空は半月。
 雲ひとつ無い星空が宇宙の広さを感じさせる。
 屋敷の周囲に人通りは無く、物音一つ無い静寂が夜をより一層深く思わせる。
 文句の付け所の無い絶好のロケーション。
 いつもなら家庭団欒の場となっている衛宮家の居間は、しかし。
 下座に正座させられた被告と、それを三方向から囲む各役人によって、ギチギチの宗教裁判の場と化していた――。


『銀剣物語 第四話 オトコはつらいよ』

 
「ふむ……被告、その証言に嘘偽りはないのね?」

 裁判官兼死刑執行人である藤ねえが重々しく頷く。
 その手に持った虎竹刀は、いまやエグゼキュージョナーズソードとなるのを今か今かと待ち構えているようにも見える。
 やだなあ、死刑前提で進められる裁判って。

「はい。
 氷室を抱きかかえていたのは人道上、救命上の措置であって決して疚しい理由ではありませんタスケテ」

 なるべくはっきりと、身の潔白を証言しようとしたのだが、四方から送られてくるプレッシャーに思わず語尾が震える。
 ふふふ、このプレッシャーはバーサーカーにも劣らないぜ……!

「検事、ガイシャからの証言は?」

 もう一度頷いた後、藤村裁判官が検事席に話を振る。
 席に座っていた遠坂検事が、手元の資料を見ながら――いつ作ったんだ、それ?――発言した。

「未だ意識が戻らないので何とも。
 しかし被害者の衣服はところどころ引き裂かれたかのように破れており、さらに肌にはなにやら縛られた痕のようなものが」

「な、なんですとぉー!?」

 藤村裁判長、絶叫。
 ……すごい。
 裁判長の迫力もすごいが、それよりも遠坂の奴、顔が怒ってるのか笑ってるのかわからない。
 一流の魔術師になるとあんな器用な顔芸が出来るというのか。

「ふふふ。これが怒ってないように見えるの衛宮君?
 あと顔芸って言うな」

「すっごくごめんなさい」

 うっかり口に出していたらしい。
 正座のまま平謝りな俺に、ばしばしと木槌代わりに竹刀を振るう裁判長。

「それよりも被告!!
 なんつー特殊なプレイを実践しようとしてたのよコラー!?
 上訴すっとばして宇宙最高裁判所の判決を下すわよ!?」

 すいません10秒で判決が下るような司法機関は勘弁してください。
 そこへ、俺から見て左手から勢い良く手が挙げられた。

「異議あり! 弁護側は被告のどんな要求にも応じられる構えが……!」

「桜、それは論点がずれています」

 勢い込んで異議を申し立てる桜弁護士だが、隣に座るライダーに窘められている。
 桜が何を言っているのかよくわからないが、俺もライダーと同意見です。

 ……俺から見て正面に藤村裁判長。
 右手に遠坂検事。
 左手に桜弁護士と付き添いのライダー。
 これが衛宮家家族会議という名の宗教裁判の構成である。
 ちなみにこの場にいないセイバーとイリヤは、いまだ意識を取り戻さない氷室の付き添いで別室に待機中だ。
 ……激しく作為的な人員割り振りだと思うのは俺だけなのかなぁ。

 さて、今、被告席で座らされているのは俺一人である。
 氷室は先ほど言ったとおり、別室で眠っている。
 では、水銀燈と雛苺はどうしたかと言うと……。


「ええい情けなや!!
 士郎がこれ以上道を間違える前に、冥府に送ってあげるのが姉としての最後の情けよ!
 地獄で切継さんに詫びて来なさい!!」

 親父も地獄行き確定かよ。
 いよいよ俺を断罪しようと竹刀を振り上げる藤ねえ……といっても既にさっきから何度も喰らってるけど。
 一つ発言するたびにびしばし飛んで来るんだもん、あの虎竹刀。

「まあまあ裁判長、まずは氷室さん本人が目を覚ますのを待つべきです。
 当事者抜きでこれ以上憶測を交わしてもしょうがないですし」

 ととと遠坂ぁ!!
 ありがとう、俺のこと見捨ててなかったんですね師匠!?
 助かった、本当に……って。
 なぜに牧場の羊を見る狼のような目つきで俺を見るのですか?
 『まだまだお楽しみはこれからよ』って感じの。

「……で、ソレはひとまずおいといて。
 アレはなんなの衛宮君?」

 くい、と顎で『アレ』を指す師匠。
 どうやら俺の横、テレビの置かれている位置付近を指しているらしい。
 お前も見てみろ、と言わんばかりだ。
 ……嫌な汗がだらだら流れてきた。

 遠坂がなにを指しているのか、もう見なくてもわかってる。
 でもこのまま目を逸らしてても強制的に向けられそうだ。
 さすがに首をねじ切られるのはいやなので、仕方なく首をそちらへ向ける。
 するとそこには、

『観念しろハイエナ教頭!
 お前の悪事は全て暴かれたぞ!』

『くっ……さすがはくんくん探偵。
 まさかこれほどとは……だが!』

「危ないわ、くんくんっ!!」

「そこよ、後ろなのー!」

 衛宮家家族会議そっちのけで、テレビに熱中している薔薇乙女《ローゼンメイデン》二人の姿が。
 見ているのは『たんてい犬くんくん』。
 人形劇のくせにゴールデンタイムに2時間スペシャルを敢行する人気番組である。
 人形が人形劇みてエキサイトするのは突っ込むところなんだろうか。
 特に水銀燈などは、普段からは想像できないほど熱心にのめりこんでいる。

「不思議なお人形さんよね?」

 にこり、と満面の笑みでこちらに顔を向ける遠坂。
 でも後ろに背負ってるエフェクトが灼熱の炎なのでインパクト強すぎ。
 遠坂はこっち方面に関しては藤ねえより厳しいのだった……!!

「で、アレはなに?
 こっちの疑問は氷室さんがいなくても答えられるでしょ?」

 こ、このオーラは……返答次第では殺られる……!?


「えーと、その、だな……」

 上手い言葉が出てこない。
 というか、俺が水銀燈について説明出来るのか?
 俺自身が水銀燈から詳しく話を聞こうと考えていた矢先だぞ?
 ちらっと隣を見てみる。

『ははは、教頭は捕まったが私はそうはいかん。
 また会おう、親愛なる名探偵くんくん!!』

『ペロリーナ男爵……!
 次こそは、必ず捕まえてみせる!!』

「ああっ……くんくん……っ!!」

 テレビの前で感極まった声を上げている姿を指して紹介しろっつってもなぁ。
 無理だろ。

 どうしたものか、俺が答えあぐねていると……。

 リーン、リーン、リーン……。

「ん?」

 アナクロニズムなベルの音が、沈黙の居間に飛び込んできた。
 我が家の昔なつかしの黒電話が鳴っているのだ。

「あ、電話……」

 応対に出ようとする桜。
 ……いや、だがしかしこれは俺にとって救いの手……!
 即座に俺は、桜を手で制した。

「桜、待った。
 電話には俺が出るよ」

「え、先輩、でも……」

「いや、いいんだ。
 それより遠坂、俺が説明しようにも上手く言えそうに無い。
 水銀燈に直接聞いたほうが話が早いだろうから、そういうことで頼む」

 みんなにもわかりやすく、ついでに俺も改めて説明が聞ける。
 いいアイデアだと思ったのだが。

「……逃げたわね」

 じろりと睨まれる。
 う、だって本当に俺じゃ説明できないんだって……!
 再び冷や汗をかいていると、ふっと遠坂の視線がやわらいだ。

「ま、しょうがないわね。
 じゃあアンタたち、ちょっとこっちへ来なさい。
 いくつか聞きたいことがあるから」

「うぃー……なーに?」

「……くんくん……」

 ひょこん、と座りなおす雛苺と、まだ夢見心地な水銀燈……なんかキャラが違くないか?

 そのまま遠坂が聞き手になって、二人への質問が始まった。
 藤ねえがいる以上、あまり魔術関連のことは突っ込めないだろうが……遠坂ならその辺は上手く捌いてくれるだろう。

 さて、俺はひとまず電話のほうを片付けないとな。
 早くしないと俺が説明を聞き逃しちまう。
 鳴りっぱなしの受話器を取り、耳元へ当てる。

「はい、もしもしー?」

 ……それにしても、もう夜の九時を回ったところだというのに、一体どこから電話がかかってきたのだろう?
 皆のほうを横目に見ながら、受話器に呼びかけてみると……。


『夜分遅くに申し訳ありません。
 私は、く、く、葛木メディアと申しますがっ』

「って、キャスター!?」

 驚いた。
 電話から聞こえてきた声は、今日の昼間に偶然会ったキャスターのものだった。
 キャスターが電話をかけてきたことも驚きだけど、キャスターが葛木先生以外にこんな丁寧な言葉遣いをしてるのも驚きだ。
 あと、名乗るくらいでどもるな。

『あら、なんだ、坊やだったの。
 わざわざ畏まって損したわ』

 が、すぐさま掌を返すように口調を変えるキャスター。
 ……酷い言われようだ。

「な、なんでアンタがウチの電話を……?」

『あら、念話を無理やり繋いだほうが良かったかしら?』

「いや、それは勘弁」

 この魔女ならば本気で俺を電波受信可能な身体にしかねない。

「でも実際、どうやって俺の家の電話番号を調べたんだ?
 教えてないよな、俺」

『そんなもの、一成君に聞いたらすぐに教えてくれたわよ』

 あ、なるほど。
 そういえばキャスターは一成と同じ場所に住んでいるんだった。

「あれ、でもキャスターと一成って……」

 微妙に仲が悪いと言うか、よそよそしかったような気がするんだが。

『確かに、一成君には不審そうな目でみられたけど。
 でも、どうしても坊やに確かめたいことがあったのよ』

 ……はて。
 そうまでしてキャスターが俺に電話をしてくる用件とは、一体……?

『……単刀直入に聞くわ。
 坊や、また面倒なことに首を突っ込んでいるでしょう?』

「なっ!?」

 まさに直球。
 キャスターは、今俺が直面している問題をズバリ指摘してきたのだった。

「な、なんで……」

 なんでわかったんだ、と。
 最後まで言い切る前に、キャスターが言葉を重ねた。

『昼間は連れ合いの子が居たから言い出せなかったけれど……。
 坊やの左の薬指から流れ出ていた、契約の魔力。
 私が見逃すとでも思っていて?』

 俺を嘲るようなキャスターの声。
 ……流石神代の魔女。
 俺如きには見えもしなかったものをあっさりと看破していたのか。

『一緒に居た……氷室さんだったかしら?
 あの子からも同じような魔力を感じたけれど……』

「氷室はもう……契約を、破棄した」

 一瞬の沈黙をおいて、声が少し低くなる。

『……そう。
 賢明な判断だったかもしれないわね。
 坊や一人じゃ契約をどうこうするなんて、どだい無理な話だったでしょうし』

 褒めてるのか貶してるのかどっちだ、それ。

 しかし、今の口ぶりからすると……もしかして、あの時キャスターの所に駆け込んでいたら、氷室は別な形で助かっていたのだろうか。
 今となっては意味の無い、イフの話ではあるが。

『とにかく。
 そういうことなら、坊や一人ででもいいから、近いうちに柳洞寺にいらっしゃい。
 詳しい話はそのときにしてあげるから』

「ああ、わかった……でも、どうしてそこまでしてくれるんだ?」

『……別に、バイト料のようなものよ。
 借りと言うほどのものでもないけれど、それでも清算しないと気分が悪いわ。
 それだけよ』

 ふん、と鼻を鳴らしながら、そっけない答えを返すキャスター。
 しかしまあ、納得のいく理由ではあった。

「そっか。
 ありがとうなキャスター。
 明日の放課後にでも寄らせて貰うよ」

 感謝の言葉を告げて、受話器を置く。
 ……明日は学校終わったら、柳洞寺に直行か。

 さて。
 思ったよりも長電話になってしまった。
 振り返ってみてみると、どうやらもうあらかたの話は終わってしまったところのようだ。

「ふむふむ、つまり雛苺ちゃんたちは、そのローゼンさんに作られた、自分で動くお人形さんなわけね?」

「そうよ、雛苺は薔薇乙女《ローゼンメイデン》の第六ドールなの!」

「ほほう、なんとも不思議なこともあるものよのぅ……」

 手を上げて答える雛苺に、藤ねえが頷いている。

「こんなに人間らしく動くなんて……」

「ええ、驚きです」

「全く、世界は広いわよねー」

 他の三人も、程度の差はあれど目の前で動く人形を見て感嘆しているようだ。
 もっとも桜はともかく、ライダーや遠坂はどこまでが本気かわからないが。

「さて、大体はわかったわ。
 聞きたいことはあらかた尋ねちゃったし。
 ……今は、ね」

 言葉尻に含みを持たせる遠坂。
 あの様子では、薔薇乙女《ローゼンメイデン》に危険な側面があることも、恐らく勘付いているんだろう。
 だが、やはり藤ねえの手前、危険に関わりそうな部分は尋ね難いようだ。

「それで、どうしましょうか藤村先生?
 を、この家で預かっていいんでしょうか、この二体……いや、二人かしら?」

 遠坂も、水銀燈と雛苺があまりに人間らしく動くため『二体』とは言い難いらしい。
 話を振られた藤ねえは、うーん、と唸った。

「水銀燈ちゃんに関しては、士郎が保護者……みたいなもの、なのよね?
 で、雛苺ちゃんは氷室さんのところにいたけど、負担になるから士郎が預かる、と」

 しばらく考え込んでいた藤ねえだが、唐突に顔を上げると大きく頷いて言った。

「うん、いいでしょう!
 この家で暮らすことを許可します。
 ただし、この場に居る人以外には、このことは他言無用よ!」

「……いいのか、藤ねえ?」

 いや、俺としては願ったりなのだが、こうもあっさり許可を出されるとは。

「いーのいーの!
 生身の女の子ならともかく、お人形さんなら士郎も問題ないでしょう!
 もちろん、お人形相手に問題が起こった場合は悪・即・斬だけど」

「それはない」

 俺の信用は今日一晩でがた落ちだった。

「あと、氷室さんのことに関しては雛苺ちゃんの嘆願もあったから保留!
 以上、解散!」

 かくして。
 藤ねえのつるの一声で、衛宮家家族会議は解散となった。
 結果的に、思いがけず藤ねえにまで薔薇乙女《ローゼンメイデン》が容認されてしまったが……いいのか?



