こだまは東海道・山陽新幹線の各駅停車タイプの列車である。新幹線開業前は東京~大阪・神戸間を東海道本線経由で結ぶ特急列車の愛称だった。国鉄で初の電車による特急である。
新性能電車の登場で切り開かれる電車特急の道
昭和31年(1956年)11月19日、東海道本線全線、すなわち東京から神戸までの区間が電化された。これにより東京と大阪の2大都市を電気運転で結ぶことになり、それは高速化や技術の進歩に大きな影響を与えることになった。当時の国鉄において、エースである特急つばめ、はとで表定速度は74.6km/h。ようやく戦前の特急のスピードを追い抜いたばかりだった。ましてや表定100km/hを超える速度などは未知の世界であった。
そこで東海道本線全線電化前の1955年、今後の特急列車のあり方を模索するため、電気機関車EH10型と10系客車を組み合わせた試験列車で高速試験を行った。同年12月14日には金谷~浜松間で最高124km/hを出し、当時の国内最高速度を記録している。
当時では特急列車は機関車が引っ張る客車列車であるのが常識で、この高速試験もその意味合いが強かった。が、国鉄部内で電車特急の構想が浮上し「電車化調査委員会」が発足する。
当時、長距離を走る電車といえば80系電車が最先端であったが、これは戦前の流れを汲む「旧性能電車」の域を出ておらず、電車による特急にはこれまでの概念を超越した新しい技術とコンセプトが必要とされた。
その道を切り開いたのが小田急電鉄3000形「
SE車」と国鉄のモハ90系(後の
101系電車)の2形式だった。SE車は流線形のフォルムと低重心というスタイルで高速性能を発揮。90系はカルダン駆動やMM'ユニット方式など、今までにない新しい電車技術が盛り込まれていた。この2形式は1957年に東海道本線で試験運転が実施され、100km/h超の高速運転でも安定した性能を発揮したことから、同年12月から正式に特急型電車の開発が始まった。
東京~大阪間6時間50分、滞在時間わずかながら日帰りを実現
開発は川崎車輛、近畿車輛、汽車製造の3社と共同で進められ、1958年4月、3社に8両編成3本の計24両を発注。同年9月には全編成が出揃った。
系列は20番代の番号が与えられ、先頭3等車クハ26、中間3等電動車モハ20、中間3等・ビュッフェ合造電動車モハシ21、中間2等車サロ25の4形式が誕生した。先頭車は高運転台のボンネット型、車内は冷房完備で、台車に空気バネを採用。2等車にはシートラジオが取り付けられNHKのラジオ放送を聴取できた。さらに「ビュッフェ」という立食形式の食堂設備が初めて採用された。このように今までの国鉄車両にない新機軸・新サービスが惜しみなく投入されていた。
外観では赤とクリーム色のツートンのカラーリングとなったが、これは後に国鉄特急車両の標準色となり、「国鉄特急色」として現在人気を集めることとなる。また前面の羽根のようなシンボルマークや側面の「JNR」のマークも
20系で初めて採用された。
愛称については一般公募を行ったところ、だんとつで「
はやぶさ」1位で、「
平和」「
さくら」と続いたが、日帰り可能な所要時間から「1日で行って帰ってくる」というのに相応しいものとして「
こだま」が選ばれた。
1958年9月には試乗会が行われ、同年11月1日に東京~大阪間に1往復、東京~神戸間に1往復の2往復がデビューを果たした。当時のダイヤは以下の通り。
101T:第一こだま 東京07:00→大阪13:50
102T:第二こだま 大阪16:00→東京22:50
104T:第一こだま 神戸06:30→東京13:50
103T:第二こだま 東京16:00→神戸23:20
東京~大阪間6時間50分という所要時間は客車特急である「
つばめ」が7時間30分に比べ実に40分もの時間短縮を実現している。東京と大阪での滞在時間はどちらも2時間10分と短時間だが、それでも表敬訪問などの用務はこなせるため、ビジネス特急として重宝された。
東海道に次々と電車特急が登場、他の特急と足並み揃えた昭和30年代
「
つばめ」に比べて圧倒的に速く、しかも乗り心地が良く快適な
こだまに人気が集まるのは当然といえた。それで運転開始から1年後の1959年12月、早くも増備が行われ
こだまは12両編成となった。その前に6月に車両称号規定が改正され、20系は
151系へと改められた。また7月には東海道本線金谷~焼津間にて151系を用いた高速試験が行われ、当時の狭軌での最高速度記録である163km/hを記録している。
人気上々な
こだまに対し、速度でも車両設備でも劣る「
つばめ」「
はと」は次第に人気が低迷してきたため、国鉄はこの2列車の電車化を図り、1960年には151系に置き換わった。ちなみにこの時「
はと」は「
つばめ」に吸収されて愛称が消滅している。それに伴い運用効率を図るために
こだまと
つばめで共通運用が組まれた。
つばめの電車化の際には客車時代に最後尾に連結されていた1等展望車に代わる車両として特別座席車クロ151、通称「
パーラーカー」が大阪よりの先頭に連結された。
1961年(昭和36年)10月、「
サン・ロク・トオ」と呼ばれる全国での白紙ダイヤ改正によって東海道本線の電車特急は大幅に増発された。
こだまや
つばめの他に、東京~大阪間に「
はと」が復活、東京~神戸・宇野間に「
富士」、東京~名古屋間に「
おおとり」、大阪~宇野間に「
うずしお」が登場した。ただし
こだまは運転当初の2往復に変化はなかった。
1962年には山陽本線の広島まで電化が完成し
つばめは広島まで運転されることになるが、スジは下り
第一つばめと上り
第二こだまのものが与えられた。
このように昭和30年代後半は他の特急と足並みをそろえてきたこだまだったが、1964年10月に東海道新幹線が開業すると、新幹線の各駅停車タイプの列車に愛称が召し上げられることになった。これによって他の特急と同様に東海道の在来線特急の歴史に幕を閉じた。
「第一富士」衝突事故の影響で登場した「かえだま」
特急「
こだま」は在来線特急廃止まで一貫して
151系電車が使用されてきたが、事故などによって時おり変則編成が登場することで話題になったことがある。その最もな例が1964年4月に発生した静岡県での「第一富士」が遭遇した事故だった。
この事故でトラックと衝突した「パーラーカー」クロ151-7が大破してしまった。当時
この車両には予備がないために東海道の特急の運用全体に甚大な影響を及ぼした。
こだまには「
東海」等に使用される急行型電車153系が使用された。この編成は
つばめが電車化された時期の辺りから登場しており、151系とは車内設備の格差が激しいことから「
かえだま」と酷評されていた。
また、上越線の特急「
とき」の先頭車クハ161を大阪よりに連結するなどの苦肉の策が講じられた。それによって先頭車を譲った
ときは「
日光」などに使用される準急型電車157系との混結をし、準急「
日光」にも影響が及んだ。
これらのことは当時東海道の特急が最重要視されていたためといえる。
最終更新:2008年10月29日 20:43