「先輩、最近何かあったんですか?」

 桜にそう言われたのは、朝食をみんなで囲んでいる最中のことだった。
 メンバーはいつもどおり、俺、桜、藤ねえ、セイバー、遠坂、ライダー。
 朝食からさっそく気持ちの良い食べっぷりを
 披露してくれていた面子(一部を除く)だが、
 桜の言葉にいくばくか箸の手を休める。

「え、何かあったかって言われてもな……どっかおかしいか、俺?」

 茶碗を持ったまま首を傾げる俺。
 ひじきと油揚げの煮物を取って食べる。
 うん、いい味が出ている。

「おかしい、って言うより……先輩、なんだか忙しそうでしたので……」

「確かに、最近は土蔵に足を運んでいることが多いようですが」

 尻すぼみ気味な桜の弁を、
 ライダーがマイペースに魚をつつきながら補足する。
 ライダーは他の面子に比べると小食なほうだが、
 規則正しく箸を運ぶ姿は外人さんとは思えないほどピシッとしている。

 なお、土蔵通いが増えたのは事実だ。
 なるべく人目を避けて通っていたつもりだが、
 流石に一日に二度も三度も行けばそりゃ気がつかれるか。
 それにしても桜は俺に関する変化には本当に鋭い。
 俺自身、最初に気がつくのは桜妥当とは予想していたが、
 まさかここまで早いとは。

「へー、なに、士郎コスモクリーナーとか直しちゃったりしてるの?」

 そんなはるか彼方のイスカンダルにまで取りに行かなきゃならんようなものは土蔵にはないぞ、藤ねえ。
 あと、箸を咥えながら喋るな。

「一度決めるとひたすら打ち込むからね、衛宮君は。
 まったく働き蟻根性と言うか」

 さっきまで寝起きで絶賛大不調だった遠坂も、
 今はすました表情で箸を進めている。
 私一見関わり合いになりません、というポーズを取っているものの、
 このメンバーの中では桜に次いで敏感な人物なので油断ならない。

「……(じーっ)」

「? どうしたのセイバー?
 不自然な髪型の中年を見つけたような目をしてるけど」

「いえ……、なんでもありません、凛」

 あと、先日からセイバーの遠坂を見る目……
 もとい、遠坂のツインテールを見る目が真剣そのものになった。
 いずれ本人に直接例の件を尋ねてしまいそうな勢いだ。
 もちろんそうなったら俺は一巻の終わりである。
 無論これは比喩ではなくガチだ。
 うん、まさに綱渡り人生。

「何かあった、か……」

 誰にも聞かれないように、そっと呟く。
 桜は本当に鋭い。
 果たして自然な対応が出来たかどうか。
 
 そう、俺が水銀燈との契約を交わしてから、もう三日が経っていた。


『銀剣物語 第二話 銀様と土蔵リフォーム計画』


「ミーディアム以外の人間と馴れ合うつもりはないわぁ」

 という水銀燈の方針を元に、土蔵の中に水銀燈をかくまってから早三日。
 今のところ衛宮家の住人には水銀燈の存在は発覚していない。
 そもそも土蔵には俺以外の人間はあまり寄り付きはしないし、
 もし誰かが土蔵に入っても、水銀燈が姿を現す気がなければそうそう見つかることは無い。
 セイバーやライダーあたりが本気で気配を探れば見つかるかもしれないが、
 『誰かがいる』という確たる根拠がなければそんなことにはならないだろう。

 さて。
 朝食後、俺は早速土蔵へ足を運んでいた。
 その目的は――


「よっ」

 土蔵の重い扉を足で蹴り開け、肩で押しながら中に入る。
 かなり無作法な侵入方法だが、両手は塞がっているので容赦していただきたい。

「遅いわ、士郎」

 扉を閉めるなり、天井のほうから声が降ってくる。
 続いて舞い落ちてくる黒羽。
 ガラクタの山から翼を羽ばたかせながら、水銀燈は降りてきた。
 そしてそのまま壁際に寝かせてあった梯子の上にちょこんと座る。

「レディを待たせるなんて最低ね。下僕としての自覚が足りないわぁ」

「そうは言うけどさ、最近はここに通うのも怪しまれてるんだぞ、俺」

「いいからさっさと支度をしなさぁい」

 スルーかよ。
 俺の抗弁はあっさり流されて、水銀燈の視線は既に俺の手元に向けられている。
 視線が向けられているその先には、俺の持つ盆に乗せられた品の数々。
 白飯、味噌汁、焼き魚、煮物、漬物。
 他でもない、先ほど俺も食べていた衛宮家の朝食である。
 当然水銀燈の為にボリュームは1/5程度だ。

「わかったわかった。どうぞ、召し上がれ」

「ええ、いただくわぁ」

 俺が古びた丸机の上に盆を置くと、早速器用に箸を取る水銀燈。
 ……しかし改めてみると水銀燈と和食って激しく違和感があるなぁ。

 このアンティーク人形が箸を握るという奇妙な光景、
 これが生み出されるきっかけとなったのは、俺がふと尋ねた一言だった。

「水銀燈って、食事とか必要なのか?」

 三日前、夕食の支度をしに行く時に尋ねた質問。
 俺のその問いに、水銀燈は少し考えてからこう答えた。

「……無いとは言わないわぁ。
 ドールの中には紅茶を好きこのんで飲むようなお馬鹿さんもいたし」

 水銀燈が食事できることを知った俺は、
 その日の夜、すぐさま水銀燈用の食器をあつらえた。
 水銀燈の大きさを考慮して、通常の子供サイズよりも心持ち小さめに。
 箸、茶碗、ナイフ、フォーク、カップにグラス、大皿小皿シチュー皿。
 ちなみに、言うまでもなくぜーんぶ投影によるバッタもんである。
 剣しか作れない俺が食器など作れるのか、という疑問もあるだろうが、
 やってみると案外何とかなるもんだった。

 ……認めたくはないが、アイツも釣具とか自作してたなぁ。

 もっとも俺の投影食器は外面だけの紛い物だが、
 それでも普通に食器として使うだけなら十分だし、
 いざという時の証拠隠滅にも便利だ。

 で、次の日の朝に、さっそく朝食を携えて土蔵訪問。
 ちなみにこの朝食は食卓に並ぶ前に取り分けておいたものだ。
 さもないと食事後には残っている確証がない。

 土蔵へ向かう時も、誰かに見られないように時間とタイミングを計って向かう。
 もちろん、堂々とお盆を抱えて行くわけにもいかないので、
 カモフラージュとして土蔵の前まではダンボールに偽装して持っていくことにした。
 ……そこまで苦労して持っていった挙句、
 水銀燈に冷たい視線で迎撃された時は流石に挫けそうになったが。

「人形に食事させるために、本気で持って来たの? お馬鹿さぁん」

 だが、そう言っていた水銀燈も、その日の昼からは
 なにかとぶつくさ言いながらも食事に手を付けてくれるようになった。
 なんだかんだ言っても根は素直なのかもしれない。

 ところで、俺としては、水銀燈だけ一人で食事させるのは心苦しい。
 出来ればかつてのセイバーのように、みんなと一緒に食事してもらえればいいのだが。
 しかし、みんなと一緒となるとどうしても藤ねえの目に触れるわけで。
 するとどうなるか。どうみても神秘です。本当にありがとうございました。
 なのでやむを得ず、こうして土蔵の中で食事してもらっている。

「……ところで、士郎」

 朝食を半分ほど食べたところで、一旦箸を置いた水銀燈は俺のほうを見てこう尋ねた。


「この家に古い鏡はあるのかしら」

「古い鏡?」

「そう。姿身くらいの大きさがいいわ」

 姿見、というと、着付けを調えるような等身大の鏡か。
 それを欲しがるということは、やはり水銀燈も身だしなみを気にしたりするのだろうか。

「この三日間、様子を見ていたけど。やっぱり待っているのは性に合わないわぁ」

 ん……?
 どうも、水銀燈の言葉から鑑みるに、どうやら身だしなみとかそういう話では無さそうだ。

「様子を見ていた……って、なにがさ」

「決まってるじゃない。他のドールたちが動くのかどうか、よぉ」

「……それと鏡と、何の関係があるんだ?」

「知りたいの? ……そうねぇ、持って来たら教えてあげるわ」

 むぅ。
 相変わらずこちらの知りたいことははぐらかされている気がする。
 俺の功夫不足なのか、それとも水銀燈が一枚上手なのか。
 それにしても……。

「薔薇乙女《ローゼンメイデン》、か……」

 俺はこの数日で水銀燈から聞いた彼女の生い立ちを思い出した。
 薔薇乙女《ローゼンメイデン》。
 人形師ローゼンによって造られたドールシリーズ。
 七体の人形からなる彼女たちは、ローゼンの求める究極の少女『アリス』を形にするために造られたという。
 水銀燈はその中の第一ドールであり、もっとも優れたドールである……と。

「最後のはちょっと怪しい気が……」

「何か言ったぁ?」

「い、いや、なんにも?」

 味噌汁を啜りながらジト目で睨んでくる水銀燈に、即座に否定で応える。
 ……水銀燈と契約してから、時々俺の考えていることが水銀燈にも伝わるようになったようだ。
 おかげでうかつなことは考えることも出来ないが……
 もしかしたらそのうち、セイバーの時と同じように水銀燈の夢を見るようになったりするのだろうか?

