181系電車は国鉄時代に製造された特急型電車である。ここではその前進である151系電車と181系電車についても記述する。
国鉄初の特急電車「こだま型」151系
国鉄初の電車特急「
こだま」が走り始めた昭和33年(1958年)、この年は国鉄にとっての大きな変革のあった年である。国鉄初の新性能電車となる
101系をはじめ、同様の性能を持った急行型の
153系に特急型の151系、さらに「走るホテル」と評された20系客車が相次いで登場し、日本の鉄道が新たな時代を迎えている事を実感させたのである。
昭和20年代半ばまで電車というものは近距離でしか使えないというのが常識であった。騒音や振動が激しく、居住性は客車にはるかに劣っていたからである。
しかし、昭和25年(1950年)に東京~沼津間で「湘南電車」
80系電車が運転を開始し、電車による長距離運転が可能である事を証明した。この実績から特急型電車が計画され、そして誕生したのが20系、後の151系である。
151系の設計コンセプトはまさしく特急用車両に相応しい高性能と居住性を備えることだった。東海道本線のエースとなるべく151系には様々な新機軸が盛り込まれた。
高速運転を可能にするために車体は軽量化・低重心化が図られた。主電動機や駆動装置、制御装置は101系と同様だが高速運転に対応するためギア比が小さくされている。
台車は国内の電車で初めて空気バネつき台車を採用。横揺れ防止のために車端ダンパを取り付け、結果それまでの電車とは一線を画す乗り心地が得られた。窓は固定窓となっている。
スタイリングで忘れてはならないのがボンネットだろう。これはイタリアの特急「セッテベッロ」を参考にしたという。ボンネットの中には電動発電機と電動圧縮機が入っており、客室内の静粛性に一役買っている。
最初に製造されたのは先頭車となるクハ151、中間電動車のモハ151とモハシ150、中間2等車(今のグリーン車)となるサロ151の4形式である。特急こだまはこれら4形式を1ユニットとし、2ユニット繋いだ8両編成で運転を開始した。
モハシ150は半室がビュッフェ車となっており、当時の特急の常識である食堂車が設けられていなかった。これは特急こだまがビジネス特急に位置づけられており、車内で提供するのは軽食・喫茶のみで良いとする考えからである。
2等車では各シートにラジオが取り付けられた。イヤホンを通してNHK第一、NHK第二が聴取できたが、後に携帯型ラジオの普及で廃止されている。しかし、まだAMラジオが貴重な存在だった時代としては画期的なサービスだった。
パーラーカーの登場で黄金期へ
その俊足によって、鉄道による東京~大阪間の日帰りを初めて可能にした、151系による特急こだまは予想以上の反響を呼んだ。この影響を受けたのが元祖東海道線のエースである特急つばめとはとである。これらはこの時まだ客車特急として健在であったが、人気はこだまを下回るようになったため、電車化されることになった。
つばめとはとの電車化に併せて、こだまは12両編成に増強し、各列車を共通運用することになった。
増備に際して造られた新形式は中間電動車モハ150、中間付随車サハ150、中間1等車(2等車から改正、後のグリーン車)サロ150、中間1等電動車のモロ151・モロ150、食堂車となるサシ151、そして先頭1等展望車のクロ151である。
増備車の中で異彩を放っていたのがクロ151で「パーラーカー」の愛称が付けられた。編成の大阪寄り先頭車となるこの車両は定員わずか18名。運転台背後にはVIPの使用も想定した定員4人の区分室が設けられており、デッキを挟んで設けられた開放室には1人掛けの回転式リクライニングシートが14脚設置された。窓は2m×1mという大型で、サービス係としてボーイ1名も乗務、座席に電話機をセットするサービスまで存在した。
なおこのクロ151は徐々に利用率が低迷し普通車に改造され、後に廃車された。
こうして151系は東海道の花形となり、新幹線開業前には1日9往復の151系による特急列車が運転された。
新幹線開業後には活躍の場を山陽本線に移し、九州は博多まで運転された。
