――Interlede Side Himuro
目覚めの気分は最悪だった。
「…………」
上半身だけ起こして、しばし呆、とする。
一分ほどそうして過ごすと、ベッド脇の机の上に置いた眼鏡を手に取った。
眼鏡をかけると、ようやく視界が鮮明に見えるようになる。
時計に目をやれば、時間は朝の6時半。
……これほど精神的に参っていても、いつもどおりの時間に目覚めてしまうとは。
自分の規則正しさに呆れてしまいそうだった。
「何がしたかったんだろうな、私は……」
昨日のことを思い出す。
昼休み。
偶然出会い、偶然同行し、偶然抱きとめられた。
放課後に会う約束をし、部活動中もその約束は憶えていた。
放課後。
いきなり家に招待されて面食らい、しかし当人がその重大さを理解していなかった。
どうやら途中でその意味に気付いたようだが、こちらも心の準備で手一杯だったため、話すことはしなかった。
家に着いたらついたで、早速私室に案内された。
今思い返してみても、私の狼狽ぶりはとんでもないだったことだろう。
そして――。
「――――ふう」
再びベッドの上に身を投じる。
心の中に、しこりのような物が沈んでいるような感覚。
その重さに、身体までもがずぶずぶとベッドに沈んで行きそうだった。
「衛宮、士郎」
その名前を口にした途端、心の沈殿物はより一層重く堆積した。
なんだというのだ。
私の、いまだかつて知ることのなかったこの感情は。
「わかってはいるのだがな」
そう、わかっている。
恐らく正しいであろうと思われる推測ではあるが、私はこの感情がわかっている。
ただ、私自身には縁が無い物だろう、と思っていただけだ。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
そろそろ朝食の時間だ。
私がどれだけ物思いにふけろうとも、生活のリズムは待ってはくれない。
寝間着を脱いで、制服に手を掛ける……がしかし、このまま学校に行く気にはなれなかった。
行ったところで学業に打ち込めるとは到底思えなかったし、なにより……。
――えっと、その、だ、大丈夫か氷室?
「…………、よせ」
頭を振って記憶の再生を止める。
そう、なにより。
いま学校に行って、衛宮とどういう顔をして会えば良いのかわからない。
「……なんとも。存外乙女であるのだな、氷室鐘」
我がことながら失笑してしまう。
ならば、乙女は乙女らしくせいぜい振舞うがよいだろう。
……部屋の片隅に置かれている、トランクケースをちらりと見る。
まだ中で寝ている『あの子』には悪いけど、声を掛ける気にはなれない。
今日は一日、出かけてみよう。
いつもなら寄り付かないような場所にも、今日は行ってみたい気分だった。
――Interlude Out
『銀剣物語 第三話 氷室鐘の憂鬱、あるいは溜息』
氷室ととんでもない別れ方をした、その翌日。
俺は一時間目終了のチャイムと同時に、自分の教室の戸を開けた。
目指すは3年A組の教室。
授業が終わるなり教室を飛び出した俺を、教室の中の生徒が奇異の目で見ているが、それはこの際無視する。
目当ての人物は当然、氷室鐘その人。
目的は、昨日の一件を――水銀燈のことも含めて――謝罪すること。
休み時間は短いが、用件を告げて謝るだけの時間なら大丈夫だろう。
「あれぇ、衛宮くん?」
そんなふうに意志を固めている俺の前に、聞き覚えのある声が飛んできた。
「三枝?」
3年A組の教室から今まさに出てきたところだったのは、陸上部のマネージャーこと三枝由紀香だった。
「どうしたの? うちのクラスの誰かに用事ですか?」
「ああ、その……」
丁度いい。
三枝は、氷室と蒔寺を加えた三人で行動していることが多い。
せっかくなので、三枝に取次ぎを頼むことにする。
「氷室にちょっと用があるんだけど……悪いが取り次いでもらえるかな?」
「えっ? ……えっと、その……」
……なんだ?
氷室の名前を出した途端、三枝は困ったように視線を泳がせる。
まるでテストの悪い点数を指摘された子どものようだ。
やがて三枝は、不安げにうつむきながら口を開いた。
「それがね……鐘ちゃん、今日は学校に来てないの」
「…………な、」
なん、だって?
「先生が、お休みの連絡も来てないって言ってたし、おうちに電話しても、誰も出ないし……
ねえ衛宮くん、鐘ちゃん、昨日どこか具合悪そうにしてなかった?」
……三枝の言葉に、なんと言って応じたのか。
俺は、
気がつけば俺は、学校を飛び出していた。
「氷室…………!!」
氷室の身に何かあった……?
薔薇乙女《ローゼンメイデン》絡みのトラブルか?
いや、家の電話にも出ないとなると、学校に向かう途中になにか……。
「……そうじゃないだろ、クソッ!」
自分の頭を殴りつけたい。
都合のいいトラブルを思い描いて安心しようっていうのか?
氷室の欠席の理由なんて、十中八九決まってるじゃないか……!
――……悪いが、今日のところはこれでお暇させてもらう。慌しくして、すまないな。
氷室の言葉が甦る。
擦れ違いざまに見えた横顔。
「……っ」
胸が軋む。
謝るだけじゃ足りない。
衛宮士郎は、もっと大事なことを、氷室鐘に伝えなければならない。
その衝動が、俺の脚と頭を突き動かした。
商店街までやってきた。
何故真っ先にここへ来たのかというと、以前、氷室がここを散策していたのを思い出したからだ。
もしかしたら再びここへ来ているかもしれない、という期待をかけてみたのだが……。
「……居ない」
商店街の通りには、氷室の姿は無かった。
「いや、もしかしたら店の中にいるかも……」
そう思い直すと、この時間から開いている喫茶店や小物屋をしらみつぶしに覗いて行く。
……居ない。……居ない。……居ない。
「くそっ……!」
地道な作業への苛立ちから、思わず荒げた声が出てしまう。
衝動的に、ショーウィンドウを殴りつけたくなる。
「士郎? こんなところで何をしているのですか」
そのとき、俺の後ろから聞きなれた声で呼びかけられた。
「……ライダー?」
振り向くと、そこにはライダーが居た。
いつもの黒無地の服に、エプロンをつけている。
「ライダー、朝からバイトか?」
「はい。今日は急用で人手が足りない、とのことでして。
……それより、士郎のほうは何故ここに?
学校はどうしたのですか?」
う。
学校はどうしたのか、と問われると、サボタージュしました、としか言えないのであった。
……いや、待てよ?
ライダーは朝からここで働いていたと言う。
ならば、その間に氷室を見ていたかもしれない。
もしそうなら、俺も言い訳をしている場合じゃない。
正直に答えて、ライダーに教えてもらおう。
「ライダー。氷室って知ってるか?
遠坂のクラスメイトなんだけど」
「ええ。以前、一度お会いしたことが。
その節はお世話になりました」
「そっか。実はさ、その氷室が学校に来てないらしいんだ。
家にも連絡がつかないって言うから、心配で」
「……厄介ごとですか?」
ライダーの目が光る。
厄介ごと、と聞いて神秘がらみだと思ったのだろう。
……確かに、発端は神秘がらみだったが、今は違う。
「いや、ライダーの考えてるような危険なことじゃない。
氷室、多分いま悩んでてさ。
……実は、俺、氷室に謝らなくちゃいけないことがあるんだ」
「…………ほう」
あれ?
俺の言葉の途中から、ライダーの目が鋭いものから半眼へ。
なんだろう、その『これ以上はどうかと思いますが』とでも言いたそうな瞳は。
「え、うん、そう、だけど?」
「そうですか。……ですが、残念ながら私は見ていません。
先ほどまで外の掃除をしていましたが、生憎それらしい姿は」
「……そっか」
「それに、もし悩み事があるとして。
それを考えるために外出したとするならば、静かな場所で考えるものではないでしょうか」
ライダーの言うことはもっともだ。
午前中とはいえ、平日の商店街にはそれなりに活気がある。
考え事には向かないだろう。
「……そうだな。サンキュ、ライダー」
「いえ。早く見つけてあげてくださいね」
ライダーに礼を言うと、踵を返して商店街を後にした。
……ライダーと会話したことで、頭に上っていた血が少し下がった。
闇雲に探しても仕方が無い。
手がかりは少ないが、それでも理によって行動するべきだ。
まずは落ち着いて考えろ。
今は大体午前十時。
移動時間も含めると、一つの場所を探すには、最低でも1時間は欲しい。
しかも、それは深山町の中ならばの話だ。
深山から新都へ移動しようとすれば、あわせて2時間は必要だろう。
つまり、何度も行ったり来たりして探すのは効率が悪いということになる。
あと、考え難いが、郊外の森へ向かうとするなら、行き来で3時間はかかる。
新都から向かえば4時間になる計算だ。
……無駄に歩き回ることは避けたい。
次の移動場所を良く考えなければ。
街を二分する未遠川。
そのほとりにある公園にやってきた。
辺りは犬の散歩をしている老人や、ランニングをしている人がちらほらと見えるだけだ。
その中に氷室の姿は……無い。
「ここにも居ないのか……」
ライダーの言うとおり、静かな場所を当たってみたのだが。
ここなら午前中は子どももいなくて、静かだと思ったんだけどな……。
「あれ? お兄さん、こんなところに居るなんて珍しいですね」
……視界の端から、ひょこひょことこちらに近づいてくる奴を確認。
俺の胸くらいまでしかない身長のそいつは、俺のそばまで寄ってくると、新種の昆虫でも見たかのような顔で首を傾げてきた。
「学校は自主休学ですか?
駄目ですよ、義務じゃないとはいえ、学業は大事ですから」
「……ギルガメッシュ」
近寄ってきたのは、若返りの秘薬を飲んで奇跡の逆行を果たした子どもの王様、ギルガメッシュだった。
見た目○学生の奴に学業は大事ですから、とは言われたくないのだが、今はそれどころではないので言わないでおく。
「氷室を探してるんだ。どこかで見なかったか?」
「氷室って、由紀香の友達ですよね?
でしたら、僕は見てません。少なくとも、この公園には来てないでしょうね」
「そうか……ところでお前、人探しの宝具とか持ってないか?」
もしあったら是非使わせて欲しいのだが。
しかしギルガメッシュは渋い顔で首を振った。
「うーん、あるかもしれませんが……今の僕では取り出すことが出来ないんですよ。
すみませんが」
やっぱり駄目か。
しかし、ここにもいないとなると、後はどこに行けば……?
と、この町の地図を思い浮かべながら考えていると、横からギルガメッシュが声をかけてきた。
「あのー。僕は鐘のことを良く知らないので、お役に立てませんけど。
でも、いつも一緒に居るお二人なら、どこに行くのか心当たりがあるんじゃないでしょうか」
なるほど、一理ある。
氷室が行きそうな場所を知ることができれば、逆に――行きそうにない場所もわかるということか。
「……よし、次に行ってみる。アドバイス、ありがとな」
「いえいえ。よくわかりませんが、がんばってくださいね」
にぱにぱと手を振るギルガメッシュに手を振り返し、俺は公園の出口へと駆け出した。
時間はもうすぐ11時になろうとしている。
情報が足りない。
氷室を探すのに、持っている情報だけでは圧倒的に足りない。
それを得るために、俺は一度学園へ戻ってきた。
あわよくば、このあたりに氷室が居たりしないだろうか……とも思ったが、残念ながら氷室の姿は見当たらない。
「あ、チャイム……」
授業に区切りがついたことを告げる音が、スピーカーから流れ出る。
丁度4限目が終了し、昼休みに入るところだったようだ。
これ幸いと校舎の中へ侵入。
いや、ここの生徒なんだから侵入も何も無いんだが。
目指すは3年A組の教室である。
「あ、衛宮くん」
3年A組を覗き込んでみると、早速三枝に捕捉された。
……遠坂の姿は見えない。
またどっかに行ってるのか?
