「あーっ、やっぱり駄目だわ」
かれこれ三十分ほど僕の血液を矯めつ眇めつしていた碓氷博士は、急に投げやりな声をあげると無造作に試験管
を放り投げた。床にぶつかったそれは硬質な音を立ててころころと床を転がって行く。
第六研に新設されたという碓氷博士の専用研究室はずいぶんと殺風景だった。あるものといえば数枚の書類が散
らばったスチール机と棚、それと椅子が二脚ばかり。多少の実験器具は小学校の理科室程度のものしかなく、研
究室というより独房のようだった。部屋のすみまで転がって行った試験管を律儀に拾いに行きながら、碓氷博士
はなおもぶつぶつと愚痴をつぶやいている。
「つーか、そもそも前提なはずの向精神薬による能力覚醒理論があやふやなのに成功するかって話よねぇ。土台
がなってないんだから問題外だわ」
「そんなあやふやな仮説で僕はしこたまよくわからん薬物を注射されたんですか」
「うっさいうっさい、モルモットのくせに生意気だわよ。大体あんた全然平気じゃない、普通の人なら4、5回は
発狂して首吊ってる量よ」
「いやに具体的な比喩ですね……」
「36号から40号はそれで使い潰したの」
こともなげに言い捨て、博士はなおもあきらめきれない様子で何本かの試験管を見比べだした。赤い液体の向こ
うにしかめ面が消える。
「ある意味不便な体よねえ。酒にも酔えないんでしょ?」
「まあ、体質ですから」
「体質、ね。体質かぁ」
とんとんと指で机をたたきながら碓氷博士はつぶやいた。
「所詮は一代限りの突然変異ってことかなー。まあそれを言ったらチェンジリング・デイ以降のあたしら全員
似たようなもんだけど」
「突然変異、ですか?」
「うん。雲月博士の学説知らない?隕石群によって種の進化を強制的に進める物質が拡散したってやつ。あた
しあの学説の信奉者なの」
「はあ」
「なによ、興味ない?」
「あんまり」
「つまんない子ねえ」
「性分なもので」
チェンジリング・デイ。世界が大きく変わったというその日のことを僕はよく覚えていない。代わりに覚えてい
るのは、自分が能力に覚醒した日のことだ。むしろ、今の僕に残っている記憶といえばそれくらいしかないとい
ってもいい。
なにしろ、生きながらにして瓦礫に体を押しつぶされて全身を骨まで焼かれたのだ。
「しかし……不死身、ねえ」
赤い液体を見つめる博士の目線が徐々に遠くを見るものになっていく。いつも不真面目な彼女がこんな風に真剣
な顔になるのは決まって酒が抜けたときで、二日酔いで不機嫌な時と何かに集中している時くらいのものだ。
「単純な代謝機能の異常じゃないのはわかるけどさ、なんで髪の色が抜けるんだろうね。リバウンドの一種?
でもあれ定義的には能力使用に伴う一時的な現象だしなー。……んー、恒常的な能力発現に伴う反動現象と考え
れば……いやいや、そもそもNFBがあったっけ。同時発症例ってあったかしら」
完全に自分の世界に没入してしまった博士の独り言にしばし耳を傾けた後、僕は席を立った。ああなった博士
はしばらくそのままだ。
「失礼します」
「ん゛ー」
部屋を出る前に一応礼儀として声はかけておく。戸を閉めるまで博士は視線を試験管からあげないままよくわ
からないうめき声を上げていた。
外に出ると、学校の職員室くらいの大きさの研究室がある。例の『独房』、個人研究室は入れ子のように第六研
の中に設置されているというわけだ。こちらの研究室の方が設備も充実しているのだが、僕がここに来るように
なって以来碓氷博士がここを使っているのを見たことがない。部屋の隅にぽつんと置かれたやけにポップなデザ
インの冷蔵庫が異彩を放っている。
どうやら外は昼飯時だったようで、人影もまばらな研究室に職員は一人しか残っていなかった。書類仕事をして
いたらしい彼女は、僕に気付いて振り向くと親しげにほほ笑んだ。
「あれ、フジミ君。もう問診は終わり?」
「どうも、橘川さん。はい、博士が考えこんじゃって」
橘川さんは碓氷さんの助手の一人で、その、まあ、いろいろかわいがられている筆頭でもある。面倒見のいい人
のようで、僕にもいろいろとよくしてくれる。博士の性癖もよく知っている彼女は、僕の答えにふむと考える表
情になった。
「あー、お酒が切れたのね。ご褒美に用意しておかないと。じゃあお疲れ様」
「はい」
挨拶だけして帰ろうとしたところで、閉めたドアの向こうから碓氷博士の声が聞こえてきた。
「おーい、ちょっとまったフジミ号!」
「うわっ」
「あら」
僕と橘川さんは顔を見合わせる。博士の集中がこれほど早く解けたのは知る限り初めてだ。部屋の中ではばたば