 そしてその晩、俺は――。


他の面子と共に、遠坂の部屋に呼び出された。

 衛宮邸の離れに居を構える遠坂の部屋。
 普段は部屋の主くらいしか居ることのないこの部屋も、今夜は珍しく客人があった。
 水銀燈、雛苺、そして俺。
 藤ねえが帰った後、この面子が遠坂に呼ばれて、この一室に集合したのだ。

「遠坂、それで話っていうのは……?」

 雛苺を胡坐の上に乗せながら俺が尋ねると、遠坂は腕組みしたまま言った。

「藤村先生抜きじゃないと言えない事もあるってことよ。
 家庭裁判のロスタイム、ここからは魔女裁判といきましょう」

 ……さらりと恐ろしいことを言うなあ。
 俺にとってはさっきまでのも充分宗教裁判チックだったんだが。

「あー……やっぱり遠坂はわかっちまったのか」

「ええ、そりゃあそうよ。
 そこに居るアンティークドールたち、見た目ほど可愛いもんじゃないわ」

「……なんですってぇ?」

 ぶすっとしていた水銀燈が、さらに不機嫌そうに遠坂を睨みつける。
 それもそのはず、普段なら水銀燈は、もうとっくにトランクケースの中で眠っている時間なのだ。
 さっきも『たんてい犬くんくん』が終わった途端、さっさと寝ようとしていたのだが、なんとか宥めて連れて来たのだ。

「うゆ……」

 雛苺にいたっては、もう既にうとうとと舟を漕いでいる。
 この分では会話に参加させるのは難しそうだ。

「当たり前でしょう。
 魔術に関わるものなんて、大なり小なり厄介なものなの。
 その辺ははっきりさせておかないとね」

「何を言うのかと思えば……くだらなぁい。
 そんなくだらないことを言いたいだけなら、水銀燈はもう寝るけどぉ」

 ばちばちばち。
 遠坂と水銀燈の間で見えない火花が散る。
 ……ううむ、薄々思ってたけど、この二人って相性悪いんだなぁ。

「まあまあ、抑えてくれ水銀燈。
 ……遠坂も、ちゃちゃっと本題を……」

「そうね。
 眠そうな子もいることだし、とっとと話を済ませちゃいましょうか」

 意外とあっさりと遠坂は頷くと、組んでいた腕を解いて俺に向き直った。

「まず……氷室さんの容態について、ね。
 セイバーとイリヤから様子は聞いてる?」

「あ、ああ……」

 ちなみに、氷室は今、使われていなかった空き部屋で寝ている。
 セイバーとイリヤに様子を尋ねると、二人は揃って頷いた。

『ええ、かなり消耗していましたが、既に持ち直しました。
 大事を取って一晩休めば、大丈夫かと』

『わざわざ私が体調を直したんだもの、大丈夫に決まってるわ。
 これで貸し一つだからね、おにいちゃん』

 ……という二人の答えを聞いて、俺はほっと胸を撫で下ろした。
 気を失った直後はあわやと思ったが、無事なようで何よりだ。

「そう、つまり、それこそが何よりのひっかかりよ。
 士郎が人形をつれてきたと同時に、弱った氷室さんを抱えてやってきた。
 ……関係ないと思うほうがおかしいでしょ」

 確かに……氷室が衰弱したのは、雛苺に力を吸われた所為だ。
 その二人を同時に連れてきたら、原因を知らなくとも、そこになんらかの関連を考えるのは自然だろう。

「あれ、でもさっき藤ねえはあっさり納得してたけど……?」

 藤ねえは、二人の関連性に思い至らなかったのか?

「さっきは藤村先生にだけ、こっそり思考誘導を噛ませておいたのよ。
 要するに簡単な暗示ね」

 ……ぜんぜん気がつかなかった。

「話を戻すと。
 ここまでの情報から推理すると、予想できることは三つほどあるわ。
 一つ。薔薇乙女《ローゼンメイデン》は人間と契約できるということ。
 二つ。契約者は薔薇乙女《ローゼンメイデン》に魔力を供給するということ。
 三つ。薔薇乙女《ローゼンメイデン》は、契約者の魔力を枯渇させるほどの力を行使する存在であること」

「……なんか、魔術師とサーヴァントみたいだな?」

「そうね、士郎の言うとおり、魔術師と使い魔の関係にそっくりよ。
 魔術師でもない一般人でもお構いなしに契約できる、ってところが厄介だけど」

 ……そうか、氷室は人並みの魔力しか持っていなかったから、雛苺に魔力を吸われてあんなことになってしまったわけか。
 俺はこれでも魔術師見習いだから、普通の人よりは魔力が高い。
 だから、水銀燈が力を行使しても無事でいられたのだろう。

「問題は、そんな力を使って何をやらかそうとしてるのか、ってことよ。
 ただ動くだけなら、人間が昏睡するほどの魔力を必要としないんだし。
 ……あんたたち薔薇乙女《ローゼンメイデン》の目的は一体なんなの?」

 嘘は見逃さないし許さない、とでも言うような遠坂の口調。
 それに対して、ふん、と笑って水銀燈は答えた。

「目的?
 ……薔薇乙女《ローゼンメイデン》の目的は一つだけ。
 アリスゲームを制して『アリス』になる。
 それこそが私の望み、そしてお父様の望み」

「アリスゲーム?」

 それは、以前にも聞いた言葉だった。
 nのフィールドと呼ばれていた空間で、水銀燈が開幕を宣言した儀式。
 あの時は、なにか既視感を覚えたような気がしたが……。

「そうよぉ。
 私たちは自らの力で、お互いの『ローザミスティカ』を奪い合うの。
 それがアリスゲーム。
 薔薇乙女《ローゼンメイデン》に課せられた宿命」

 歌うように言葉をつむぐ水銀燈。
 だが、聞いたことのない単語が出てきたせいで、イマイチ理解できていない。
 それは遠坂も同じだったようで、眉のつりあがり角度がさらに上がった。

「……アンタ、初耳の人間にもわかるように言いなさいよね。
 何よ、そのローザミスティカってのは?」

「ローザミスティカはローザミスティカよぉ。
 私たちの命の源であり、アリスへ到る為の鍵。
 ローザミスティカを失ったドールは、只の人形になっちゃうのよぉ」

 さも当たり前のように言う水銀燈だったが、俺と遠坂は思わず顔を見合わせた。

「……つまり、薔薇乙女《ローゼンメイデン》の魂、みたいなもんか?」

「擬似的に魂の役目を果たす魔力炉心、かもしれないわね。
 どっちにしろそんなもんを造ったローゼンって人形師、とんでもないわね……」

 魂の物質化。
 それは第三魔法とも呼ばれる奇跡の業だ。
 かつてこの街に降りた聖杯は、その奇跡を起こすための触媒だった……という話を、事が終わった後に聞いたことがある。
 要するに、このお人形さんはどえらい技術を使って造られているって事だ。

「魔術師として興味は有りすぎるくらい有るけど……。
 それはともかく置いといて、そのローザミスティカを奪い合って、全部集めるのがアリスゲームの目的なわけ?」

「ええ。
 全ての『ローザミスティカ』を手に入れたドールだけが、『アリス』に至ることが出来る。
 それが薔薇乙女《ローゼンメイデン》の宿命なのよ」

 そんな……それじゃ、まるで……。

「……最後の一人になるまで殺し合い、ね。
 まるで聖杯戦争じゃない」

 遠坂の一言は、まさに俺が思ったことと同じだった。
 nのフィールドで感じた既視感が甦る。

 サーヴァントをドールに。
 魔術師をミーディアムに。
 令呪を指輪に。
 聖杯を『アリス』に。

 これは、自らの願いを叶えようとする人形達の聖杯戦争だった。

**********

「今日の所はもう帰っていいわ」

 と言う遠坂の言葉に従って、俺たちは部屋を退出した。
 雛苺は「鐘と一緒がいい」と言うので、トランクを氷室の寝る部屋へ持って行った。
 水銀燈は未だに土蔵で寝ることに固執しているらしく、中庭の向こうへ飛んでいった。

 遠坂の部屋から戻る道すがら、俺は今聞いた話をなんとなく思い返していた。
 水銀燈はアリスゲームを制することを望んでいる。
 俺としては、聖杯戦争の時と同じように、積極的に戦いに参加するのは良しとしない。
 できれば戦うこと無く、解決したいと思う。
 だがそれは、水銀燈の願いを無碍にすることを意味している。
 アリスになるという目的がある以上、戦うということは避けられない……。

「――あれ?」

 ふと、気付いた事がある。
 薔薇乙女《ローゼンメイデン》は、究極の少女『アリス』を模して造られた。
 そして今もアリスになることを願って戦いを続けている。
 それは、つまり。
 ローゼンに造られた7体のドールは、とうとうアリスには到らなかったということなのか。

「ローゼンの目指したアリスって、一体なんなんだ……?」

 結局蒲団にもぐりこむまでその答えは出ることなく、俺はゆっくりと眠りに落ちていった。





 そして、長い長い一日が終わり、新たな朝がやってくる。




――Interlude side Himuro


 まず最初に知覚したものは、匂い。
 目覚めは、嗅ぎ慣れない匂いへの戸惑いから始まった。

「……う……ん……?」

 目を開く。
 ぼやけた視界に映っていたのは、いつも見る自分の部屋の天井ではなかった。
 眼鏡が無いと何も見えない、と言うほどではないが、ぼんやりとしかモノが見えなくなるのも確かだ。
 だが、それを差し引いたとしても自分の部屋の天井を見間違えるはずがない。

「ここは……?」

 視界ははっきりしないが、頭ははっきりしている……寝起きは悪いほうじゃない。
 そのまま寝返りを打って、蒲団脇へと目を転じる。
 ……待て、蒲団?
 蒔の字の家ではあるまいし、なぜ私が蒲団で……?

「鐘! 目を覚ましたのね!!」

 他者の声で、思考から引き上げられた。
 同時に、腹部に何かがのしかかってきたような重圧がかかる。
 だが、私は抵抗しなかった。
 その声には心当たりがあったからだ。

「雛苺……?」

「良かった……鐘……!」

 重圧の正体は、やはり私にぎゅっとしがみついてくる雛苺だった。
 反射的に抱きかかえていると、そこであることに気がついた。

 ……先ほど寝起きは悪くない、と自称したばかりだが、早くも撤回するべきか。
 他人が同じ部屋にいたことに、今の今まで気がつかなかったのだから。
 私に抱きついている雛苺と……そして、もう一人の人物に。

「おはようございます、鐘」

「貴女は……セイバー嬢、でしたか?」

 目の前で微笑みかけている金髪の女性に、私は以前一度会った事がある。
 海外から衛宮の家を頼ってやってきたというセイバー嬢だ。
 かつて会った時には日本語も堪能で、礼節正しい好感が持てる人だった。

「はい。
 身体の具合はどうですか?」

 現に今も、正座の姿勢を崩すことなく私に応対してくれている。
 ……すごいな、この整った姿勢、蒔の字ですら舌を巻くぞ……いや待て。
 そうではなくて、今考えられることは……。

「あ……ええ、身体の調子は大丈夫です。
 少し頭がふらつきますが……大事無いでしょう。
 それよりも……貴女がいるということは、もしやここは……」

「ええ、ここはシロウの家です」

「…………」

 やはりか。
 天井や畳から窺える純和風の造りに、布団という寝具。
 なによりセイバー嬢がここにいることから、そうじゃないかとは思っていたが。

「色々と聞きたい事はありますが……。
 まずは、私の眼鏡の在り処を知りませんか?
 あれが無いと、少々目つきが悪くなるもので」

 長年の付き合いである相棒の行方を尋ねる。
 もっとも、蒔の字に言わせれば私の鋭さは眼鏡つきでもさほど変わらないらしいが。

「それでしたら、枕元に。
 ほこりを被るといけないらしいので、包んでおきました」

 セイバー嬢の指し示す先を見れば……なるほど、確かに枕元に白い布の包みが置いてあった。
 手にとって解いてみると、中から見慣れた私の眼鏡が。

「ご丁寧に、どうもありがとうございま――」

 眼鏡をかけた私は、そこで――。



 ……自分が着ているのが、これまた見慣れない猫柄のパジャマであることに気がついた。

「この、パジャマは……?」

「ああ、それは、あの制服のまま寝かせておくのは忍びない、ということでしたので……その、とある女性の寝間着を借りて着替えさせておきました」

「……そうか、私の制服は……」

 ここに来てようやく、私は気を失う前の成り行きを思い出していた。
 自宅に衛宮を招いたこと。
 雛苺の思いもよらない力のこと。
 おもちゃ箱のような世界で、茨の鎖に縛られていたこと。
 はっきりとは憶えていないが、確かにあの時、制服がところどころ破れていた気がする。
 それを見かねて着替えさせてくれたのだろう。
 ……しかし、とある女性とは、一体?

