仙台教区

ここでは仙台仏青の動きをミラーとして時々まとめて記載しています。
公式HPをご覧下さい。

4月5日
福島県いわき市に帰る
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法務の為に久しぶりに福島県のいわきに戻ったので、避難所や、沿岸部の被害を見て回ることに。
以前に比べ、車の数、活動してる人の数は目に見えて増えている。
飲食店も少しずつだが、再開しているみたい。ガソリンはまだ多少並ぶよう。
途中、立ち寄った本屋では3月11日以降の本、雑誌は一切置いてなかった。
沿岸部では、依然として遺体の収集作業が続けられていた。他の津波被害の場所に比べて内陸部までは、被害が及ばなかったように見える。
それでも、見知った道が、景色が消えたのを見るのは堪える。
立ち寄った避難所では、お風呂に入れてないようだが、物資は十分あるとのことで一安心。
一番、気になっていた原発の影響を感じるため、少し足を伸ばして、30km圏内へと向かう。
先ほどの避難所から、五分もしないで圏内へ。通行規制も何もなく、ただぱったりと人影が消える。
道路沿いの家屋には、人の気配もなく避難しているように見える。
そのまま少し走り続けると、電工掲示板には「半径20km圏内立ち入り禁止危険」の文字が踊る。
道路が封鎖され、パトカーには防護服を着た警官。
少し話を聞こうと近づくと、緊急車両の登録をしていた為、思いがけず中へ通されてしまう。

さすがに、マスクだけで中の状況を見に行くわけにもいかず、少し進んでUターンする。完全防護した自衛隊が作業している姿が見える。
自衛隊が、完全防護しなければならない場所から10分もしない場所に、200人以上が避難している。

ただちに健康に影響を与える値ではない、と言われても規制圏内の異常さを見てしまうと、そこからほとんど変わらない距離に避難している、普通に生活していることに違和感を覚えざるを得ない。

水素爆発が起きた時、マスクや帽子で防備して、自主避難していた人達が、少しずつ街に帰ってくる。

街が再生していくのは嬉しいが、事態が終息したから、状況が好転したから、帰ってきた訳ではない。

避難生活に疲れ、放射能という言葉に慣れ、麻痺して、うやむやのまま現状を受け入れた結果なのではないかと思う。

放射能は、見えないからよくわからないし怖いと言うが、見えないことの本当の恐ろしさは、何事もないかのように生活が送れることだと思う。

大人たちはまだいい、でも子供たちには見えないリスクを負って欲しくないと、切に思う。

生まれた土地が、深呼吸するのもためらわれる、そんな場所になっていることが、とてもとても悲しい。


4月5日
救援物資届く
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三陽教区(岡山)から救援物資が届いた。
水用のポリタンクにゴム手袋にガスボンベ。
嬉しいです。感謝。感謝。
直接お会いすることが出来なっかた。・・・教務職員が教えてくれた。「皆疲れ切った顔でした。」「きっと余り休まずに遠い仙台まで、急いで運んでくれたのでしょう。」
改めて繋がりの中で生きていると実感。
大切に有効に使わせていただきます。
これで、BOPの動きもだいぶ楽になるだろう。
次回にむけて本日は準備中。
ここで終わりではありません。
仏青メンバーはメインでBOP活動ですが、あいてる時間は救援物資を運んでいます。昨日あたりから被災地から生活物資が足りないと連絡が入るようになってきた。

トイレのにおい消し、お部屋のにおい消し、子供のおやつ、日持ちする野菜、おかずになる缶詰などets.
細かいリクエストです。
少しであるが、「生活」を取り戻せてる感じです。
でも、所変われば「需要」は変わる。難しい現実。
小さな情報をキャッチしてメンバーは動いています。
まだまだ終わりの見えない活動。でもがんばります。



4月4日
宮城県亘理町で子供達とあそぶ
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今日は、宮城県南の亘理町に仲間が避難しているので、会いに行きがてら、亘理町の避難所を回り、情報収集をしてきました!
情報収集だけのつもりでしたが、避難所には小さいお子さんが結構いたので、せっかくなので一緒に遊ぶことにっ!
同行していた仲間の折り紙が絶大な威力を発揮して、みんなで折り紙と念珠作りをして過ごしました。子供たちも大興奮で、喜んだみたいで良かった。
帰り道には、知り合いのお寺で物資を積み込み仙台へ。
行政だけには任せられないと、自分で考え、様々な形で動いている人達が沢山います。
現地に行かなくても、それぞれの活躍の場で被災地へと想いを致してくれる仲間が沢山います。
現地では、そんな想いをひしひしと感じます。


