616 名前: 難易度の高い月姫 投稿日: 2005/07/29(金) 00:40:14

 人に書いてある線だったら、どうなっていたのだろう……。
 僕はさっきのベッドの感触を、あの沈み込む不思議で、嫌な感触を思った。この線はどんなものにも書いてある。僕にもある。でも、僕の線をなぞってしまうのは、何か致命的な失敗であるような気がする。
 僕は枕元に這い寄って、ナースコールのボタンを押した。それから、僕は果物ナイフを抱えたまま布団にくるまって、丸くなった。胸元でしっかりとナイフを握りしめ、待った。冷たい刃に触れている胸がどくどくと脈打っている。体が熱くなった。
 ドアノブを捻る音が待ち遠しかった。僕は顔を枕におしつけて、ずっと数を数えていた。
 2、3、5、7、11、13、17……。
 977まで数えたところで、ノブががちゃりと鳴って開いた。僕は顔を布団に埋めた。
「遠野くん? どうかしましたか?」
 僕は答えない。代わりに布団から少し顔をだして、口を動かすふりをする。
「遠野くん? どうしたの!? 大丈夫!?」
 看護婦さんが駆け寄ってくる。黒い線も近づいてくる。でもまだ不十分。慌てない、慌てない、と僕は自分に言い聞かせた。
「大丈夫? どこか痛いの!?」
 そう言って、看護婦さんは僕の布団の丁度腰のあたりを撫でた。ぐっと顔を近づけて、若い看護婦さんの顔に、網の目に走った線がくっきりと見える。首のあたりにはネックレスのように、一際はっきりした太い線があった。
 僕はナイフを持っていない方の手を布団から出して、弱々しく看護婦さんの方へ向けた。看護婦さんは僕の手を掴んで、どうしたの?と、僕の顔を覗き込んだ。
「……つかまえた」
 僕は小さな、本当に小さな声で言った。
「えっ?」
 看護婦さんは聞き取れなかったのか、顔をもっと近づけてくる。黒いひびも僕の目の前にあった。
「つかまえた!!」
 僕は叫んだ。胸の中にあった熱いものが、あふれ出た。
「つかまえた!! つかまえた!!」
 看護婦さんはきょとんとした顔で、僕を見ていた。
「つかまえた!! つかまえた!! つかまえた!! つかまえた!!」
 僕はなおも叫んだ。看護婦さんは困ったように笑った。
 その表情が変わる前に、僕はナイフを看護婦さんの首に突き立てた。
 ナイフは何の抵抗も無く、看護婦さんの首にあった黒いネックレスをなぞった。豆腐を切るみたいに、僕の握ったナイフは看護婦さんの首を通り抜け、空中に舞った。
 ごとりと、首が落ちた。
 赤い雨が降った。ざあざあと、看護婦さんの体はゆっくりと傾きながら、赤い雨を降らせていた。赤さびの臭いがした。僕も、部屋も、果物ナイフも、看護婦さんも、看護婦さんの白かった服も真っ赤になった。黒いひびだけはそのまま残っていた。

617 名前: 難易度の高い月姫 投稿日: 2005/07/29(金) 00:42:37

「くっ……ひひ……」
 変な声が聞こえた。僕は辺りを見回したけれど、誰も居なかった。ベッドから離れて見ても、看護婦さんの首と、看護婦さんの体が寝ているだけだった。床はぬるぬるして歩き難かった。
「くひっ……くくっ……くっ……」
 また聞こえた。僕はまた部屋を眺め回した。それでも、誰も居なかった。看護婦さんの体から出ていた赤い水はもう止まっていた。
 僕は部屋の隅にある流し台でナイフと手を洗った。ぬるぬるして蛇口を動かすのも、栓を捻るのも大変だった。
 温い水で手を洗っていると、また声がした。くぐもった音はシンクの中で跳ね返り、僕の耳に届いた。
 声は、僕の喉から出ていた。
「くぅ……うっ……ひっひっ……」
 痙攣するみたいに、楽器みたいに、僕の喉は鳴り続けた。次第に苦い味が口の中に溢れ、僕は膝から地面に崩れ落ちた。
 一滴の水が、赤い海を滲ませた。手から零れた物でも、流し台から跳ねたものでもなかった。
 涙だった。
 僕は、泣いていた。
 赤い海で、ナイフを右手にもって、僕は泣いていた。
「ぐう……うううう……ぐひっ……うっ……」
 嗚咽は止めどなく続いた。顎のあたりがじんと痺れたようになり、僕は呼吸が苦しくなった。ナイフを取り落とした。ナイフの床にあたる金属質の音が、僕をさらに悲しくした。屈み込み、両手を赤い海に着いて、僕は泣きじゃくった。赤さびの臭いが、すぐ鼻先から漂ってきた。どうしようも無い悲しみが次から次へと湧いてきた。
 泣いた。喉が引きつって、痛くなるまで僕は泣いた。
 泣きながら、僕の手は落ちたナイフを探っていた。ナイフはすぐ横のところに落ちていた。右手にそれを掴み、ゆっくりと、僕は僕のらくがきに刃先を当て、一息に引き絞った。

618 名前: 難易度の高い月姫 投稿日: 2005/07/29(金) 00:45:17

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最終更新:2006年09月13日 10:06