「そうですか……しかし、その。
 せっかく着替えさせてもらっておいてなんだが、これは」

 その、胸周りがいささかキツイと言うか。
 先ほどから息苦しいと思っていたが、これが原因か。

「……どうかしましたか?」

 しかし、いぶかしむセイバー嬢の顔を見て、考えを改める。
 厚意で貸してくれたものなのに、そんな贅沢を言っては罰が当たるだろう。

「いや、なんでもない。
 と、ところで今は何時ごろだろうか?」

「今ですか?
 そうですね、およそ5時ごろといったところでしょうか」

 ……いつもよりも一時間以上早い起床だった。
 半日近く眠っていたと考えればむしろ長いと言うべきか。
 いや、それよりも。

「セイバー嬢はこんな時間から、私に付き添いを……?」

「ええ、ですが大丈夫です。
 これでも一晩夜通しで起きている程度、どうという事はない」

 心なしか誇らしげに、少し胸を張るセイバー嬢。
 言葉通りに受け取るならば、セイバー嬢は朝の五時からなんて生温いことを言わずに一晩中付きっ切りで見張っていてくれていたらしい。
 それは……いくらセイバー嬢が丈夫だったとしても、流石に申し訳ない。

「し、しかし……」

「ご心配なく。
 皆さんが学校へ行った後で、私も休ませてもらいますので」

「学校……あ」

 ……そうか、昨日色々あってすっかり失念していたが、今日は金曜日。
 普段どおりの平日日程、絶賛授業開催中だ。

「……ところで、鐘は学校へ行けますか?
 今日は大事を取って休んでも構わないと思いますが」

 そう、当然私も学生の身、授業があるなら登校しなければいけない。
 私は……。



 先程も言った通り、体調は既に充分回復している。
 だが、正直に言えば……頭の整理のほうが、まだしっかり仕切れていなかった。
 自分で言うのもなんだが、あれだけの体験をしたのだ、そうそうあっさり整理できるものではないだろう。
 学業をサボタージュするのは気が引けるが、じっくり考える時間が欲しいのも確かだ。

 そういった理由から、私はセイバー嬢の持ちかけてきた案に素直に頷くことにした。

「そうですね。
 ここは一つ、お言葉に甘えさせてもらいます」

「わかりました。
 大河にはそのように伝えておきましょう」

「大河?
 …………ああ、藤村先生のことですか」

 いかん、一瞬、藤村先生と下の名前が合致せずに怪訝な顔をしてしまった。
 そういえば藤村先生も、この家に入り浸っているという話だったな……。
 しかし藤村先生を大河と呼ぶとは、セイバー嬢は思ったよりも度胸があるのかもしれない。

「では早速、私は皆に知らせてきましょう……ああ、そうだ。
 着替えの服はこちらに用意してあるものを使ってください」

 さっ、とどこからともなく折りたたまれた衣服一式を取り出すセイバー嬢。
 本当に至れり尽くせりだった。

「何から何まで申し訳ない。
 ……ところで、この服もパジャマと同じ人物が?」

「ええ、とある女性が貸してくれました」

 ふむ、再びとある女性か。
 その言い方は気になるが、その人物には後で正式にお礼を言いに行かなければなるまい。

「それでは、また後で」

 一礼をして障子を閉め、去っていくセイバー嬢。
 それを見送って、私はふう、と一息ついた。
 やれやれ、意外と緊張するものだ。
 寝起きにさして面識の無い人と会話したのは初めての経験だったか。

「……鐘、まだ苦しいの?」

 私のため息を疲労のそれだと思ったのか、雛苺が心配そうに見上げてくる。
 その頭をなるべく優しく撫でてやりながら、私は答えた。

「いや、そういうわけではない。
 色々あったからな、少しゆっくり考える時間が要るのだよ……」

 そう、確かに考えることは多い。
 私は一旦、雛苺に退いてもらってから、立ち上がった。
 考えるにしても、まずは着替えなくてはならないだろう。
 渡された着替えを手に取る。
 赤い上着に黒いスカート、黒いニーソックス。
 ……はて、この赤が強調されたコーディネイト、どこかで見た事があったような。
 それが果たしてなんだったか、と考えながら、パジャマのボタンを外していると……。



「氷室、目が覚めたのか!?」

 がしゃーっ、と、勢いよく開かれる障子。
 反射的に振り返って見れば、衛宮がそこに立っていた。

「さっきセイバーの声が聞こえてきたから……って……」

 目と目が合った。
 勢い込んでいた声が急速に弱まる。
 衛宮の身体は、障子を開ききった姿勢のまま、停止してしまった。
 恐らく、私が今どんな恰好でいるのか理解してくれたのだろう。
 だが、私のほうも突然のことに身体が硬直してしまって動けなかった。

「…………」

「…………」

 視線を交わしたまま、互いに無言。
 私の指はパジャマのボタンを外す途中で止まっている。
 具体的に言えば、襟元から数えて三番目のボタンを外そうとしているところだ。
 それがどのくらいの位置になるかは……まあ、察してもらいたい。
 なお、念のために言っておくが、流石に下着は身につけている。

「…………」

「…………」

 静かだった。
 外から聞こえてくる鳥の声だけが、この場に流れる唯一の音。
 この場所だけ時間が止まってしまったかのようだ。
 止めているのは私と衛宮。
 そして、それを壊したのは二人のどちらでもなく、第三者の声だった。

「……鐘?」

 私と衛宮を交互に見比べていた雛苺が、小首をかしげて尋ねてきた。
 些細なきっかけ。
 だが、私達二人が再起動するには充分すぎるほどのきっかけだった。

「す……」

 まず、衛宮が動いた。
 1秒にも満たぬ速さで、顔全体が髪の色に負けぬほど赤くなり、視線は私の顔から外れて泳いだ。
 そして、油の切れた機械のようにぎこちなく身体を傾けると……。

「すまん氷室っ!!!」

 まさに脱兎。
 入ってきたときの勢いも凄かったが、そのときの倍以上の勢いで衛宮は転進、両手で障子を掴んで閉めようとした。

 ……そこでようやく、私の身体も動けるようになったらしい。
 その直後、私は――



「あ……見られ、た……?」

 自然とこぼれたそれが、自分の声とは思えない。
 無意識に掻き合わせたパジャマが、胸を圧迫する。
 衛宮によって再び障子が閉ざされた。
 それを見つめたまま、ひどくゆっくりと思考が進む。

 見られた。
 誰に?
 衛宮に。
 何を?
 私の――――

「………………っ!!!」

 ここに到って、私の頭と身体は通常の働きを取り戻した。
 頭は今起こったアクシデントを理解し、身体は……情けないことに、ぺたん、とその場にへたりこんでしまった。

「鐘? 鐘っ?
 どうしたの?」

 袖を引く雛苺の声がどこか遠い。
 見られた、見られた、見られた――!!
 せっかく動き出した頭が、その言葉だけで一杯になる。
 顔が熱くなっているのが、触らないでも感じられる。

 なんなのだろう、このとてつもない羞恥感は。
 らしくない、全くもって氷室鐘らしくない氷室鐘だ。
 今までこんな感覚を味わったことなど、一度も無かったのに……いかん、涙まで出てきた。

「う……っ」

「か、鐘っ!?」

 雛苺は、私が涙ぐむのを見てまず驚き、次に心配そうに覗き込んできた。

「どうしたの、シェロゥに見られたのが悲しいの?!」

「……違うんだ、雛苺。
 そうじゃない、そうじゃないんだ……」

 何がどう違うというのか。
 自分でもよく判っていないまま、私は雛苺を制していた。
 確かに衛宮が原因ではあるが、それが悲しいだけではなくて……。

 ……駄目だ。
 頭を侵す熱が、まともな思考を阻害している。
 まずは落ち着かなければ。

「すぅ……はぁ……」

 ゆっくり息を吸って、吐く。
 目を閉じて涙を止め、強張った腕の力を抜く。
 幸いすぐに涙は止まり、都合4回の深呼吸で、私の中の狂熱は治まった。

「……済まなかった、雛苺。
 もう大丈夫だ」

「本当?
 シェロゥがひどいことしたんじゃないの?」

 流石に、前後の因果関係から見れば、雛苺だってそう考えるか。
 ……今気がついたが、雛苺の『士郎』発音は少し特殊だな。

「ああ、ちょっと驚いてしまっただけだ。
 驚かせて悪かったな」

「んーん、雛苺は平気なのよ」

 軽く頭を撫でてやる。
 雛苺はくすぐったそうに笑って、私のことを見返してくれた。

 ……さて。
 落ち着いたからには、障子の外で待っているであろう衛宮にも声をかけなければなるまい。
 一、二回喉を慣らしてから、なるべく平静を装って話しかける。

「え、えみや?」

 ……なんだ今のものすごく掠れた声は。
 思わず蒲団に頭から突っ伏しかけていると、衛宮のほうから声が返ってきた。

「……え、ええっとだな。
 本当に、済まなかった、氷室。
 セイバーの声が聞こえて、もしかしたらって気が焦ってて、つい……」

 心なしか声が上ずっている。
 どうやらあちらもまだ平常ではないらしい。
 しかしそれはこちらも同じこと、なんと言って返したらいいものか……。

「あ、ああ。
 だがな衛宮、女性の部屋に断りなく入ってくるのは……その、なんだ……」

 ……っ、駄目だ。
 必死に忘れようとしていた羞恥が甦ってくる。
 無理矢理でも切り替えようとしていると、障子の外から再び衛宮の声が。

「いや、わかってる。
 あれは全面的に俺が悪かった」

 すまない、と打って変わって真面目な声で謝る衛宮。
 障子越しだが、なんとなく深く頭を下げている姿が想像できた。

「それで、体調はどうだ?
 まだ具合悪かったりしないか?」

 真剣に私のことを気遣っている声。
 先ほどのことを差し引いても、それは私の知る衛宮のそれだった。
 ……どんな時でも衛宮は衛宮、か。
 そう思った瞬間、すとん、と私の中で何か憑き物が落ちた。

「大丈夫だ……と言いたいところだが。
 まだ頭のほうの整理がついていないのでな。
 済まないが、今日も学校は休んで、素直に家に帰ることにする」

 途端に、自然と普段どおりの声で返事を返すことができた。
 まだ若干、照れは残っているが。

「……重ねてすまん。
 そういえば、昨日は勝手にウチに連れて来てたんだった」

「いや、幸い昨日は家に誰も居なかったはずだからな。
 上手く言いつくろえば無断外泊だとはばれないだろう」

 落ち着いたところで、余裕が出来た。
 その余裕で改めて見てみれば、私は未だパジャマを脱ぎかけのまま、突っ立っている恰好だった。
 ……やれやれ、このままでは衛宮に顔も見せられない。
 せっかくだから、会話のかたわら、着替えさせてもらうことにしよう。
 ……いや、自分でも余裕が出来すぎだとは思うが。

「ああ、そういえばそんなこと言ってたな……っと、そうだ。
 氷室、これからすぐに帰るつもりか?」

「いや……帰る前に、色々と尋ねたい事がある。
 衛宮が登校する頃合までは、話に付き合って欲しいのだが」

 パジャマのボタンを外し、肩から下ろす。
 見た目に反して質はいいのか、猫柄のパジャマはするりと落ちた。

「ああ、判った。
 じゃあさ、せっかくだからウチで朝飯食べていかないか?」

「なんだと?」

 衛宮の提案に、着替えの服を持った両手が止まった。

「ウチは大所帯だから、一人分多く作るくらいは問題ないし。
 話をするのはその後でも間に合うだろ?」

「まあ……確かに……」

 頷きつつも、目の前の服を注視する。
 パジャマは何とか着る事が出来たが、果たして洋服は平気なのか?
 ためしに袖を入れてみる。
 ……ん、袖丈は大丈夫のようだ。

「それに、氷室の家に誰もいないってことは、一人で飯を食べるってことだろ?」

「ああ、そうなるな……」

 問題は胴回りだが……。
 むっ、やはり辛いか。
 だが、せっかく借りた手前、多少の無理は……。

「それじゃ味気ないだろ。
 飯は皆で食べたほうがうまいもんだ。
 そんなわけだから、できれば氷室にも一緒に食べて欲しい。
 ……どうだ?」

「……そうか、では、お願いする……っ」

 ……むむむ。
 服の持ち主には甚だ悪いが、やはりサイズが違うと辛い。
 服に、身体を押し込める、感じだ。

「じゃあ、早速朝飯作ってくるから。
 今頃は、桜が準備してくれてるかもしれないな……?」

「ま、待ってくれ、衛宮っ」

 立ち去ろうとする衛宮を、寸でのところで呼び止める。
 着替えには随分てこずってしまったが、最終的な結論として……



 ……入った。
 かなり無理をして押し込んだ感はあるが、なんとか上着の体裁は整った、と思う。
 後はスカートだが……み、短いな、随分と。
 私の普段の服とは比べ物にならないほどミニなソレを、恐る恐るはいてみる。

「う……こちらも、やはり」

 きつい。
 私も、自分の身体が他人と比べてもかなり女性的な作りであることは承知している。
 比べて、この服の持ち主はなかなかの細身だったようだが……。

「氷室ー?
 どうしたんだー?」

「あ、いや、ちょっと待っていてもらえるか?」

 しかし背に腹は代えられぬ。
 障子の外で衛宮も待っていることだろうし、覚悟を決めて止め具をはめる。

「ん……よし」

 スカートは、上着よりは楽にはく事が出来た。
 腹部は窮屈だが、これで止め具がとめられかったことを思えばマシなものだろう。
 続けて黒いニーソックスを履く。
 こちらは履きなれないというわけでもないので、手短に済ませる。
 最後に、鏡が無いので適当に手櫛で髪型を直す。
 これで着替えは完了だ。

「……待たせてしまったな。
 では行こうか、雛苺」

「うん!」

 気を落ち着けてから、障子に手をかける。
 ゆっくりと開いたその先では、やはり衛宮が待っていた。

「氷室、着替え終わったのか……って、その服……?」

 衛宮が私の服装を見て、目を丸くしている。
 ……やはり、どこか違和感があるのか?