それならそれで好都合、と教室に踏み込む。
「よう、三枝、蒔寺」
見れば、三枝は弁当を広げ終えたところだった。
だが、いつも三人で囲んでいるであろう机は、今日は二人しか居ない。
そしてもう一人のほうは、俺を見ると嫌そうな顔を隠そうともしなかった。
「……なんだよ。昨日ので味を占めたか?
それともアタシたちが二人しかいないなら勝てるとでも踏んだのか?」
自前の弁当をパクつきながら、警戒深そうに俺を睨む蒔寺。
すまん蒔寺、だがお前に協力してもらわないとならないんだ。
「いや。氷室が行きそうな場所に、心当たりとか無いか?」
「は? なにそれ?
なんでアンタがそんなこと知ろうとするのさ?」
「朝から居ないって聞いてさ。
探しに行こうと思ったんだが、俺じゃ氷室の行方がわからないから。
二人なら、何か知ってるんじゃないかと思って」
「……由紀っちに聞いたんだな」
ちらり、と三枝を見る蒔寺。
不安そうに小さく頷く三枝を見てから、再び俺に視線を戻す。
「残念だけどお断りだね。
アンタが行くくらいならアタシが自分で行く。
衛宮の手を借りる理由は、」
「氷室のこと、俺に責任があるかも知れないんだ」
その一言に、蒔寺の動きが止まった。
動かし続けていた箸を緩慢な動きで机に置き、椅子を引いて立ち上がる。
「…………衛宮。アンタ、昨日氷室に何かしたのか」
直感の為せる技か、蒔寺は昨日の氷室の行動を察したらしい。
……覚悟はしていた。
俺は、この後の展開を半ば予想しながらも、正直に頷いた。
「――ああ」
「……っ!!」
殴られた。
蒔寺の右拳が、俺の横っ面を思い切り捉えた。
さすが蒔寺、ビンタではなく拳打か。
「ま、蒔ちゃん!?」
周囲に居た生徒が、何事かとこちらを振り返る。
……遠坂がどこかに行っていて良かった。
こんな姿、とてもあいつには見せられない。
「だから、俺は氷室に謝らなきゃいけないんだ。
蒔寺。心当たりがあったら教えてくれないか」
「…………」
殴られた頬を押さえながら、それでも俺は蒔寺をまっすぐ見た。
振るった腕をゆっくり下ろして、蒔寺は俺を睨んでいたが……やがて顔を背けた。
「ちっ……氷室の家は、新都の駅前にあるマンションだ。
休みの時は基本的に活動範囲はあっちがメインなの」
「……鐘ちゃん、通学以外ではあんまりバスは使わない、って言ってたよ。
だから、あんまり遠くには行ってないんじゃないかな」
……ありがたい。
既に俺に背を向けて、昼飯を再開している蒔寺。
殴られた頬にそっとハンカチを差し出して、それでも笑顔で俺を見る三枝。
本当に、ありがたい。
二人の言葉も、二人の氷室に対する友情も。
不覚にも熱くなった目頭は、殴られた痛みの為だけではないだろう。
「氷室は、きっとアンタを殴らない。殴りたくっても、殴るようなヤツじゃない」
ボソリと。
蒔寺が背を向けたまま言葉を紡いだ。
「だから、さっきのは氷室の分の先払いだ。
アタシの分は……アンタが氷室に謝れば、ツケにしておいてやるよ」
……蒔寺、お前、いい奴だな。
言葉にしたらまた殴られそうだったので、心の中でだけそう呟く。
口に出すのは、ただ一言。
「サンキュ」
俺は廊下へ飛び出した。
時間は正午、まだ時間はあるはずだ。
――Interlede Side Himuro
閉じていた瞳を開いて、私はゆっくりと立ち上がった。
長い間座っていたため、少し背をそらして柔軟する。
ここは静かで、最初は考え事には最適かと思ったのだが。
「……思った以上に根が深いのか、な」
黙っていればその分、考え事がまとまらない。
こんなことは珍しいと言える。
今までの人生で、結論が出ないことはあっても、結論に辿りつこうとすることが出来ないのは初めてだった。
頭が拒んでいるのか、それとも――心が気付いていないのか。
……普通の女性ならば、これを素直に解釈して受け取れるのだろうか。
問題は、私自身が普通の女性であるかどうか、だが。
「ここにいても答えは出ない、か」
首を振って歩き出す。
これ以上考えていると、どうしても……衛宮のことが浮かんでくる。
時計を見る。
いつの間にかもう正午を回ろうとしていた。
「……どこへ行こうか」
衛宮と連想して、衛宮と縁のある人物たちを思い描く。
遠坂嬢、間桐嬢、柳洞生徒会長……。
今しばらくは、彼女たちと顔を合わせたくない気分だった。
「まあ、この時間では会うわけが無いとは思うが」
それでも構わないだろう。
心の赴くままに動けるのなら、どんなに楽かわからないのだから。
――Interlude Out
……見つけた。
「……………………」
港に一人佇んでいるのは氷室鐘。
夕日の中へ走り去り、追いかけられなかった少女。
その彼女が、こっちを見つめている。
「……よぉ。奇遇だな、氷室」
「……奇遇に過ぎるな。ここは衛宮の活動圏ではないだろう」
何故だ、と睨まれる。
蒔寺からは、"氷室は、アンタを殴りたくっても、殴るようなヤツじゃない"という、実にまことしやかな話を聞かされている。
現に、氷室は俺に近寄ることもせず、ただ波打ち際に佇んでいるだけだ。
「……そうか。つまり、私を探しにきた、というわけか、君は」
「ん……そういうコトだ」
「ご苦労なことだ。
それで、衛宮が私を探しに来た理由は何だ?
もっとも、大方の見当はついているのだが」
「……」
ここに至るまで、色々な人に出会った。
その度に答えてきた覚悟を、ついに氷室本人に対して口にした。
「昨日のことを謝ろうと思って。気分の悪い思いをさせて、済まなかった」
「――やはりか」
氷室の声に揺れはない。
本当に、俺がここにやってきた時点で、俺がここにやってきた理由を察していたのだろう。
「昨日のことで気に病んでいるのはむしろ衛宮のほうだろう?
アレは私が勝手に思い込んでいただけだ。
衛宮が気にかけることではない」
なんでもない、と言いたそうな、氷室の語り口。
……それは恐らく間違ってはいないのだろうが、それだけで片付けられるのならそもそもこんなところまで来ていやしない。
氷室はそれっきり口をつぐんだ。
話はまだ終わらせるつもりは無かったが、なぜか静寂を俺のほうから破る気にもなれなかった。
「……いいのか? 衛宮」
「なにが?」
「授業の途中だろう。
学校を勝手に抜け出して、『暇をしている私に付き合っていて良いのか、ということだ』」
……その言葉に、ピンと来た。
かつて、これと似たような会話をしたことを思い出す。
「今更戻っても、着いた頃には放課後だしな。
『ここまでは帰り道の一環だよ』」
「『ならば良いのだが、あいにく私と君はここで』」
俺と氷室の、唐突な言葉遊びは続く。
氷室が一瞥した先には、ブランコではなく波止場の縁。
「『あれに並んで座って語り合う様な、甘い話題があるとも思えない』」
――その言葉は、遊びの延長か、はたまた拒絶の断定か。
無人の港、距離を置いて立っている俺と氷室。
その距離はそのまま、二人の間柄を暗に示しているようで。
だが、だからこそ。
俺は一歩踏み出すと、言葉遊びを一歩繰り上げる。
「ああ、甘い話になるのは望むところだが。
俺と氷室だったら有り得るよな」
「――な、に……!?」
氷室が、今日はじめて言葉を詰まらせた。
その間に、氷室との間合いを歩いて詰める。
「『……人並みに傷つくな。
今のは、そんなに大げさなリアクションをされるような発言だっただろうか』」
「……それは、私の台詞だろう……」
氷室が小さく抗議するころには、俺はとっくに氷室の横に座り込んでいた。
「そこは、本歌取り、ということで。
どうする? 座らないのか?」
コンクリートをパンパンと叩いて、座ることを促す。
「…………」
氷室は葛藤していたようだが、結局、俺の横に同じように腰を下ろした。
二人して足を水面に下ろしながら、海に向かって横に並んでいる。
端から見れば、それはあたかも――。
「……済まない、衛宮」
座ったまま再度黙りこくっていた氷室が、ぽつりと謝罪の言葉を口にした。
「どうした?」
「頭がごちゃごちゃして、会話の続きが上手く思い出せないんだ」
「……そうか。まあ、最初に順序を崩したのはこっちだし。
言いたいことだけ言えばいいんじゃないか?」
「……ああ、わかった」
ここからは、言葉遊びの名を借りた、氷室の……。
「……こんな気持ちになってしまう私は、一体どうしてしまったのだろうか。
はっきりと自覚したのは昨日だが、潜在的にはいつからだったか全くわからない。
自分でもこの気持ちがなんなのかはわかっているつもりだが、
それを認めてしまったらどうなるのかもわからないんだ。
……でも、恐らく、私は」
君に恋をしているんじゃないか、と。
氷室は自信無さそうに呟いた。
「衛宮は、どうなんだ? 私のことは、何とも思っていないのか」
目線だけこちらへ向けて、氷室は俺にそう尋ねた。
その横顔は、俺が見てもわかるほどに不安そうだ。
「……よく、わからないな。
好きっていうのが家族に対するものとは違うのか、どうなのか。
氷室のことは、その……か、可愛いと思う、けど」
「む……」
言葉の羞恥に、お互いに押し黙る。
無音に近い、港に打ち寄せる波の音だけが一帯を包む。
二人して足をぶら下げて持て余しながら、しかし言うべきことが見つからない状況。
この状況を打開するためには……。
そうだ!
「ひ、氷室」
「なんだ?」
思わずどもってしまった。
ええい、覚悟を決めろ、俺……っ!
「じゃあ、これから…………デート、しよう」
昨日、氷室を家に誘った時の比ではないほど緊張しながら、俺はそう提案した。
「……なん、だと?」
目を大きく見開いて、俺の顔を覗き込んでいる氷室。
「だから、二人でデートしよう。午後も、その、予定とかは無いんだろ?」
「待て待て待て衛宮!
で、で、デートだと!? 今からか!?」
予想通りと言うか、思い切り狼狽する氷室。
それだけならば昨日と同じなのだが、あいにく今日は俺も一杯一杯だった。
「そ、そうだよ。お互いに好きかどうかはっきりさせるには、それが一番だろ」
自分でもわかるほど顔を真っ赤にしながら、俺は趣旨を説明した。
「今日一日相手と付き合ってみて、駄目だって思ったなら振ればいい。
もし恋だって判断できたんなら、そのときは……まあ、それはそれで、ってことで」
「……な、なるほど。物は試し、お互い恨み無しで、ということだな」
「そ、そうそう、そういうこと」
まあ、もっとも。
俺のほうから氷室を振ることは、恐らく有り得ないのだが。
「しかしだな衛宮、私たちは制服のままだ。
これではデートに差し支えするのではないか?」
「ん……大丈夫、そろそろ授業が終わるし、帰宅部だと思って振舞えばばれやしないさ」
時計を見て確かめる。
今は午後の2時を回ったところ。
これならば学生服でもそうそう怪しまれまい。
すると、氷室が俺をじっと見て、唐突にこう言った。
「……大したナンパ師だな、衛宮は」
「な」
ナンパ師!?
