※ここには漫画『ONE PIECE』の最新話の内容を含むネタバレ考察が書かれています。ネタバレが嫌いな方はここより下の内容を読まないでください。
『ONE PIECE』という作品の中心は「万博(バンパク)」です。
物語には世界の万博の歴史が組み込まれていますが、特に1970年の日本万国博覧会、通称「大阪万博」が中心的なモチーフに使われており、そのことは第1話で示されています。
日本万国博覧会の概要
会期 1970年3月15日(日曜日)から9月13日(日曜日)までの開催
183日間テーマ 「人類の進歩と調和」
(Progress and Harmony for Mankind)海外参加 76カ国、4国際機関、1政庁(香港)、アメリカ3州、カナダ3州、アメリカ2都市、ドイツ1都市、2企業 国内参加 32団体、展示館32館
(日本政府、日本万国博覧会地方公共団体出展準備委員会、2公共企業体、28民間企業・団体)入場者数 6421万8770人
1日の最高入場者:83万6千人 ※9月5日(土)に記録
平均入場者数:35万人会場面積 330ha 入場料 大人(23歳以上):800円
青年(15~22歳):600円
小人(4~14歳):400円
※当時の平均月収は5万円万博のシンボルマークのデザイン 大高 猛氏
万博がモチーフである根拠の一つがマリージョアの「トラベレーター」という「動く歩道」です。
歴史
人間が立ったままで目的地にまで移動することができるという動くプラットフォームの構想は1874年にアメリカのニューヨークで提案されていた[1]。
この動く歩道が実際に作られたのは1893年にシカゴで開かれたコロンビア博覧会(シカゴ万博)においてである[1]。この博覧会に設置された動く歩道は緩急2種類のスピードを組み合わせたもので動く歩道に乗った人がさらに速い方のプラットフォームに乗り移って移動できるように設計されていた[1]。
その後、動く歩道は世界各地の空港や地下街などに導入されるようになった[2]。
種類
踏み面の角度は水平になっているものと、緩やかな坂状になっているものとがあり、日本では1970年(昭和45年)の日本万国博覧会(大阪万博)以降、一般的に動く歩道と呼ばれる。坂状になっているものはエスカレーターと同様、主として建物の各階や比較的大きな段差の移動に利用される。三菱電機では「トラベーター」と呼んでいる。また、傾斜しているタイプをオートスロープと呼ぶこともある。型式にも2通りがあり、エスカレーターの水平化であるパレット式とベルトコンベアのゴムベルト式が存在する。
トラベレーターを動かしている奴隷
「ハァ…ハァ…ゼェ… 助けてくれ… さもなくば… 殺してくれ…」
パレット式とゴムベルト式の2種類というのも、ミス・ゴールデンウィークのカラートラップと、ルフィのゴムゴムの能力を想起させますね。
このトラベレーターは「万博には動く歩道があったという記録から、想像で形だけ再現した存在」です。
おそらく、かつての巨大な王国には万博と動く歩道が存在し、その記録、あるいは記憶だけがマリージョアに残されているということでしょう。
要するに、巨大な王国には電気やモーターがあり、「世界政府」やマリージョアの者達には電気で機械を動かす原理が理解できない、伝わっていないことを示しています。
大阪万博と関係が深いのは「内国勧業博覧会」、そして「大阪の新世界」です。
内国勧業博覧会とは「国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的」とした、いわば「日本国の産業産品の展覧会」です。
よく「1903年(明治36年)の第五回内国勧業博覧会の人類館という展示で、各国の人間が実際に生活の様子を見せる展示が人種差別だ」と言われますが、実はこれはウソです。
まず第一に、この展示を人種差別だと事件化したのはチャイナ人であり、チャイナの文化には「人に見られる職業は卑しい職業だ」「乞食の職業だ」という概念があるのです。
日本人には想像もできませんが、チャイナの乞食は実はよく働きます。
戦前の日本政府の調査で、チャイナの乞食には非常に多くのパターンがあることが分かっています。
『ジョジョの奇妙な冒険 第三部』で有名になったインドの「荷物運び」と同じ方法や、店先で動物の骨を叩いて派手な音を出しながら商品の宣伝や客引きをして、後で店にお駄賃を要求するという方法もあり、当時の日本人はその多様さとバイタリティに驚いたそうです。
ただし多くの乞食は”親方”に搾取されており、戦後に日本のサラリーマンが仕事でチャイナに行くときに、戦前のチャイナを知っている人たちから、「子供の乞食がいたらお金を恵んでやってくれ。その子たちは稼ぎが少ないと、より人の同情を引くために親方が子供たちの手足を切ったり、目をつぶしたりするから」と教えられたそうです。
また、チャイナ独特の事情もありました。
1984年の「日清戦争」でチャイナは敗戦国となっており、プライドの高いチャイナ人にとっては「戦勝国の日本が敗戦国の自分たちを見世物にしようとしている」ように思えたのです。
この人種差別だという主張がほぼチャイナ独特のものである証拠に、人類館への参加を拒否したチャイナは別に問題なく撤退出来ていますし、そのほかの国はそのまま展示に参加しました。
第二に、こうした「人を実際に展示する方法」は当時は当たり前の手法です。
現代でも、モデルルームに安く住む代わりに、宣伝として自分たちの生活を客に見せる家がありますよね?