「セイバー嬢が渡してくれた洋服なのだが……。
 少しサイズが小さいようでな。
 どこかおかしいだろうか?」

「……よりによってアイツの服を貸したのか、セイバー……」

 衛宮が何か、ボソリと呟いたような気がした。
 小声だったので、なんと言ったのかは判らなかったが。

「?
 何か言ったか?」

「ああ、いや……なんでもない。
 別に、おかしいことは無いと思うぞ」

 我に返った衛宮は、手を左右に振りながら、私の服装を肯定してくる。
 しかし、そう言われても、はいそうですかと納得は出来ないのだ。

「そうか?
 かなり無理して着ているからな、あちこちがきつくて仕方ないんだが」

 立っている分にはまだましだが、これで身体を捻ったりすると……む、やはり辛いものがあるな。
 ……と、洋服の具合を確かめていると、衛宮が唐突に吹き出した。

「ぶっ……あ、あー、そっか、うん。
 ……その、ごめん、男としては非常にコメントしづらいんだが。
 あんまりそういうポーズを取られると、その、なんだ、困る」

 む……?
 衛宮の言っている事がよくわからない。
 私が身体を捻ると、衛宮が困るとは、一体……?

「あ」

 視線を下に送って、衛宮の言葉の意味がようやく理解できた。
 只でさえ密着感が尋常でない衣装。
 そこに捻りが加わったら、つまり、そういうところがくっきりと見えるわけで。

「……………………すまない」

 再び赤面するのが自分でもわかる。
 両手で胸元を押さえつつ、蚊の鳴くような声で謝罪した。

「だ、大丈夫だよ氷室っ!
 一瞬しか見てなかったし、忘れろって言うなら全力で忘れるから!」

「そっ、そうか……」

 慌ててフォロー……のようなものを口にする衛宮に、一応相槌を打つ私。

「………………」

「………………」

 それっきり、お互いに無言。
 廊下の真ん中で、何を言っていいのか判らなくなってしまった。
 話を切り出すきっかけが無い……そんな時。


「うむぅ……」

「ん?」

 廊下の向こう側から聞こえてくるうめき声。
 その声に、私は聞き覚えがあった。
 見れば、渡り廊下をふらふらと、どこか覚束ない足取りで歩いてくる女性がいる。
 普段の学校での振る舞いとは天と地ほどの違いがあるが、間違いなくあれは……。

「遠坂、嬢?」

「げっ、遠坂……」

 穂群原の制服に身を包んだ、遠坂凛嬢、その人だった。

「……ああ、そうか」

 と、同時に引っかかっていた疑問が氷解する。
 かの遠坂嬢の衣服の趣味は、確か赤色だったはず。
 そして、私が着ている服にも、それと共通のセンスが窺えるのだった。
 なるほど、セイバー嬢の言っていた『とある女性』とは遠坂嬢のことだったか。

「……なによ、人の顔を見るなり『げ』って。
 朝からご挨拶じゃない、衛宮君」

「う、すまん。
 それにしても遠坂、今日はやけに早いんだな?」

「ええ、正確には早いというよりも寝ていないのだけど。
 ちょっと気になったので調べ者をしていたら、これが意外と曲者でね。
 大して収穫も無いまま、夜が明けてしまったわ」

 遠坂嬢は相変わらず物腰が丁寧で、隙がない。
 ……おや?
 衛宮が妙な顔をしているが、どうしたのだろうか。
 まるで、いつもと同じ饅頭だと思って食べてみたら、中身が違っていたかのような。

「っと、おはようございます氷室さん。
 そういえば昨晩はこちらにお泊りしていたんでしたね」

「あ、ああ……」

 曖昧な返事を返す。
 疑問が一つ氷解したと同時に、私の頭に新たな疑問が浮上したのだ。
 ――なぜ遠坂嬢が衛宮の家に?
 時刻は五時を回ったところ、こんな早朝から他人の家を訪れる理由などそう多くは無いだろう。

「昨日は突然倒れたところを衛宮君に介抱されたそうですね。
 一時はどうなることかと………………げ」

 私に相対して口上を述べていた遠坂嬢は、その途中で言葉を失った。
 ……自分で衛宮に注意したばかりなのに、他人を見て『げ』は無いだろう、遠坂凛。

「おはよう、遠坂嬢。
 しかし、なぜ君が衛宮の家に居るのだ?」

「…………えーと、その前に氷室さん、ちょっといい?」

「む?」

 遠坂嬢が私に接近して、耳元で口に手を当ててきた。
 ……衛宮には聞かれたくない話か?

「……実はその服、私の私物から選ばせてもらったんですけど」

「ああ、やはり……」

「ええ、それで正直に答えて欲しいんですけれど……」

 一旦言葉を切って、遠坂嬢は重大なことを告発するように質問した。

「サイズ、合ってないですよね?
 氷室さん、今、どれくらいなの?」

「む……大体…………が…………で、…………くらいだが」

 ことさら小さな声で遠坂嬢に伝える。
 すると、ひどく驚いた様子でがばっと顔を凝視された。

「嘘、綾子より大きい!?
 ……氷室さん、意外と着痩せするタイプなのね」

「……あまり大声でそういうことを言わないで欲しいのだが」

 小声で言った意味がないではないか。

「鐘たち、何のお話をしてるのー?」

「さあなー。
 ほら雛苺ー、マルかいてチョンでコックさんだぞー」

 一人蚊帳の外になっていた衛宮が、雛苺と遊んでいてこちらの会話に注目していなかったのが救いか。
 だが庭の土に絵描き歌はどうかと思うぞ、衛宮。

「ああ、申し訳ありません。
 つい驚いてしまいましたが、そうですか、そんなに……。
 富める者はさらに富むということでしょうか。
 正直妬ましいです」

 …………!?
 今、一瞬だけ遠坂嬢の仮面が外れたような気がした。
 次の瞬間にはいつもの遠坂嬢に戻っていたが。

「しかし、そうなると私の服を無理矢理押し付けているのも悪いですね。
 間桐さんかライダー嬢の服なら、ちゃんと着られるでしょうから、後でそっちを借りましょうか」

「……すまない、お願いする」

 と、そこで、私の質問が答えられていないことに気がついた。

「話を戻すが。
 なぜ遠坂嬢が衛宮の家に?
 まさか二人がそこまで深い仲だとでも……」

 …………深い仲。
 自分でそう口にした途端、胸の奥がズキンと痛んだ。
 ……なんだろうか、なにか面白くない。

 しかし、私のそんな勘繰りは、遠坂嬢本人の言葉で否定された。

「いえ、誤解なさらないでください。
 ……実はお恥ずかしい話なのですが、以前私の自宅が老朽のため、全面改修をやむなくされた事がありまして。
 そのときに仮の住まいの提供を申し出てくれたのが、衛宮君だったんです」

「……よくそんなに口が回るな痛ってぇ!?」

 何か言いかけていた衛宮が悲鳴をあげて蹲る。
 私から見えない位置でなにかやられたらしい。

「藤村先生の目が届く衛宮君の家ならば、安全だろうということで、荷物を携えてこちらにご厄介になることになったんです。
 その後、改修は無事に終わったんですが、こちらの家での暮らしに慣れてしまいまして、今でも頻繁にこちらに泊まらせてもらっているんです。
 そうよね、衛宮君?」

「……はい、そういうことになってます」

 腹を押さえながら震えている衛宮が、必死で首を縦に振る。
 なるほど、そういう事情か。
 察するに、話の全てが真実だとは思えないが、それでもある程度の納得はいった。

「納得してもらえたようでなによりです。
 ああ、随分立ち話が長くなってしまいましたね。
 そろそろ居間に行きましょうか」

 気がつけばかれこれ十分以上廊下で話し込んでいた。
 遠坂嬢の至極真っ当な提案に反対する理由も無く、私たちは衛宮家の居間へと移動した。
 以前来たときは衛宮の私室に通された私にとっては、居間を訪れるのは初めてとなる。

「おはよう」

「よ、みんなおはよう。
 藤ねえはまだ来てないのか」

「あ、おはようございます。
 藤村先生とイリヤちゃんはまだ来てないですね」

 居間には既に幾人かの先客がいて、各々がくつろいでいるところだった。
 特筆すべきはその全員が美人と言って差し支えない人物ばかりであるということだろうか。
 台所の間桐嬢、お茶を淹れているセイバー嬢、テレビを見ているライダー嬢。
 今やってきた遠坂嬢も含めて、全員方向性は異なれど美女、美少女の呼び名に相応しかろう。
 その中でも一際目を引くのが……。

「あ、もう起きてたのか……水銀燈」

 衛宮のドールであるらしい、水銀燈という薔薇乙女《ローゼンメイデン》。
 彼女は……。




 繰り返すが。
 彼女……水銀燈は、その居間の中において一際目を引いていた。

 それは、彼女の着ている服装が和式の居間という空間に置いて明らかに浮いている、などという理由では決して無い。
 彼女が取っているポーズ、それが彼女をこの場所から浮いた存在にしていたのだ。
 間桐嬢の料理には興味を持たず。
 セイバー嬢の差し出すお茶には手をつけず。
 ライダー嬢の付けるテレビ番組には目も向けない。

 テーブルの片隅で、誰からも背を向けて一人座っていた水銀燈は、衛宮が居間に入ってきたことで、ようやく、その重い口を開いた。

「……遅いわ、士郎」
 
「ごめんごめん。
 でも、ちゃんと顔を出してくれたんだな」

 じろり、と衛宮を睨みつつ凄む。
 対する衛宮はさして動じた様子も無い。
 もはや慣れっこだと言わんばかりだ。
 ……つまり、あれが彼女の平時の態度なのだろうか。

「……別に。
 士郎がどうしても来いって言うから、仕方なく居ただけよ」

 ぷい、と顔を背ける。
 しかし、それが虚勢であることは、他人である私にだってわかる。
 流石の衛宮も、その言葉を額面どおりに受け取りはしなかったようだ。

「うん、それでもさ。
 来てくれないんじゃないかって思ってたから。
 朝飯を一緒に食べてくれるってだけで、嬉しいんだよ」

「……そんなことでいちいち喜ぶなんて、馬鹿みたぁい。
 仲良しゴッコがそんなに楽しい?」

「む。
 その発言は聞き捨てなりませんね水銀燈」

 水銀燈の言葉に、それまで静かにお茶を飲んでいたセイバー嬢が反応した。

「シロウはこの家に住むもの全員を、家族として扱っているのです。
 家族とは、表面上だけ取り繕ってどうにかなるものではない。
 ゴッコなどでは断じて有りません」

「そうですね。
 士郎は家に入ってきた者は、総じて身内の扱いをしますから。
 私も最初は戸惑いましたが、今ではそれも心地よいと感じられます」

 セイバー嬢に続けて、ライダー嬢の援護が入る。
 思わぬ方向から反論されたせいか、水銀燈が不機嫌そうに唸った。

「なによぉ、なによぉ。
 家族家族って、血も繋がって無いくせに……」

「まあ、それを言ったら、俺と親父だって血の繋がりは無いんだし。
 だからみんなは家族だし、家族だったら仲良くしてるのが当然だ。
 ……うん、水銀燈だってもう家族なんだからな」

「……………………」

 衛宮にそう言われて、水銀燈は一瞬惚けたように言葉を失い、次にどこか居心地悪そうに目線を泳がせた後。

「……ふん、本当に処置無しね、貴方。
 もう勝手にしなさい。
 水銀燈はもう、どうでもいいわぁ……」

 と、面倒くさそうに話を投げてしまった。

「むう……」

 思わず唸ってしまう。
 水銀燈のあの、衛宮の言葉にだけは素直に引き下がる態度。
 家族、と呼ばれたときの過剰ともいえる反応。
 それらの要素が、私の中にある仮定を構築していく。
 これは……もしかすると、もしかするのか?

 そのとき、やり取りの一部始終を私の隣で見ていた雛苺が、目をパチクリさせながら呟いた。

「うわぁ、水銀燈、なんだか変わったのね……むかしはもっと、チクチクって怖い子だったのに」

 半ば独り言のような呟きだったが、水銀燈はそれを聞き逃さなかった。

「聞こえてるわよ、雛苺。
 ……今すぐジャンクになりたいの?」

「ひぅっ!?」

 肩越しに水銀燈に睨まれた雛苺は、衛宮のように受け流すことも出来ずに縮み上がる。
 私の背中に隠れてしまった雛苺をかばいながら、私は……ここに来てようやく、水銀燈と相対した。

「水銀燈とやら。
 あまり雛苺をいじめないでくれないか?」

「……なぁんだ、貴女もいたのぉ?」

 すると水銀燈は、あたかも今ようやく気がついた、とでも言いたげに私のほうを見た。
 その目は先ほどまでとはうって変わって、冷たい。

「でも、貴女には用はないわ。
 邪魔だからあっちいってくれるぅ?」

 何故か、私は彼女からは好かれていないようだ。
 ふと、先ほどの仮定が脳裏をよぎる。
 ――本人が気付いている、いないに関わらず、水銀燈が衛宮に好意を持っているのなら。
 それは私にとって、恋敵、という奴なのではないか?