4月2日
宮城県気仙沼にて新たな出会い
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朝、五時過ぎに起床。
こんな早起きの日は、BOPなのです。
今回は、事前に電話でやりとりすることが出来たので、前日に欲しい物資を聞き取り、大量に準備して現地へ向かうことに。
今回は、以前ドラム缶風呂の活動した、気仙沼市本吉町、大谷地区にある別の避難所、
仙翁寺が目的地。
けせ
途中、事前交渉済みの給水所で大量に給水するため気仙沼市街地へ。
すぐ近くが被害の酷い地域だったので、少し見て回ることに。
中洲のようになっている地域が、全て瓦礫の山になっていた。
瓦礫の中を歩いているおばあちゃんに声をかけると、震災後はじめて自宅を見に行くという。話を伺いながら、自宅のあった場所へとご一緒させてもらう。景色のあまりの変化に、「ここには、信号機があった。友達の家はあの辺りだ。」混乱してる様子で、次々と言葉が続く。そして自分の家があったハズの場所へ。ここだ、と確信が持てない。30年以上住み続けた家が、跡形も無く、見覚えのない車や鉄骨の山になっていた。「写真だけでも見つけたい」そう言って瓦礫に踏み入るおばあちゃんに別れを告げ、再び目的地へ向かった。
仙翁寺は、270人程が避難しており、そのほとんどが津波により家を無くして帰れない長期避難者である。
今回は、規模の大きな避難所ということで、
初の試みである「BOP初号機」「BOP二号機」を両方稼働させることに挑戦。
想定外の強風に苦慮し続けたものの、なんとか成立させることが出来た。
規模の大きな避難所ということもあってか、北海道おしゃまんべの商工会の皆さんが炊き出しに同時刻来られていた。その中の一人が私に「どこかの仏教会の方ですか?」と聞いてきたので、「真宗大谷派の仏教青年会です」と答えると、なんとその方も、大谷派の僧侶でした。北海道教区第一組の三浦さん、設営のお手伝いのみならず、美味しい焼きそばに蟹汁、私達までご馳走になり、ありがとうございました!
というわけで、今回はドラム缶風呂には子供たち、完全密閉式のバスタブ風呂には、主に大人、という形で沢山の人に利用して頂きました!
クタクタになるまで走り回り、肩車して、チャンバラでお尻をしこたま叩かれ、好きな娘の話を聞き、山に向かって一緒に叫び、携帯番号も交換した。
その一部始終、みんなずっと笑顔のままだった。震災で沢山の悲しみが生まれ、今も尚、深い悲しみの中におられる方が沢山存在する。
ただ、今日私が出会った子供たちは、みんなとびっきりの笑顔だった。みんな被害がなかったわけじゃない。おこずかいを貯めて買った服をなくし、大切にしてたギターをなくし、三回しか遊んでないWiiをなくし、思い出のユニフォームをなくし、好きだった子は震災で転校し、親は職を失い、友達との想い出が、生まれてからずっと住んできた家が流された。勿論、次の住みかも決まってない。それだけの現実を背負ってなお、本当に明るく、笑顔で生きている。

(たぶん)慕ってくれて片付けまで手伝ってくれた思春期全開の少年たち、無邪気に遊ぶ小学生たち、トゲのある言葉で大人を傷つける女子たち、その全てが、可愛くて可愛くて、愛しくて愛しくて堪らなかった。

私自身、避難生活をしており自覚はないけれど、被災者になるのだろう。
それでも、支援活動のつもりで物資を届け、お風呂を作ってきた。

だけど、なんのことはない、支援されていたのは、私でした。

震災に直面し、目を覆いたくなるような現実にうつむいていた私に、前を向かせてくれたのは、彼らの笑顔なんだと今は確信しています。

本当に、本当に元気と希望をもらいました。

そして、本当に楽しい時間でした。

きっとまた会いに行きます

4月2日
女性スタッフも入り、活動行動広まる。
 今回は、東北道一関ICから現地に向かいます。途中、給水場に寄って、宮城県気仙沼市地域に入り活動する予定です。
 本日のメンバー。仙台3名、千葉と三条の2名、山形からトラック持ち込み(感謝)と1名の計5名
水500リットルタンク一つと、20リットルタンク10個、それとお風呂(二号機)、持っていきます。
仙台教区岩手県チームも7名(2名女性)参戦。
ドラム缶風呂や物資を持って現地へ。
大所帯です。
今回から女性スタッフも参加。(頼もしいです)
女の子やおばちゃんの時にも湯加減を調節できそう。
徐々にであるが、活動内容が広がってきました。
他県からの有志は本当に助かります。

詳細は後日報告します。

尚、ボランティアに参加しているメンバーは災害保険に加入しております。
何分、まだ危険な場所がたくさんありますから 、参加される方は仙台教務所までご相談ください。




4月1日
活動範囲広まる
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次のBOP開催場所のリサーチを進め、無事に決定。
200人規模で、子供に限らず大人も入りたいとの要望に応える為に、ドラム缶だけでなく二号機も合わせて稼働させたいところ。
ところが、ここで問題が一つ。バスタブに水も運ぶとなると、輸送手段が現時点で無い。 急遽近県の仲間たちに相談。
農家の皆さんも、忙しく軽トラが借りにくいこの時期に、しかも急な話でかなり無理なお願いだと、自覚していたのですが、仲間の1人が色々と奔走してくれ、無事に軽トラを確保。 自分の予定にも都合をつけてくれ、今晩山形の有志が軽トラでBOPを手伝いに来てくれることに!
「大して無理してない」とおっしゃられていたが、きっと色々と無理されたんだと思う。本当に助かります、感謝感謝。
空いた時間には、子供御遠忌で持っていくバッジ作成もしてます。私のデザインしたのもあるから、皆さんも是非どうぞっ!
というわけで、明日は、気仙沼にBOPってきます!


