎側に加勢し上杉家当主に据えた。
この後は越後相模と三国同盟を結び織田・徳川勢に対抗し続け、
付け入る隙を与えず、逆に家康の嫡男信康を調略し家中を分裂させる。
1582年に信長が横死するとその隙をついて三河に侵攻し、
匿っていた信康を擁立して家康不在の中徳川家を乗っ取る。
その後美濃で羽柴秀吉と対峙した挙句和睦し、翌年臣従するが、
1586年の小田原攻めの際に上杉北条と共に謀反し秀吉を討ち取る。
混乱の中東海大返しを敢行し、京を押さえて
実質的に天下第一の勢力となり、その後7年かけて天下を統一した。
武田信玄
武田信玄(1521―?)
武田氏の嫡男として生まれ、父信虎を追放し、当主となる。
隣国の信濃を平定し、上杉謙信と
川中島の戦いを行いつつ勢力を広げ、甲斐、信濃、上野を領するが
実の息子・義信に謀反を起こされ、追放される。
その後の消息は不明。
武田徳栄軒信玄(晴信)1521~1573
1541年、父信虎により駿河に追放され
名僧太原雪斎の下で出家して法号「信玄」を名乗る。
武田晴信(1521~????)
甲斐武田家当主信虎の長男として生まれる。
父信虎に対し不満を持つ家臣を集め謀反を起こすが失敗し、追放される
後、諸国を渡り歩くが詳細は不明。
一説には当主を継いだ弟・信繁を支えた軍師の山本晴幸が
後に帰参した晴信その人ではないかとも言われる。
武田信玄(1521-1561)
川中島の戦いにて謙信の挑発に乗ってしまい、一騎打ち
を行い相打ちとなる。
その死後は嫡男・義信が高坂昌信ら重臣の補佐を受け、
武田家を継いだ。
美少年を好み、戦場で恋文を書いたことでも有名。
武田晴信(1521-1541)
信虎の息子。十九代当主信繁の兄。
利発な武将で家臣団からも将来を嘱望されていたが、1541年突如として謀叛。
しかし、信虎と信繁の征伐軍の前にあえなく敗れ自害。
史料がないため謀叛の理由ははっきりしていないが、
晴信が廃嫡されるという奸臣の讒言を信じたことによる決起とも、
姻戚であった今川義元との密約があったからとも言われる。
法性院信玄(1521-1581)
戦国時代の天台座主(比叡山延暦寺住職)。俗名は武田晴信。
足が長く、「足長坊主」とあだ名されたという。
甲斐守護の武田家に生まれたが、父と折り合いが悪く、
1541年父信虎を追放しようとするが、陰謀が露見して逆に追放され、
比叡山において出家した。比叡山では熱心に修行し、生来の
達者な弁舌を駆使し、浅井・朝倉・三好氏を始めとする武家や、
公家・朝廷にも仏教の布教を行い、当時流行のキリスト教の宣教師にも
積極的に論戦を挑み、ルイス・フロイスを論破して弟子にするなど、
仏教の改革者として名を上げ、座主の位に上り詰める。
しかし、その信玄の前に立ちふさがったのは、天下統一を目指す織田信長で
あった。中世の権威を集大成した信玄と、西洋文明に基づく国づくりを目指す
信長とは思想的にも相容れなかったのである。
1571年、信長は比叡山を攻撃したが、信玄がかねてから養成していた
比叡山騎馬軍団に蹴散らされ、近江宇佐山に於いて自害。
その後比叡山の武力に逆らうものは誰も居なくなり、信玄のカイライ政権
である足利幕府が名目上の天下人となったが、幕府には室町探題として
信玄の腹心・春日坊教虎(高坂昌信)、山本道鬼斎(勘助晴幸)、明智天海(光秀)、瑠居巣坊風呂椅子(ルイス・フロイス、日本に帰化)ら
が送り込まれ、実質的な天下人は信玄であったという。
信玄は1573年、栄光に包まれてこの世を去った。
なお、武田家は弟の信繁が継いだが、信玄ほどの外交手腕を
持たなかった信繁は隣国の長尾、北条などに攻め込まれ1570年に
滅亡した。おそらく信玄が武田を継いでいればこのようなことは
なかったと思われる。