生れてこの方言われたことのない人物評に、おもわず一瞬絶句してしまう。
「な、馬鹿なこと言うな!
こんなに恥ずかしい思い、そう何度もしてたまるか!
これは相手が氷室だからであってだな、誰彼構わずやってるわけじゃ……!」
思わず猛烈な反論をしてしまう。
っていうか、言うに任せてとんでもなく恥ずかしいことを言ってないか、俺……?
「……ふむ。そうか、なるほど。つまり、」
氷室は、すっと俺の肩に寄り添ってくると、
「私は、衛宮にナンパされた、最初で最後の女という事だな」
とびっきりの笑顔で、そう言った。
「さて、そうなるとデートのプランはお任せしよう。
期待しているぞ、衛宮?
私は、この感情が恋だと信じたくなってきたのでな」
「そうだ、昼飯……」
良く考えてみると、朝以来何も口にしていないのを思い出した。
学校で蒔寺や三枝がすでに昼食を取っていたことを考えると、昼飯には随分遅くなってしまった。
「氷室は、昼飯はもう食べたのか?」
「いいや。正午頃からずっとここにいたのでな、特に何も食べていない」
「そっか、じゃあ何か食べに行こうか。あんまり高いところには行けないけど」
砂礫を払って立ち上がる。
遅れて氷室も立ち上がると、自らの制服を指して言った。
「わかっている。いくら下校時刻だからと言っても、この服装ではドレスコードに引っかかるだろう」
「そうだな……手軽なところでマッグとかか?」
そんなわけで、俺たち二人は遅めの昼食を取るために、港を後にした。
「そういえば、以前ランサーという御仁にナンパされた時もファーストフードだったな」
マッグで早速カウンターに並び、ほどなくして注文を受け取った。
そうして先に席に座って待っていた氷室の向かい側に着くと、いきなりそう言って切り出してきた。
「ああ。あの時は氷室にアドバイスしておいて良かったな……」
あの時、と言うのは、氷室と三枝と蒔寺が海浜公園でランサーに絡まれていた時のことだった。
ランサーと蒔寺が意気投合して、連れ立ってお茶をしに行き掛けた所で、俺が氷室にあるブツに関するアドバイスをしたのだが。
「まさかあの時は、自分がナンパする側になるとは思わなかっただろう?」
「いや、だから。俺はナンパは、」
「私だけだ、と? いやしかし、良く考えればそれも良くできた口説き文句に聞こえるが」
「勘弁してくれ……」
心なしか、ニヤニヤしているように見える氷室。
これ以上つつきまわされては俺の身が持たない。
話題を変えよう、話題を。
「氷室、楽しいか? まだデートは始まったばっかりだけど」
「……難しいな。これくらいのことならば、蒔の字や由紀香とも連れ立ってやっていることだ」
この程度ではわからない、か。
まあ、そうだろうとは思っていたから落胆は無い。
むしろ今後のデートプランを練るのにも熱が入るというものだ。
と、卓に肘を付いてストローを加えていると、氷室がこっちをじっと見ていることに気が付いた。
「ふむ、……ではもう少し、『らしく』振舞ってみようか」
「え?」
聞き返す暇もあればこそ。
氷室は不意に、何気ない仕草でストローをコップに差し入れた。
自分のウーロン茶ではなく……俺のジュースに。
「……ん……ふ」
そして、そのままストローに口をつけて……オレンジジュースを一口、吸った。
「……な、な、ななななな!?」
椅子ごとひっくり返すような勢いで仰け反る俺。
だ、だって今、俺が吸っていたのと同じジュースを氷室が吸いに来て……!?
ヤバイ、氷室がストローを吸うときの息の音だけでドキドキ言ってるぞ。
「……そこまで動転されるとはな。衛宮は、こういうことは嫌なのか?」
「嫌だなんて、そんなことはない、けども」
「では問題ないな。衛宮も一緒に飲もうじゃないか。それとも、衛宮も私の茶のほうを飲むか?」
「あ、う……」
うんともすんとも言えず。
仰け反っていた体を戻し、ストローをカップに差し入れる。
氷室と俺の距離は、ストロー2本分にまで縮まっていた。
「………………」
「………………」
……結局。
倍の速さで減るはずのジュースは、しかしなかなか減ることは無かった。
精神的緊張の連続だったファーストフード店を出ると、そのまま午後の新都へと繰り出すことになった。
映画は時間帯も内容も合わなかったし、ゲームセンターはお互い好んで入るような性格ではない。
わくわくざぶーんは、水着さえあれば入っても良かったのだが……仕方あるまい。
そんなわけで、新都を散策することになった俺と氷室。
とはいえ、新都はどちらかといえば氷室のホームグラウンド。
結果として、俺よりも新都に詳しい氷室にアドバイスを受けながら、ウィンドウショッピングを楽しむこととなった。
「おや、これは……」
立ち並ぶ店のショーウィンドウを覗いていた氷室が、何かに気付いたように立ち止まった。
「どうした、なにがあった?」
釣られて俺も覗き込んで見ると、そこは貸衣装店のようだった。
ショーウィンドウの中には、頭身の高いマネキンが純白のドレスを纏って立っていた。
「ああ、ウェディングドレスか」
氷室は、硝子に手を添えてそのドレスをぼうっと眺めている。
やっぱり女の子は、こういうものに憧れとかあるのだろうか?
「私とて恋には興味はあった。それと同じように、こういうものにも人並み程度には憧れているつもりだ」
ウィンドウの中身から目を逸らさないまま、氷室が俺の疑問に答えてくれた。
なるほど、男の俺にとってはタキシードなど単なる衣装にしか過ぎないが、女の子にはとってウェディングドレスは特別な意味を持つものなんだろう。
氷室の背中とガラス越しに映るその顔を見守っていると、不意に――
「あら、坊やじゃない」
「キャスター?」
ショーウィンドウに気を取られていて、接近に気が付かなかった。
両手に紙袋を提げてこちらに歩いてくるのは、柳洞寺の奥様で魔女、なキャスターだった。
「こんなところでなにやってんだ?」
「それはこっちが聞きたいわね。私はこの店に用事があってきただけよ」
キャスターが衣装屋に用事?
よく見てみれば、キャスターの提げている紙袋から何かがはみ出ている。
白い網目のようなあれは……フリル?
「買い物か?」
「逆よ。私の作った服を持って来たの」
と、いうことは、キャスターが持っている袋はお手製の衣装……!?
「え、まさか内職?」
「内職と言うほどのものでもないわね。趣味の一環のようなものよ」
……驚いた。
キャスターの趣味が可愛い服なのは知っていたが、自分で作った服を店に持ち込むまでになっていたとは。
「ところで、そちらのお嬢さんは、坊やの恋人?」
「っ……!」
さらり、といきなり爆弾を投下してくる。
いやまあ、デートしてるんだからあながち間違いじゃないけど、改めて他人からそう言われるともの凄くこっ恥ずかしいぞ。
「さ、3のAの氷室だよ。……氷室、こっちは」
「ああ、確か葛木先生の細君の」
「細君……」
なぜそこで惚けるキャス子。
もういい加減に新婚気分も長いだろうに。
いや、それとも実は夫婦と見られる機会が少ないのか?
「氷室、キャスターとは顔見知りか?」
「いや、噂だけはな。実際に会ったのは初めてだ。
……しかし、なぜ衛宮はメディア女史のことをキャスターと呼ぶのだ?」
「あ、それは……」
しまった。
つい、いつも通りサーヴァントのクラスで呼んでしまった。
返答に窮していると、キャスターが横から割り込んできた。
「あだ名のようなものよ。私が魔女みたいだからキャスターなんですって」
「……愛称と言うには少々悪意がある呼び方だな」
「ええ、本当にね。でも、そう呼ばれるのももう慣れてしまったけれど」
「う……」
二人して軽く睨まれて、急激に立場が無くなる俺。
だって、キャスターは魔女みたいじゃなくて正真正銘、血統書つきの魔女じゃないかぁ……!
「話が逸れたわね。それで、貴方たちはどうしてこの店の前にいるのかしら?」
「あー、ウィンドウショッピングの途中だったんだけど……」
「このドレスを見させてもらっていたのです」
氷室がショーウィンドウの中を指し示す。
「……そう。確かに素敵よね、このドレス」
思わず、といった風にため息を洩らすキャスター。
やっぱりこういうドレスを着ることに憧れていたんだろーか?
柳洞寺に居候している手前、仮に結婚式を挙げたとしても、ウェディングドレスの出番は絶対に出てこないだろうし。
「……そうね、貴女なら意外と似合うかもしれないわ」
「はい?」
「氷室さん、だったわね? ちょっとお店を借りて、この衣装を着てみない?」
キャスターは、右手に提げた袋を軽く持ち上げてみせる。
無論その中身はキャスターお手製の衣装なんだろうけど……。
「は……? あの、私がですか?」
「おいキャスター、なにを……」
口を挟もうとした俺に対して、キャスターが背中越しにちらりと何かを……げ。
「ええ。丁度、パンフレットの見本写真が欲しかったところだし。貴女なら申し分ないわ」
「しかし、私のような素人がいきなり」
「誰だって最初は初めてなのよ」
有無を言わさぬ迫力で、氷室の背中を押していくキャスター。
氷室は抵抗するも、ずるずると追い立てられていく。
さすが英霊、って良く考えたらキャスターの腕力って人並みじゃなかったっけ?
遠坂に拳法で滅多打ちにされてたし。
「え、衛宮。見てないで助けてくれないか」
すまん、氷室。
お前のほうからは見えないかもしれないが、キャスターが後ろ手に不思議剣を突きつけているので助け舟を出そうにも動けません。
かつて米大統領の語った『大きな棍棒を持って静かに話せ』という外交交渉のお手本みたいなやり方だった。
「待て、待ってくれ、心の準備が……!」
「うふふふふ。初めての子はみんなそう言うのよ」
激しく誤解を招きそうな台詞と共に、問答無用で店内に消えていく氷室。
ドナドナのメロディが聞こえてきそうだった。
「……俺も入るか」
一人で店外に立ち尽くしていても仕方が無い。
俺は二人の後に続いて、貸衣装屋のドアを潜った。
「せ、せめてどんな衣装なのか教えてから……」
「御代は見てのお帰り、って言葉を知ってるかしら?」
「い、意味が違っ……!」
……素早い。
店内では、早速キャスターが氷室を着替え部屋に押し込もうとしていた。
「坊やはここで待っていなさい。
もし覗いたりしたら身体を水平に輪切りにしてから額縁に嵌めるわよ?」
それなんてギャングの私刑?
突っ込む暇も無く、キャスターと氷室は着替え部屋へ。
その扉が閉まってしまった以上、俺には待つ以外に出来ないわけで。
中から聞こえてくる氷室の声は……まあ、聞こえないということで。
「こ、こんなものを私に着ろと……!?」
「大丈夫よ、絶対に似合うわよ。ほら、手伝ってあげるから」
「い、いえ、せめて着替えるのは私一人で……!」
「ええい、じたばたしないの、初心なネンネじゃあるまいし!」
「ひやっ!? ど、どこを触っているんですか、あっ!」
あーあー聞こえないー!