「そう……? とにかく、鏡を用意しなさぁい。なければあなたの夢からねじりこむわ」

 い、一体なにをねじりこむと!?

「わかった、鏡だな?
 確かこの中にあったような気がするから、帰ってきたら探してみよう。
 それまでは大人しくしていること」

 とりあえずねじりこまれるのは嫌なのでガクガクと頷く。
 そこへ、


「士郎―、おねえちゃんもう行くねー」

 土蔵の外から無闇に元気な声が聞こえてきた。
 この声は藤ねえか。
 いつもなら朝食を食べ終えると同時にダッシュで出て行く藤ねえだが、
 今日は朝食が早かったためか少しのんびりと出かけるようだ。
 ……まあ、なんだ。
 藤ねえの「のんびり」は、全速力となんら意味が変わらないのだが。

「もう藤ねえが出かける時間か……悪い、水銀燈。俺ももう行くから」

「ふん、なるべく早く帰ってきなさぁい」

 丁度良く食べ終えた水銀燈が、静かに箸をおきながら釘を刺すが、
 言われるまでも無い。
 今日はアルバイトも入っていないし、
 一成からの頼み事がなければ帰りが遅くなることはないだろう。

「それと……」

 俺が食器を下げようとした瞬間、水銀燈が再び口を開いた。
 ……まだ何かあるのだろうか?
 水銀燈は俺と俺の持つ食器を交互に見比べて、
 一旦口ごもると、そっぽを向きながら小さく言った。

「……ごちそうさま。悪くはなかったわ」

 ……おお。
 三日目にして初めて、水銀燈から食事の感想を聞くことが出来た。
 顔を横に向けながら言っているものの、
 俺は水銀燈の頬が微妙に赤くなっているのを見逃さなかった。
 もちろんそんなことは絶対口には出さないが。

「おう、お気に召したのなら恐悦至極だ。じゃ、食器下げるぞ」

 俺はかなり気分を良くしながら、土蔵の扉を足で蹴り開けたのだった。

 投影食器を処分し、盆を片付けた後。
 玄関まで行ってみると、藤ねえが今まさに家の門をくぐって出かけようとするところだった。

「あ、士郎どこにいたのよ。声かけても返事が無いからちょっと探しちゃったじゃない」

 別に俺の見送りがなければならない、というルールは無いのだが、
 呼んでも返事が無いのは確かに拙かったか。

「すまん、ちょっと立て込んでた。藤ねえはそろそろ出るのか?」

「そうだけど……なんか士郎、やけに嬉しそうね?」

「え? そうか?」

 どうやら水銀燈に食事を褒められたのが予想以上に嬉しかったようだ。
 自分でも知らず知らずのうちに顔が緩んでいたらしい。
 口元を押さえて表情を整えていると、藤ねえが少しだけ不審そうな顔で質問をしてきた。

「そういえばさー、なんとなく聞きそびれてたけど」

 藤ねえが俺を見ながら……いや、この視線は俺の左手を見ている?

「士郎、その指輪どうしたの?」

「え?」

 ハタと気がつく。
 俺の左手の薬指に嵌められているのは薔薇の指輪。
 水銀燈との契約の証であるその指輪は、契約が破棄されない限り外すことができない。
 しまった、コイツのことをなんて言うか考えていなかった……!

「それ、三日くらい前からずっとつけてるよね?」

「あ、ああ。土蔵の中で見つけたんだ。なんか綺麗だったからさ」

 咄嗟に苦し紛れの嘘をつく。
 しかし、と言うかやはり、と言うか、目の前のヒト科トラ目はそれでは納得しなかったらしい。
 獲物に狙いを定めた野生の獣のごとく、俺の周囲を旋回する藤ねえ。

「ふーん、へぇー?」

「なんだよ、その意味深な笑いは」

 にやにやと、嫌な予感のする笑顔を浮かべながら、藤ねえは爆弾を投下した。

「べっつにー?
 ただ、士郎がそんな指輪つけてるの初めてだし。
 案外、桜ちゃんとか遠坂さんあたりからのプレゼントじゃないのかな、と」

「な――」

 一瞬だけ、藤ねえの言葉通りのシチュエーションを想像してしまった。
 いきなり何を言い出すのか、このばか虎はっ。

「ば、馬鹿言うなっ。そんなこと、あるわけないだろ」

 もし本当に桜や遠坂からのプレゼントだったら、恥ずかしくて付けてられるかっ。

「照れちゃってー。あ、それともセイバーちゃんからとか?
 んー、意外と意外じゃないといいますか、ありそうな気もするわよねー」

 誤解、全くの誤解なのだが、他の住人に聞かれたらひどく拙い。

 聞かれる→乱入→更なる勘違い→(中略)→死

 うお、なんだこの理不尽なピタゴラスイッチ……!
 なんとか話を逸らさないと……そうだ!

「ほ、ほら、早くしないと教師の癖に学校遅れるぞっ」

 時計を見れば、時間は既にいつもより少し遅れ気味だった。
 ただでさえギリギリな藤ねえの出勤が更に危険になりつつある。
 これではのんびりどころかロケットタイガーと化しても間に合うかどうか。

「む……、まあいいわ、今回はこれ以上詮索しないであげましょう。
 むふふ、学校終わったらじっくり話し合おうねー!」

 言うや否や、扉の脇に寄せてあったスクーターに飛び乗ると、
 ばひゅんという効果音でも付きそうな勢いで走り去っていく我が家の虎。
 それを半ば呆然と見送りながら、俺は深くため息をついた。

「……はぁ」

 しかし、拙いな。
 このままでは、いつ誰に四六時中指輪を嵌めていることを訊かれるかわかったもんじゃない。
 左手をポケットに突っ込んだり、後ろ手で隠したりでは限界があるだろうし。
 さて、どうする?

 ――まきますか? まきませんか?

「まきます」

 いや、包帯をなんだけどね。

「幅が余るな……半分くらいに裂いて使おう」

 藤ねえを見送った後、俺は自分の部屋に戻った。
 学校に行く前に、この薔薇の指輪を上手く隠さなければならない。
 幸い、家には応急道具の類は豊富にある。
 とりあえずは包帯でも巻いて誤魔化しておけばいいだろう。

「ん……なんか、薬指だけだと余計に……」

 指輪の出っ張りが目立ちすぎてしまうようだ。
 ここは中指もまとめて巻いてしまおう。
 薬指と中指が固定されてしまうが、大して支障が出ることも無いだろう。

「……よし。こんなもんかな」

 巻き終えた包帯を見て一人頷く。
 時間を見ると、いつの間にか俺も登校しなければならない時間だ。
 応急箱を閉めて片付けると、学生鞄を手に立ち上がる。

 出かける直前に、玄関でセイバーとばったり出くわした。

「シロウもこれから学校ですか」

「ああ。桜と遠坂はもう出かけたのか」

「ええ、桜は部活動のため早めに。凛はつい先ほど出かけたようです」

 と言うことは、俺が一番最後ということか。

「そっか。じゃ、俺も行ってくる。今日は早めに帰ってくると思うから」

「わかりました。お気をつけて、シロウ」

 セイバーの声を背中に受けながら、俺は玄関の戸を勢い良く引きあけた。

「つまりこの歌の訳は、
 人目を忍ぶ私の通い路の守り手は出来れば毎晩眠っていて欲しい、
 ということであって……」

 午前中の授業の間、先生の講釈を聞きながら、俺は別のことを考えていた。
 俺の左手に嵌められている、薔薇の指輪。
 薔薇乙女《ローゼンメイデン》の人工精霊に選ばれたミーディアム、その証。