マネキンを作るよりも簡単で、衣服や道具を実際に使っているところを見せることが出来るからです。
なにしろ、普段通り生活するだけでいいのですから。
実際に、1867年の第2回パリ万博では日本の芸者がお茶を提供する展示が大人気となりましたが、誰も問題にしませんでした。
日本の伝統的な衣冠装束の展示も、実際に日本人がそれらの服を着て立っていたのですが、誰も人種差別だとは言いませんでした。
人類館の展示は「世界の人々の生活を見せる」という民俗学的な展示であり、簡単に言えば、ハウステンボスで風車が並ぶセットの中で、中世オランダの服装をした人たちが、中世風の生活を見せるのと同じです。
さらに人類館のような展示が人種差別でない証拠に、国会図書館の当時の内国勧業博覧会の目録を見ると、「薩摩の裸踊り」という項目があります。
これは明治維新の勝者であり、当時の最高権力者である薩摩の伝統的な「ふんどし一丁で踊る民族舞踊」を見せるという内容で、こうした展示に日本人が差別意識を持っていなかった証拠です。
ではなぜ人類館が人種差別だというデマが広まったかというと、吉見俊哉という人物の『博覧会の政治学』という本が「博覧会とは帝国主義が自慢をする場所で、当時の日本は帝国主義で差別的で、人類館事件は人種差別だったのだ」と書いたのが原因です。
ところが実はこの本は、「薩摩の裸踊りや、子供に大人気だった動物園やアイスクリーム、ウォータースライダーなど、子供に大人気で、人種差別を否定するデータを削除」してしまっているのです。
さらに、勝手に展示を”見世物”と呼び、ウォータースライダーのような体験型アトラクションまで見世物だと書いています。
これは「データの改ざん」に当たります。
作者の吉見氏は「ディズニーランドのビッグサンダーマウンテンは見世物だ」と言っている等しい。
これは明らかに間違いです。
このように、データを自分の主張に合うように意図的に取捨選択し、呼称を改悪するのは、明らかな印象操作です。
当時のイラストが一枚だけ残っているのですが、テーブルのようなものに民族衣装を着て楽器を持つ人が描かれているだけで、差別的なニュアンスはありません。
1903年(明治36年)の第五回内国勧業博覧会で人種差別などなかったという最大の状況証拠は、この万博が大人気であったため、その跡地がそのまま街として残されたことからも分かります。
その街こそが、現在の大阪「新世界」です。
博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年(明治42年)に東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園となった。西側の約2万8千坪は大阪財界出資の大阪土地建物会社に払い下げられ、1912年(明治45年)7月3日、「大阪の新名所」というふれこみで「新世界」が誕生。通天閣とルナパークが開業した。
当時の人々が第五回内国勧業博覧会を良かったと思ったから街にして残したのであって、悪い内容だったら残すわけがありません。
大阪の人は縁起を担ぎますしね。
これは私が実際に知っている例ですが、関西のとある日本酒メーカーは相続争いを起こしたため、「そんな縁起の悪い会社の酒は置けない」と酒屋さんからの注文が激減したという実例もあります。
だいたい、当時の万博、博覧会は当初の産業振興という目的から離れてすでに「お祭り化」していました。
もともと日本人はコミケのように何でもお祭りにしてしまう国民性ですしね。
ルフィの”夢の果て”にも関係しますし。
こうした印象操作は、『ONE PIECE』の「世界政府」と同じ手法だとも言えます。
尾田栄一郎先生も「一部だけを見せて印象操作する」手法と多用しています。
(古代兵器の一部だけ説明する、謎の壁画だけ見せる、ポーネグリフの前文ではなく一部だけ言葉にする、3つの盃を描いてルフィに2人目の義兄がいる伏線を張る、おでんの「ム…」など)
別の言い方をすれば「群盲 象を撫ぜる」というやつです。
ミステリのような「謎を作り、真実を隠す創作の手法は、限りなくデマの手法に近づく」のです。
あ、そう言えば「新世界」に「通天閣」「ルナパーク」って、『ONE PIECE』っぽいですよね。