**********
着替え部屋から聞こえてくる声に、心象風景に埋没することで対抗することしばし。
俺が無限の剣を数えるのにも飽きてきた頃、ようやく着替え部屋の扉が開いた。
部屋から出てきたのは……。
絢爛に飾られたロングヴェール。
すらりとした指を際立たせるフィンガレスグローブ。
露出した肩を薄く隠すウェディングショール。
キャスターのこだわりが光るフリルレースのプリンセスラインドレス。
純白の衣装に身を包んだ、花嫁姿の氷室がそこに居た。
「……精神的陵辱だ」
むー、と不機嫌そうに唸っている氷室。
しかし、薄いヴェールでは隠し切れないほどその顔は赤い。
なまじ純白の衣装なものだから、血の巡った肌が余計に目立っている。
氷室の肌は比較的白いと思っていたが、いやはや。
「どう? 坊や。恋人の晴れ衣装の感想は」
「……最高です」
いや、もう。
キャスターの問いかけにも、つい本音がこぼれてしまうほどに。
「さて、じゃあ写真を撮らせてもらおうかしら。お店にはもう話をつけてあるから」
本当にいつの間に話を通していたのか、撮影室は既に準備が出来ているという。
しかし、氷室はここに来てまだ渋い顔をする。
「……本当にこの姿で写真を撮れというのか?」
「いい記念だと思えばいいじゃない。ねえ、坊や?」
確かに、ウェディングドレスの氷室なんて想像もできなかったが、いざ目の前で見てみるととても似合っている。
なので、せっかくだから俺も後押しすることにした。
「そうだぞ。せっかく似合ってるんだから、記念に撮ってもらえばいいじゃないか」
「他人事だと思って……」
じろり、とこちらを睨んでいた氷室だったが、ふと何かを思いついたような顔をした後、にやりと笑みを浮かべた。
……なんだその遠坂にも負けないくらいのイイ笑顔は。
「メディア女史。せっかく写真に取るのなら、花嫁だけでは片手落ちではないかな?」
「あら、どういうこと?」
「花嫁には花婿が付いていなければ。丁度よい役者がそこに居ることだしな」
と言って、俺のことを横目で見やる。
……って、ちょっと待て。
「お、俺!? いや、それはちょっと無理、無理だって!」
「私もそう言ったぞ? その結果がこのざまだ。君も同じ末路だと思いたまえ」
「いやだって、氷室は綺麗だからともかく、俺は背も足りないし似合わないって……!」
「人を呪わば穴二つ。覚悟を決めて着替えてくることだ」
さあ、と背中を押してくる氷室に、必死で抵抗する俺。
そんな殺伐とした二人の間に救世主が!
「まあまあ氷室さん。そんなに無理に勧めたら衛宮君がかわいそうでしょ」
キャスター!
俺のことをかばってくれているのか!?
ありがとう、俺、お前のことをちょっと誤解してたよ!
「メディア女史。しかし……」
「衛宮君と一緒がいいって言う気持ちもわかるけど。
お店の人に新郎役を頼んでもいいのだし。
もちろん、新郎新婦なんだから寄り添ったり肩を抱いたりは当たり前、
あまつさえ抱き上げたりなんかもするかもしれないわね……その、知らない男に」
……あれ?
話が変な方向に行っているような。
ついでに言うとキャスター、なんで呼び方が『衛宮君』なのか。
それ、なんか某あかいあくまを思い出してあまり嬉しくないんだけど。
「でも、衛宮君がどうしても嫌だって言うなら、そちらのほうがいいと思わない?」
「ちょ……」
「……仕方ないな。衛宮がそこまで嫌がるならば、そこいらの男で我慢するか」
「そうよねぇ。……で、どうかしら、衛宮君?」
……ふふふ。
見くびってもらっては困るぜキャスター、氷室。
そんな餌でこの衛宮士郎が釣られるとでも。
「……俺に新郎役を務めさせてくださいお願いしますクマー」
店から出ると、すっかり日も暮れかけて、東の空はもう星が瞬いていた。
「すっかり遅くなってしまったな」
記念に、と半ば無理やり渡された写真を……それでも少し嬉しそうに鞄に仕舞いこみながら、氷室が空を見上げて呟いた。
「とんだ騒ぎになっちまったからな。せっかく色々予定を立ててたんだけど」
本当なら、映画館や喫茶店などで色々と話をしたかったのだが……。
着替え、写真撮影、と来て、キャスターの気が済むまでリテイク。
ようやく開放されたと思ったら更に数枚、別パターンで撮影再開。
結局、化粧落としや着替えなおしも合わせて、すっかり時間を使ってしまった。
キャスターはご機嫌で帰っていったが、俺と氷室は最後のほうは既に疲労困憊状態だった。
まあ、お店の人が気を利かせてくれたのか、一日のバイト料をくれたのがせめてもの救いか。
と、隣で歩いていた氷室がはたと立ち止まった。
「……そうだな。このまま別れるのも、少し味気なくもある。ふむ……」
……なにか腹案があるのだろうか。
氷室は顎に手を当てて、じっと何かを考えている。
先に行くわけにもいかないので、同じくじっとその場で待つ俺。
やがて氷室は顔を上げると、俺の眼を見て単刀直入に言った。
「いい意趣返しを思いついた。実はな、衛宮。今日は私の家に誰も居ないんだ」
「……はい?」
「良かったら、寄っていかないか? 茶くらいは振舞おう」
「着いたぞ。ここだ」
氷室に案内されてやってきたのは、新都の駅前から程近いマンション群のひとつだった。
所謂高層マンション、その中に氷室の家があるという。
「これは……すごいな……」
天を突いてそびえる建物を見て、俺は思わず感嘆のため息をついてしまった。
一番上を見ていると首が痛くなってくる。
地上から見上げるほどの場所に住んでいる、という感覚は、屋敷住まいの俺には想像がつかない。
「確かに、高さだけなら立派なものだろうな。
だが、中の人間はそうとは限らん。あまり気負わないでいいぞ」
そう言いながら、郵便入れを開けて、中に入っていた数枚の紙を取り出した。
アパートにありがちな安いつくりのチラシなどは一切入っていない。
これで気負うなと言われてもなぁ……。
「こっちだ」
氷室はすぐさま踵を返すと、すたすたとエレベーターの前へ。
そのボタンを押すと、1階で停まっていたのか、すぐに扉が開いた。
「乗ってくれ」
「お、おう」
エレベーターには誰も乗っていなかった。
無人のエレベーターに入っていく氷室。
遅れて俺がそれに続く。
氷室は開閉ボタンを押すと、続けて階層ボタンを押す。
階層は……9階。
『扉が閉まります』
備え付けの音声と共に扉が閉まり、エレベーターが動き出した。
「……今更な気もするけど、俺がお邪魔してよかったのか?」
昇っている間、黙っているのもなんなので、気になっていたことを尋ねてみる。
郵便受けに入っていた手紙を検分していた氷室は、俺の言葉に意外そうに眉をひそめた。
「本当に今更だな。家には誰もいない、と言っただろう」
「ああ……両親とも留守って、よくあることなのか?」
「父親が忙しい人だからな。その妻である母親も色々と走り回っているのさ」
それと、と、氷室は左手の指を立てて言葉を続けた。
「呼んだ理由はそれだけじゃない。
偶然とはいえ、衛宮のドールには自己紹介をされてしまったからな。
私のドールも紹介しておかなければ不公平だろう?」
左手の薬指、そこには電灯に鈍く光る薔薇の指輪。
……なるほど。
今回のお宅訪問にはそういう意図があったのか。
俺はてっきり…………まて、てっきりナニを期待していたんだ、俺。
ちょっとした自己嫌悪に陥っていると、チン、という音と共にエレベーターの上昇が止まった。
どうやら9階に着いたらしい。
扉が開いて、9階のエントランスが視界に入る。
入れ替わりで乗り込む人はやはり居ないようだ。
再びすたすたと先に進む氷室。
続いて俺もエレベーターから降りる。
エントランスからは、右手と左手にそれぞれ一つずつドアが見えた。
どうやら1つの階層に2世帯が住んでいるようだ。
氷室はその内の右手側のドアの前に立つと、ポケットから鍵を取り出した。
それをドアノブに挿し込み、半分ひねると、カチッという音がしてドアが開いた。
「さあどうぞ、入ってくれ。衛宮の家に比べれば狭いだろうがな」
「お、お邪魔します」
勝手を知った様子で敷居をまたぐ氷室に対して、招待された女の子の家ということで若干緊張していることが否めない俺。
思わず脱いだ靴をキッチリと揃えてしまう。
玄関の中は、マンションにしては十分すぎるほど広い空間があった。
さすが高級と冠するものと言ったところか。
廊下の正面にはテレビやソファが置かれた部屋が見えるが……。
「そっちがリビング。左手の奥が私の部屋だ」
タイミングよく間取りの説明をした後、氷室は廊下の右手に引っ込んだ。
どうやらそちらがキッチンらしい。
見れば、ヤカンに水を張って火にかけようとしているところだった。
「……茶を入れるには少々時間がかかるな。先に部屋に行っていても構わないぞ」
氷室は、ガスコンロの火とにらめっこしながらそう言った。
それじゃあ……。
「いや、勝手に入るのも悪いだろ。だからここで待ってる」
ダイニングキッチンの椅子を引いて、腰を据える。
……それにしても本当に広いな、このマンション。
「そうか。……別段隠しておきたいものとて無いのだがな」
言いながら氷室は、戸棚からティーセットを二つ取り出して並べる。
勝手のわからない俺は、手伝うことも出来ずに見ているだけだ。
……なんかこう、歯がゆい。
「…………」
「…………」
「……なあ、何か手伝えることないか?」
「客人に茶の準備をさせるような真似はしない。
……だから先に行っていろと言っただろうに」
なるほどもっともな話だった。
結局、ヤカンの水が沸騰して、氷室がそれで茶を淹れるまで、俺は手持ち無沙汰で過ごすこととなった。
せめてこれぐらいは、ということで、お盆を持っていく役目だけは譲ってもらった。
「まったく。衛宮の働き癖も大概だな。
蒔の字にブラウニー呼ばわりされるのもむべなるかな、だぞ」
部屋まで先導しながら呆れ顔の氷室。
でもこれくらい普通だろ。
ちなみに『むべなるかな』はいかにももっともなことであるなあ、という意味です。
丸盆にカップを二つとお茶請けを少し乗せて、氷室の私室へ。
氷室が部屋のドアを開けて中に入り、続けて俺も中に――。
「……鐘!」
「えっ!?」
途端に部屋の中から叫び声が聞こえてきた。
これは……子供の声?
「雛苺。起きていたのか」
「Lent! どこに行っていたの!?」
雛苺……?
氷室が部屋の中に一歩踏み進むと、ほぼ同時に部屋の中から何かが氷室に向かって飛びついてきた。
「おっと……急に抱きつくな、びっくりするだろう」
急にしがみつかれた氷室は、相手の脇に手を差し込んで、お姫様を抱きかかえるような姿勢に直す。
「酷いわ、酷いわ! 朝起きたら鐘がいなくって、雛苺はとっても怖かったのよ!」
「すまん。だが……客人を連れてきているんだ、だからあまり泣かないでくれ」
「ぐすっ……う?」
氷室が振り向いて、これでようやく俺は、その声の主の全身を目にすることが出来た。
金色の髪に若草色の瞳。
洋服に合わせたピンク色の大きなリボンが、柔らかな巻き髪の頂上で揺れている。
「この子が……雛苺?」
「ああ、そうだ。これが私の薔薇乙女《ローゼンメイデン》、雛苺だ」
幼い人形……雛苺は、氷室にぎゅっと掴まったまま、じっと俺の顔を見た。
「……だれ?」
……声に若干のおびえが感じられる。
どうやら初対面の印象はあまり良くなかったようだ。
とりあえず、握手から……は、無理か、手が丸盆で塞がってるし。
「えっと、俺は衛宮士郎。雛苺、って言うんだよな?」
まずは、怪しい者じゃないことをアピールしなければ。
氷室との関係は、学校の知り合い……でいいのか?