 ……その仮定に、急速に胸が詰まった。
 それが何故なのかを考える前に、次の瞬間、信じられない事が起こった。




 私は咄嗟に、衛宮の腕を掴んでいた。

 ……誓って言うが、この時の行動は、何かを考えて行なったのでは断じてない。
 ただ、反射的、とか発作的、とかそういうものではなかったと思う。
 胸のうちに積もり積もった、もやもやした何かが一杯になり、それが噴出した……としか言いようが無い。

 ――その瞬間、私の中の未発達な部分が囁いた。
 これは本能。
 好きな人を渡すまい、取られまいと願う、女の子の本能なのだと。

 衛宮が何かを言うより早く。
 水銀燈が何かをするよりも早く。
 私は、掴んだ腕をそのまま引き寄せて……。

 ぎゅっ。

 抱きかかえるように、腕を絡めた。

「なっ……!?」

「っ……!!」

「あ……」

 驚愕、絶句、呆然。
 その場にいた人々の反応は様々だったが、その中で一番驚いていたのは他でもない、私自身だっただろう。
 なにしろ、自分が何をしたのかわからない。
 気が付いたら衛宮の腕にしがみついていたのだから。

「……ふうん。
 衛宮くんったら、いつの間にか随分氷室さんと仲良くなってたのね?」

 その場にいた人物の中で、もっとも立ち直りが早かったのは、やはりと言うべきか、遠坂嬢だった。

「でも意外ね。
 氷室さんがこんなに積極的な方だったなんて知らなかったわ。
 ……ええ、本当に」

「……え?
 あ、いや……え?」

「ひ、ひむ……ろ?」

 対する私はと言うと、まだ混乱から立ち直っておらず、自分の腕と衛宮の顔、そして水銀燈を交互に見比べているばかり。
 衛宮のほうもそれに負けず劣らず混乱しているようで、お互いに間の抜けた声で至近距離から見詰め合う私達。

「……そういえば昨日の家族会議、こちらの案件に関しては保留のままでしたね」

「まあ、士郎がカネを抱きかかえて帰ってきた時点でこうなる予感はありましたが」

「シロウ、またですか……」

 他の人々は続々と立ち直ったらしく、私達二人に剣呑な視線を送ってくる。
 もし平時の私であったなら……そしてこれが他人事であったなら、私だって彼女らと同じようなリアクションを取っただろう。

 そして、立ち直るのが一番遅かった水銀燈は。

「…………へぇえ。
 そこまで士郎にイカレちゃっているとはね。
 けど……」

 と、そう言って……。


「ま、まあ私には関係ないけどぉ?
 人間同士の惚れた腫れたなんて、ホントに馬鹿馬鹿しいしぃ」

 腕を組み、ふっと目を逸らす水銀燈。
 その表情は固く、何かを堪えているのが手に取るようにわかる。
 私は、その表情を、知っているような気がした。

――貴女がどういうつもりでここへやってきたのか、なんて、興味無いけど。
――士郎は私の下僕よ。貴女にあげるつもりは無いわぁ。

 ……ふと、水銀燈と初めて出会ったときのことを思い出した。
 あの時の言動と今の言動は、明らかに矛盾している。
 あの言葉が彼女の本心なのだとしたら、今の彼女は……。

「水銀燈、君は……」

 衛宮の事が、すきなのか。
 そのすきは、ドールとミーディアムの関係から来るものなのか、それとも……私と同じようなものなのか。
 ……それは聞いても仕方のないことだろう。
 たとえ水銀燈がなんと答えようとも、私にしてやれることなど無いに等しい。
 だというのに、私はそれを尋ね掛け……。

「っはよー!!
 今日は桜ちゃんのご飯当番だと聞いて歩いてきました!!
 ってなんじゃこのストロベリー空間はー!?」

 ……突如居間に乱入してきた、藤村先生によって遮られた。
 タイミングがいいと言うべきか、悪いと言うべきか……。
 藤村先生は私と衛宮の姿を見るなり、0.1秒でその表情を一変させた。

「ふ、藤ねえ……」

「士郎ー!!
 一晩開けたら性懲りも無く氷室さんを侍らせてるとは何事かー!?
 なに、昨日の弁明は一夜限りの泡沫の夢だったとでも言うわけ?!」

 がー、と全力全開。
 糾弾されているのは衛宮であるはずなのに、隣にいる私まで、突風に吹かれたような凄みを感じる。

「ちぃ、只でさえ罪状が列挙されているのにこの上偽証罪とは……士郎を見くびっていたというのか、このワタシが!?
 というかまず、その腕と腕の並列つなぎをなんとかせんかー!!」

 藤村先生の気迫に押されて、慌てて繋いだ腕を解く私たち。
 ……冬木の虎の怒りを正面から受けるのはこれが初めてだが、これは……凄まじい。

「士郎アレでしょ!?
 ここまでくるともうワザとやってるでしょこのハーレム王!
 切嗣さんに申し開きしなけりゃならない私の立場も考えなさいよー!!」

「ば、馬鹿言うな、落ち着け藤ねえ!
 大体誰がハーレム王だって……」

「言い訳無用、情け無用!
 姉の愛情も無為にする極悪士郎!
 こうも次から次へととっかえひっかえ――」

「……五月蝿いわ」

 ひゅん、と走る一条の黒閃。
 もはや黙るまい、と思われた藤村先生の熱弁がぴたりと止まった。
 ひどく冷たい一言と、ひどく鋭い風切り音によって。

「ひょあっ!?
 す、水銀燈ちゃん!?」

 凍らせた主は、衛宮と私を挟んで藤村先生の反対側に立つ水銀燈。
 水銀燈の放った一枚の羽根が、藤村先生の鼻先を掠めたのだ。

「ちょっとアンタ、なにを……!」

 たたらを踏む藤村先生と、危険に色めき立つ遠坂嬢。
 そんな二人を無視するように、水銀燈は相変わらず視線を逸らしたまま呟いた。

「ふん。
 水銀燈は今、機嫌が悪いの。
 ……いつまでもぎゃあぎゃあと騒いでて、五月蝿いったらないわぁ」

「でっ、でも、士郎が……」

「しつこいわ。
 士郎が……士郎がどの人間とくっつこうが、なにしようが、私には関係ないの。
 関係の無いことで私の時間を使わせないで頂戴」

 言って、水銀燈は立ち上がり、くるりと居間に背を向ける。
 本当に出て行きかねないその背中に、衛宮が慌てて声をかけた。

「あ、うん、そうだな、いつまでももたもたしているのはよくない。
 藤ねえも来た事だし、そろそろ飯にしよう。
 ……水銀燈も、食べてくれるんだよな?
 待ってろ、今食器に乗せてくるから」

「…………ふん」

 視線は合わせないままだが、水銀燈は素直に席に戻り、あらかじめ置いてあったらしい、二段重ねにされた座布団の上に座りなおした。

「氷室も、座って待っててくれ。
 すぐに食器の数合わせをしてくるから」

「あ、ああ……」

「雛も食べるー!」

「あ、そっか、ごめんごめん。
 小さい食器は二人分だな。
 よし、桜、俺も盛り付けを手伝うぞ」

「あ、はい」

 衛宮が間桐嬢とともに台所へ消えていくのを見送りながら、勧められるままに席に着く。
 隣の雛苺のために座布団を重ねてやりながら、私は様々なことを思い描いていた。

 昨日のこと。
 今朝のこと。
 衛宮のこと。
 私のこと。
 水銀燈のこと。

 考えることは山ほどあるが。
 しかし、一つだけ、確信に近い推理があった。
 それは、衛宮と触れ合った腕のぬくもりから身体全体に伝わってくる鼓動。

 ああ……どうやら私は、恋をしたようだ。


――Interlude out.


そして、事件は俺が学園にいる間に起こった

 朝食後、先に出かけた桜と遠坂を見送った俺は、氷室と二人で話し合った。
 話し合った、と言っても、昨日の顛末について俺がほとんど一方的に説明していたようなものだが。
 その結果、雛苺との契約は失われたこと。
 そして、昨夜水銀燈から聞いた、アリスゲームのこと、ローザミスティカのことを順番に話した。

「ローザミスティカ、か。
 こうして雛苺が生きている以上、信じざるを得ないな」

 セイバーとライダーが自室に戻り、水銀燈がどこかへ立ち去って、俺と氷室と雛苺だけになった居間。
 湯飲みを両手で持ちながら、氷室はふう、とため息をついた。

「雛苺のローザミスティカはまだ存在してる。
 それを狙って、他のドールがやってくる可能性はあると思う」

「……確かにな」

 傍らで座っている雛苺を、そっと撫でる。
 撫でられた雛苺は、不思議そうに氷室の顔を見上げた。

「衛宮、頼みがある。
 雛苺は、衛宮の家で預かってもらえないだろうか」

「え……」

「鐘っ!?」

 その言葉に、俺以上に驚いたのは、雛苺だった。

「どうして!?
 雛苺は鐘と一緒がいいのに!!」

 氷室の袖を握り締め、全身で離れないことをアピールする。
 俺も、てっきり雛苺は氷室と一緒に帰るものだと思っていたのだが。

「雛苺……確かに、一緒にいてやるという約束だったな。
 ああ、私もお前と一緒に居たい。
 だが、今の私たちには、お前のローザミスティカを守る術はない」

 確かに、契約が失われた今、雛苺は氷室の力を使う事が出来ない。
 ミーディアムを得たドールと戦えば、まず間違いなく負けるだろう。

「ローザミスティカを奪われれば、もう二度と会えないだろう?
 永遠に離れ離れになってしまうより、少しだけ離れても、一緒に生きていたい。
 ……頼む、わかってくれ、雛苺」

 一緒に生きていたい。
 これが雛苺ではなく、他の男への言葉だったら、俺は愛の告白かと勘違いしたかもしれない。
 それくらい、氷室の説得は真剣だった。
 ……む、嫉妬、してるのか? 俺?

 その真剣な眼差しに、雛苺はしばらく俯いていたが、やがて。

「……鐘、雛苺に会いに来てくれる?」

 と、すがるように言ってきた。
 氷室はそれに、優しい顔で頷く。

「ああ、なるべく様子を見に来てやる。だから、頼む」

「……わかったわ。雛苺はシェロゥの家にいる」

 頷き返して、俺のほうを見る雛苺。
 あわせて氷室も、俺のほうに向き直る。

「頼めないか、衛宮?」

「俺は全然構わないが……いいのか?
 水銀燈なんかは、まだローザミスティカを手に入れるつもりみたいだぞ」

 そこに雛苺を預かったら、まさに猛獣の檻に肉を投げるようなもんだと思うんだが。

「今すぐに奪うつもりでもない様子だが?
 私の家でも危険なのは変わらないのだし、他に頼めるところもない。
 まさか蒔の字や由紀香に頼むわけにもいくまい」

 どちらも危険ならば、ウチのほうがまだ助けられる可能性が高い……か。
 さすが氷室、ちゃんと考えているんだな。

「それに……後ろ向きな考えだが。
 どうせ奪われるなら、水銀燈に奪われたほうがいくらかましだと思ったのだ」

 最後に、氷室はそう冗談めかして笑った。

 こうして、雛苺は衛宮邸で預かることになり、氷室もまた、ここを訪ねてくることを約束したのだった。

**********

 その後、いい加減に時間が迫ってきたので、学校に行くことに。
 氷室はと言うと、もう少ししたら帰る、とのことなので、後でセイバーに送ってもらうように頼んでおいた。

 ……さて、登校したら、まず真っ先に……。



 蒔寺と三枝に、氷室の無事を知らせないと。
 昨日氷室を探す時も、あの二人には随分助けられたし。
 そう思った俺は、3年C組の扉を素通りして、A組の引き戸を開けた。
 中は、ホームルームが近いからか、生徒の人数も多い。
 自然と視線が俺に集まるのがわかる。

「あ、衛宮くん!」

 そんな中、昨日と同じように呼びかけてくれる声があった。
 昨日と同じ声。
 耳にしただけで、聞くものの心を和らげそうな声の持ち主を、俺は一人しか知らない。

「三枝、蒔寺。それに……遠坂?」

 見ると、三枝は遠坂の席の隣に立っていた。
 どうやら、朝から何か話をしていたらしい。
 対面では、もう一人の話相手である蒔寺が、机に腰掛けた恰好でこちらを睨みつけている。

「あら、おはよう衛宮くん。
 でも、衛宮くんの教室はここの二つ隣だったはずだけど?」

 にこり、と余所行きの笑顔を浮かべてくる遠坂。
 朝に引き続き、他人の前では見事なほどの猫被りっぷりだ。
 こちらもそれにあわせて、少々言葉を選ぶことにする。

「ああ、おはよう。
 それと、教室は間違えたわけじゃないぞ。
 ちょっと、三枝と蒔寺にな」

「あら、なにか秘密のお話?
 一体どんな御用かしらね」

「御用? はっ、用事なら衛宮に無くてもこっちにあるっての」

 俺と遠坂の会話に、割って入った女が一人。蒔寺だ。

「ようやく来たな、衛宮。
 今日も氷室が来てないんだが、こりゃどーいうことか説明してもらおうか?」

「ま、蒔ちゃん、そんないきなり……それに、遠坂さんが……」

「構いません、三枝さん。
 今のお話も興味深かったけれど、こちらのお話もなにやら訳ありのようですし。
 なんでも衛宮くんは、昨日お休みされた氷室さんを探しに行かれたとか」

 遠坂が代わりに答える。
 自分は昨日の家庭裁判で全部知っているくせに……学校でも俺を陥れる気か、あかいあくまめ。

「そう。衛宮、アンタ昨日はあれっきり、学校に戻ってないだろう?
 昨日何があったのか、きりきり白状してもらおうか」

 返答次第では昨日のツケを利子つけて返してやるぞ、とばかりに睨む蒔寺。
 本当に、氷室のことになるとこんなに真剣な目になれるんだな、こいつ。
 そしてもちろん、俺はそれを茶化すようなつもりはない。

「ああ、二人にはちゃんと説明しようと思ってここに来たんだ。
 昨日、あの後すぐに、氷室を見つけられた」

「本当ですか!? よかった……」

 ほっ、と目に見えて安堵する三枝。
 だが、それとは対照的に、蒔寺の顔は険しいままだ。

「良かないよ。
 だったらなんで今日、氷室が顔出さないのさ。
 一体その後、何をやってたっていうんだい?」

「何を、って言われてもな。
 ただ、氷室と二人で色んな所を歩き回ってただけで……」

 俺がなんとか当たり障りのない言葉を選んで説明していると、横から悪魔の横槍が。

「それって、つまり、デートってことよね」

「え、え、えええっ!?
 で、デートですか!?」

 三枝が驚きの声を上げる。
 デート。
 俺から言い出したことだったが、今にしてみると、そして他人の口から改めていわれて見るとこれ以上ないほどにこっ恥ずかしい。

「う……ん、まあ、そうなるか、な?」

「な、なななななんだとぉー!?
 あたしらが他愛もない授業を受けている間に、二人で仲良くサボタージュデートだとう!?
 ぐぐぐ、信じられねー、神は昼寝でもしていたのかー!!」

