大学内のベンチに腰を下ろしてぼんやりする。今は昼休み。春が近づいてきたのか最近は大分暖かくなってきたから、外でじっとしていても大丈夫になった。
「由梨遅いなー」
ここでお昼を一緒に食べようと言っていたのだけれど、まだ由梨は姿を現さない。私の方は二限が休講だったけれど、由梨の方は授業があったのだろう。
ビュウと北風が吹く。マフラーを口元まで上げて心ばかり寒さを凌ぐ。
「まだちょっと寒いなあ」
いくら暖かくなってきたからと言っても、外でご飯を食べている人はまだそんなに多くない。ちょっと時期が早かったかな、と少し後悔しながら、道行く人をぼんやりと眺める。
「あれ」
ふと、すれ違う人々の隙間から美しい黒色が見えた気がした。よく見えなくて目を凝らすと、それはどうやら犬のようだった。
「綺麗……」
視線が吸い寄せられて、そのまま動かなくなる。その犬は私から見て右側から優雅に歩いてきて、左側に通り過ぎて行った。ぴた、と犬の歩みが止まる。
「何か?」
低い声に驚いて目線を上げると、意外と近くに、これまた黒い男性が立っていた。恐らく犬の飼い主だろう。
「あ、え、えと」
急に話しかけられるととっさに言葉が出てこない。私は口をぱくぱくさせながら、必死に言葉の引き出しを開けまくる。
「綺麗ですね!」
男性は私の必死の言葉に一瞬怪訝な顔をしたけれど、連れている犬を見て納得したように頷いた。
「……ありがとう」
主語も何もなかったのだけれど、どうやら理解してくれたようだ。私は少しだけ落ち着きを取り戻して、一度深呼吸をする。
「あの、すごく、大事にされているんですね。その……」
犬、と呼ぶのは何だか躊躇われて、私は一度言葉を切る。
「八千代さんだ」
ヤチヨサン……? 私は何を言われたのかわからなかったため、口を開いたままの何とも間抜けな状態で一瞬こう着する。
「名前だ」
ああ、と私は大きく頷いて言葉を続ける。
「八千代さんって、とても素敵な名前ですね。上品な雰囲気にすごく合ってます」
「ふふ」
表情が硬い人なのかと思って緊張していたのだけれど、嬉しそうに笑う様子に私もつい笑顔がこぼれる。
本当に八千代さんのことが大好きなんだな、この人。
「時間があるようだったら、少し話をしてもいいかな」
最初より少しだけ表情が緩んだ男性が言う。
「はい、大丈夫ですよ。あ、でも散歩の途中なんじゃ……」
私は言いながら、八千代さんを見る。じっとこちらを向いていた八千代さんと目が合う。一体いつから見られていたのだろう。何だか気恥ずかしくて、私は八千代さんに向かって笑いかけた。気のせいかもしれないけれど、八千代さんも笑ってくれたような気がした。
「人と話すのは好きなんだ」
話がかみ合っていないような気もしたが、私は頷いて横にずれる。ベンチの空いたスペースに男性はゆっくりと腰を下ろした。
「君はここの学生か?」
「はい。医学部の二年です」
男性は私の言葉を聞いてくす、と笑う。
「初対面なのに、不審がらないんだな」
「あ」
そういえば、私はこの人のことを何も知らない。それなのに不思議と言葉が出てきてしまうのだから驚きだ。
「現実には危険も多い。少し、気をつけた方がいい」
「はい……」
人を信じすぎる傾向があることは何となくわかっていたが、確かにこれは危ないなと自分でも思った。
「でも、何というか……八千代さんがあなたの人と為りは保証してくれているような気がして」
「ほう」
興味深そうに男性は頷く。
「八千代さんに見つめられていると、何だか全てを見透かされているような気分になります」
私は照れたように頭をかきながら言う。こんなことを言ったらおかしな人だと思われるだろうか。
「君の感覚はなかなか鋭いな」
男性は体を屈めてそっと八千代さんに触れる。
「この女性(ひと)は全てわかっている。それでいてなお沈黙を守る美しさを兼ね備えているんだ」
犬は喋れないと思うが、多分そういうことが言いたいのではないのだろう。言わぬが花、という諺もあるくらいだし。
「素敵ですね。そんな女性になりたいです」
私がそう言うと、男性は誇らしげに言った。
「まあ、それ相応の努力が必要だろうな」
ここまで愛されているのってすごいなあ。私は何だかほほえましく思った。
男性がずっと八千代さんを見ているので、私もそれに倣って八千代さんを見つめる。艶やかな漆黒がまた私の目を釘付けにした。
「撫でてもいいですか?」
「ああ」
恐る恐る手を伸ばす。そっと触れると、人間より高めの体温と速い鼓動が掌越しに伝わってきた。
「由梨遅いなー」
ここでお昼を一緒に食べようと言っていたのだけれど、まだ由梨は姿を現さない。私の方は二限が休講だったけれど、由梨の方は授業があったのだろう。