 水銀燈は今朝、『他のドールが動くかどうか様子を見ていた』と言っていた。
 それはつまり、この現代において、
 水銀燈以外のドールも目覚めている可能性があるということだ。
 薔薇乙女《ローゼンメイデン》が目覚める時期を選定するのは人口精霊だ。
 つまり、人口精霊は、申し合わせたかのように、
 ドールが目覚める時期を合わせている――?
 だとしたら、その理由は?
 ドールが二体以上目覚めるで、何かが起きるというのだろうか?
 関係するのが、恐らくは水銀燈が欲しがっていた『鏡』なんだろうが……。

 水銀燈以外の薔薇乙女《ローゼンメイデン》。
 そして、そのミーディアムもまた、俺以外にも存在するのだろうか。
 いや、もしかしたら、俺の身近なところ……例えば、そう、この学校の中にだって――。

「まさか、な」

 周囲に聞かれないように、こっそりと一人突っ込む。
 仮に契約した人間がいたとしても、それが俺みたいな年齢の奴だとは限らないんだし。
 そもそも七体しか居ない人形の契約者が、同じ町にいる確率は限りなくゼロに近いだろう。

 そんなことを考えている間に、チャイムが鳴った。
 国語教師が教科書を閉じ、教室から出て行くと同時にざわめきが室内に満ち出す。
 これで午前中の授業は終わり、昼休みとなったわけだ。
 教室内では、早くも弁当を広げ始めている奴、
 購買へむけて走り出す奴、
 何人かで集まって学食へ向かう奴もいる。
 俺も教科書とノートを机の中に押し込むと、席を立って廊下へ出る。
 いつもならば弁当を作ってくるのだが、
 最近は水銀燈の朝食のために時間を取られ、
 弁当を作ってくることが出来なかったのだ。
 今日は――というかここ数日も、なのだが――学食か購買で昼食になるな……
 そう考えながら廊下を歩いていると。

「お」
「あ」
「む」
「げ」

 四人四色の驚きの声が上がる。
 階段を下りようとした角で、偶然にも見知った顔と出会ってしまった。
 相手は三人組だったので、先ほどの驚きの声の内訳は俺一つ相手三つである。

「こんにちは、衛宮くん。今から購買に行くのかな?」

 お辞儀しながら尋ねてきたのは、三枝由紀香。
 陸上部のマネージャーで、三人組の良心となごみ担当。
 言うなれば1/3の純情な感情。

「見たところ手持ち無沙汰のようだ。今日は弁当ではなかったと見える」

 腕を組みながら俺を評しているのは、氷室鐘。
 同じく陸上部の、こちらは選手であり高飛びのエース。
 歳に見合わぬそのクールな思慮深さと洞察力から、教室の長老の異名を持つ。

「ふーん。てことは、今日は生徒会長と一緒じゃないわけね。
 なにかい? 腰巾着はもう卒業したのかい?」

 腰に手を当ててこちらを半眼で見ているのは、蒔寺楓。
 これまた陸上部のスプリンター。
 自称だか通称だかわからないが、『冬木の黒豹』と呼ばれる、らしい。
 ……個人的には冬木の動物シリーズはもう打ち止めにして欲しいのだが。

「別に一成の腰巾着になった憶えはない。今日は単純に弁当を作る時間がなかっただけだ」

 手をひらひら振って、無手であることをアピールする。
 蒔寺の問いにだけ答えたような形になったが、一応三人全員に対しての返答である。

「そっちは……あれ、そっちも購買なのか?」

 少々意外だった。
 三人の向かう方向を見る限り、どうやら行き先が同じだったようだ。
 少なくとも三枝は、遠坂に弁当を渡していた光景を見たことがあるから、弁当持参派だと思っていたのだが……?

「あ、うん。お昼ごはんを買いに行くところ」

「蒔の買い足しと……あと、私もそちらと同じようなものだ」

 なるほど。
 どうやら蒔寺は弁当を用意してきたものの、それを昼休みになる前に食い尽くしてしまったらしい。
 氷室は弁当を持参しなかったクチらしいが……三枝はその付き添いか。
 そこで唐突に、三枝がぽん、と手を叩いて提案してきた。

「あ、そうだ。良かったら、衛宮くん、私のお弁当食べる?」」

「は? いや、流石に女の子のお弁当を強奪するような真似は」

「ううん、実は、遠坂さんにって思って作ってきたんだけど、断られちゃって……」

 ちょっと残念そうにうなだれる三枝。
 毎度毎度、遠坂をお昼に誘っているという三枝だが、そうか、今日も断られていたのか。
 遠坂の奴、さてはまた屋上かどこかでなにか企んでるんじゃあるまいな?

「だからね、一人分お弁当が余っちゃってるの。だから……」

「ちょっと待ったー! なんでぽっと出の衛宮に由紀っちの弁当を差し出さなきゃならんのさ!
 それはアタシの大切な栄養源だってーの!」

 そこで間に割って入ってきたのは、冬木の黒豹こと蒔寺楓。
 なにやら珍妙な姿勢で構えを取って威嚇してきている。
 蒔寺……早弁だけでは飽き足らず、購買と三枝の弁当でグランドスラムでも狙う気なのか。

「……それでか、蒔の字が先ほど遠坂嬢にけん制を仕掛けていたのは」

 そしてそれを横から呆れたように見ている氷室。
 恐らく蒔寺は縄張りを主張する犬のように唸りを上げていたのだろう。
 もっともそれが遠坂に影響を及ぼしたのかは図りかねるが。

「飢えた獣は山に帰れ! むしろ……ん? 待てよ?」

 と、そこで今まで俺を睨んでいた冬木の黒豹が、いいことを思いついたかのように口元をニヤリと歪ませた。

「そうだ、衛宮。せっかくだからさ、アンタ、私たちの代わりにひとっ走り購買まで行ってきてくれない?」

 それは端的に言ってパシれってことか、蒔寺。
 確かに、今頃は混雑しているであろう購買に四人連れで行くよりは効率はいいだろうが。

「ええー、そんなの、衛宮くんに悪いよ蒔ちゃん」

 眉を八の字にして抗議する三枝だが、蒔寺はどこ吹く風だ。

「いーじゃん、行ってきてくれたらアレだぞ、特別に私たちと一緒に昼飯を食べる栄誉を与えて遣わすぞ?」

 それは果たしてパシリの代償として妥当なのか。
 どうも、三枝のほうの提案に乗れば無償で手に入りそうなんだが。
 俺が答える前に、隣から氷室が蒔寺に釘を刺す。

「蒔の字、いくら衛宮が便利屋だからと言っても女性の使い走りに使われるのは気の毒だろう。
 それに、自分で走ろうとしないのでは君のアイデンティティーに関わるのではないか?」

「ぬ? よくわからんがなんだそのアイアンティーというのは? ゴルフ用品か?」

 しかしぬかには釘は刺さらないのだった。
 この場合のぬかが何の例えなのかは、本人の名誉の為に伏せておくことにする。

「ええとお、たしか存在意義、だったよね?」

「……ようするに飛べない豚はただの豚だということだ、冬木の黒豹」

 氷室の解説も聞いたのか聞かないのか。
 蒔寺はうんうんと頷くと俺に人差し指を突きつけて構えを取る。

「なるほど! つまり便利じゃない衛宮はただの衛宮ってことだな!
 そーいうわけだから心置きなく使い走られなよ衛宮!
 みんなは一人の為に、一人はみんなの為にって言うだろ!」