「氷室の友達……じゃないな、恋人……なのか?
なあ、こういう場合ってどう言えばいいんだ?」
「……知らん。そういうことを、私に振るな」
氷室に助けを求めてみたが、あっさりとそっぽを向かれてしまった。
なんでさ。
「まあ、とにかく、氷室とは仲良くさせてもらってる。よろしくな、雛苺」
「恋人……」
俺の言葉を聞いてなにを思ったのか。
雛苺は頭上の氷室を振り仰ぎ、尋ねた。
「……鐘は、今日一日ずっと、雛苺じゃなくてその人間と一緒にいたの?」
「いや、今日会ったのは偶然なのだがな。
色々有って、半日付き合ってもらった」
偶然、とは少し違うけどな。
本当は、俺が氷室を探して町中を駆けずり回っていたのだが……そのことは言わないでもいいだろう。
そういえば、今日のデートの結果如何で氷室の胸中を判断するんだったっけ。
結果はまだ聞いていなかったが、一体どうなったのだろうか。
「……Inutile」
と。
いつの間にか俯いていた雛苺が、ぽつり、と何か呟いた。
聞きなれない言葉だったが……英語か?
「ん? どうしたんだ、雛……」
「C'est absolument inutile!! 鐘を取っちゃダメなの!!」
突如、雛苺が氷室の腕の中から飛び出すと、そのまま氷室の手を掴んで引っ張った。
「なっ?!」
いきなりの雛苺の奇行に戸惑う氷室。
その引っ張られる先には、化粧台の鏡が。
……待て、鏡だって?
以前水銀燈が、鏡を探していたことを思い出す。
鏡とドールには、何か関係があるってことか……?
と、そこで俺は、雛苺の異変に気がついた。
雛苺の身体から煙のように立ち上っているあれは……まさか、魔力!?
「……拙いっ!」
九割の直感と、一割の確信。
とっさに俺の身体が、氷室の片手……雛苺に取られていないほうを引っ掴む。
それと、ほぼ同時に。
「鐘は雛苺のお友達なんだから! あなたなんかには渡さないの!!」
悲鳴のような、叫びが響く。
雛苺の魔力に呼応するように、鏡面がまばゆく輝いて、室内を真っ白に染める!!
「うわっ!?」
「なんだ!?」
身構える隙もなく、俺たちはその光の奔流に飲み込まれた!
そのまぶしさに思わず目を閉じるが、それでもなお、目蓋越しに光が感じられるほどの光量……!
さらに、目を閉じていても肌で感じられる、魔力の歪みを超える感触。
これは……。
「固有、結界……!?」
いや、違う。
世界を自分の心に染め替える、あの魔術とは感じが違う。
これはもっと別の、何かを飛び越えるような……。
そこで、俺を包んでいた光が消え去った。
目蓋を刺す光が止み、魔力のうねりも鳴りを潜めた。
「……く。一体何が……?」
固く閉ざしていた瞳を、恐る恐る開いてみると、そこは。
「な、なんだ、こりゃ!?」
まず目に飛び込んできたのは、巨大なプレゼントボックスだった。
家屋のようにそびえ立つ、リボンに包まれた正方形の箱の群。
床は一面のギンガムチェック。
空は色とりどりの風船が浮かんでいて、まるでサーカステントのようだ。
そしてそれらをも埋め尽くさんとする、クマ、イヌ、ウサギ……様々なぬいぐるみたち。
暖色で統一された、まさに『子供の世界』。
不覚にも、その光景に一瞬我を忘れてしまった。
「……っ、そうだ、氷室……!」
一緒に光に飲まれたはずの氷室の姿が無い!
慌てて周囲を見回してみても、その姿は見当たらない。
「くっ、どこだ、氷室―っ!!」
大声を出して名前を呼んでみたが、返事は無い。
まさか、こことは違う場所に連れて行かれた……!?
最悪のパターンが頭をよぎり、それを振り払うためにもう一度周囲を見回してみると……。
「ん? ……箱が!」
堆く積み上げられたプレゼントボックスの頂上、一番高い場所に置かれた箱が、ひとりでに包装を解き、パタンパタンと開き始めた。
そして、その中には……!
「雛苺……!?」
プレゼントボックスの中には、雛苺の姿があった。
どこか夢見心地のような瞳で、うっとりとしている。
そして、その傍らには……!
「う……」
「氷室っ!!」
それは一体どのような奇術か。
氷室は雛苺の傍、まるで寄り添うように立っていた……もとい、『立たされていた』。
床から伸びた縄が、氷室の身体を拘束しているのだ。
いや、あれは縄ではなくて……。
「茨……!?」
それは茨だった。
足元から生えて、ソックスの上から這い昇る茨。
スカートの中から、外から、下半身を絡め取る茨。
腰には二重三重に巻きついて固定する茨。
両腕は無理矢理持ち上げられ、歪な水平を保つ茨。
うなだれた頭に巻きついたそれは茨の冠。
その姿はまるで、無理やり起き上がらせた操り人形のようだった。
更に驚くべきことに、氷室の足元はつま先がかろうじて床に接しているに過ぎない。
恐らく茨自体の力で、人一人分の体重を支えきっているのだろう。
普通の植物としての茨からは想像できない、目を疑いたくなるような光景だった。
「氷室! 大丈夫か!?」
「……っ、ここは一体……痛っ」
俺の呼びかけが届いたのか、氷室が身じろぎした。
だが、無理に動けば傷つくのだろうか、棘の痛みに顔をしかめたようだ。
そんな氷室に、ゆっくりと歩み寄る雛苺。
「鐘……」
「雛苺……?」
「鐘……これで、ずっと一緒だから」
動けないままの氷室にぎゅっと抱きつく雛苺。
驚いたことに、雛苺が触れる場所だけ、避けるように茨が動いていく。
茨は、雛苺の意のままに動いている……?
ふと、水銀燈と出会った日の事を思い出す。
あの時水銀燈は、自らの羽根を自在に操って俺に攻撃を仕掛けてきた。
同じような力が雛苺にも備わっているのかもしれない。
そして、この世界にやってくる前に雛苺が見せた魔力。
まさか、この状況は全て、雛苺の力によるものなのか……!?
「雛苺! 氷室を放すんだ!」
「え……?」
考えるより先に言葉が口をついて出た。
俺の大声に反応して、雛苺がびくっと身体を震わせる。
そして恐る恐る振り向くと、プレゼントの山のふもとに駆け寄った俺の姿を見て、驚きに眼を見開いた。
「ど、どうしてあなたがここにいるの?」
どうやら、俺がこの世界に巻き込まれたのは予想外のことだったようだ。
咄嗟に氷室の腕を掴んでいたのは不幸中の幸いだったか。
「氷室を放してくれ!
この世界は、お前が作ったものなんだろう!?」
「なんだと……? 雛苺、本当か?」
氷室が驚いたように、雛苺へ視線を送る。
雛苺はその視線から逃げるように、顔を俯かせた。
「だって、だって……鐘が、雛苺を置いて行っちゃうから」
「……雛苺、それは違う。
私が今日、出掛けたのはたまたまだ。
お前を置いていこうとしたわけじゃない」
氷室が雛苺を優しくなだめる。
今までのやり取りから、雛苺の感情はその見た目どおりかなり子供なことがわかった。
あまりきつい言い方では、かえって逆効果になるという打算もあるのだろう。
もちろんそれ以上に、真摯に誤解を解こうとする姿勢ゆえである事は言うまでも無い。
「雛苺が望むなら、私はずっと傍にいる。
だから、この茨を解いてくれないか」
「…………」
氷室の言葉に、雛苺は俯いたまま、ゆっくりと茨に指を添える。
よかった、これで丸く収まるか……と、甘い考えがよぎった刹那。
「……でも、鐘は今日、その人間と一緒にいたのよ」
俯いたまま、静かな声で。
だが、確かな冷たい感情を込めて。
雛苺の魔力が再び解き放たれた。
「ぐっ、あ……!」
氷室が苦痛の声を洩らす。
傍目から見てもわかるほど、茨が太く、強く氷室を束縛している。
魔力を与えて、茨をより強化したのか……!?
「Non……!
あなたがいると、鐘は雛苺を置いていっちゃうのよ!」
そう叫ぶが早いか、雛苺は両手を振りかざして俺を見下ろした。
同時に周囲のプレゼントボックスが、一斉にリボンを解いて口を開いた。
中から現れたのは、無数のヌイグルミ。
それらが全て雛苺の周囲を漂いながら、俺に狙いをつけている……!?
「待ってくれ、俺はそんな……!」
「イヤ、イヤぁ!
もう、独りで置いていかれるのはイヤなのぉ!」
ダメだ、取り付く島も無い!
雛苺は目を瞑り頭を振って、俺の言葉を拒絶した。
「Personne obstructive!
あなたなんて、いなくなっちゃえ!!」
勢いよく振り下ろされた腕が号令となって、ヌイグルミが俺を押しつぶさんと殺到した……!!
引くことは出来ない。
氷室を助け出すために。
倒すことは出来ない。
雛苺を傷つけないために。
ならば――全てを防いで見せるしかない!
覚悟を決める。
撃鉄を倒す。
魔力が走り、脳を焼く。
この手に剣を。
元よりこの身は、ただそれだけに特化した魔術回路――!
「投影、開始《トレース、オン》!!」
両の手に確かな質感が生れる。
迷い無くそれを握り掴む。
……工程完了。
幾度と無く夢想した幻想、二つで一つの夫婦剣。
その名を『干将・莫耶』。
投影された模造品とはいえ、世に謳われた名剣。
「――ふっ!」
ヌイグルミの群は、既に眼前に迫っていた。
その先頭に居たクマを、右手の干将で横薙ぎに打ち返す。
クマは剣の腹に弾かれ、後続の数体を巻き込んで吹き飛んだ。
続いて飛んで来たウサギとトラを、左手の莫耶で抑えて止める。
「ぐっ!」
たかがヌイグルミと侮る無かれ。
両手で抱きかかえられる程の質量が、高速で飛んでくるのだ。
中身が柔らかい綿であることを差し引いても、衝撃は軽くない。
しかも、それが一体ならいざ知らず、その数に際限は無い。
受け続けていたら、あっという間に圧殺だろう。
「は、あ……あああ!」
だが、俺はその集中砲火の中で立ち続けた。
通常とは反対向き、峰打ちにしたままで剣を振るう。
受け、止め、弾き、往なし、交わし、避け、挟み、流し、打ち、そして斬らず。
雨のように降ってくるヌイグルミを、二本の剣で捌き続ける。
「そんな……どうして!?」
その様を、雛苺は呆然と見ていた。
当然だ、ただの人間があれだけの質量の暴力を前に対抗できると思えるわけが無い。
だがしかし、ならば衛宮士郎が健在なのもまた当然。
なぜならば、正義の味方を目指した時から、衛宮士郎はただの人間ではないのだから。
「やめてくれ、雛苺! 俺は氷室を取り上げたりしない!」
「イヤ……鐘は雛苺のものなのよ! あなたなんかにはあげないの!!」
しかし、雛苺はもはや止まらない。
再び両手を天にかざす。
背後のひときわ大きいプレゼントボックスが口を開く。
浮かび上がったのは、やはりクマのヌイグルミだった。
……ただし、問題はその大きさ。
側に立つ氷室の背丈より、さらに大きいヌイグルミが……!