ビュウと北風が吹く。マフラーを口元まで上げて心ばかり寒さを凌ぐ。
「まだちょっと寒いなあ」
いくら暖かくなってきたからと言っても、外でご飯を食べている人はまだそんなに多くない。ちょっと時期が早かったかな、と少し後悔しながら、道行く人をぼんやりと眺める。
「あれ」
ふと、すれ違う人々の隙間から美しい黒色が見えた気がした。よく見えなくて目を凝らすと、それはどうやら犬のようだった。
「綺麗……」
視線が吸い寄せられて、そのまま動かなくなる。その犬は私から見て右側から優雅に歩いてきて、左側に通り過ぎて行った。ぴた、と犬の歩みが止まる。
「何か?」
低い声に驚いて目線を上げると、意外と近くに、これまた黒い男性が立っていた。恐らく犬の飼い主だろう。
「あ、え、えと」
急に話しかけられるととっさに言葉が出てこない。私は口をぱくぱくさせながら、必死に言葉の引き出しを開けまくる。
「綺麗ですね!」
男性は私の必死の言葉に一瞬怪訝な顔をしたけれど、連れている犬を見て納得したように頷いた。
「……ありがとう」
主語も何もなかったのだけれど、どうやら理解してくれたようだ。私は少しだけ落ち着きを取り戻して、一度深呼吸をする。
「あの、すごく、大事にされているんですね。その……」
犬、と呼ぶのは何だか躊躇われて、私は一度言葉を切る。
「八千代さんだ」
ヤチヨサン……? 私は何を言われたのかわからなかったため、口を開いたままの何とも間抜けな状態で一瞬こう着する。
「名前だ」
ああ、と私は大きく頷いて言葉を続ける。
「八千代さんって、とても素敵な名前ですね。上品な雰囲気にすごく合ってます」
「ふふ」
表情が硬い人なのかと思って緊張していたのだけれど、嬉しそうに笑う様子に私もつい笑顔がこぼれる。
本当に八千代さんのことが大好きなんだな、この人。
「時間があるようだったら、少し話をしてもいいかな」
最初より少しだけ表情が緩んだ男性が言う。
「はい、大丈夫ですよ。あ、でも散歩の途中なんじゃ……」
私は言いながら、八千代さんを見る。じっとこちらを向いていた八千代さんと目が合う。一体いつから見られていたのだろう。何だか気恥ずかしくて、私は八千代さんに向かって笑いかけた。気のせいかもしれないけれど、八千代さんも笑ってくれたような気がした。
「人と話すのは好きなんだ」
話がかみ合っていないような気もしたが、私は頷いて横にずれる。ベンチの空いたスペースに男性はゆっくりと腰を下ろした。
「君はここの学生か?」
「はい。医学部の二年です」
男性は私の言葉を聞いてくす、と笑う。
「初対面なのに、不審がらないんだな」
「あ」
そういえば、私はこの人のことを何も知らない。それなのに不思議と言葉が出てきてしまうのだから驚きだ。
「現実には危険も多い。少し、気をつけた方がいい」
「はい……」
人を信じすぎる傾向があることは何となくわかっていたが、確かにこれは危ないなと自分でも思った。
「でも、何というか……八千代さんがあなたの人と為りは保証してくれているような気がして」
「ほう」
興味深そうに男性は頷く。
「八千代さんに見つめられていると、何だか全てを見透かされているような気分になります」
私は照れたように頭をかきながら言う。こんなことを言ったらおかしな人だと思われるだろうか。
「君の感覚はなかなか鋭いな」
男性は体を屈めてそっと八千代さんに触れる。
「この女性(ひと)は全てわかっている。それでいてなお沈黙を守る美しさを兼ね備えているんだ」
犬は喋れないと思うが、多分そういうことが言いたいのではないのだろう。言わぬが花、という諺もあるくらいだし。
「素敵ですね。そんな女性になりたいです」
私がそう言うと、男性は誇らしげに言った。
「まあ、それ相応の努力が必要だろうな」
ここまで愛されているのってすごいなあ。私は何だかほほえましく思った。
男性がずっと八千代さんを見ているので、私もそれに倣って八千代さんを見つめる。艶やかな漆黒がまた私の目を釘付けにした。
「撫でてもいいですか?」
「ああ」
恐る恐る手を伸ばす。そっと触れると、人間より高めの体温と速い鼓動が掌越しに伝わってきた。
生きているって素晴らしい。何となく、そんなことを思った。
八千代さんから手を離すと男性も目線を上げたので、何となく質問してみた。
「お手入れ、ご自分でやっていらっしゃるんですか?」
「ああ」
「お金とか……かかりそうですね」
「そうだな」
一問一答、という感じだった。私自身積極的に話す方ではないので、度々沈黙が訪れる。
「お仕事は何をされているんですか?」
「む……人に言えるような仕事ではない」
初めてはぐらかされた。言いたくないなら敢えて聞こうとは思わないけれど……何の仕事をしているのだろう?