「いや、間違ってはいないが、致命的に間違った用法だぞ、それ」

 あとただの衛宮ってなんだ。

「……どうするんだ衛宮?
 なんなら使い走るのは蒔の分だけでもいいぞ。
 私は一緒に買いに行っても構わんからな」

 自分の荷物は自分で持つ、と氷室が進言してくれている。
 ここは――。

 ここは氷室についてきてもらおう。
 三人分の昼飯を抱えて持つのは大変そうだし。
 ……それでも、俺と蒔寺の分だけで結構な量になりそうな気はするが。

「わかった、蒔寺の分は買ってきてやる。氷室、すまないが付き合ってくれるか」

「ああ、承知した」

 俺の言葉に、氷室はすんなりと頷いてくれた。
 だが、それに不満そうな声を上げた女が一人。

「……またあっさり引き受けるね衛宮。
 もうちっと引っ張ってくれないとこっちも拍子抜けなんだが」

「ごねても仕方ないだろ。それに、昼休みだっていつまでも続くわけじゃないんだ」

 そうこうしている間にも時間は過ぎているのだ。
 タイムイズマネー。
 蒔寺と連れ立っていくよりも、こっちのほうが効率がいいだろう、というのも理由の一つだ。

「へぇ、じゃあなんで氷室だけ連れて行くんだこのムッツリスケベ!
 氷室もついでなんだから、こいつに頼めばいーじゃんかぁ!」

「誰がムッツリスケベだ、誰が」

 こいつ、と言いながら俺を指差す蒔寺。
 鼻先に突きつけられたその指を思わず右手でそらしてやる。
 対する氷室はわずかに目を細めてため息を吐く。

「あいにく、私は君ほど豪儀な性質を持ち合わせてはいないのでな」

「なにをぅ? この穂群原の乙女に向かって豪儀とは何事かぁ!?
 大体ね、あたしが豪儀なんじゃなくて衛宮が働き蜂性質なだけだろ。
 こいつは働かないとストレスが溜まるワーカーホリック症候群だからね」

「え、衛宮くん病気だったの!?」

 人を勝手に現代病患者に仕立て上げないでいただきたい。
 しかし、このままだと話が進まないので、仕方なく流すことにする。

「三枝さん、アレは悪質な冗談の類なのであまり真に受けないように。
 それより蒔寺。注文はなんだ?」

「あ、アタシ焼きそばパンとサラダサンドとコロッケパンとチョココロネ、
 飲み物はレモンティーでよろしくー!」

 一転して、矢継ぎ早に品名をまくし立てる蒔寺。
 こいつ、持参した弁当を平らげた上にまだそんなに食うというのかっ。

「……いいけど。代金は後でちゃんと払えよ、蒔寺」

「では行こうか、衛宮。そろそろ購買戦線も佳境だろう」

 注文を頭の中で復唱していると、氷室が先に階段へ向かっていた。
 確かに、時間はそろそろ昼休みに入ってから十分を過ぎようとしている。

「じゃ、じゃあわたしたちは先に教室に戻ってるね」

「360秒以内に戻って来いよー!」

 という二人の声を背中に受けながら、俺は氷室とともに購買へ向かった。

 購買はごった返す生徒の人だかりで、一種の祭と化していた。
 並ぶ生徒たちの最前列では、殺到する注文の応対にかかりっきりのおばちゃんたちの姿が見える。
 俺たちはなんとかその中に入り込み、順番待ちをしている最中だった。

「ところで……氷室って昼は購買派だったのか?」

 待っている間、ふと気になったことを後ろに居る氷室に訪ねてみた。
 彼女ら三人組とは、蒔寺が備品の修理を押し付けたりされたので、それなりに見知った関係だが、氷室が昼食に購買を利用していた、というのは初耳だった。

「いや、基本的には弁当を持参している」

 俺の背中越しに、氷室はしれっと答えた。

「今日はたまたま……いや、ここ数日はたまたま、持ってこられなかっただけだ」

 わざわざ言い直す氷室。
 その言い方に……少し、違和感を覚えた。

「ここんとこ弁当なしって……なんかあったのか?」

「衛宮が気にするようなことではないさ。それより……とっ」

 氷室が何か言いかけたと同時に、不意に後ろから押されたのか、氷室の身体が前方によろめいた。
 ちなみに、氷室の前に立っているのは言うまでもなく俺である。

「おっ……」

 反射的に身体を捻って氷室の身体を支えようとする。
 ……ところで。
 至近距離で、更にこちらへよろめいてきた氷室を、俺が腕で支えるとどういうことになるだろうか。

「……あ」

「……う」

 答え。
 丁度俺の腕の中に、氷室がすっぽりと納まってしまったのだった。
 お互いに一文字だけ声を出した後、何故か沈黙してしまう俺と氷室。
 先に口を開いたのは、俺のほうだった。

「えっと、その、だ、大丈夫か氷室」

「…………ああ、問題ない。すまないな、衛宮」

「いや、俺のほうこそ……」

 支えるつもりが、こんな体勢になってしまって申し訳ないというか。
 女の子をこういう風にしているのはひどく恥ずかしいものがある。
 しかし……こうして密着してみて判ったが、氷室の身体は小さかった。
 いや、背の高さで言えば蒔寺、氷室、三枝の順で高いのだろうが、氷室の身長は最近身長が伸び始めた俺よりも、頭半分ほど低い。
 加えて俺が両手で支えている氷室の背中と二の腕は、適度な筋肉と女の子らしい柔らかさを兼ね揃えていて実に……。

「衛宮、その……前、列が開いているぞ」

「え?」

 氷室の声で、我に返った。
 見れば、俺の列の前の生徒は既に注文を済ませ、次は俺の番になろうとしていた。
 更に言えば俺は未だに氷室を支えたままであって、つまり氷室IN俺の腕。

「あ、す、すまん氷室っ!」

 慌てて氷室から身体を離す。
 氷室はそのまま、一人でしっかりと立って…………あれ?

「……気にしないでいい。あれは不可抗力だろう。
 それより、早く注文を済ませてしまえ」

「あ、ああ。……すいません、えーと、焼きそばパンとカツサンドと……」

 蒔寺の分のパンを注文しながら、俺の頭の中は別のことで動転していた。
 ……先ほど身体を離すとき、ちらりと見えた氷室の左手。
 その指先に、薔薇の指輪が鈍く光っていたのだから。



 三人と一緒に昼食をとりながらも、俺は齧っているパンの味などわからないほど考え込んでいた。

 氷室が嵌めていた薔薇の指輪。
 それが果して、俺が包帯で隠しているものと同じ、ミーディアムの証であるのかどうか。
 正直、氷室に尋ねてみたい。
 だが、蒔寺と三枝が一緒に居るこの状況で、薔薇乙女《ローゼンメイデン》の話を持ちかけるわけにもいかない。

「あ、予鈴だ」

「えっ、もう昼休み終わり? みじけー」

 そうこう考えているうちに昼休みの時間が終わってしまったようだ。
 ……仕方ない。
 後のことはまだ考えつかないが、とにかく氷室に問い訪ねてみることにしよう。

「氷室」

 俺は、ゴミへ捨てに行こうとしていた氷室に声をかけた。
 丁度、他の二人とは少し距離が空く形になる。

「……なんだ、衛宮?」

「放課後、少し話がある。時間、いいか?」

「つまらない話なら断るところだが……衛宮がそう切り出してくるということはそれなりの話だということか」

 流石に氷室は切れ者と言われるだけはある。
 真剣な話であることを俺の言葉から察してくれたらしい。

「ああ。……と言っても、まあ、個人的なことになるんだが」

 これは俺の興味本位からの質問事である。
 学校や部活動がらみの用事ではない、という事をあらかじめ断っておく。

「個人的なこと……?」

 俺の説明に、氷室がわずかに目を見開いた。
 俺が個人的な相談をすることが珍しかったのだろうか?
 まあ、確かに氷室相手に相談なんて持ちかけるのは初めてだが。

「それは、部活の後に二人で、ということでいいのか?」

「ああ、そうしてくれるとありがたい。
 すまないが、あんまり他の奴に聞かれても困るんだ」

 薔薇乙女《ローゼンメイデン》だのミーディアムだのという話を他の連中に聞かれても困る。
 思っていた以上に氷室は話のわかる奴だった。

「………………そ、そうか。
 なら、人目のつかない場所のほうが都合がよいだろうな。
 そのほうが、私としても、その、助かる」

 ……む?
 珍しく、氷室の返答に若干のラグが発生した。
 あと、人目につかないほうが良いというのには同意するが、何故氷室はこちらから顔を背けているのだろうか?

「そうだな、じゃあ場所は……」

 さて。
 放課後、部活動が終わった後の時間帯。
 なるべく他人がやってきそうにない場所というと、一体どこがいいだろうか?