「ぺちゃんこになっちゃえっ!!」
雛苺の掛け声と共に、俺に向かって投げ飛ばされてきた!
「まずっ……!」
さすがにあれは受けきれない!
咄嗟に両手の干将莫耶を投げ捨てて、思い切り横に跳ぶ。
飛び込み前転の要領で床に一回転、そのままなんとか受身を取る……!
巨体が巻き起こす衝撃に、地面が揺れた。
「っ、はぁ……!」
……間一髪。
さっきまで俺の立っていた場所は、大型クマによって占拠されていた。
もしあそこに居たら、間違いなく押し潰されていた。
しかし、一息つく暇もなく。
「うわっ!!」
普通サイズのヌイグルミが再び殺到する。
普通サイズと大型サイズの波状攻撃か……!
干将莫耶では大型サイズが受けきれないし、かといって他の武器では扱いきれずに傷つけてしまうだろう。
こうなったら、多少ヌイグルミを傷つけるのも仕方ないか……?
そう、仕方ない……。
「……ワケ無いだろうが、クソ!」
干将莫耶を再度投影、ヌイグルミを打ち落とすついでに、弱い思考を振り払う。
俺の誓った道は、そんな甘い道じゃない!
誓った道は、九を救うために一を切り捨てずに、十の全てを救う道。
未だ至らぬ道だけど、目指す場所はそこだと決まっている。
ならば、全てのヌイグルミをヒトだと思え。
そして全てを……氷室を救ってみせろ。
その程度が出来ずに、ヒトを助けられる道理はない……!!
「う、お、ああ――――!!」
捌く。
捌く捌く捌く捌く捌く捌いて捌いて捌いてさらに捌いた。
視界に入るものは、ネコだろうがイヌだろうがウサギだろうがタヌキだろうがキツネだろうが全て『無事に』捌いてみせる。
腕が重い。
斬らずに剣を振るうのが、こんなに疲れるとは思わなかった。
「……Pourquoi!? なんで平気なの……!? クマさん、もう一度――!!」
雛苺の声。
視界の端に、二度目の大型クマの姿。
再び跳んで避けようとして――つんのめった。
「な、に――!?」
足元に、ヌイグルミの山……!?
柔らかい綿を踏んでバランスを崩した上体は、跳躍できずにそのまま転倒する。
「ぐっ!」
転んだまま見上げれば、頭上には大型クマの影。
もちろん、こんな体勢では避けられるはずがない。
……情けない。
1秒後には落下してくるだろうソレを見ながら、感じたことは恐怖ではなく悔しさだった。
何てザマだ。
氷室一人、満足に救えないのか、俺は。
ならば、ここで終わっても仕方ない。
誰も救えない正義の味方なんてこんなものだ。
ああ、いっそ目を閉じて終わりを待とう。
だが、目を瞑る直前。
俺の目の前を、一枚の黒羽がすい、と横切った気がした。
あの、羽根は…………?
ソレがなんであるか、思い出すよりも早く。
「こ…………の、浮気者ぉっっっっ!!!!!」
「がっ!?!?!?」
ごぎんっ、という大きな衝撃に、一瞬視界が揺れる。
星が!
なんか久しぶりに星が見えたスター!
「~~~~~っ!!」
どうやら後頭部に強烈な一撃が炸裂した模様。
その衝撃に倒れたまま悶絶する。
なんとか起き上がろうとした頭部が、がっちりと上から固定される。
容赦なく食い込んでくるこれは……ま、まさかブーツか?
「……ねえ、しぃろぉぉう?
街中を同級生が放浪中、なぁんて噂一つで、
命よりも大切なミーディアムとしての責務をすっぽかそうなんて、
水銀燈ちょっと見過ごせないわぁ」
こ、この声は、やっぱり水銀燈!?
鳥肌モノの呼びかけにめっぽうウロたえる。
だが、なぜそこまで事情がわれてるんだ!?
「いやっ、これはっ、あくまでっ、く、靴底っ、ず、頭蓋グリッて、人助け、す、水銀燈っ」
「ん~んん~? 脳が痛ぁい?」
ぐりぐりって!
捻るようにブーツの靴底をぐりぐりってするの反則っ!!
「し、質問があります、マイマスター!」
「なあにぃ?」
頭をブーツで踏んづけられている状態では甚だしくみっともないが、何はともあれ一番気になっていたことを尋ねてみる。
「さっき言ってた『浮気者』ってのは一体どういう……?」
「……っ!?」
『浮気者』。
背後からの衝撃……多分飛び蹴りかなにかだと思うが……その間際に、水銀燈が放った一言。
直後に激しく脳を揺さぶられたくせに、その言葉はしっかりと耳に残っていたらしい。
……いや、だからこそ余計に鮮烈に頭に焼きついたのか?
ともかく、いきなり投げつけられた『浮気者』という言葉が気になって、そう尋ねてみたところ、水銀燈は、ぴた、とブーツの動きを止めてしまった。
「あ、貴方は私の下僕だと言ったでしょう?
だから他の女にホイホイ付いていった、その軽さに腹が立った。
それだけのことよ」
「あ、え……?」
ぷい、とそっぽを向いて(いや、角度的に俺からは見えないけど、恐らく向いたのだろう)理由を口にする水銀燈に、はて、と首を傾げる俺(これまた動かせないけど、心情的に)。
「……なに? 何が言いたいわけぇ、士郎?」
すると、途端に上から聞こえてくる声の温度が3度下がった。
あ。
まずい。
「もしかして、私がやきもちを焼いてやってきたとか、そういうことを言いたいの?
そんなお馬鹿なことを言うのは一体どのお口? ここ? ここかしらぁ!?」
「い、言ってないし思ってもいないっ!!
そしてそこは口ではなく後頭部……痛っ!? いや、むしろ熱っ!!」
おおお俺の頭を踏みにじる脚の動きが3倍速にっ!?
「そうね、気になってメイメイに監視をさせてみていたら、案の定、あっさりと色香に釣られてしまっているようなお馬鹿さんですもの。
そんな下僕にはきちんとした躾が、必・要・よ・ね・ぇ?」
「あづづづづづづっ!?!?
頭が! 頭が焦げるっ!?」
……水銀燈が開放してくれたのは、俺の頭からいい加減に黒い煙が立ち上り始めてからしばらく後のことだった。
「……今度またおかしなことを考えたら、その首切り落として鴉の餌にしてあげるわぁ」
「さ、サー・イエス・サー、マイマスター……」
頭の後ろから焦げ臭いものを感じながら、よろよろと立ち上がる。
うう、髪の毛がどうなっているのか確認しようにも出来ないポジションを……。
「さて、と……」
俺の惨状には意も介さずに、頭の上から足をどけた水銀燈。
プレゼントボックスの山の頂を見上げると、そこに居る雛苺と氷室を見据えて――。
「お久しぶり。ようやく会えたわね……雛苺」
ニヤリ、と形の良い唇を吊り上げる水銀燈。
釣られて俺も山の上を見る。
「……水、銀燈……?!」
そこには、怯えた目で水銀燈を凝視する、雛苺の姿があった。
水銀燈はふわり、と浮き上がり、俺と同じくらいの高さの目線で雛苺を見上げた。
そこに親愛の感情は見つけられない。
「今回初めて会うのが、まさか貴女だとは思わなかったわぁ。
もっとも、私たちはこれから……」
「Pourquoi!? なんで水銀燈がここに居るの!?」
恐怖で声が裏返る雛苺。
両手を口元ですくめ、気圧されたように一歩下がる。
対する水銀燈は、言葉を遮られて少し不機嫌そうに雛苺を睨んだ。
「ふん。
今日は偶然、たまたま、た・ま・た・ま、私のミーディアムが一緒にまぎれていたから、貴女の空間に辿りついただけよ。
……全く。本当は『あの子』を探していたと言うのに……」
やけに『たまたま』を強調するマイマスター。
でも……『あの子』って?
「じゃあ……やっぱり、始まってるの?」
「愚問ね。
貴女も感じたのでしょう?
7体の薔薇乙女《ローゼンメイデン》が、同じ時間に目覚めたのよ」
ばさり。
翼を広げて、右手を天に。
かざしたその手は、まるで何かを掴むように。
水銀燈は、厳かに、しかし歌うように、はっきりと宣誓した。
「そう、『アリスゲーム』が始まるのよ」
――『アリスゲーム』。
7体のドールがミーディアムと共に行なう儀式。
その言葉が指し示すものを、俺はまだ何も知らない。
だが……言い知れぬ不吉さと、脳裏をよぎる既視感。
――――聖■戦■。
■騎のサー■■ントが■術■と共■■なう■し合いの■■。
「……なにを、馬鹿な」
頭を振って、不吉なイメージを払拭する。
今はそれよりも目の前のことに集中しなければ。
「なんで……なんで、みんな邪魔をするの?
雛苺は、ただ鐘と遊びたいだけなのに……」
雛苺は、遠めに見てもわかるほど震えていた。
それは、恐怖だろうか。
悲しみだろうか。
それとも……怒りだろうか。
だが、そのいずれをも一笑に付す者が一人。
水銀燈だ。
「……お馬鹿さぁん。
薔薇乙女《ローゼンメイデン》は戦い合うのが定め。
どれだけ逃げようとも、いずれは戦わなければならないのよ。
ただ……」
水銀燈の翼から、ふわりと黒羽が舞い上がった。
これは――黒羽を自在に操り攻撃する、水銀燈の技。
「貴女が一番、近かった。だから、貴女が先に死ぬ。それだけよ」
「雛苺と鐘の……邪魔はさせないのよ!!」
対する雛苺も、水銀燈の気迫に圧されてか、ヌイグルミを多数浮かばせて対峙する。
俺は……。
「おい、待てよ水銀燈……悪いけど、なにがなんだかさっぱりだ」
正直に言えば。
アリスゲームも薔薇乙女《ローゼンメイデン》の定めとやらも、俺には全くわからない。
それでも、いや、だからこそ、何も知らないまま戦うことなんてできない。
ドールだって、言葉が通じる相手なんだ。
話し合えばわかることだって、きっとあるはず……。
「せめて、事情を説明してくれないか?
戦うのなら、それなりの理由があるんだろう?」
水銀燈は鬱陶しそうに言葉を返した。
「……悠長なことを言うのねぇ。
あの女が手遅れになってもいいの?
まあ、私はそれでも構わないけど」
「…………え」
その言葉は。
この日聞いた言葉の中で、一番不吉なものだった。
「……待った。それって、どういう」
水銀燈は仕方ない、とでも言いたげに説明しだした。
無論、注意は雛苺に向けたままだが。
「私達ドールは、ミーディアムを媒体にして力を使うことが出来る、っていうのはもう話したわよね?」
「ああ、人間の持つ魔力を、ドールに分け与えるんだろう?」
それは、魔術師と使い魔の契約に似ている。
魔術師から送られる魔力を動力として、使い魔は行使されるわけだ。
魔力の供給が途絶えれば、使い魔は活動を停止する。
「ええ。じゃあ、もし人間が持っている以上の力をドールが消費してしまったら、どうなると思う?」
魔術師の容量《キャパシティ》以上の魔力を消費する使い魔だって?
