509 名前: 766 ◆6XM97QofVQ 投稿日: 2006/08/26(土) 10:36:47
食事が先だ。目の前の喜多邑茶家に入る。
喜多邑茶家は、新都で一番まずくて安くて多い牛丼屋である。その悪名(?)は街の情報に疎い俺でも伝え聞いているほど。
学園の猛者たちが挑戦しては尽く散っていった、ともっぱらの噂であるが、誰かが食中毒で休んだとか入院したとかいう話を聞いた事はない。デマの類だと思う。
まあ、泰山の麻婆豆腐よりはマシだろうと思いながら足を踏み入れる。
いらっしゃいませー、という店員の声を聞き流して店内を見渡すと、思ったよりも中は小奇麗で、「へえ」と感心してしまった。
そのままなんとなく客席の方へ視線を向けて————思わず、入り口で硬直してしまう。
なんか、変なカップルが牛丼食ってる。
入り口に程近い席を占領し、なぜか入り難い空気を作り出している季節外れのアロハシャツの男に、キッチリとしたスーツの女性。
黙々と食べる女性に対して男の方が文句をつけているようだが、聞き耳を立てようとは思わない。何より、関わりたいと思わない。
食券を購入して牛丼一人分を注文し、カップルからもっとも離れた席に腰掛ける。
待つ事一分弱。
早い、安い、まずいという噂は本当のようで、俺の目の前にはもう注文の品が届いている。しかも山盛り。
……これは本格的に味の方が心配になってきた。
ふとカップルの方に目を向けると、どうやら俺の注文が届くと同時に女性の方は食べ終わってしまったらしい。手持ち無沙汰に男の方が食べ終わるのを待っているようだ。
とりあえず噂の牛丼を口に入れてみて一言。
「…………うわぁ」
なんてゆーかまずい。肉の味しかしないランチとかと同類の匂いがする。
味わって食べると吐き気がしてきそうなので、早食いの要領で味を感じる前に飲み込んでしまうことにした。
そしてそのまま食べ続けること十秒。
二十秒。
三十秒。
四じゅ————
ドゴッ!
ぶふっ。
「うおおお!!?? てめえ何しやがるバゼット!?」
ドコッ、は女性。ぶふっ、は俺。うおおお以下略は男性だった。轟音、吹いた、抗議の声である。
咳き込みながら音がした方に目を向けると、立ち上がった女性と目が合った。女性の右手は机の上に置かれているというかめり込んでないかあれ…………!?
どうやら女性が机に物凄い勢いで拳を叩き付けたらしい。拳で机を破壊するとはとんだ鉄腕破壊魔(クラッシャー)だ。
一方、男の方はまだ牛丼を食べている真っ最中。
女性の様子から察するに、男が食べ終わるのを待つのに飽きたというか、待ちくたびれたのだろう。
ぐびり、と湯呑みの中身を一気に飲み干すと、
「————ランサー、私は先に出ます」
そう宣言して、苛立った様子の女性はカツカツと店の外へ出て行ってしまった。
凄い。この空気の中で食事を続ける男の肝っ玉もだが、なによりあの女性の驚くほど短気なところが凄い。あんなに忍耐力がなくてちゃんと世渡りは出来てるのだろうか、なんて思わず心配してしまう。
アロハ男も、もぐもぐと牛丼を咀嚼していたと思いきや、「しゃーねーなあ」なんて呟きながらその後を追って出て行ってしまった。
珍妙なカップルもいなくなり、一気に静まり返る店内。
店員さんは顔を引きつらせながら、二人が去った後もずっと入り口の方を見続けていた。……あ、よく見たら放心してる。
なんだか、この場に居づらい雰囲気。
残った牛丼をかっ込んで、俺もそそくさと退散することにする。
多分、もう喜多邑茶家に来る事はないだろう。
————色々な意味で、ここはとてもマズ過ぎる。
* * *
「————ふぅ」
腹ごしらえをした後、俺はぶらぶらと新都を彷徨っていた。
当てもなく衣服を手に入れるのはほとんど不可能に近い。その辺りに捨てられているわけでもないし、金もないのに入手できるほど、衣服は安いものではないのである。
どうせなら一旦家に帰って、服装だけでも着替えたい気分だが、せめて夜が明けない限りはあちらに戻るのは危険だとも思う。
夜明けまで、という考えに根拠はない。だが、あの化け物たちが神秘の秘匿に関係しているのなら、人が多くなり始める夜明けごろにはいなくなるはずだ。
時刻は午前二時と三時の中間あたり。
さてこの後はどうするか、と考えるために立ち止まった瞬間。
最終更新:2006年09月14日 17:21