 氷室を俺の家に招待してみよう。

「……レアだなぁ」

 放課後、部活動の終了時刻を迎えたグラウンド。
 その片隅、まだ開かれたままの校門にもたれかかりながら、俺は今更自分の選択に首を捻っていた。
 陸上部の連中は、ついさっきグラウンドから引き上げていった。
 トラック・アンド・フィールドのうち、トラック組のほうは、なにやら死ぬほど活発な上級生に追い掛け回されていたが……まあいつものことだろう。
 恐らく今頃ミーティングを、例の上級生あたりを中心に行なっているに違いない。

「俺の家に、氷室が、か……」

 ちょっとだけ想像してみる。
 武家屋敷の玄関をくぐり、板張りの廊下を抜けると、居間には正座して茶をすする氷室の姿。
 客の姿を認めた氷室は、湯飲みを静かに卓に置き、

『おや、ようこそいらした。
 たいしたもてなしも出来ないが、まあ掛けてくれたまえ』

「……すげえ、俺よりはまり役だ」

 想像の中の氷室は俺の家の風格に見事に適応していた。
 道場で瞑目するセイバーとはまた違った、自然体での日本家屋との融合とでも言おうか。
 現家主としては、甚だ複雑ではあるが。

「……いや待て。絵になるかどうかはこの際問題じゃなくて」

 問題なのは人目につくか、ということだったはずだ。
 確かに、俺の家ならば他人の目を気にすることはない。
 なにしろ俺の家なのだから、他人など呼び込まなければ入ってくる道理は無い。
 問題は他人ではない、住人が割と多く滞在している点。
 部活動が終わった時間だと、桜や遠坂も家にいる可能性がある。
 さらにはライダーやセイバーもいる時間帯なので、正直人目につかないとは言いがたい。

 しかし、考えようによっては俺の家はこれ以上ないほど安全であるとも言える。
 特に、神秘の隠匿という点から見ればこれ以上最適な場所も少ないだろう。
 なにしろ十人が100%神秘関係者、中には神秘そのものも一緒になって飯を食っているのだから。

 だがなんだ、この不安とも疑念ともつかないもやもやした感覚は。
 知らないうちに平均台から足を踏み外しているような、バランスの崩壊。
 俺は、何かとても大切なことを、気付かずにいる……?

「衛宮、待たせたか?」

 俺の懸念は、背後から飛んできた氷室の声にかき消された。
 見れば、教室で着替えてきたらしい、制服姿の氷室がこちらへ歩いてくるところだった。

「いや、そうでもない。こっちも一成の頼まれごとを今さっき終わらせたところだ」

 頭の霧を振り払って、改めて氷室と相対する。
 氷室は相変わらずのポーカーフェイスだが、先ほどまでの運動のためか、心持ち顔が紅潮しているように見えた。

「そうか。それで、話というのはどこで聞けばいい?」

「それなんだが……」

 俺は一旦言葉を切ると、学校の敷地と公用道路の境目に立った。
 ええい、こうなったら真正面からぶつかっていけ。

「場所は俺の家、でどうだろう」

 言った。
 言ってしまった。
 言ってから、なんで教室とかじゃなくてわざわざ俺の家で? などと今更ながら面食らった。

「な、に……!?」

 だが、氷室の面食らいの度合いは、俺のそれをはるかに上回っていた。
 わずかに紅潮していた顔は更に赤く、動じることの無い表情は面白いほど驚きに歪む。
 恐らく氷室のこんな表情を見たのはこの学校では俺が三人目くらいではなかろうか。
 そのくらい、氷室の驚き顔はレアなのだった。
 ちなみに言うまでもなく、一人目と二人目は彼女の親友の二人である。

「え、っと、どうかしたか、氷室?」

 初めてみる狼狽にかなり驚きながら、俺は氷室の様子を窺う。

「……衛宮はこれほど早く決断を踏み切る男だったのか……
 いや、それとも最初からそのつもりでいたのか……?
 これでは、まるで……」

 氷室は俺から視線をそらせながら、何事かぶつぶつと独り言を呟いていたが、
 あいにく俺には何のことだかさっぱり判らない。

「おーい、氷室ー?」

「え、あ、ん!?」

 俺が目の前で少し大きめの声で呼びかけてみると、氷室はギクシャクと再起動した。

「だからさ、話し合いは俺の家でいいかって。いい緑茶と茶請けくらいは振舞うぞ」

「……う、うむ、そうだな、わかった。
 こうなれば、私も覚悟を決めよう。
 で、では行こうか」

「……?
 よくわからないが、まあいいか」

 再三首を捻りながら、家への帰り路を歩き出す。
 やはりギクシャクとしたまま、氷室は俺の斜め後ろをついてくる。

 ……。

 その姿を見ながら、俺は先ほどのもやが再び頭をもたげるのを感知した。
 なんだ?
 この感覚は氷室と関係しているのか?
 いや、氷室を家に誘おうと考えた時から、このもやが芽生えたのだから、当然と言えば当然だろう。
 では、一体このもやはなんなのだろうか。

 氷室。
 俺の家。
 薔薇の指輪。
 水銀燈。
 

 俺の中に生まれた懸念、それは――。


 良く考えたら、女の子を自分の家に連れ込むって大変なことじゃないか……?

「……良く考えなくても大事だー!!」

 頭に稲妻が直撃したかのようなショック!
 え、なに!?
 アレですか、これって所謂ナンパって奴ですか!?
 しかも相手は氷室だぞ?
 陸上部の備品を修理した縁で知り合った程度で、今日たまたま昼飯を一緒に食べただけの相手だぞ?
 ま、まあ確かに購買で抱きかかえたときはとっても柔らかかったけど。
 ……って、思い出すな回想するな再生するな俺ぇ!
 女の子を放課後にいきなり自分の家にご招待、って、そんな慎二じゃあるまいし!

 しかし現実として、俺は氷室と一緒に家路についているわけで。
 …………ぐ。
 最初の衝撃が過ぎ去ると、今度は猛烈な恥ずかしさが襲い掛かってきた。
 拙い。
 なんとか気を紛らわせなければ。
 視線をめぐらせて、後ろの氷室の様子を窺う。
 氷室は相変わらず顔を伏せ気味にしながら、俺の後ろを歩いている。

 何より不可解なのは、氷室がこうして黙って俺についてきていることだ。
 氷室は常人より考えていることが読み取りにくいタイプだが、
 それでも、男の家に連れ込まれようとしているのに、そのまま従うようなことはありえないだろう。
 それなのに、氷室は俺の五歩後ろを黙々とついてくる。

 そう、まるで全て承知の上でついてきているような……。

 ええいやめやめっ!!
 そこまで考えてぶんぶんと首を振る。
 何を考えているんだ俺は。
 そんな男の子に都合のいい話があってたまるか。

 きっと氷室は俺の話を想定して、その上で俺のことを信頼してくれているに違いない。
 そうに決まってる。
 そうじゃなければ……その、俺が色々と困るわけで。

 よぉし、そうと決まれば氷室の信頼は裏切れない。
 行くぞ衛宮士郎、紳士の心構えは充分か!?

「――I am the bone of my gentleman.《身体は紳士で出来ている》」

「さっきからなにをぶつぶつと呟いているんだ?」

「うぇ!? い、いや、なんでもないですよ!?」

 いかん、思いきり氷室から不審な目で見られてしまった。

「……? それより、衛宮。君の家はあの屋敷かな?」

 と、氷室が指差す先には、坂道の上に立つ我が衛宮邸の姿が。
 どうやら悶々としている間にたどり着いてしまったらしい。
 反省。

「あ、ああ。ここが俺の家。ようやくついたな」

 動揺をごまかすように、俺は早足で玄関まで歩み寄る。
 そして玄関の戸に手をかけると――



 いや、待て。
 いきなり戸を開けるのはこの状況ではよろしくない。
 玄関あけたら二分でドカン。
 そんな致死トラップもありえるのが衛宮家クオリティ。
 今回は客人が客人であることだし、念を入れて損することはないだろう。

「氷室、ちょっとここで待っててくれ」

「何?」

「家の中、散らかっててさ。軽く片付けるから、少し時間が欲しい」

「あ、ああ。そういうことか。わかった、でもなるべく早く頼む」

 かばんを持つ手を胸元で交差させながら、玄関脇の壁に背をつける。
 どうやら、他人の家の前で待っているのは、氷室と言えども落ち着かないらしい。

「すまない。すぐに片付けるからな」

 そう言い残して、そぉっと玄関を潜り抜ける。
 気配を探るが、周囲に人のいる様子は無い。
 ……おや?
 ひょっとして、今はみんな出払っているのか?
 だとしたら好都合、今のうちに氷室を招き入れて……。

 ドタンッ!!

「っ!?」

 突然、奥のほうから何か重いものをひっくり返したような音が!?
 方向からすると、これは……居間のほうか!?

 ガタンッ!!

 うわっ、また派手な音が!
 デンジャーデンジャー、衛宮邸居間にてなにやら緊急事態が発生している模様!
「い、い、一体何が……!?」

 思わず尻込みしてしまいそうになる。
 ええい、うろたえるな衛宮士郎っ!
 英国紳士はうろたえないっ!
 いや俺は英国紳士じゃないけども!