そんな使い魔は有り得ないし、そもそも行使できるような存在では――いや。
俺には、そんな常識破りな使い魔の、心当たりがあるじゃないか。
――サーヴァント。
過去の、そして未来の英霊を使役するという、聖杯戦争でのみ許された規格外の使い魔。
もしも。
彼らが全力で戦い、その魔力のツケを全て魔術師からの供給で補うとしたら……?
あまつさえ、そのマスターが魔術師でもなんでもない一般人だとしたら……?
背筋を悪寒が駆け抜ける。
その悪寒の答えは、水銀燈がはっきりと明言してくれた。
「ドールに力を吸われすぎたミーディアムは、ドールに吸収されて消滅するのよ」
消滅。
人間に対して用いるにはあまりにも非現実的な表現を、水銀燈はあっさりと使った。
視界がぐらつきそうになる。
咽喉が渇いてカラカラだ。
のたうつような舌を動かして、ひび割れるような声で、俺は尋ねた。
「……助ける方法は、無い、のか?」
「助ける方法?
簡単よ。
雛苺を壊してしまえばいいだけなんだから」
あっさりと。
またしても水銀燈は、明解で不吉な答えをさぞ簡単そうに口にしてくれた。
「え……?」
「そうすれば、もう力を吸われる事は無い。
あの女が完全に消滅してしまう前に、雛苺をバラバラにしてしまえば、それでおしまい」
ぱっ、と、何かを弾けさせるようなジェスチャーをしながら、水銀燈はクスクスと笑った。
「まあ、どのみち雛苺は壊しちゃうつもりだったけれど。
……でも、そうねぇ……」
そうして、改めて頭上を見上げる。
雛苺。
そして、少し離れた場所に捕らわれた氷室の姿。
その片方……氷室のほうを指差して、水銀燈は俺に尋ねた。
「……もし貴方があの女を見捨てて構わないって言うのなら、雛苺の命だけは助けてあげてもいいけどぉ?」
「なっ……!?」
氷のような微笑を浮かべて、そんなことを、口にした。
三人の視線が俺に集まる。
つめたく、底の知れない水銀燈の目。
めっきり衰弱してしまった氷室の目。
のら犬のように怯えている雛苺の目。
答えを求める六つの瞳に、俺は思わず息を呑む。
ええい落ち着け、考えろ、考えるんだ。
どうする、どうすればいい。
っ、頭が割れるように痛い。
ちくしょう、こんな難題を突きつけられるなんて。
もはやどちらかしか救えないっていうのか?
助けられるなら、二人とも助けてやりたい。
けれど、そんな力は俺にあるのか?
ろくでもないことばかり、弱い思考が頭を占める。
俺は――――
「氷室は助ける。だけど、雛苺も殺さない」
俺がそう宣言すると、水銀燈の眉がピク、と吊り上がった。
「……なんですってぇ?」
「氷室は死なせない。
それは絶対だ。
けど、そのために雛苺を殺すことが、正しいとは思えない」
「何を言っているの、お馬鹿さぁん?
そんな都合の良いことが、出来るとでも……!」
咎めるように俺に言い募っていた水銀燈が、不意に顔を上げた。
頭上から降下してくる幾つもの影。
雛苺のヌイグルミだ。
痺れを切らして攻撃してきたか。
「ふん……『アリス』になるのは私。
所詮、私以外の薔薇乙女《ローゼンメイデン》は全て敵よ」
水銀燈の周囲を、黒羽が舞い踊る。
その数はこれまでよりも多く、既に黒雲のような密度になりつつある。
……『アリス』。
それは人形師ローゼンの追い求めた、究極の少女。
その雛形として作られた水銀燈、そして他6体のドールたち。
水銀燈は『アリス』になる、と言った。
それが水銀燈の目指すものなら、俺にはそれを止める理由は無い。
だが……そのための手段が、ひどく気に入らない。
水銀燈の翼が大きくたわむ。
一斉に打ち出そうとするそれを――俺が片手で制した。
「……士郎?」
「――投影、開始《トレース、オン》」
手の内に現れた質量を縦横に振るう。
8秒で、全てのヌイグルミを叩き落した。
「な……!」
「……俺はね、水銀燈。
正義の味方になりたいんだ」
右に干将、左に莫耶。
振り抜いた姿勢のまま、背後に語る。
「誰かを救うには、誰かを切り捨てなきゃいけない。
俺にはそれが許せない」
背中越しに水銀燈が見ているのがわかる。
何を思われているのか、それはわからない。
言葉を続ける。
「前に言ったよな。
自分をジャンクと認めるか、って。
ああ、確かに俺は壊れかけだ」
ふと、いつか見た背中を思い出す。
無言の背中で、大事な何かを俺に語ったアイツ。
……今の俺の背中は、水銀燈にはどう見えているのだろうか。
「けど、ジャンクにだって理想はある。
誰だって、誰も泣かないで済むならそのほうが良いに決まってる。
だから俺は正義の味方を目指す。
そう決めたんだ」
振り返る。
水銀燈は宙に浮かんだ姿勢のまま、俺をじっと睨んでいた。
……当然か。
水銀燈の『アリス』への熱意は充分に理解しているつもりだ。
そのやり方に真っ向から反対したのだ、不愉快でないはずが無い。
やがて水銀燈は口を開いて、こう言った。
……正直に言えば。
水銀燈のことだから、てっきり氷点下の如き辛辣な言葉をぶつけてくるかと思った。
「……ふん。本当に世話の焼ける下僕ねぇ」
だから……呆れた顔を見たときは、正直予想外で。
思わず、ぽかん、と口を開けた間抜けな顔をしてしまった。
「水銀燈?
……怒らない、のか?」
「…………」
無言のまま、ふわ、と水銀燈は俺の目の前まで近寄る。
……なんだ?
と思った瞬間。
べちん!
「あいたっ」
思い切り頬を平手で打たれた。
本当に人形か、と疑ってしまうほどの強い力だ。
「充分に怒ってるわよ。
全く、勝手に動くわ、命令には従わないわ。
まさにジャンク、最悪の下僕だわ」
ぷい、とそっぽを向きながら、吐き捨てるように毒づく。
謝るべきだとは思わないが、しかし言い返す言葉もない。
打たれた頬が、ようやくひりひりと熱い痛みを伝えてきた。
「……だけど」
するり、と。
俺を打った掌が、そのまま俺の頬に添えられる。
白く冷たい水銀燈の指が、頬の熱を冷ましていく。
「今回だけは特別。
特別に、貴方の言うとおりにしてあげるわぁ」
……今度こそ本当に驚いた。
驚きのあまり、手から干将莫耶を取り落としそうになった。
「なん、で……?」
「……ふん。
雛苺を壊さない。
あの女も殺さない。
確かにジャンクの貴方には、少ぉし荷が重いでしょうねぇ」
でも、と。
水銀燈は冷たく、そして美しい笑みを浮かべて言い切った。
「私はジャンクなんかじゃない。
だから、全てを叶えるなど造作も無いことだって、教えてあげる」
……それは、慈しみとか優しさとかでは決して無かったけれど。
俺は再び、水銀燈に天使の姿を見た。
――ああ、そうか。
わかったことが一つある。
自然と感謝の言葉が、口をついて出た。
「……ありがとう。
優しいんだな、水銀燈は」
俺がそう言うと、言葉の意味を図りかねたのか、水銀燈は一瞬難しそうな顔をして。
直後に意味を理解したのか、がくんと身体が大きく揺れた。
……おい、翼のコントロールを失うほど動揺するか、普通?
「なっ、突然何を言うのよ!
この私が優しい?
どこを見てればそんなイカレたことが……」
「え、だってさ。
俺の我侭のために自分の意見を曲げてくれたんだろ?
……うん、俺、水銀燈のことは好きになれそうだ」
「~~~~~っ!!
そ、そ、そんなことはどうでもいいのよぉ!!
いいから早くしなさい、ぐずぐずしてると置いていくわよ!!」
水銀燈が翼を羽ばたかせ、プレゼントボックスの山を登っていく。
言われるまでもない。
俺も同時に、脚を『強化』して駆けあがる。
打ち合わせも無い、端から見たら無策とも見える強襲。
だが心配は無い。
お互いの意図は理解できている。
その意図は――。
水銀燈が雛苺を止め、俺が氷室を救い出す。
「Non、来ないで、来ないでぇ!!」
雛苺が駄々っ子のように、デタラメに腕を振り回す。
それにヌイグルミたちが反応し、一斉に殺到する。
目標は――水銀燈か!
「……温いわねぇ」
だが水銀燈は、羽根一枚にすら掠らせない。
真正面から肉薄するヌイグルミ群を、ひらりひらりと避けていく。
……口で言うのはたやすいが、実際はそれほど簡単ではない。
俺は身を持って経験したが、アレは幾つものヌイグルミがただ降って来るだけではなく、それ自身が意思を持っているように軌道を変えて襲ってくるのだ。
だが水銀燈は、その隙間を縫うように避けながら進む。
それはまるで踊るように。
「……つまらなぁい。
壊さない、って約束だけど。
少しぐらいならぁ……責めてもいいわよねぇ?」
そう言うや否や、俺が了承を返すより早く、水銀燈の翼が翻った。
取り出したのは、たった一枚の黒羽。
水銀燈はそれを掌に乗せると、ふうっと一息吹きかける。
「行きなさぁい」
途端に、黒羽はカタパルトで打ち出されたかのような加速を得た。
ひゅん、と一条の矢と化した黒羽はヌイグルミの間を貫き、その先に居るもの……雛苺へ飛ぶ。
「きゃあっ!?」
雛苺は咄嗟に周囲にあったヌイグルミを集めて壁を作り、その黒羽を防いだ。
そのため、水銀燈への攻撃が一瞬緩むことになった。
それが、決定的な隙。
「あはははは、捕まえたぁ!!」
自らが矢のような速度で、雛苺に接近する水銀燈。
間髪入れずに再び翼を展開すると、今度は黒羽の渦が巻き起こった。
「うあっ!?」
雛苺の悲鳴と共に、渦がきゅうっと収束する。
雛苺の腕を中心にして引き絞られた渦は、そのまま腕を拘束する縛めになった。
「は、離して……っ」
「おいたが過ぎたわね、お馬鹿さぁん。
……士郎、そっちも早くしなさい」
「言われなくても!」
そう、俺だってぼおっと水銀燈の勇姿を眺めていたわけじゃない。
水銀燈に遅れて、俺もプレゼントボックスの頂に到達していた。
氷室は……居た。
より太くなった茨に身体を絡め取られて、ところどころ衣服が破れている箇所もあった。
……こんな時に甚だ不謹慎だとは思うけど。
あまりきわどい部分が破れていなかったのは、俺にとっては幸いだった。
「と、とりあえず投影、開始《トレース、オン》っ!」
不埒な考えを追い払い、適当な小刀を投影して、絡み付いている茨を断ち切っていく。
足元から順番に、腰、腕、胴部と切っていくと……。
「おっ、と!」
固定するものが無くなった氷室の身体が、ゆっくり力なく崩れ落ちた。
慌ててその身体を支え持つ。
「う……ん」
氷室の身体は予想以上に柔らかく、ほのかな香りが鼻をくすぐった。
だが、その体温は異様に低く、呼吸も細い。
よほど多くの力を使われたのだろう。
「氷室!