武田信玄
甲斐の国主。上洛して足利義昭を補佐するが、後に追放。
【武田信玄】
猛将と言われた武田信虎の息子。
父・信虎を、信虎に不満を持つ重臣達と共に追放。
しかしそのせいで重臣達の持つ権限は大きくなり、事実上傀儡政権となった。
力ある重臣達の拡大政策が上手くいき、それなりに大大名となるが、武田家内の立場は変わらなかった。
後にその状況を打破しようと試みるも、今度は息子・義信と重臣たちにそむかれ、
自身が追放される羽目となった。
統率66
智謀38
政治71
魅力47
教養73
武田信玄
甲斐1国から領土を5倍に広げた
信長包囲網で信長を倒そうと25000の軍勢で攻めようとするも病死
戦をしまくっていたおかげで領土は疲弊し、NTVの一番嫌いな歴史上の人物ランキングの5位になった
悪魔のような信玄を描いたドラマ ―父を追放し、息子を殺した悪魔 武田信玄― が流行った影響もあるのだろう
政治:21 統率:85 知力:67 野望:99 魅力:13
武田晴信
武田信虎の子、信虎に不満を持つ一部重臣に利用され追放を試みるが、結局は暴かれ自害した。
信虎は日頃から彼の無能さに嘆いていたという。
統率47
智謀35
政治18
【武田信玄】
一説に上杉家臣武田義信の父という。晴信、信繁とも。
甲斐源氏武田氏の末裔。
寵童上がりの佞臣高坂弾正にそそのかされ、譜代の臣をないがしろにし、民に圧政を強いたと伝わる。
謀略と裏切りをもって諏訪や信濃など周辺諸国を併呑するが、信濃に侵攻した上杉謙信に敗北、甲斐に逃げ延びる途中、落武者狩りの一揆農民に討ち取られる。
現在、長野県・山梨県には武田氏時代の事跡は何一つ残されておらず、居城の場所さえ定かではない。
郷土史家の中には、上杉謙信が残した謙信堤や棒道の一部は、武田時代に既にあったと身びいきな説を唱えるものもあるが、真偽は論をまたない。
高坂弾正の暗躍は、江戸時代に歌舞伎などにより民衆に広まり、陰湿な悪役の代名詞として有名。
戦前、榎本健一が演じた「川中島の戦い」の武田信玄は、毛ずねをむき出しに逃げまどうさまが、古来より伝わる信玄のイメージをよく伝えており、人気を博した。
武田信玄(1521-1561)
武田信虎の嫡子。第4次川中島の戦いにおいて、単身乗り込んできた
敵大将・上杉政虎の一撃を軍扇で受け止めようとして失敗、軍扇ごと
脳天から叩き割られて即死した。
撤退に際し見事な手際を見せた嫡男・義信が武田家を継ぎ、家中の混
乱を鎮めた。
武田晴信(1521~1567)
1566年、前将軍の弟・足利義秋の呼びかけに応じ上洛の軍を起こす。
美濃の斎藤・南近江の六角を撃破して入京し、旭将軍(木曽義仲)の再来と謳われた。
しかし、尾張の織田や北近江の浅井による攻勢を受け美濃・南近江を失陥、京に孤立。
要衝・瀬田川を突破され、山科で激しい攻防が続く中、流れ弾に当たって討ち死にした。
最後の言葉は「明日は瀬田に旗を立てよ」だったという。
徳栄軒店主:信玄
嫡男義信と対立し、駿河に追放される。
今川氏の庇護を受けていたが今川氏没落後、
駿府にてほうとう鍋の店、徳栄軒を開く。
尚、同時期に高遠の地を任されていた信玄弟信廉も
信玄追放後の武田家内義信・勝頼の対立に嫌気がさし
遁世して兄と提携してほうとう鍋の店、逍遙軒を開く。
ただ、兄より弟の方が商才があったらしく
逍遙軒の方が知名度があったようである。
武田信豊
武田信豊(?-1590)
信繁の子。相模守。川中島の戦いで父を失った後はその跡を継いで信玄・勝頼に仕える。
長篠の戦いで勝頼が討死した直後に勃発した家督争い(躑躅ヶ崎の乱・※1)では、
勝頼の遺児で正当な後継者の信勝を擁立する仁科盛信一派を支持し、
北条に通じた
小山田信茂一派が擁立した信玄の六男・葛山信貞を討つ。