「とにかく、確認しに行かないと……!」

 そう自分に言い聞かせて、抜き足差し足で居間までの廊下を渡っていく。
 居間の傍までやってくると、中の喧騒がはっきりと聞こえてくるようになった。
 どうやら居間の中にいる奴らは、騒ぎに夢中でこちらに気付いていないようだ。
 これ幸いと、障子の隙間からそぉっと覗き込む。
 すると――

「な、なんであの二人が喧嘩してるんだ……!?」



 居間の中はまるで台風が通過したかのような惨状だった。
 転がった湯飲み、ひっくり返ったお盆、突き破られた障子の紙。
 ああ……障子、張り替えたばっかりだったのに。

 そんな居間の中に、肩を怒らせて立つ人物が一人。
 その柳眉はつりあがり、その拳は怒りに震えている。
 ……恐ろしい。
 通過したなど、とんだ勘違いだ。
 台風は、未だこの空間に君臨していたのだ。

「イリヤスフィール、貴女という人は……!」

 凪ぐ風も無いはずの居間の中、セイバーは眼前の敵を睨みつけていた。
 その視線の先には、まるでそこだけ台風の目であるかのように、涼しい顔で座っているイリヤの姿があった。

「私は言ったはずです……凛との用事があるため出掛けるが、私の分も取っておいてほしい、と!
 それに貴女はわかったと言った! 言ったはずです! 言いましたよね!?」

 言葉尻を徐々に荒げながら、イリヤを糾弾するセイバー。
 ……ああ。
 なんとなく、喧嘩の理由がわかっちゃったかなー、俺。

「セ、セイバーさん、落ち着いて……!」

「ひぃぃ……や、山の神様のお怒りじゃー!」

 向こう側に目をやれば、隅っこで寄り添って震えている桜と藤ねえ、
 そしてちゃっかり自分と桜の分の湯飲みだけ避難させているライダーの姿もある。
 遠坂の姿が見えないが……あいつだけ部屋にいるのだろうか?

「だというのに……なぜ……」

 そんな外野はお構いなしに、セイバーはとうとう怒りを爆発させた。

「何故! この『かもめの卵』が食べ尽されているのですか!!」

 がぁー、と吼える剣の英霊。
 怒りの炎を背負ったその様は正に燃えよドラゴン。
 手には空になった菓子詰めの箱。
 表面には達者な字で『銘菓・かもめの卵』と書かれている。
 ふ、ふふ、自分の読みの的確さにちょっと涙が出そうだぜ……!

「あわわわわ、わ、わたしは悪くないわよぅ!
 なんとなく小腹が空いたからなんかないかなーって探してたら、
 イリヤちゃんが『良かったらこれ食べない?』って差し出してくるんだもの!」

「えっと、藤村先生、言わなくてもいいことを言って自爆してますよ?」

「そもそもセイバーの矛先は最初からイリヤスフィールに向けられているようですが」

 奥のほうでは三人がなにやら叫んでいるが、セイバーは聞く耳持たないらしい。

「今からでも遅くは無い。その最後の一つ、こちらに渡してもらおう……!」

「…………」

 対するイリヤは臆した様子も無く、怒り心頭のセイバーと、自分の手元にある全ての元凶――銘菓・かもめの卵の最後の一個を交互に見比べた。
 そして……。

 ぱくり。

「あぁーっ!?」

 セイバーの見ている目の前で、その最後の一個を躊躇無く一口でほうばる!
 ほっぺを大きく膨らませながら、そのまま一回、二回ともぐもぐする。

「あ、あ、あ……!!」

 それとシンクロするように、セイバーが大きく頭を揺らしながら悲鳴を上げる。
 そして最後にごっくん、と飲み込むと、イリヤはふう、と一息ついた。

「あー、おいしかった! 初めて食べたけど、甘くって美味しかったわ。
 でもちょっとお茶がほしくなっちゃったかな」

「い、い、い、イリヤスフィールぅぅぅ!!」

「なに、セイバー? 大声で怒鳴りつけるなんて、レディとしてはしたないわよ?」

 もはや待ったなし。
 子ども相手でも容赦せん、というオーラを放つセイバー。
 それを全て承知の上で余裕の笑みを浮かべるイリヤ。
 さらに、外では氷室が待っているし。
 一体どうすればいいんだ……!?

 無理だ、この空間に氷室を連れてくるのは無理だ……!
 中の連中に気付かれないように、今度はゆっくりと引き下がる。
 幸い、中にいる四人はセイバーの気迫に飲まれて――あのライダーすらも――、オレに気づいた様子はない。

「一旦、俺の部屋に連れて行くしかないか……」

 そろりそろりと、廊下を逆に辿って玄関まで。
 それにしても最近、家の中だというのに移動に気を使うことが多いなぁ。
 玄関まで引き返すと、そこでは先ほどと同じ姿勢で待つ氷室の姿があった。

「待たせたな、氷室」

「む、もういいのか?」

 俺を見て、片付けは終わったのか、と訊いてくる氷室。
 まあ実際は片付けなどしていないのだが。

「ああ。……実はさ、今ちょっと客間も兼ねてる居間が家族で使われてて。
 しばらく使えそうに無いんだ」

「そうなのか?」

「うん、それで悪いんだが、話は俺の部屋でってことでいいか?」

 ……良く考えたら、俺の部屋なら他の住人に聞かれないだろうし、割とベストな選択なんじゃないか?
 俺がそんなことを考えながら、氷室にそう提案すると……。

 なんか、氷室が絶句してる。
 
「……っ!? …………!?」

 言葉も出ないらしい。
 何でこのタイミングで氷室が固まるのか。
 何であんな熟したトマトみたいな赤い顔をしてるのか。
 それも凄い勢いで。
 額に汗を滲ませて、早まるな、一度踏み込めば二度と拒めぬわ、という修羅の如き葛藤。

 というか本当にどうしたんだ氷室、顔の赤さが尋常じゃないぞ。
 もしかして嫌なのか。
 この木と土で築百年ぐらい経過して切継が住み着いたあげく
 現在俺の家今後もマスターの駆け込み寺みたいなこの家に入るのが嫌だというのか。

 だとしたらまずい。
 氷室もまずいが俺にしてもまずい。

 あの指輪、絶対危険な何かが含まれてる。
 そうでなければあの神秘の説明が出来ない。

「……どうしたんだ?
 ここで立ってても話できないだろ。中に入れよ」

 とにかく氷室を中へ誘う。

「……………………」

 用心しながら……いや、氷室がナニを用心しているのか俺には解らないが……ともかく用心しながら俺を窺う氷室。

「――――――――――」

 じっと氷室の様子を観察する。
 ……おかしい。
 氷室の顔が更に赤くなっていく。
 氷室、一体どうしたって言うんだ……と、喉を鳴らした時、不意に氷室が顔を上げた。

「――――――――――――」

「――――――――――――」

 視線が合う。
 氷室鐘は、相変わらず赤い顔で俺を見つめて。

「するつもり、なのか――――?」

「は?」

 よくわからないことを、口にした。

「するつもりって、なにがさ」

「いや、だから、え、衛宮の部屋でその、なにをするつもりなのだ、と……!」

「なにを、って」

 それは学校で既に言ったはずなのだが。
 氷室に個人的な話がある、と言って俺の家に招待して、そのまま俺の部屋に案内しようと――――ちょっと待て。

 氷室を……?
 俺の部屋……に?
 連れ込んで……?

「あ」

 わかった。
 俺わかっちゃいました、紳士。

 これは俗に言う、『お持ち帰り』という奴ではないでしょうか?

 ――多分大正解です紳士。

「ど、どどどどどどどどぉっ!?」

 脳内紳士協議を開いてる場合じゃない!
 話は俺の部屋で、だとぉ!?
 な、なにを言ってるんだ俺は!?

「ちちちちち違うぞ氷室、待て、誤解が、それはとんでもない誤解が!!」

「な、なにが誤解だというのだ、衛宮某! 女子をここまで連れ込んできて、何か申し開きがあるとでも言うのか!?」

 自分の肩を抱いて一歩後ずさる氷室。
 いや、確かに言い訳の余地は限りなく零に近いけど!
 自分でもこりゃあかんわって意見が濃厚だけど!