しっかりしろ!」
「あ……え、みや?」
弱々しく唸る姿が痛ましい。
気休めに、制服の上着を脱いで、氷室に被せてやる。
「やぁっ……だめ、ダメぇっ!!」
雛苺が悲痛な声を上げる。
しかし、縛められたその腕は氷室に届くことは無い。
「これで御終い。
チェックメイトよ、雛苺」
「イヤ、イヤイヤイヤぁッ!
鐘、鐘ぇっ!!」
必死に氷室の名前を呼ぶ。
……困った。
なんとかして雛苺に落ち着いてもらわないと、どうにもならない。
俺が事態の収拾に困っていると、おもむろに……
泣き叫ぶ雛苺。
その声に反応したのか、俺の肩にもたれかかっていた氷室が、ゆっくりと顔を上げた。
「ひな、いちご……?」
か細い呼びかけ。
だが、その場において、その声を聞き逃した者は居なかった。
暴れていた雛苺が、びくり、と動きを止める。
「か、ね?」
「どうした……何を泣いているんだ?」
熱に浮かされたような、ぼんやりとした口調で雛苺に尋ねる。
この場の雰囲気にそぐわない。
いや……そぐわないと言うより、これは……状況を把握していない?
「まったく仕方ないな……雛苺は泣き虫だ」
氷室がゆっくりと、左手を差し伸べる。
薔薇の指輪が光る左手。
しかし、その輝きはいまや弱々しい。
…………っ!
もしかして、意識が混濁しているのか!?
なんてこった、まさかそこまで消耗しているとは!
「こうして会ったのも何かの縁だ。
こんな女では不満かもしれないが、それでも……」
氷室の指は、雛苺には届かない。
当然だ。
身体は俺が支えて立っているだけで精一杯だし、もう一歩も歩けるような力は残っていないだろう。
それでも氷室は、懸命に腕を伸ばす。
「私は……お前を………………」
続く台詞はなんだったのか。
最後まで言い切る前に、氷室は力尽きたかのように、その意識を手放した。
「鐘っ!?」
「氷室!? 氷室っ!!」
抱きかかえる俺、走り寄る雛苺。
見れば、雛苺の腕に黒羽は既に無い。
水銀燈……いつのまにか縛めを解いていたのか。
「……さぁて、どうするの、雛苺?
これ以上やれば、確実に、そのミーディアム消えるわよ?」
当の水銀燈は、俺たちから一歩引いたところから口を挟んでいる。
動転しかけていた俺にとって、冷静な水銀燈の言葉は、むしろありがたかった。
「ひっ……!
いや、消えちゃやだ、居なくなっちゃやだぁ……!」
ぶんぶんと、必死に首を振る雛苺。
氷室を救いたいのは俺も同じだ。
雛苺よりはいくらか冷静なつもりだが、これといって名案があるわけでもない。
どうすれば、どうすれば氷室を救えるんだ……!?
焦りが脳を煮詰まらせかけていた、そのとき。
「ふん……なら、契約を破棄しなさい。
今回はそれで許してあげる」
救済の案を提示してくれたのは、やはりと言うか、水銀燈だった。
弾かれたように振り向いて、水銀燈を見る。
「契約を破棄するだって……?
どういうことだ?」
「言葉の通りよぉ。
ミーディアムの薔薇の指輪を外すには、それしかないわぁ」
なんでも、ドールは自らの意思で、ミーディアムに付けられた薔薇の指輪を消滅させることが出来るらしい。
しかし、一旦消滅させた指輪はもう元に戻すことは出来ない。
二度とミーディアムと契約することは出来なくなるのだ。
「でも、雛苺はどうなるんだ?
ドールはミーディアムから力を分け与えられて動くんだろう?」
「別に、ミーディアムが居ないからって動けなくなるわけじゃないわぁ。
普通は発条を巻いた人間がミーディアムになるけれど、それとは別に新しいミーディアムが見つかる場合もあるしぃ」
ただ、アリスゲームの資格は無くなるでしょうけど、と。
水銀燈は最後にそう言って、雛苺を見つめた。
雛苺と氷室の契約を破棄させる。
氷室を助けるにはそれしかない、と水銀燈は言った。
そのために失われるものは、契約と資格だと。
これは、覚悟だ。
その後、俺が言った台詞は――。
「契約を破棄してくれ、雛苺」
何か、他の方法があったかもしれない。
しかしその方法を模索するには、俺はあまりにも薔薇乙女《ローゼンメイデン》について……この『アリスゲーム』について知らないことが多すぎた。
故に、水銀燈の提示したその答えこそが唯一の方法。
俺は、雛苺を正面から見つめて、頭を下げた。
「頼む。
氷室を死なせたくはないんだ」
「…………」
涙目で、唇を噛み締める雛苺。
だが、雛苺とてわかっているのだろう。
氷室を助けるにはそれしかない、ということが。
やがて、雛苺はゆっくりと、意識の無い氷室の左手に顔を寄せた。
そして、その薬指に嵌められた指輪に、そっと口付けをした。
「ごめんね、鐘……」
光が弾ける。
氷室の薬指に咲いていた薔薇が、一枚ずつ解けるように散っていく。
全ての花弁が散り果てた後、その手には何も残ってはいなかった。
契約は、破棄されたのだ。
……すまない、雛苺。
「これで、貴女はアリスゲームに参加する資格を失ったわ」
水銀燈が、雛苺を見下ろしたまま宣言する。
「今回は士郎の言うことを聞いてあげたけど……。
貴女はこの水銀燈によって生かされているの。
その気になったらいつでも貴女のローザミスティカを奪える。
それを忘れずにいることねぇ」
そう念を押す水銀燈だが、その表情はどこか晴れない。
……やはり、水銀燈としてはこの結末には不満があるのだろう。
今回は納得してくれたが、まだドールを倒すことを止めたわけではなさそうだし。
落ち着いたら、水銀燈とゆっくり話し合おう。
ひそかに決意して、俺は氷室を抱きかかえた。
そのためにはまず、元の世界へ戻らなければ。
「なあ、ここから元の場所に戻るにはどうすればいいんだ?」
「nのフィールドは幾つもの扉で世界と繋がっているわぁ。
正しい扉を選びさえすれば、どんな場所にでも出ることが出来るはずよぉ」
「そうなのか?」
見ること聞くこと、全てが知らないことばかりだ。
そういえば、俺は薔薇乙女《ローゼンメイデン》……彼女たちについて、まだ何も知らない。
なぜ戦っているのか。
何を目指しているのか。
俺は、何一つ理解していないんじゃないだろうか。
このまま何も知らないままにしていたら、いつかとんでもなく痛い目に会いそうな気がする。
そう思ったので、俺はこう切り出した。
「なあ、水銀燈……帰ったら、色々なこと、教えてくれないか?」
「……色々?」
「薔薇乙女《ローゼンメイデン》のこと。
ミーディアムのこと。
アリスゲームのこと。
nのフィールドのこと。
あと、さっきローザミスティカって言ってたよな?
それについても、全部教えて欲しい」
もし、それらのことがわかっていれば。
次は、もっと上手くやれるかもしれないから。
「なにもわからないままじゃ、やっぱりマズイだろ?」
「……ふぅん?」
水銀燈の目が細くなる。
あれ?
この目はどこかで見覚えがあるような。
「ようやくミーディアムの責務がわかってきたみたいねぇ。
……でも、その責務を忘れてどこぞの女と遊び惚けてたのはどこの誰だったかしらぁ?」
あ、わかった。
これ、最初に出会ったときの目つきとおんなじ、って……。
「あの、なんかブーツが頭に当たってるんですけど」
「当ててるのよぉ。
……あまつさえ、勝手にnのフィールドに巻き込まれて。
危うく死に掛けてたのはどこの誰だったかしらねぇ!?」
「痛い痛い痛い痛い熱いっ!?!?」
……結局、頭にストンピングの嵐を受けながらも、両手に抱えていた氷室を落とさなかった俺を誰か褒めてくれてもいいと思った。
そして、俺はこの後……。
ほの温かい光の中を通り過ぎると、そこはいつもの土蔵の中だった。
「……本当に帰ってこられた」
「なに? 私の言うことを信じてなかったわけぇ?」
「いや、断じてそういうわけじゃないけども」
水銀燈ににらまれて慌てて言い繕う。
それでも、いま自分が出てきた場所が姿見の鏡である、という事実に、改めて驚きを感じてしまう。
氷室を一人にするのは心許ない。
そう考えた俺たちは、一旦氷室の家に寄ってから、再びnのフィールド経由で俺の家までやってきた。
一度氷室の家に寄ったのは、俺の靴や雛苺のトランクケース――ドールはこの中で寝なければならないものらしい――を回収しなければならなかったからだ。
「うゆ……鐘、大丈夫……?」
雛苺が心配そうに、俺に抱きかかえられている氷室を見上げている。
きっと、たとえ契約が無くなっても、この二人の関係にはさしたる影響は無い。
アリスゲームを抜きにして考えれば、結果的にこれでよかったのかもしれない。
……もっとも、アリスゲームの価値がわからない俺が言っていい事じゃないか。
「ああ……とりあえず、氷室を寝かせないといけないよな。
ひとまず俺の部屋に連れて行くか……」
雛苺にそう言って安心させて、開いていた土蔵の扉をくぐると……。
なんか、庭にいた藤ねえがこっち見てる。
空を見れば、夕日が半ば以上沈みかけている頃合。
そうか、色々あったから時間の感覚がすっかり狂ってたけど、もう夕方過ぎだったのか。
それじゃあ藤ねえが家にいても不思議じゃないよな、うん。
こういう事態を想定していなかった俺のミスだ。
「し……」
土蔵から出てきた俺を見て、わなわなと震えている藤ねえ。
そりゃあ、ぐったりした人を抱えて土蔵から出てきたら誰だってビックリする。
うん、俺だって驚くよ、実際。
だが、これは断じておかしなことをしていたわけではないのですヨ!?
長い付き合いだしわかってくれるよな藤ねえ!?
頼むから、頼むから変な誤解だけは……っ!
「士郎が氷室さんを暗闇に連れ込んで妖精さんと会話してるー!!」
あああああ。
パーフェクトだ。
どこをどうつついたって黄色い救急車しか出てこないほどパーフェクトな表現だよ畜生!
そして、絶叫の余韻が消えるより早く近づいてくる足音足音足音。ってお前らこういうときに限ってレスポンス早ぇなぁもう!
「大河、シロウに何かあったのですか!?」
「士郎、アンタまさか変なチャンネル開いちゃったわけ!?」
「先輩、氷室さんを連れ込んだってどういうことですか!?」
「桜、落ち着いて、まずは大河をなんとかしなければ」
「シロウー? もー、また変なもの連れ込んだんでしょー?」
……はっはっは。
騒々しいぞお前ら、ご近所の人々に迷惑だろう。
それぞれの部屋からものすごい勢いで駆けつけてくる面々を見ながら、俺は再びnのフィールドに逃げ込みたい気持ちで一杯だった。
そして。
この後開催された『第66回衛宮家家族会議』は深夜まで続き、検事弁護士裁判官総出で被告を糾弾するという異例の事態を巻き起こしたのである。
『銀剣物語 第三話 了』
さーて、来週の銀剣物語はー?
(衛宮家家族会議中につきメッセージはありません)
最終更新:2007年01月18日 18:42