勾配線区に対応した161系の登場
信越本線の長岡~新潟間が電化されたのは昭和37年(1962年)のこと。これによって上越線を含む東京~新潟間の電気運転が可能になった。そしてこの線区にも151系を用いて特急列車を運転する計画が持ち上がった。今では当たり前となっている電車の特急だが、当時は特急そのものが貴重な存在で、東海道・山陽本線以外に電車特急が進出するのはこれが初めてだった。
そこでまず、昭和36年(1961年)6月に151系と準急
日光などに使用されている「
デラックス準急」こと
157系を使用して、新前橋~長岡間で試験運転を行った。
結果としては151系では連続した勾配を走ることが無理であると判明、157系は良好な結果を残した。そこで外観や車内設備は151系、走行系は157系をベースにした161系が誕生した。
外観は151系と同様のボンネットスタイルだが、先頭部に赤帯が追加されている。ギア比は勾配線区に対応するため157系と同様になった。また、抑速発電ブレーキを装備し、耐寒・耐雪構造が強化されている。なお、1等車でのラジオ受信サービスは山間部での受信状態が不安定になることを配慮して当初から見送られている。
こうして161系を使用した特急はときと名付けられ、昭和37年(1962年)6月から上野~新潟間で運転を開始した。編成は9両編成で「パーラーカー」のような車両はないものの、1等車2両と食堂車を連結した特急列車に相応しいものだった。
所要時間は4時間40分で従来の客車急行に比べて1時間以上の時間短縮を実現した。電車運転のメリットがここにも現れたのである。
151・161系を出力増強改造して登場した181系
国鉄新性能電車に最初に搭載された主電動機はMT46型と呼ばれ、出力は100KW。151系や161系にも搭載されていたが、電化区間拡大で電車運用が拡大すると勾配の多い線区では出力不足が顕著になってきた。「セノハチ」と呼ばれる山陽本線八本松~瀬野間では151系による特急つばめといえども補助機関車の連結が必要となっていた。電動車の比率を上げるという方法もあるが、変電所に負担をかけてしまうという欠点がある。
そこで出力を120kWにパワーアップさせたMT54型とMT55型が登場する。前者は中・長距離電車用、後者は通勤電車用である。
MT54型は151系や161系にも順次換装され、併せて抑速ブレーキが使えるよう改造された181系が誕生する。車号は151系からの改造車が0番台、161系からの改造車は40番台となった。181系ではギア比は1:3.50に統一された。
なおこの時「パーラーカー」はしばらくそのままクロ181となったが、後に半室を普通車としたクロハ181に改造されてしまっている。
最初から新製された181系100番台
東海道・山陽本線と上越線で好評を得た181系の電車特急は昭和41年(1966年)に信越本線の特急あさま、そして中央本線の特急あずさにも進出することになった。2つとも新たに設定された特急であったが、上越線ときの増発も計画されていたため、新たに181系100番台が新製されることになった。
中央本線の高尾以西には天井の低いトンネルがあり、また信越本線では横川~軽井沢間で補助機関車EF63との連結運転の必要があったため、低屋根構造、横軽対策など一部のデザインが変更されている。
その後、山陽本線の九州乗り入れ特急には
583系が投入され、余剰となった181系は増発が決まっていた
あずさ・
とき・
あさま用に転属され、山対策や耐寒・耐雪工事が施されている。
こだま型として生まれた栄光の車両がこのように容赦なく改造されているのは、当時の国鉄にそれだけの予算がなかったためである。
こうして山陽路から山国へ異動し活躍した181系だったが、昭和40年代後半から昭和50年代にかけて新形式への置き換えが進み、昭和57年(1982年)に上越新幹線が開業すると、特急
ときの運用を最後に引退した。
ちなみにこの時に残っていたのは新製車の100番台のみ。151系・161系から改造された元祖「
こだま型」たちはひっそりと姿を消していたのである。
最終更新:2008年09月29日 21:13