「俺は単純に、氷室と話したいことがあるってだけだ! 特に他意はない!!」

「う、嘘を……」

「居間には家族もいるって言ったろ!?
 俺の家、古い造りだからさ、部屋でそんなことしたら他の家族にばれるって!
 だからやましいことは絶対ないから!」

 おお、口からでまかせの割には信憑性のあることが言えてるぞ俺!
 俺の言い訳に一理あると思ったのか、氷室が――それでも半信半疑そうに――恐る恐る尋ねてくる。

「……本当に、話をしたいだけなのか?」

「本当の本当だ。
 もし氷室にやましいことをしたら、俺はゼロカウントで藤ねえに殺される」

 身内から犯罪者が出ることも、俺自身が犯罪者兼被害者になるのも断じて御免被る。
 俺が戸を開けて手招きすると、氷室はようやく、といった感じで俺の家の仕切りをまたいでくれた。

「――――そうか。
 だが衛宮、今後はそういう物言いはやめたほうがいいぞ。
 その、色々と誤解を招くからな」

「わかった、気をつける」

 全力で頷く。
 こんな発言を遠坂あたりに聞かれたら、一生モノの貸しが作れてしまう。
 彫刻刀で掘り刻むように、しっかりと肝に銘じながら、氷室に先導して部屋まで案内する。

「本当にその気はないと見るべきなのか……まあ、衛宮だからな……」

 途中、後ろで氷室がなにか言ってた気がするが、小声だったのでよく聞こえなかった。
 程なく俺の部屋へ辿りつく。

「ここが俺の部屋。何もないけど、まあ座ってくれ」

「ふむ。……本当に何もないな」

 俺の部屋を見渡して、正直な感想を述べてくれる氷室。
 言葉の通り、俺の部屋は基本的に物が少ない。
 これでも最近はライダーに借りた本をしまうための本棚とかが増えたのだが……それはおいておこう。

 押入れから座布団を引っ張り出すと、それを氷室へ勧める。
 と、居間が占拠されているために台所が使えないことを思い出した。

「悪い、居間を家族に占領されてるせいで茶の用意もできないんだ」

「そうか。実を言えば少し期待していたのだが」

「すまん」

 俺が謝ると、氷室はかすかに笑って見せた。
 もしかして、今のは冗談だったのか……?

「いいさ。……では早速本題、ということでいいのかな、衛宮?
 私と二人っきりでしたい話とは、一体なんなのだ?」

 いつものペースを取り戻したのか、氷室の会話は間をおかずに進展する。
 そうだ、色々と誤解を招きかねない言動を弄してここまで氷室を連れてきたのも、全ては氷室に尋ねたい事があったからなのだ。
 俺は氷室の正面、向かい合うような位置で座ると、一度大きく深呼吸をした。

 さて、果たしてどう尋ねてみればいいのだろうか……?



 いきなり「氷室、薔薇乙女《ローゼンメイデン》のミーディアムだよな?」などと尋ねるのはまずいだろう。
 まずは当たり障りのない質問を装って問い尋ねていくことにする。

「その前に、一ついいか? その薔薇の指輪、どうしたんだ?」

「……む。これのことか」

 俺が尋ねると、氷室は左手を目の高さまで持ち上げて、その指を広げて見せた。
 薬指に嵌められた、薔薇の意匠の指輪が鈍く光る。

「ああ。氷室はそういうのしてるってイメージじゃなかったから」

「なに、以前蒔につき合わされて覗いたアクセサリーショップで見つけてな。
 蒔と店員に勧められてつい買ってしまったのだ」

 よどみなく、すらすらと答える。
 流石は氷室、あらかじめ質問された時の答えは用意していたのだろう。
 だが、それは逆に言えば、指輪がなんであるかを知っている、ということ。
 つまり、氷室は薔薇の指輪の意味を理解している――!

「つい買ってしまったとはいえ、自分でもなかなか気に入っていたんだが」

 左手をひらひら動かして、いろいろな角度から指輪を確認する氷室。
 不意に、その手をぴたりと止めると、こちらを覗きこむような目で見てくる。

「……私がこういう指輪を嵌めているのは不釣合いだ、と衛宮は言うわけだな」

「えっ……!?」

 薔薇の指輪のことを考えていたところに、氷室からのいきなりの不意打ち……!
 拗ねたように半眼で睨んでくる氷室。
 その姿は、なんというか……不謹慎かもしれないが、とても可愛い、と思ってしまった。

「えっ、あ、いやっ、そんなことはないぞっ。ええっと……」

 慌てて否定してみるものの、なんと言えばいいものやら。

 ――未熟者め、女性の身に付けている物はとりもなおさず褒めるのがマナーだ。

 はっ!?
 今、俺の脳裏に英国紳士のお告げがっ!
 と、とりあえず思ったことをそのまま口に出してみることにする。

「その、銀の薔薇ってのも、派手すぎないで落ち着いた感じで、氷室に良く似合ってると思うぞ!
 お、俺は好きだな、うん!」

 ……こうですか? わかりません!
 俺の脊髄反射の褒め言葉に、氷室は一瞬きょとんとしたが、

「………………そ、そうか。一応、褒め言葉だと思っておく」

 と、なんだか嬉しそうな照れくさそうな、曖昧な顔をして頷いた。

 ……ええと、多分成功したんだと思いますけど、むしろ会話がし辛くなりましたよ紳士?
 てゆーか、今のお告げはひょっとして英国ではなくイタリア男子の口説き講座では?

「…………………………」

「…………………………」

 俺と氷室の間に、思い沈黙が横たわった。
 氷室のほうは、俺から話を切り出すだろうと思っているんだろうし、俺のほうはどう質問するべきか言い悩んでいる。

 ううむ、やはりもうちょっと突っ込んだ質問をしてみるべきか……?
 そう思いつつも、なかなか言い出せずに氷室から視線をそらす。
 ……と。

「……ん?」

 視線の先。
 何気なく目を向けた場所で、おかしなものを見つけてしまった。


 開けっ放しにしてあった窓の外。
 そこから、黒い羽根が舞い込んできた。

「……なんだ、これは?」

 俺と向かい合っていた氷室も、それに気付いたようだ。

「……随分と帰りが遅いと思ったら、女連れでお帰りだなんて。
 いいご身分じゃなぁい、士郎?」

 その声は、羽根に遅れてやってきた。
 ばさり、という風を打つ音。
 大きな黒翼をはためかせ、その人形は降りてきた。

「す、水銀燈……」

 窓の縁にふわり、と座ったのは、見間違うはずも無い、俺の契約相手である水銀燈だった。

「でも驚いたわぁ。
 どんな女を連れ込んだのかと思えば……まさかミーディアムだったなんて」

「ローゼン、メイデン……?」

 にやり、と上からモノを見たような笑みを浮かべる水銀燈。
 対する氷室は目を見開いて、半ば呆然と「その名前」を口にした。

「ええ、そうよぉ。
 私は薔薇乙女《ローゼンメイデン》第一ドール、水銀燈。
 貴女がどのドールのミーディアムかは知らないけどぉ……」

 水銀燈が悠然と名乗りを上げる。
 足を組み、指を組み、瞳を細めたその姿はまさに優雅にして艶美。
 座ったままの俺たち……否、氷室を見下ろしながら、水銀燈はいかにも自信たっぷりそうに言った。

「私は負けない。絶対に。アリスになるのは、この私よぉ」

「……アリスに、なる?」

 それは、俺にとって聞きなれない言葉だった。
 負けない?
 ドール同士で勝ち負けがあるのか?
 水銀燈が目覚めたのは、その雌雄を決するため?
 その勝者が、アリスになれる、ということなのか?

 氷室のほうは、水銀燈の言葉を聞いても微動だにしない。
 氷室は、アリスという言葉の意味を知っているのだろうか……?

「衛宮。君の左手の薬指に巻かれている包帯は、つまりそういうことなのだな」

 不意に。
 氷室が俺に視線を合わせずに、そう尋ねてきた。
 俺の薬指に巻かれている包帯。
 やはり氷室は、これに気付いていたのか。

「……ああ。俺も、同じ指輪をしてる」

 正直に頷く。
 いまさら隠し立てしたところで意味は無い。
 氷室はそのまま、確認するようにもう一度尋ねた。

「今日、私を連れてきたのは、そのことを明らかにするためだったのだな」

「…………それは、」

 違わ、ない。
 確かに昼休みに氷室の指輪を見てから、ずっとそれが気になってて、何とかそれを確かめようと、とうとう俺の家にまでつれてきてしまった。
 そう、それに間違いは無い。
 途中の様々なやりとりは、全て誤解であったはずだ。

 なのに、何故。
 俺はこんなにも、答えを口に出せずにいるんだろう……?