たとあわただしい物音がしていたが、すぐに戸が開いてなぜかほほを赤く染めた碓氷博士がぬっと顔を出した。
「いや焦ったわ、知らないうちに出ていくんじゃないわよ」
「なにか用事でもあったんですか?」
「うん、レンラクジコー」
碓氷博士は手に持ったままの試験管をくるくるといじりながら軽い口調でその『連絡事項』とやらを告げた。
「次からあんた、別の研究室に貸し出されることになったから。あ、薫ちゃん。ちょうどいいや、配送の手配
とかよろしくね」
「へっ?」
「え、あ、はい……」
歯切れの悪い返事で答える橘川さんの反応はただならぬ雰囲気だったが、碓氷博士の言葉にはそれ以上に気に
なることがあった。
「貸し出しって、そんなことできるんですか」
「モルモットは上に申請して下賜されるものだし本来なら当人で使い切らなきゃいけないんだけど、今回は特
例。あんたは私のお抱えだし、それに何しろ”使い潰される”ってことがないもの。お得よねぇ」
いひひと歪んだ笑いを浮かべる博士に橘川さんが顔をしかめる。
「主任、あんまりそういうこと言わないでください」
「いーじゃん事実なんだから。実験体なんてモノよモノ」
「それにしたって本人が目の前にいるのにその言い方はないですよ」
「まあそれはどうでもいいんですけど」
ムードが深刻になってきたので適当なところで話に割り込む。
「それで、貸し出し先はどこなんです?」
「第七研」
「第七研?……って、あのキマ研ですか!?」
橘川さんが素っ頓狂な声を上げたが、博士いわくモルモットの身なので組織の事情に疎い僕としては、彼女が何
に驚いているのか見当がつかない。
「あの、キマ研って」
「第七研究室、専門は特殊生物兵器、通称キメラの転用技術開発。」
「はあ……って、あれ?そういえば第七研究室ってここにありましたっけ?それにキメラの研究って、他にもっ
と若い番号のところがやってるって話を前に聞きましたけど」
「その辺いろいろ込みで、特殊なのよ。あそこの室長の能力がそういうの向きでね。通常出回ってるキメラと
違って胚状態から成長させたり生体加工したものじゃなくナマモノを切り貼りして作ってる、読んで字のごと
くモノホンの合成獣。ここじゃ設備に不満があるってんで、別の場所に隔離研究室まで作らせちゃったツワモ
ノよ」
返ってきた答えが予想以上に刺激的だったようで、顔色を青くした橘川さんが黙り込む。こういう仕事に就い
ていながら、彼女は意外に繊細なようだった。
「……そんなとこでなにされるんですか僕」
「だいじょーぶよ。保証書も書いてもらったし、万一あんたの能力名に偽りありなんてことが証明されたらあ
たしらの予算が大幅に潤うことに」
「それ大丈夫とはいいませんよね」
「んー?まーいいじゃん。ほれ餞別だ、飲め飲め。確かこないだしんちゃんが大福持ってきてたわよね。あれ
おつまみにしよ」
試験管を押し付けてくる碓氷博士の様子は明らかにさっきまでと違って、なんだかテンションが妙に上がって
いる。と、そこでようやく僕は試験管に満たされた液体が金色に輝いていることに気付いた。
「ひょっとしてそれ、さっき採取した僕の血ですか?」
「え?はて、さーて、なんのことやら」
ついと目をそらした碓氷博士に橘川さんの表情が変わる。さすがに付き合いが長いだけあってこういう時の事情
の察し方は早い。
「しゅーにーんー!?水分補給一切不可の隔離室までつくらせといてやることがそれですか!いーかげん怒り
ますよ!」
橘川さんの怒声にかえって開き直ってしまった碓氷博士は、呵々大笑してぐびりと試験管に満たされたビール
を呷った。
「はっはー、あたしから酒を奪えるとは思い上がりもはなはだしいわよ薫ちゃん!こちとらその気になりゃ小便
からでもビール作れる女だぞーっ!」
「シモネタに走るのもやめてください!」
アルコールを摂取して本格的に盛り上がってきた碓氷博士は橘川さんに任せて、僕は今度こそ第六研を後にした。
※※※
243号が去った後の研究室では、酒を抜かれてふてくされた顔で机に突っ伏している碓氷の姿があった。
「つーかお上も何考えてんのかねー。明らかにあたしんとこじゃ畑違いでしょうに。片手間でやってるとはいえ
研究が滞るのは困りもんだわ」
「はいはい、そっち片づけるんでどいてください」
慣れたもので、愚痴愚痴と管を巻く碓氷に一瞥もくれずにテキパキと研究室の片づけを済ませる薫は片手間で返
事を返す。
「もともと専門の方だってろくに進めてないじゃないですか。それにあながち畑違いというわけではないのでは?