 三枝を上回るほどの音量で驚き吼える蒔寺。
 でも他愛もないの使い方、明らかに間違ってるぞ。

「へえ。まさかそこまで氷室さんと仲良くなっているとは。
 正直驚いたわ」

「……何が言いたいんだ、遠坂」

「いえ、別に?
 それより、そのデートの結果はどうだったのかしら?」

「それは……俺からはノーコメント、だな」

 氷室の答え……昨日のデートの結果、氷室が俺との関係について、どういう判断を下したのか。
 その答えを、俺はまだ聞いていない。
 聞くタイミングがなかった、といえば嘘になる。
 朝、食事の前、あるいは食事のあとの話し合いの時。
 話を切り出すチャンスは、いくらでもあった。
 それを尋ねなかったのは、単純に聞くのが恐かったのもあるし、氷室が言わないつもりならそれでも構わない、と考えていたせいでもある。

 ちなみに……俺も氷室の家に付いていったことや、家に帰った後でまたひと騒動あって、その後ウチに泊まらせたことは、言うまでもなくトップシークレットである。
 遠坂はともかく、三枝と蒔寺にまでばれることは防ぎたい。

「待てよ、それじゃ氷室が今日も来てないことの理由になってないじゃんか。
 衛宮がなんか余計なことを言ったんじゃないのか?」

「いや、そんなことはないぞ。
 氷室はどうも、昨日ドタバタしたのが堪えたらしくて。
 大事を取って、今日も一日休むつもりだってさ」

 今頃はセイバーに送られて家路についているところだろうか。

「なに、衛宮アンタ、嫌がる氷室を無理矢理連れまわしたのか?」

「いや、そうじゃないけど……結果的にはそうなるかな。すまん」

 俺が答えると、蒔寺は居心地が悪そうに鼻を鳴らした。

「そんな正直に謝られてもね。それに、謝る相手が違うだろ」

「ん、まあ確かにそうだけど。
 でも、蒔寺には昨日のツケの分もあるしさ、このことに関しては謝っておこうと思って」

「……つくづく律儀人間だな、お前。
 こちとらツケのことなんて忘れてたっつーの」

 それこそ嘘だ。
 さっきはツケを清算する気満々だったくせに。

「最後に聞くけど、氷室は本当に大丈夫なんだな?」

「……ああ。もう問題は解決した」

 今後、もしアリスゲームが行なわれたら、雛苺が狙われることはあっても、既に契約を破棄した氷室が狙われるとは考え難い。
 氷室と雛苺を引き離したのは、氷室の安全のためにもなったと言えるだろう。

「ならいいさ。ツケはチャラにしてやるよ」

「そっか、助かる」

 ……良かった、ひとまずこれで氷室の件についてはひと段落ついた。
 俺はそのまま教室から出て行こうとして……ふと、ほんの少しだけ気になっていたことを尋ねてみた。

「ところで、さっきまで何の話をしていたんだ?」

「ん? いや、大したことじゃないんだけどさ……」


「さっき、正義《レッド》の兄ちゃんを見かけたんだけど」

「は?」

 正義《レッド》の兄ちゃん?
 ……って、そういえば、確か以前、蒔寺たちが誰かのことをそう評していたような。
 というか、そんな呼び名で思い浮かぶ男など、一人くらいしか居やしないのだが。

 アーチャー。
 弓兵のサーヴァント、そして目の前に居る遠坂の契約者。

「本当に、興味深いお話ですね。
 いまどき正義のお兄さんとは」

 当の遠坂はというと、蒔寺の話を先に聞いていたらしく、にっこりと笑ったままだ。
 しかしアイツが、一般人の前に姿を現しただと……?

「なあ、アイツをどこで見かけたって?」

 俺が尋ねると、蒔寺はやや不審そうにしながらも答えてくれた。

「あ? 朝練が終わった後で、校門からこっち見てるのに気付いてね。
 戻りがけにもう一度見たら、もういなかったけど、ありゃあ正義《レッド》の兄ちゃんに間違いないね」

 英霊であるアーチャーが、一般人の蒔寺にうっかり目撃されるなど有り得ないはずだ。
 いや、どっかの金ぴかアーチャーはそんなうっかりをやらかしそうではあるが、少なくともこっちのアーチャーはしないはずだ。
 アイツが用もなく学校まで来るとは思えないし、こりゃ何かあるのか……?

「衛宮、あの兄ちゃんとは知り合いか?」

 俺が考え込んでいると、今度は蒔寺のほうから質問された。
 知り合い……知り合い、か。

「あー……まあな。
 ほら、前にランサーっていう男と会った事があるだろ。
 あのランサーと同じようなきっかけで知り合った奴だよ」

「あ、やっぱり。
 すごく運動神経よさそうだったし、そうじゃないかなって思ってたんだ」

 三枝が声を弾ませている。
 そういや、枝の上の子猫を助けたところを目撃してたんだったっけ。

「ほー、じゃああの正義《レッド》の兄ちゃんも何かの選手ってことか?
 なに? 短距離?」

 本業は弓、しかもビルの屋上からの狙撃が得意です。

「まあまあ、お話はそのくらいにしませんか?
 ほら、そろそろホームルームが始まりますし」

 遠坂に促されて備え付けの時計を見れば、確かに後数分もしないうちに予鈴が鳴ろうかという時間になっていた。
 いつの間にか、随分話し込んでしまったようだ。

「そうだな。じゃあな、遠坂、蒔寺、三枝」

「んだよー、中途半端なところで話をきるなよなー」

「じゃあね、衛宮くん」

「ええ、また後でね」

 三人に見送られて、3年A組の教室を出る。

「……さて、どうしたものか」

 小走りにC組まで急ぎながら、俺は今日の行動予定を考えていた。
 さしあたっては、昼休みだが……。



 時は流れて昼休み。
 授業を終えて、俺は早速席を立った。

「さてと……『また後でね』って言ってたよな、遠坂」

 朝方の遠坂の、別れ際の一言。
 あれは学校が終わった後に、という意味ではなく、昼休みに話があるから付き合いなさい、いやむしろ来なければ殺すわよ? という意味の合図なのである。……分かり合えるということって時として落ち込む。

 ともあれ、俺が廊下に出ると同時に、二つ隣の教室からも弁当箱を携えた遠坂が出てくるのが見えた。

「来たわね。とりあえず屋上に行きましょう。
 どうなるにしろ、話はそれからでしょ」

 俺の姿をみるなり、そう言ってくるりと背を向け、とっとと歩き出す遠坂。
 その後ろを少し間隔をあけてついていく。

「なぁ、なんでアイツがここに?」

 歩きながら、朝から思っていたことを遠坂に尋ねてみる。

「私だって知らないわよ。
 家に帰っても顔合わせないし、呼んでも出てこないんだもの」

 先を歩く遠坂は、振り返らずに言葉を返す。
 長いおさげが不機嫌そうに揺れている。

「まったく、どこで油売ってるかと思えば……一度問い詰めとかないといけないわよね」

「ほどほどにな」

 アイツが遠坂にどう絞られようと勝手だが、自分の知らない自分の傷が増えるのはあんまりいい気分じゃない。

「でも、どこにいるのかわかるのか?
 学校にいるかもわからないんだぞ?」

「居るに決まってるでしょ。
 私たちに会う気がないなら、そもそも学校まで出張ってこないわよ、アイツ。
 逆に言えば、居そうな場所を探せばおのずと見つかるって理屈になるでしょ」

「そういうものか? でも、アイツのいそうな場所って……」

「それもなんとなく分かってるわ。何とかと煙は高いところが好きってね」

「あー……それで屋上か」

 以前、大橋の上でアーチャーと話したときのことを思い出す。
 高いところを好むのは魔術師としての美点だと思っておけ、か。
 この赤い主従、どうせ立つなら高いところ、とでも示し合わせているのだろうか。

「……なんか失礼なこと考えなかった、衛宮くん?」

「いや、別に……っと」

 遠坂が更なる追求を行なうより早く、俺たちの脚は階段を上りきり、屋上へ続く扉の前までやってきていた。

「本当にここに居るのか……?」

 重い扉を引きながら、俺は疑念を拭えずにいた。
 なにせアーチャーが学校に居るという話自体、俺には信じがたいことにしか思えない。

「十中八九居るわよ。
 もし居なかったら、土下座してもいいわ」

「それは是非見たいもんだ」

 そして、硬い音を曳いて、屋上の扉が開かれる。

 果たして、奴はそこに居た。
 こちらの背を向けて、フェンス越しの風景を見下ろしている。
 その出で立ちは、戦装束のそれではなく、黒いシャツに黒いズボンの、いわゆる私服。
 それはつまり、今は戦う意志は――少なくとも全力では――無いという意思表示か。

「やっぱり。ここにいたのね、アーチャー」

 遠坂の呼びかけに、ゆっくりと振り返る。

「二人で連れ立っての登場か。
 半ば予想はしていたが、さて……」

 俺に対してか、それとも遠坂に対してか。
 アーチャーはそう独りごちると、自然な動作で腕を組んでみせた。

 ……氷室との一件以来、俺は人に会うたびに左手に目を向ける癖がついてしまった。
 だから、そのときソレを見つけたのは決して偶然ではなかった。

 アーチャーの左手、腕組みした指の隙間。
 そこに、もう見慣れた銀色の薔薇が光っていた。

「それで? 今日、姿を見せたのは一体何のためかしら?
 まさかその指輪を見せびらかしにきただけ、じゃないんでしょう?」

 遠坂の目にも、その指輪は映ったらしい。
 推し量るような言葉に、アーチャーは答えた。


「そう恐ろしい顔で問い詰められてもな。
 釣りをしに来た、とでも言えば納得してくれるのかね?」

 肩をすくめるアーチャー。

「あのね、学園で釣りって、アンタいつからナンパ師になったのよ。
 ランサーじゃあるまいし、アンタがそんなことする性質なもんですかっての」

「うまいことを言う。少なくとも、あの槍兵と同列に見て欲しくないのは確かだな」

 酷い言われようだな、ランサー。

「さっさと本題に入りなさい。
 まどろっこしいのは場合によりけりよ」

「もちろんだ。
 私とて暇ではない、用件は手早く済ませるとしようか」

 嘘つけ、お前が外で働いてる姿なんて見た事がないぞ。
 俺が心中でそう突っ込んでいると、アーチャーは視線だけこちらに寄越して見せた。

「と言っても、用件と言うほどのことでもない。
 付け加えて言うならば……これは君にではなく、そちらの小僧に対する用件でな」

「え? 俺?」

 半ば、遠坂とアーチャーの会話を聞いている気になっていた俺は、急に話を振られてつい間の抜けた声を上げてしまった。
 そんな俺にはお構いなしに、ヤツはまるで文書を読み上げるように簡潔に言った。

「忠告だ、夜の新都には近づくな」

「は?」

 そのあまりにも簡潔な言葉に、再び間の抜けた声の俺。

「なんだそれ、まさかまたお前が待ち構えてるって言うのか?」

「馬鹿を言うな。管理者である凛がこうしてここにいる以上、代役に過ぎん私が新都を監視している道理がどこにある?」

「む、じゃあ一体なんなんだよ、夜の新都って。
 言っとくけどな、俺はお前と違って暇じゃないんだから、頼まれでもしない限り、好きこのんで夜中に新都になんか行くわけが――」

「新都に薔薇乙女《ローゼンメイデン》が潜んでいる、と聞いてもか?」

「な……」

 なんだって??
 アーチャーの放った一言で、三度動転する。
 薔薇乙女《ローゼンメイデン》が、新都に……?