盛信が暫定的当主になった後は、抗い難しとして織田家との停戦交渉に奔走。
結果、信忠と信玄の娘・松の婚約関係が効いて甲斐一国と信濃半国の安堵で降伏するが、
信玄時代の旧臣たちからは軟弱者だと罵られ、真田昌幸らを独立させる原因となってしまう。
それでも信豊は織田家の一翼になった新武田家の家宰として盛信・信勝を盛り立てていき、
再び敵対した上杉軍の侵攻を謙信死後まで耐え抜くと、北条には徳川と誼を通じて対抗した。
1582年、謀叛した羽柴秀吉が織田信長を討った「三木城の変・※2」では、岐阜にいた信忠をいち早く援護して秀吉に対抗。
秀吉を討った明智光秀らと共に信忠政権を確立させる大きな原動力となった。
その後、盛信が隠居して信勝に代替わりした後も織田政権の東進に大きく貢献するが、
1590年、領内で謀叛した木曽義昌討伐のため出陣した際、奇襲を受けて戦死する。
降伏当時は批判の矢面に立たされた信豊であったが、彼の死を聞いた家臣は皆嘆き悲しんだという。
義理の従兄弟であった信忠もその死を大いに嘆き、木曽討伐に織田軍本体を差し向けるほどだった。
今も山梨地方には「蛙の子は蛙」と同義語の、「典厩は二代続く」という言葉が残っている。
※1・躑躅ヶ崎の乱
長篠の戦いは、山県昌景など信玄時代からの名将を数多く失っただけでなく、
総大将の武田勝頼が退却途中に鉄砲の流れ弾に当たって討死するという、
武田家に壊滅的な被害をもたらした。その隙を狙ったのが、隣国の北条氏政である。
武田家の一枚岩でない内実を把握していた氏政は、かねてより独立心の強かった小山田信茂に調略をかけ、
駿河の葛山家に養子に出されていた信貞を新当主として擁立するよう働きかける。
信茂はその件を承諾。長篠の戦いの翌年、一族や盛信の相続に不満を持つ武将を集めて挙兵する。
北条の支援を受けた信茂だったが、信玄の忘れ形見ともいえる真田昌幸、武田信豊といった
猛者を擁した盛信派の前に破れ去り、最後は初鹿野昌次に首を取られてしまった。
信茂の早い敗戦で信貞は戦うことなく追い詰められ、要害山で自害して果てた。
しかし、武田家はこの内紛のおかげで駿河や遠江、信濃の一部を徳川や北条に侵食されて
急速に弱体化してしまい、織田家に従属する一因となってしまった。
※2・三木城の変
1582年7月2日、羽柴秀吉から中国攻めの援軍の依頼を受けた織田信長は三木城へ入る。
だがその夜、備中高松城にいるはずの秀吉軍が三木城を急襲。信長は二万の軍勢を率いていたが、
大半の兵を姫路城に置いたままで、身の回りには数十人の警護しかいなかった。
信長は自ら弓を取ってよく抵抗したが、衆寡敵せず、三木城の炎の中へ姿を消した。
その後、秀吉はすさまじいスピードで畿内へと兵を返したが、明智光秀、細川藤孝、筒井順慶の連合軍の前に大敗。
最後は山崎で筒井軍の島勝猛に討ち取られてしまった。その首は京の四条河原に晒された。
なぜ秀吉が突然の謀叛に至ったかは定かではないが、毛利を前にして兵を返していることから
毛利輝元とその食客である足利義昭との間に何か密約があったのではないかという説と、
討ち取られる際に漏らした「話が違う」との言葉から、光秀らと同調する密約をしていたのではないかという説などがある。
最近では、信長の脅威を恐れた朝廷が暗殺を画策したという説まで浮上している。
また、なぜ信長がわざわざ大軍と離れて三木城へ入ったのか、という謎についての理由もわかっていない。
なお、講談などの俗説では「昔から猿、猿と呼ばれることに耐えられなくなった秀吉の堪忍袋の緒が遂に切れた」
「横恋慕していた信長の妹・市を自分ではなく柴田勝家に娶らせたことの逆恨み」「光秀が贔屓されることへの嫉妬」