私が考え込んでいると、男性が尋ねてきた。
「君は、動物が好きなのか? あんなに丁寧に撫でているのを見たのは初めてだ」
そんなことを言われたのは初めてだったので、答えるまでに少し時間がかかった。
「……命を扱う学問をしているからですかね。あと、獣医を目指している友人がいるせいかもしれません」
タカの顔を思い浮かべながら言う。無意識のうちに笑顔がこぼれた。
「その友人とやらは、君にとって大切な人なんだろうな」
「へ?」
私はいきなりの言葉に素っ頓狂な声を上げる。
「大切な人のことを話す時は、人は幸せそうな顔をするものだ」
私は自分の顔を急いで手で隠す。恥ずかしくて顔から火が出そうだ。本当にそんな顔をしてたんだろうか……。
「みおー! ごめん、遅くなった!」
その時医学部棟の方から大きな声が聞こえた。声の方を向くと、由梨がものすごいスピードでこちらに向かっていた。
「ふむ、待ち人が来たようだな。それではこれで失礼する」
そう言って男性はさっと立ち上がる。私は大事なことを忘れていたことに気がついて、慌てて尋ねる。
「あっあの、名前を教えていただけませんか?」
歩き出そうとしていた男性が、一瞬だけ足を止める。
「久賀だ。機会があればまた会うこともあるだろう」
私に背を向けたままそう言うと、久賀さんは八千代さんを連れてさっさと歩いて行ってしまった。
一回だけ、八千代さんがこちらを振り返ってくれたけれど。
「大丈夫? 変なことされなかった?」
息を切らせてやってきた由梨は、開口一番にそう言った。
「全然。すごくいい人だったよ」
私は苦笑いして答える。そんな心配されるとは思わなかったなあ。
「ああそう……良かった。大畑が騒いでたから何事かと思ったよ」
「タカが?」
さっき久賀さんに妙なことを言われたせいで、やけに変な感じがする。
「『澪が見知らぬ男と一緒にいるー!』ってさっきメールが来たのよ。うち授業中だってのに」
由梨は肩をすくめながら大げさにため息をつく。私も、過保護の親みたいだなあと思って呆れながら言う。
「……そんなに気になるなら自分が来れば良かったのに」
思いがけずすごく不機嫌そうな声が出てしまった。由梨は慌てたように言う。
「あ、いや、あいつ教授に呼び出しくらって、来たくても来れなかったみたい」
「ふーん」
「え、みお何か怒ってる?」
「別に……」
本当に何もないのだが、何だか怒ったような口調になってしまう。何だろう、この気持ち。
「いやしかし、ホント待たせちゃってごめんね! 帰りにクレープ奢るよ」
由梨が申し訳なさそうに言った。
「やったあ♪」
私はその言葉に満面の笑みを浮かべる。由梨は私の隣―さっきまで久賀さんが座っていたところ―に座ると、素早くお弁当を広げた。
「お手入れ、ご自分でやっていらっしゃるんですか?」
「ああ」
「お金とか……かかりそうですね」
「そうだな」
一問一答、という感じだった。私自身積極的に話す方ではないので、度々沈黙が訪れる。
「お仕事は何をされているんですか?」
「む……人に言えるような仕事ではない」
初めてはぐらかされた。言いたくないなら敢えて聞こうとは思わないけれど……何の仕事をしているのだろう?