「場所の特定は出来なかったが、まず間違いないだろう。
 人工精霊のお墨付きだ」

 アーチャーが淡々と述べるが、正直、話が端的過ぎて理解が追いつかない。
 分かりやすいところから整理していこう。

「悪い、一つずつ確認させてもらう。
 アーチャー、お前も薔薇乙女《ローゼンメイデン》と契約してるんだな?」

「ああ。今の私は薔薇乙女《ローゼンメイデン》第五ドール、そのミーディアムだ」

 あっさりとアーチャーは白状した。
 もし俺が一対一で問い詰めても、こんなに正直に答えてくれたとは思えない。
 そう考えると、遠坂がこの場に居てくれて助かった。

 だが、このとき俺の頭に一つの疑問が。

「ちょっと待て。サーヴァントがドールと契約って、出来るのか?」

「別に、サーヴァントがマスターとの契約以外に契約を結べないって理屈は無いわ。
 現に、キャスターなんてマスターと契約すると同時にアサシンとも契約してるじゃない」

「あ、成程……」

 横から入った遠坂の解説に思わず納得する。
 サーヴァントによるサーヴァントの使役。
 あれはキャスターの膨大な魔力量が可能にした芸当だ。
 結果としてイレギュラーなサーヴァントが召還されたわけだが、契約自体に問題が生じているわけではない。
 今回のアーチャーの件も、規模こそ違えど同じような理屈なのだろう。

「それで、私からも一応確認しとくけど。
 サーヴァントとしての私との契約と、ミーディアムとしてのそっちの契約。
 優先順位はどうなってるの?」

「心配かね? いや、安心するといい。私を現世に繋ぎとめているのは君だからな。
 その点に関しては、天秤にかけるまでもあるまいよ」

 アーチャーは遠坂からの魔力供給で現世に留まっている。
 そして、ドールはアーチャーのから魔力を借りているはず。
 つまり、全ての供給の大本は遠坂であり、優先順位は当然そちらが上、ということか。

「尤も、もう片方の契約をないがしろにするつもりもさらさら無いが。
 よほどの理由が無い限り、そちらの都合で契約を破棄しろ、といった命令を受けるつもりは無い」

「……へえ。随分とそのドールに入れ込んでいるみたいじゃない」

 意地の悪い笑み。さっきのランサー云々は撤回するべきかしらね、とでも言わんばかりだ。
 だが、対するアーチャーのほうも、同じように意地の悪い笑み。

「なに、相手が自分の淹れた紅茶を真摯に味わってくれる、というのは中々に楽しいものだ。
 今まではまともな感想の一つも受けた事がなかったものだからね」

「むっ……」

 思わぬ反撃だったのか、言葉に詰まる遠坂。
 傍から聞いていると、まるで今までは報われない仕事をしてきたような言いようだった。
 いや、案外事実かもしれないけど。

「まあいいわ。
 とにかく、有事には、戦力として計算に入れていいってことよね。
 私はそれで充分よ」

 無理矢理話を切り上げた。
 本題を進めるためか、それとも上手い切り返しが咄嗟に出てこなかったのか。
 仕方ないので、俺が話の筋を戻して再び質問する。
 
「で、お前たちはその薔薇乙女《ローゼンメイデン》と戦ったのか」

「ああ。相手ははっきりと好戦的だ。
 ドールが眠りに着いた後でのこのこ出て行っては殺されかねん」

 この野郎、内容は真剣でも口調はやけに楽しそうじゃねえか。
 そんな表情じゃ、口には出さなくても『私はともかくお前では』って言いたいだろうことがバレバレだぞ。

「ちょっと待ちなさい。
 ドールが眠った後ってことは、相手のドールも眠ってるはずでしょう?」

 遠坂の指摘に、はっとなった。
 確かに、ドールは夜の九時にはトランクの中で眠りにつく。
 これは水銀燈も、雛苺も同様だったので、てっきり薔薇乙女《ローゼンメイデン》共通のルールなのか、と思っていたのだが……?

「いや。遭遇したのは二回……nのフィールドで一回、現実世界で一回だ。
 その内の一回は、夜の十二時を回っていた」

「ふうん。つまり、ドールが眠りについた後、アンタが一人で相手と遭遇したってこと?」

「ああ。現時点で、相手について分かっている特徴は二つ。
 夜中でも行動可能だということ。
 そして、単独行動が可能だということだ」

「単独行動……?」

「nのフィールドでも、現実世界でも、遭遇したのはドールだけだった。
 そのミーディアムは確認できていない」

 ミーディアムなしで力を行使できるドール……?
 そんなドールが居るなんてとても信じられない。
 ……ん? なにか忘れているような。

「私が教えるのはここまでだ。
 後はどうとでも好きにするがいい」

 話は終わりだ、と言いたそうに目を伏せる。
 遠坂も、何か考え事があるのか、口元に手を当てて黙っている。
 ……だが、俺にはまだどうしてもしっくり来ない。

「しかし、何でお前がそんなことを教えに来てるんだ?
 特に、俺に教えに来るって理由がわからないんだけど」

「無論、お前がどこでのたれ死のうと私は一向に構わんさ。
 だが、これは私のドールの意向でね」

「ドールの、意向?」

 アーチャーのドールが、なんでこっちを案じてるんだ?

「無用な戦いは望まないそうだ。
 ……ああ、忘れていた。そちらのドールへの伝言を預かっている。
 『私は私の方法でアリスを目指す』、だそうだ」

 私は私の方法で。
 それはつまりアリスゲームの否定、ということだろうか。
 もし、そうだとするならば。
 いまだ見も知らぬその薔薇乙女《ローゼンメイデン》を、俺は少し好きになれそうな気がした。

「今度こそ、もう何も言うことはないな。
 私はもう行くぞ。お前も無駄な死に方をしたくなければ、せいぜい気をつけることだ」

 アーチャーはそう言い残すと、霊体化して消えようとする。
 と、その直前に、最後に尋ねるべきことを思いついた。

「そうだ、一つだけ聞き忘れてた。
 お前、そのドールを見たんだろ?
 一体どんな外見だったんだ?」

 消え行くアーチャーは、そのまま振り返りもしないで、その問いかけに答えた。

「――左目に薔薇の眼帯をつけたドールだ」



――Interlude side 1st Doll


「……なによぉなによぉ、もう」

 頭の中がムシャクシャしてる。
 中庭を飛び越えて、土蔵へ……その天窓から、中に入り込む。
 元々、天窓は閉め切ってたみたいだけど、水銀燈が出入りするから、と士郎に言って開けさせた。
 ああ、なるほど水銀燈じゃ扉は開けられないもんな、と頷かれたのはすこぉし癪だったけど。

「ふぅ」

 適当なジャンク……士郎が直すと言っていたもの……の上に座る。
 土蔵の中は外と打って変わってとっても静か。
 少しだけ外から物音が聞こえてくるけど、あんまり気にならない。

 ……あの氷室とかいう女は、もう帰ったみたい。
 なぜか雛苺はここに預けて行ったみたいだけど……そんなにローザミスティカを奪って欲しいのかしら?
 今は気分が乗らないから、放っておいてるけどぉ。

 そう。
 私は今、とっても気分がよくなかった。
 なんでかって言えば、それは……。

「なぁに、あの女。……士郎にベタベタしすぎじゃなぁい?」

 先ほど帰った、氷室という名の人間の女。
 雛苺のミーディアム。でも雛苺が契約を破棄しちゃったから、今はもうただの人間。
 の、はずなのに。

「なのになぜ、まだ士郎の側にいるのよ?」

 士郎も士郎よ、この水銀燈の下僕のくせに、他の女にうつつを抜かしているだなんて。
 そのせいで勝手に危ないことに首を突っ込んでるなんて、本当にお馬鹿さん。
 大体あんな女のどこがいいのよ。
 あんな女、私に比べれば……私のほうがずっと……。

「……ばっ、馬鹿馬鹿しい。そんなこと水銀燈には関係ないったら、もう!」

 土蔵の床に、少し乱暴に降り立った。
 中央には、大きな姿見が置かれてる。
 私が士郎に言って用意させたもの。

「…………私は」

 何気なく近づいて、正面に立つ。そこに映るのは水銀燈の姿。

「私はアリスゲームを制してアリスになる。
 それだけが……」

 それだけが私の望みだったはず。
 気まぐれに、そっと鏡面に指を触れてみる。
 鏡の中の私も、手を伸ばして――私と私の指が触れ合う。

「――――!」

 波打つ鏡面、煌めく反射。
 直感で分かった。何かが、この先に……nのフィールドにいる。
 何が? 決まってる。

「他の薔薇乙女《ローゼンメイデン》……そこに居るのね」

 どうしよう。
 鏡に手を当てたまま考える。
 今はミーディアムが、士郎がいない。
 他のドールと出会ったら、一人で戦わなくちゃ……。

「――それがどうしたって言うのよ」

 そう、私は誇り高き薔薇乙女《ローゼンメイデン》第一ドール。
 一人で戦うことに、怖れなんかない。
 ミーディアム? そんなもの、元々必要ない。

 身を躍らせる。
 私は、なにかを振切るように、nのフィールドへ滑り込んだ。

 扉、扉、扉。
 それ以外は全て闇。
 nのフィールドは全ての空間と繋がっている。
 遠くに、近くに、彼方に、此方に……そして、未来へ、過去へ。
 でも過去や未来への行き方は知らない。
 あんまり興味もないから。

 扉だらけの空間を、飛んでいくようなイメージで進む。
 他のドールたちは、人間の手を借りなければ、この場所に留まることすら出来ないみたい。
 けど、水銀燈も同じだと思ったら大間違い。
 私はミーディアムと契約していなくても、nのフィールドを自由に行き来できるもの。
 このことは士郎も知らないだろうけど……。

「虚ろは真、願いは満たず。歩む路を見失いましたかな?」

 ……誰?
 思わず動きを止めた直後に、今の声に聞き覚えがあることに気づいた。
 今の声は……そう。

「あぁ、そういえば貴方も居たのね……忘れてたわ」

 この場所に、薔薇乙女《ローゼンメイデン》以外のものは居ない。
 ただ、貴方だけは例外だったわね。

「ラプラスの魔。この時間で会うのは初めてね」

「ご機嫌麗しゅう、薔薇乙女《ローゼンメイデン》第一ドール。
 このような世界の穴の中へ、何を求め、何をお探しに?」

 タキシードを着た白いウサギ。
 ラプラスの魔、と呼ばれるそれは、恭しく一礼してくる。
 私はこの白ウサギがあまり好きじゃない。
 慇懃無礼で諧謔趣味。無駄な言い回しで他人を惑わす……胡散臭いったらない。

「何を探しに、ですって? 少なくとも貴方じゃないのは確かね。
 そして、私は道に迷ってなんかいないわ」

「ほう。ですが、手を引くものがいない子を、なんと呼ぶかご存知ですか?
 ……そう、迷子。
 一人彷徨う貴女の姿は、失礼ながらそれによく似て――」

「ラプラスの魔。その自慢の耳を裂かれたくなかったら、それ以上喋らないことね」

 私はラプラスの言葉を、最後まで言わせなかった。
 強い言葉と睨む瞳で遮ると、ラプラスの魔はあっさりと引き下がった。

「これは失言を。どうやら酔いに任せて口を滑らせたようです」

「……何の冗談? 貴方が酔っ払うなんてありえないでしょう」

「いえいえ。杯の残り香は、香しく芳醇、嗅ぐだけで酩酊。
 流石の私も、少々当てられまして……」

 杯? 残り香?
 ……何を言ってるのかさっぱりわからないけど、ラプラスの魔が意味不明なことを言うのはいつものこと。

 ……そうだ。ラプラスが再びろくでもないことを口走る前に。

「……丁度いいわ。答えなさぁい、ラプラスの魔――」



「この街がアリスゲームの舞台に選ばれた、その意味を」

 ラプラスの魔。
 人間たちの言葉を借りれば、それは全ての動きを計算できる悪魔だとか。
 一時間後のことを一分で知り、一分後のことを一秒で知り、一秒後のことを既に知ってるってことらしい。
 なぜそんなウサギがnのフィールドに居ついてるのかわからないけれど、貴方のことだし、この程度のこと、知らないことはないはずでしょう?

「はて、意味とはまたおかしなことを。
 運命に意味などなく、必然に理由などありません。
 全てのものに意味を与えられるならば、これほど楽なことはありますまいに」

 しかし、ラプラスの魔は大げさに肩をすくめてみせただけ。
 いちいち芝居がかった仕草。
 やっぱり水銀燈はこのウサギ、嫌い。

「とぼけるつもりぃ?
 士郎が時々喋ってたのを、私はちゃんと聞いてるのよ。
 何かがあるんでしょう、この街に」

「……なるほど、確かにこの街は、かの戦いの舞台でありました。
 ですが、それはそれ、と申します。
 此度のアリスゲームとは、関係ないのでは?」

「勘違いしないで、関係あるかないかは私が決めるの。
 ……はっきり言うわ。『聖杯戦争』ってなぁに?」

 私がその言葉を口にした途端、ラプラスの魔はくるり、と振り返って、私に背中を見せた。
 これもなにかのポーズなのかしら……どういう意味があるのかさっぱりだけど。

「聖杯戦争。
 根源に至る扉を掻き毟る不毛の儀式。
 それは呪い師たちの百年祭、
 それは七人と七騎の殺し合い、
 それは七百二十六杯目の美酒、
 それは生れてくる前に死んでいく運命」

「……それで分かりやすく言ってるつもり?」

 正直、ラプラスの魔の言ってる事がほとんどわからない。
 そんなにその耳を引きちぎって欲しいのかしら、このウサギ。

「いやいや、もっと単純なこと。
 私の口から語る事が出来る内容は、驚くほどに少ない故に、このような言い方でしか表現する術を持たぬのです」

 それになにより、と言って、ラプラスの魔は頭だけこちらに向き直った。

「なにより、美しき薔薇乙女《ローゼンメイデン》よ。
 貴女は尋ねるべき相手を間違えている……致命的なまでに」

「……なんですって?」

「舞台について知りたいのならば、舞台の主役にお尋ねあれ。
 彼が貴女を目覚めさせたのもまた、無意味な運命のきまぐれ故に」

 ぱちん、とラプラスの魔が手を打つと、その足元に楕円の穴が出現した。
 途端にラプラスの魔の体は、まるで重さを思い出したかのように穴の中めがけて落下していく。

「ちょっと……!」

「舞台の袖から堕ちた役者は、薄闇の中で舞台を見上げるのみ。
 お気をつけください。
 見えざる穴は、どこにでも隠れている……」

 その言葉を最後に、ラプラスの魔は私の前から消え去った。
 待ちなさい……って言っても無駄ね。
 ラプラスの魔が一旦隠れてしまえば、それは薔薇乙女《ローゼンメイデン》ですら探すことができない。

「舞台の、主役……?」

 その言葉に、咄嗟に私が思い浮かべたのは――nのフィールドに入る直前、不満を募らせていた人間の顔だった。


――Interlude out.