能力の人為的な付与という意味ではむしろ似ていると思いますが」
「それでもあんたはあたしんとこの研究員?あたしがやってるのはあくまで個々に内在する可能性の選択覚醒。
あの子をサンプルにして進めてるのは他者の能力の定着実験。どぶろくとシャンパンくらい違う」
「どっちがどっちなんだか」
というかどっちにしろアルコールじゃないですか。というツッコミを無視して身を起した碓氷は、くるくると椅子
を回転させながら酒の違いに関する講釈を述べ始めたがすぐに顔色を変えて回転をとめた。
「うぷ……でもさ、世が世なら研究室一個貸し切るどころか総出でやってもおかしくないこの研究をあたしの片
手間だけで済ませてるってのも気になるのよね」
「それは確かにそうですね」
「抽出と定着の方法ってだけなら、いっそ噂の製薬能力者でもかっぱらってくりゃあいいのにねえ。なんて名前
だっけ、ウツボカズラ?」
「どこの怪人ですか」
「いや確か植物の名前だったのは覚えてるのよ。なんか寸胴っぽい響きだったんだけど」
「欠片も正解が見えてきませんが……」
「あーもううるさい!あたしが言いたいのはつまり、お偉方ははたして本当に不死身に興味があるのか、って
ことよ」
イライラが募ってきた碓氷がタン、と軽く机に手を叩きつける。空になった試験管がかちりと音を立てた。
「権力者としてはありがちな目的ですね、不老不死」
「不老かどうかは知らないけどね。その上今度は貸し出し要請がすんなり通ってるし……あー、モヤモヤする!
薫ちゃん、水!」
「本当いいかげんにしてくださいよ。せめてフジミ君の配送手配済ませてからにしてください」
「なに薫ちゃん、さっきからそっけないわよ。怒ってる?」
「そりゃ怒ってますよ。主任は不真面目だし、研究ははかどらないし、上からはさっさと進めろとかせきたてら
れてるし」
「243号は怪しげな研究所に送られちゃうしね」
「そうしたのは主任じゃないですか!」
「あら、そこが肝なの」
激昂してしまったことを恥じるように目を伏せた薫を碓氷は興味深げに見つめる。しばらく沈黙していた薫は
やがて不本意そうに顔を上げた。
「……そうですよ。悪いですか?私も主任も、あの子がここに来るまでの事情をずっと見てきたのに。最近の
主任の態度はあの子に対してひどすぎです」
「うーん、薫ちゃんには言っとくけど、別にあたしはあの子の人間性を認めてないわけじゃないのよ」
「ならどうしてあんな接し方するんですか」
「あの子自身がそうしてほしがってるから」
沈黙した薫に碓氷はなおも言葉を続ける。
「あの子は自分が今でも生きてることに耐えられないのよ。あの子の能力発現のきっかけ知ってるんだし、
心当たりはあるんじゃない」
「……ええ。でも、それにしたって今回のこれは度が過ぎてると思います」
「大丈夫、あそこも噂ほどとんでもない場所じゃなし」
なおも不安そうな表情の薫に、碓氷は軽く笑って空の試験管を振った。
「多分悪い影響にはならないと思うのよね。モルモット君にも、あの第七研のお姫様にも」
※※※
登場キャラクター
最終更新:2010年10月03日 11:57