などといったくだらない理由が変の原因とされることも多いが、実際の秀吉は才気に溢れた賢い男だったという。
しかし、人を選んで付き合う実利主義な性格だったようで、佐々成政など同輩だった武将からの評判は芳しくない。
武田信虎
武田信虎(1494-1574)
旧甲斐国主。子の晴信によって駿河に追放され、
駿河でも義元死後の今川家の転覆を図って氏真に追放された。
志摩の地頭の元に客分として滞在していたが、
地頭たちと九鬼嘉隆が対立すると九鬼方に寝返り、地頭方を打倒した。
信虎は嘉隆を陸戦の巧者として支え、末裔は三田藩家老となった。
立花道雪
戸次鑑連(1513-1537)
1526年3月、佐野親基、問田重安らを大将とする大内勢が馬ケ岳城を占領。大友義鑑はすぐに戸次家に攻撃を命じた。
その時、父の親家は病に伏しており、初陣でありながら鑑連が采配をふるう事になった。
鑑連は夜のうちに駆けて馬ケ岳城に迫り、朝日が昇る前に猛然と攻め、
わずか一日の戦闘で城方を降伏せしめた。この華々しい初陣で鑑連の名将としての名は誰も知らぬ者がいないところとなった。
同年6月1日、戸次家の家督を継承。烏帽子親は大友義鑑で、「鑑」の一字をもらい守親から鑑連に改名した
。これは父の親家が4月19日に死去したためによる急な家督継承であった。
しかし若い頃、鑑連は夏のある日、木陰で俄雨をよけていると
突然落雷に襲われ、感電死してしまった。
種子島時尭
種子島時尭(1528-1543)
種子島家十四代当主、1543年ポルトガル人が種子島に漂着した時、
止せばいいのに白刃を抜いて追い回し、撃ち殺される。
戦国武将最初の鉄砲被害者として一部に名を残す。
長宗我部盛親
長宗我部盛親
前略、大阪の陣が大逆転し、すったもんだで徳川幕府滅亡。
盛親は寺子屋の先生から土佐の国主に返り咲く。
寺子屋時代の経験を生かし、一領具足の子達に義務教育をほどこす。
これが功を奏したのか、明治時代に土佐藩出身者が大活躍する。
それは初代内閣総理大臣武市瑞山や坂本財閥を興した坂本直柔、
日本陸軍の父と言われた岡田宣振といった綺羅星のような面々である。
長宗我部盛親
土佐の大名長宗我部元親の息子。
関ヶ原の戦いで西軍に付き所領を没収される。
その後は寺子屋の師匠として生活を立てようとしたところ
「元大名の寺子屋」という評判が人を呼びこれが大繁盛。
後に寺子屋から青年を対象にした私塾と改変。
医学・理学・法学など総合的な学問を扱い、
今日の大学の元になるような教育体制を整備する。
現在の私学の雄「長宗我部義塾大学」の創始者。
高額紙幣の顔として老若男女に知れ渡っているのは周知のとおり。
長宗我部元親
長宗我部元親
土佐の戦国大名。幼少時ひよわで、姫若子と称されたが、
初陣のときより武勇をあらわし、土佐一円を平定するにいたる。
天下を取る志も有ったようであるが、土佐平定後、雲辺寺参詣の折、
「あなたは土佐は取れるが四国は取れない」と越後出身の旅の雲水に諌められ、
「なるほど、そうですね」と改心。雲水すなわち不識庵謙信を軍師に迎え、その後は
領土拡大をせず、隣国から頼まれたときのみ出兵、旧主一条家を保護する、
合戦の時には大将自ら敵陣に切り込むなど義将として
生きた。豊臣秀吉の四国征伐にはいち早く降伏。所領安堵を受けた。
その後九州征伐時には仙石・十河・三好ら四国勢の総大将として
渡海し、島津の挑発に乗らず堂々たる戦振りを見せつけ、
不識庵謙信とともに敵陣に切り込むなど「土佐の出来人」
の名を挙げた。戦後、軍令違反で所領没収となった仙石領淡路を加増され、
嫡男信親に土佐を譲り自らは末子盛親と淡路に移り、剃髪して雪窓と称した。
関ヶ原の戦いでは東軍につき、所領安堵を受け、近世土佐二十二万石の
藩祖となった。
最終更新:2017年01月18日 07:52