 柳洞寺に着いた俺は、早速葛木夫妻の部屋に案内された。
 以前、合宿の時に零観さんに教えられた、西側の一番奥のはなれだ。
 葛木先生はまだ帰ってきていないらしく、姿が見えない。
 ま、当然だろう。授業が終わってすぐに下校する帰宅部の俺とは違って、教師や部活動に所属する生徒はまだ学校に残っているはずなのだから。
 ……たまに俺より先に帰宅している虎に、若干心当たりがあるのは置いとこう。

「で、なんだよ話って。
 こうして改まってする以上、まさか料理について教えてほしいわけじゃないんだろ?」

 出されたお茶を一口飲んでから、俺は早速切り出した。
 盆をはさんで対面には、急須を傾けて茶を淹れているキャスター。
 ……ううむ、俺の人生の中で、まさかキャスターが手ずから入れたお茶を飲む機会があるとは思いもしなかった。
 葛木先生となら、一成と三人で茶を飲んだこともあるのだが。
 そんなことを考えていると、キャスターが自慢げに胸を張って言った。

「ご心配なく。あれから修行の甲斐あって、宗一郎さまにも認められるようになったんだから」

「そりゃ、葛木先生は何があっても大抵のことは認めてくれるだろうけどさ」

 というか、あの人がキャスター相手に「そうか」以外の返答をする姿は思いつかない。
 葛木先生は嘘をつく人ではないが、無闇に不平不満を口にする人でもないだろう。
 つまり、キャスターにとって――

「アンタにとっての鬼門は、むしろ一成だろ。
 どうなんだその辺。ちゃんと一成を唸らせるようなものが作れたのか?」

「う……」

 やっぱりな。もう一度お茶を啜る。
 言葉に詰まるところを見ると、どうやらまだまだといったところか。

「まだ腕は上達してないのか?
 料理をとにかく派手に見せようとするのは、そろそろやめたほうがいいと思うぞ。
 赤とか黄色とか紫とか」

「ふふふ、言ってくれるわねボウヤ。
 今すぐそのお茶が飲めない身体にしてあげましょうか?」

「いや……すまん、勘弁してくれ」

 キャスターの本気具合を察してすぐさま態度を低くする俺。
 そこ、卑屈だとか言うな。
 本気になったらこの奥様は他人を猫に変化させるくらいは平気でやりかねない。
 そして恐ろしいことに、キャスターは冗談を口にしない人なのだ。

「まあ、それはまたいずれ、いつかの機会にするとして……」

 あくまで撤回じゃなくて保留なんですか。
 俺の内心の怯えを知ってか知らずか、キャスターは湯飲みを置きつつ言葉を続けた。

「本題に入りましょう。
 電話でも言ったと思うけれど……坊やが厄介な契約に巻き込まれてる、って話」

 ……来たか。
 俺はさらに一口、お茶を口に含む。

「ああ、それは……説明すると長くなるんだけど……」

「必要ないわ」

「ぶふっ」

 危うくお茶を喉に詰まらせかけた。
 キャスターは一言で、俺の思考努力をばっさり切って捨てた。
 なんとかお茶を嚥下して、尋ねる。

「げほっ……なんでさ?」

「知るべきことは知っているもの。
 私にとって重要なのは、物事の構造と本質よ。
 坊やが事の顛末を話してくれたところで、それは私にとってなんの意味も持たないわ」

 ……キャスターにとって大事なのはストーリーじゃなくてシステム、ということなのだろうか。
 しかし、そうすると……。

「じゃあ、アンタはもう知っているのか。
 この、『アリスゲーム』のカラクリを」

「この地で起こっている事象で、私にわからないことなどないわ」

 自信満々に言い切るキャスター。
 料理の話のときとはえらい違いだ。

「じゃあ……」

「けれど、話をする前に言っておくわ」

 身を乗り出した俺を、キャスターが片手で制した。

「私はこの寺に危害が及ばないのなら何もするつもりはないの。
 今回の件は、それこそ干渉しなければなにも問題はない事象よ。
 坊やがどう考えてどう動こうと、私には関係ないわ」

 それは、以前にも聞いた話だった。
 キャスターは、自分と葛木先生の生活が守れればあとは割とどうでもいい、という考えの持ち主だ。
 葛木先生が是と言えば絶対にそれに従うが、それ以外のことには冷酷といえるほどの取捨選択を行なう。

「その上で、私が坊やに話をするのは、昨日のアルバイトで助けられたからに過ぎない。
 そして、その程度の借りではこれ以上の話は到底教えてあげられない。
 ここまでは判る?」

「……ああ」

 キャスターは遠坂ですら及ばないほどの生粋の魔術師だ。
 魔術師の原則は等価交換。
 神言を操り、傍目から見れば奇跡を起こしているように見えるキャスターですら、それは例外ではない。いや、そんなキャスターだからこそ、それは絶対の法則なのだ。

「だから、一つだけ。
 坊やの質問に一つだけ答えてあげるわ。
 それで昨日の借りは帳消しよ」

「……一つだけ?」

 意外な提案に軽く驚く。
 俺はてっきり、一生丁稚として奉公しろ、とか言われるのかと。

「これでも自己嫌悪で死にそうなのよ。
 たかがアルバイトでこんなことを話すなんて。
 本当に、等価交換と呼ぶのも馬鹿馬鹿しい」

 キャスターのほうもそれは理解しているのか、なにやら難しい顔をしている。
 一体どんな気まぐれなのだろうか。
 だが、せっかくのチャンスだ、コレを逃す手はないだろう。
 俺はすぐさま脳を回転させて、一番尋ねたかった事柄を口にした。



「アーチャーが言ってたんだけど。
 新都に居るという薔薇乙女《ローゼンメイデン》を知ってるか?」

「……そう、アーチャーと会ったのね。
 ならばその質問は妥当だわ」

 キャスターはなにか納得したように一つ頷くと、俺の疑問に答えた。

「ええ、知っているわ。
 新都の人形は、今現在、一番積極的に動いている人形ですもの」

 積極的に、か。
 それはつまり、一番アリスゲームで戦いたがっている奴、ってことだ。
 もしそいつが、水銀燈と出会ったら……いや、止そう。

「アーチャーから聞いた話だと、夜でも動ける、単独行動できるドールだってことらしいけど」

 そう尋ねると、キャスターは、おかしなリアクションを取った。
 一旦驚いたように目を見開いた後、いぶかしむような視線を向けて、そのあとに合点がいったと言うように大きく頷いたのだ。

「……そう、貴方たちの目には、そう見えるのかしら」

 ただ確認するだけのような口調。
 そこに嘲笑も蔑みもなく、だから俺もその言葉を単なる事実として受け止めた。
 俺とキャスターでは、見えているものが違う。
 どうやら、そういうことらしい。

「どういうことだ?
 ミーディアムは居たけど、アーチャーには見えなかったとでも言うのか?」

「その通りよ。その人形は契約を結んでいる。
 少なくとも、私が観測した限りではね」

 そんな馬鹿な。
 仮にもアーチャー、鷹の目を持つ弓の英霊が、相手の姿を確認しそこなうなどあるのだろうか。
 だが、もし本当に見えざるミーディアムが居たのなら。
 ……ふと、一瞬、茨の鎖につながれた氷室の姿を思い浮かべた。

「待てよ、積極的ってことは、それだけ力を使ってるって事だろ?
 そいつのミーディアムは無事なのか?」

 もしそのミーディアムが魔力のない一般人だとしたら……。
 消滅、という言葉が頭をよぎり、知らず知らず、湯飲みを握る指に力がこもる。
 しかし、キャスターの返答は俺の心配を吹っ飛ばした。

「その心配なら無用よ。
 なにしろ、契約者はサーヴァントだし」

「なっ……!?」

 よ、よりによって、サーヴァント!?
 アーチャー以外にも、ドールと契約しているサーヴァントが居たのか……!?

「い、一体誰なんだ!? 新都ってことは、ランサーか、ギルガメッシュか!?」

「それは言えないわ……いえ、言っても意味がない。
 会えば分かる、としか言えないわ」

 動転する俺を冷静に往なして、ゆっくりと茶をすすった後、キャスターはぽつりと付け加えた。

「……まあ、坊やは会えないでしょうけど」

「は?」

 会えば分かるけど、会えない?
 謎かけのような言葉に混乱する俺に、キャスターがさらに続ける。

「夜に会えば、坊やはまず間違いなく殺される。
 相手の人形は契約者を殺すことにも、おそらく躊躇いはないでしょうし。
 けれど、昼に会おうと思っても、その相手には絶対に会えないでしょうね」

「会えない、って、なんでさ?」

「貴方に限っては、追いかければ追いかけただけ逃げられるということよ、坊や。
 でも、そうね。もし、どうしても会いたいというのなら――」

 キャスターは湯飲みを置いた。
 そしてまっすぐに俺の眼を見て、こう告げた。

「『鏡』に向かい合いなさい。その先でならば、逢えるかもしれないわ」

「かが、み……?」

 冷たい空気に包まれた土蔵にひっそりと立つ姿見。
 その先にあるものは、すなわち……。

「私が話せるのはここまでよ。
 後は坊やの好きにしなさいな。
 但し、この寺にはこれ以上厄介ごとを持ち込まないで頂戴」

 そう言ったきり、キャスターはそれ以上なにも話そうとはしなかった。
 自分で呼び出しておいて、と思わなくもないが、キャスターがここまで話してくれただけでも充分ありがたいことだとも思ったので、ここは何も言わないでおこう。
 俺は、最後にぐいっとお茶を飲み干すと、場の空気に追い出されるように部屋を出た。

 帰ったら、まずは水銀燈と相談しよう。
 氷室と雛苺のこと。
 アーチャーとそのドールのこと。
 まだ見ぬミーディアムとドールのこと。
 なんにしろ、話すことには事欠かなさそうだった。


「……と、こんなところかな、俺の話は」

 その日の夜。
 夕食を終え、各々が各々の時間を満喫している頃。
 俺と水銀燈は土蔵の中で二人、今日の出来事について情報の共有を行なっていた。
 俺としては、今日手に入れた情報があまりにも多かったために、これは水銀燈に話さねばなるまい、と考えてやってきたのだが……まさか水銀燈も同じように土蔵へやってきていたのとは思わなかった。
 なんでも、俺がいない間に、気になる出来事が合ったらしいが……。

「……それは後でいいわ。それより、士郎の話から聞かせて頂戴」

 と水銀燈が促したため、まずは俺から話をすることになった。
 いつもの定位置に座る俺と、その正面に置かれたガラクタの上に腰を下ろす水銀燈。
 向き合って座った二人の間を、一方的に言葉が流れる。

 アーチャーが薔薇乙女《ローゼンメイデン》のミーディアムだったこと。
 新都に新しい薔薇乙女《ローゼンメイデン》が潜んでいるらしいこと。
 そのミーディアムは、なぜか俺たちの目には見えないらしいこと。
 そいつと会うためには、鏡を使う必要があるということ。

 俺が憶えている限りのことを話し終えると、水銀燈がポツリと尋ねてきた。 

「……ねぇ士郎、もう一度言ってくれなぁい?
 そのアーチャーとかいう男、なんて言っていたの?」

「え? ああ……『私は私の方法でアリスを目指す』……だったっけか?」

 俺がもう一度、アーチャーからの伝言を繰り返すと、水銀燈は突然、肩を震わせて笑い出した。

「ふ、うふふふふ……」

 まるで地の底から響いてくるかのような笑い声。
 自らを掻き抱いて、ぎゅっと力を込めて呟く。

「ようやく、ようやく見つけたわ。あぁ、真紅ぅ……」

 感極まったような声。
 その姿は恋焦がれた乙女のよう。
 真紅。それが相手の名前なのだろうか。

「どうしよう、どうしようかしらぁ。
 今すぐに会いに行こうかしら?
 それとも、楽しみは最後に取っておく?
 あぁ……もう水銀燈、困っちゃうわぁ」

 こんなにはしゃいでいる水銀燈は初めてだ。
 けど、浮かれすぎて自分の話を忘れてないか、水銀燈?

「そう、そうね。
 決めたわ。士郎、次の相手は……」

「なぁ、その前にさ。水銀燈の話ってなんだったんだ?」

 話の腰を折られて気分を害したのか、水銀燈は少し眉間にしわを寄せたが、すぐにからかうような口調で一つの言葉を口にした。

「……聖杯戦争」

「っ!?」

 言葉に詰まる。
 まさか、その言葉が水銀燈の口から紡がれるとは思っても見なかった。

「私が何も聞いていなかったとでも思ってるのぉ?
 貴方たちの話の中に何度も出てきてたじゃない。
 アレについて訊こうと思ってたんだけど……」

「けど、なんだよ?」

「けど、やめたわ。
 私には関係のない話だし、今はそれどころじゃない気分だし。
 真紅の居場所が分かった以上、のんびりとなんてしていられないわぁ」

「……そっか」

 その言葉に安堵して……そんな自分に驚いた。
 俺は、聖杯戦争について触れられなかったことに安堵している。
 確かに触れられたい話ではない、が、水銀燈のことは知りたいと思っておきながら、自分のことは隠そうとするのは間違っているんじゃないか?

「水銀燈」

 俺が呼びかけるより早く。
 水銀燈は、ふわりと地面に降り立つと、姿見の前で静止した。
 薄笑いを浮かべながら、まるで全てを見下すように。

「行くわよ士郎。
 アリスゲームを制するのは、他の誰でもない。
 この薔薇乙女《ローゼンメイデン》第一ドール、水銀燈なのだから」

 そう言う水銀燈の姿は、相変わらず美しかったけれど。
 今の俺には、それはなんだかひどくいたたまれなく見えたのだった。


『銀剣物語 第四話 了』


さーて、来週の銀剣物語はー?

 桜です。
 まさか氷室先輩が、先輩とあんなことを……予想外です。
 先輩のほうもなぜか満更じゃないみたいでしたし、気になります。
 気になるといえば、先輩の家に新しく住むことになった水銀燈ちゃんと雛苺ちゃん。
 特に水銀燈ちゃんのほうは、なんだか氷室先輩を敵視してるように見えるんだけど……まさか、先輩、お人形さん相手に!?

 さて次回は、

「健康と美容のために、食後に一杯の紅茶」
「ラブリー眼帯の秘密」
「ふしぎ星石のふたご人形」

 の三本です。
 来週もまた見てくださいね。
 じゃん、けん、ぽんっ!

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最終更新:2007年01月18日 19:23