私が考え込んでいると、男性が尋ねてきた。
「君は、動物が好きなのか? あんなに丁寧に撫でているのを見たのは初めてだ」
そんなことを言われたのは初めてだったので、答えるまでに少し時間がかかった。
「……命を扱う学問をしているからですかね。あと、獣医を目指している友人がいるせいかもしれません」
タカの顔を思い浮かべながら言う。無意識のうちに笑顔がこぼれた。
「その友人とやらは、君にとって大切な人なんだろうな」
「へ?」
私はいきなりの言葉に素っ頓狂な声を上げる。
「大切な人のことを話す時は、人は幸せそうな顔をするものだ」
私は自分の顔を急いで手で隠す。恥ずかしくて顔から火が出そうだ。本当にそんな顔をしてたんだろうか……。
「みおー! ごめん、遅くなった!」
その時医学部棟の方から大きな声が聞こえた。声の方を向くと、由梨がものすごいスピードでこちらに向かっていた。
「ふむ、待ち人が来たようだな。それではこれで失礼する」
そう言って男性はさっと立ち上がる。私は大事なことを忘れていたことに気がついて、慌てて尋ねる。
「あっあの、名前を教えていただけませんか?」
歩き出そうとしていた男性が、一瞬だけ足を止める。
「久賀だ。機会があればまた会うこともあるだろう」
私に背を向けたままそう言うと、久賀さんは八千代さんを連れてさっさと歩いて行ってしまった。
一回だけ、八千代さんがこちらを振り返ってくれたけれど。
「大丈夫? 変なことされなかった?」
息を切らせてやってきた由梨は、開口一番にそう言った。
「全然。すごくいい人だったよ」
私は苦笑いして答える。そんな心配されるとは思わなかったなあ。
「ああそう……良かった。大畑が騒いでたから何事かと思ったよ」
「タカが?」
さっき久賀さんに妙なことを言われたせいで、やけに変な感じがする。
「『澪が見知らぬ男と一緒にいるー!』ってさっきメールが来たのよ。うち授業中だってのに」
由梨は肩をすくめながら大げさにため息をつく。私も、過保護の親みたいだなあと思って呆れながら言う。
「……そんなに気になるなら自分が来れば良かったのに」
思いがけずすごく不機嫌そうな声が出てしまった。由梨は慌てたように言う。
「あ、いや、あいつ教授に呼び出しくらって、来たくても来れなかったみたい」
「ふーん」
「え、みお何か怒ってる?」
「別に……」
本当に何もないのだが、何だか怒ったような口調になってしまう。何だろう、この気持ち。
「いやしかし、ホント待たせちゃってごめんね! 帰りにクレープ奢るよ」
由梨が申し訳なさそうに言った。
「やったあ♪」
私はその言葉に満面の笑みを浮かべる。由梨は私の隣―さっきまで久賀さんが座っていたところ―に座ると、素早くお弁当を広げた。
「あ、そうだ。さっきの人、どんな仕事していると思う?」
私は自分で作ったお弁当を広げながら由梨に聞いてみた。
「え、大学院生かと思ったけど、違うの?」
ああ、そんな考え方もあったのか。やっぱり由梨は考え方が柔軟だなあと感心する。
「うーん、私も正解は知らないんだけど……」
一度言葉を切る。正直、あまり自信はないのだけれど。
「私は、探偵かな、と思って」
人と話すのが好きって言ってたし、観察力もすごかったし、相棒が犬だっていうのもそれっぽい。
人に言えないっていうのも、これなら何となく説明がつく……かなあ?
「……うん、まあ、ありかもね」
由梨は、あまり腑に落ちないような顔をして頷いた。
「実際に話したみおがそう思うなら、そうなんじゃない?」
「そういうもんかなあ」
私自身もあまり腑に落ちないまま、お弁当を食べ始めた。北風がまた吹いたけれど、さっきよりも心なしか暖かいような気がした。
もう少しで春が来る。そう思うと、より心が温まった。
私は自分で作ったお弁当を広げながら由梨に聞いてみた。
「え、大学院生かと思ったけど、違うの?」
ああ、そんな考え方もあったのか。やっぱり由梨は考え方が柔軟だなあと感心する。
「うーん、私も正解は知らないんだけど……」
一度言葉を切る。正直、あまり自信はないのだけれど。
「私は、探偵かな、と思って」
人と話すのが好きって言ってたし、観察力もすごかったし、相棒が犬だっていうのもそれっぽい。
人に言えないっていうのも、これなら何となく説明がつく……かなあ?
「……うん、まあ、ありかもね」
由梨は、あまり腑に落ちないような顔をして頷いた。
「実際に話したみおがそう思うなら、そうなんじゃない?」
「そういうもんかなあ」
私自身もあまり腑に落ちないまま、お弁当を食べ始めた。北風がまた吹いたけれど、さっきよりも心なしか暖かいような気がした。
もう少しで春が来る。そう思うと、より心が温まった。
それにしても不思議な人たちだったなあ。
また会えたらいいな、久賀さんと八千代さんに。
また会えたらいいな、久賀さんと八千代さんに。
※ということで、花崎澪の予想は、探偵です。
発想が貧困で大変申し訳ないです……。
発想が貧困で大変申し訳ないです……。