「ふん、当たり前じゃなぁい」



 ぷつん、と。
 最後の糸は、銀色の刃によって断ち切られた。

「命じるより先に、自分からミーディアムを見つけてくるとは思わなかったけどぉ。
 そこだけは良くやってくれたわぁ」

「おい、水銀燈!」

 思わず俺は、水銀燈を非難するように声を上げてしまった。
 しかし、水銀燈はお構いなしに言葉を続ける。

「まぁ、今日は特別に見逃してあげるわぁ。
 ドールがいないミーディアムを倒してもつまらないしぃ?
 もっともぉ、一度見つけた以上は逃げられるとは思わないことね」

「……悪いが、今日のところはこれでお暇させてもらう。
 慌しくして、すまないな」

 その言葉に、どんな感情すらも滲ませずに。
 氷室は素早く立ち上がり、傍らにおいていた鞄を掴んだ。

「あぁ、そうそう……」

 そのまま踵を返して、勢いよくふすまを開いたところで、その背中に、座ったままの水銀燈の声が掛かった。 
 氷室は振り向かず、しかしその足を止めた。

「貴女がどういうつもりでここへやってきたのか、なんて、興味無いけど。
 士郎は私の下僕よ。
 貴女にあげるつもりは無いわぁ」

「……っ。失礼する!」

「氷室っ!」

 今度こそ。
 氷室は立ち止まることなく、走り去っていった。
 ……いって、しまった。

「……っ!」

「放って置きなさい。
 今さら追いかけてもしょうがないでしょう?」

 追いかけようとする俺を、水銀燈が制止する。
 振り返ってみると、水銀燈は相変わらず足を組んだまま、窓の縁に座っていた。

「水銀燈……いくらなんでも言いすぎだ。
 あれじゃあ氷室を追い出したも同然だろ」

「お馬鹿さぁん。
 人間の女、それも他のドールのミーディアムのことなんか、私が気にかける必要なんてないじゃなぁい」

 くすくす、と可笑しそうに笑う。
 それを聞いて、俺は大きく息を吸い、それを一度に吐き出した。
 呆れたわけでも、怒ったわけでもない。
 ただ、どうしてこうなっちまったのか、とやるせなかっただけだ。
 そうして俺は、再び水銀燈に背を向けた。

「そういうわけにもいかないだろ。
 とにかく、俺は氷室を追いかけるから――」

「……そんなに、あの人間の女のことが気になるの?」

 今にも駆け出さんとしていた俺の脚は、その一言で停止した。

「士郎。これ以上私との約束をすっぽかしてまで、あの女を追いかけるというの?」

 水銀燈の言葉は、不機嫌そのものだった。
 怒り。苛立ち。揶揄。冷笑。
 そういった様々な感情の発露だった。

 だが……。

 俺は思い出した。
 水銀燈と初めて出会った日、土蔵の中を見上げていた水銀燈の姿を。
 天使と見間違えるほどの、儚さすら感じさせる姿を。

 きっとこいつは、今日もずっと土蔵の中をああして見上げていたのだろう。
 堆く積み上げられたガラクタの山を、一人で見上げていたのだろう。
 ――帰ってきたら探してみよう。それまでは大人しくしていること。
 そう言って出て行った俺を、ずっと待っていたのだろう。

 窓からは既に西に沈み始めた夕日の光が差し込み続けている。
 それを背に浴びた水銀燈の顔は、暗く沈んでいるように見える。

 俺には、その顔が。
 今にも泣き出しそうな、迷子のように見えた。



 どうする? どうすればいいんだ……?




 根拠は無かった。
 ただ、今ここで水銀燈の前から立ち去ってしまったら、二度と水銀燈に会えなくなるんじゃないか。
 そうなったら俺はきっと後悔するんじゃないだろうか。
 と、そう思った。

 外へ向かうはずだった足を、もう一度中へと向ける。
 一歩、二歩、三歩……四歩で、窓際に座る水銀燈の前に立つ。

「……そうだな。約束は、守らなきゃいけないよな」

「……え?」

 先ほどまでは座っていたため、水銀燈は俺を見下ろす恰好になっていた。
 だが、俺が立ち上がった今では視線は逆転し、水銀燈は俺をわずかに見上げるようにして座っていた。
 そんな上目遣いの頭に、そっと掌を乗せてやる。

「鏡、探さなきゃいけないんだろ?
 暗くなってからじゃ探しにくいしな」

 もうすぐにでも沈みそうな夕日を背景に、水銀燈の頭を軽く撫でた。
 一瞬、されるがままにされていた水銀燈だが、すぐに鬱陶しそうにその掌を払い、そしてそっぽを向いてしまった。

「……ふ、ふん。当然よぉ。
 士郎が帰ってくるのが遅いから、随分とまたされちゃったわぁ」

 その態度に、自然と笑みがこぼれてしまう。
 水銀燈は、本当に人間らしい。
 人形だということを本気で忘れてしまうほどに。

「ああ、そうだな。戻るのが遅くなって、済まなかった」

「……なによ、今更謝ったって遅いわ、お馬鹿さぁん」

 水銀燈は呆れたように鼻を鳴らすと、組んでいた足を解き、立ち上がった。
 身体を窓の外へ向けると、風に吹かれた銀の髪がさらり、と揺れた。

「来るならさっさと来なさぁい。もたもたしていたら、本当に日が暮れてしまうわよ?」

「ああ。着替えたらすぐに行くから、先に戻って待っててくれ」

 俺がそう言うと、水銀燈は最後にちらり、と肩越しに振り返った。

「……あの倉庫は少し乱雑すぎて、私が住むのには相応しくないわぁ。
 遅れた罰として、少しは見栄えのするように整理しておきなさぁい」

 それだけ言うと、水銀燈は黒い翼を広げて、窓枠を蹴って飛び去っていった。
 言われたとおり、一足先に土蔵に向かったのだろう。

「……まったく。わかったよ、こうなったらとことんやってやるさ」

 うし、と気合を入れなおして、俺は愛用のツナギと軍手に着替え始めた。


 で、結局。
 思った以上に鏡の発掘は難航し、時間が大幅にずれ込んだ土蔵の改装は、夕飯を挟んで夜中まで行なわれ、水銀燈が睡眠のためにトランクケースに潜り込むまで続いたのだった。

「もう九時を過ぎているじゃない。早く眠りにつかないと……」

 なかなか見つからない鏡に、途中まで不機嫌そうだった水銀燈だが、無事出土した姿見の鏡はそれなりの年代ものだったらしく、それ以降は「これだったら文句はないわぁ」と上機嫌だった。
 俺もガラクタの土砂崩れに巻き込まれそうになりながら探した甲斐があったというものだ。

「ご苦労だったわね、士郎」

 ねぎらいの言葉もそこそこに、水銀燈はトランクの蓋をぱたん、と閉めて眠りについてしまった。
 ……ううむ、結局トランクの中で寝るんだったら、土蔵の中を整理した意味はあったのだろうか。

 ……さて。
 時刻は九時を回ったところ。
 寝る時間にはまだ早いことだし、せっかくだから、このままガラクタ修理に移ることにしよう。
 今日整理したガラクタの中から、目をつけていた置時計を取り出す。
 工具セットを広げながら、手の中の時計を解析する。

 ……そうだな、今日は久しぶりに、魔術の鍛錬もすることにしよう。
 下手をすれば、またこの土蔵で一晩明かしてしまうかもしれないが。

 見回せば、ガラクタと鏡とトランクに囲まれて。
 そんな場所で、眠る水銀燈と共に一夜を過ごすのも、そう悪くはないだろう。


『銀剣物語 第二話 了』

さーて、来週の銀剣物語はー?

 士郎です。
 土蔵を改装したことで、水銀燈もだいぶ機嫌がいいようです。
 『薔薇乙女《ローゼンメイデン》』や『アリス』のことはまだよくわかりませんが、いずれ水銀燈から話してくれるんじゃないかな。
 でも、あの時走り去ってしまった氷室のことが少し気がかり……かな。
 さて次回は、

「水銀燈と秘密の部屋」
「氷室鐘の憂鬱、あるいは溜息」
「劇場版たんてい犬くんくんと七人の戦騎」

 の三本です。
 来週もまた見てくださいね。
 じゃん、けん、ぽんっ!

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最終更新:2007年01月18日 18:12