3月30日
新型お風呂石巻に行く
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今回は、石巻にある住吉小学校にて設置するのですが、そこはライフラインが未だに全滅、夜はロウソクで暮らしているような状況なので、水はこちらから用意して持っていくことに。
住吉小学校は、津波の被害を直接受けており、一階部分は泥にまみれて、廊下も教室もぐちゃぐちゃです。校庭には、横断歩道の書いてある道路が横たわり、プールには自動車が沐浴している。そんな場所で、150人程の方が避難生活を送っています。
昼間は子供も含め、みんなでそれぞれの自宅の泥かきや片付けに追われ、夜はロウソクの灯りで教室に横たわる。そんな場所でした。
前回は、子供限定のドラム缶風呂という形で提供したので、それを踏襲して今回も子供限定という形で呼び掛けることに。
着々と準備を進め、用意が出来た頃に男の子三人組が来てくれる。
幸先の良いスタートに安堵したのも束の間、つ、次の子がこない。
このままでは、BOPの輝かしい歴史に傷がついてしまうと、避難所の代表の方に伺うと、昼間子供たちは片付けの手伝いなどで、あまり居ないという事実を告げられることに。
それでも、少ない子供を求め彷徨う男たち。
やっと見つけた親子連れに、お菓子もあるし、お風呂に入りにおいで!と言うと、子供は行きたいというのに、親は怪訝な顔で愛想笑いをして一昨日入ったでしょ?と、とてもわかりやすくオブラートに包んで拒否されました。

私の見た目が怪しいのか!

風呂に入れてない奴が、風呂を勧めていることで、説得力がないのか!

アレ?臭いのか!?

そんな風に軽く傷つきましたが、そんなことでは挫けません。
こんなこともあろうかと、今回は初号機ではなく、改良型二号機を搭載してきてるのです。
二号機は、通常のバスタブを備え、しかも花王のバブに対応しているのでフレグランスなバスタイムを提供することが可能な、まさに大人の優雅な午後を演出するに最適な一品なのです。
蛇足が過ぎました。

大人も入れないか?という声をたくさん頂いたので、子供に限らず受け入れることにしました。
そして今回は、女性にも利用して頂こうと、徹底してプライバシーには配慮したので、男女比で女性の利用者の方が多い結果に。
思春期の中学生の女の子二人組から、妙齢の女性、おじいちゃんまで、年齢層も幅広く、利用して頂けました。
私にとって、利用者の方がお風呂を待っている時間は、お話を聞かせてもらえるのでとても大切です。
今日も、色々な話を聞かせて下さいました。
ずっと描き続けてきた絵を全て失った話、町が海に沈んだので家族が船に乗って助けに来る迄、三日間1人で部屋に閉じ込められていた話、身内を目の前で亡くした話、ついさっきお兄ちゃんに意地悪された話、他愛ない話から、深刻な話まで、皆さん本当によくお話してくれます。
何より、泥だらけの中を片付ける毎日なのに風呂も洗濯も無理、というストレスがあるので、皆さんとっても喜んで下さる。
ですが、最後の女性を笑顔で見送った時には心地よく感じていたハズの疲労感は、気が抜けた途端に、半端ない疲れとなって肩にのしかかるのでした。
今日は、偶然TBSのクルーに取材されました。


3月29日
他教区の有志と仙台仏青と初会合

29日現在 東北三県について情報交換。


岩手県
津波の被害が大きい地域は大槌町
物資の面ではだいぶ支援されており飽和状態のところもある、特に食べ物類
しかし小規模の避難所や自宅生活の人たちには物資支援が届いてない可能性も高いが中々支援しにくいのが現状
食べ物はあるがシャンプーやリンスやボディソープや歯ブラシなど生活用品が不足しているところもある
海岸線の地域は暖をとれる場所の改善。プライバシー問題など問題山積。


宮城県
東松島はボランティア登録なしで活動可能
松島町は家屋の水に浸かる被害はあり、後片付け難航
若林区から亘理町にかけての海岸沿いの情報が手薄。同じく家屋の後片付け難航
被災者はボランティアの存在も把握出来ない。情報を得る手段が全て流されてない。
避難所は今も需要と供給のバランスがとれない
コンビニ市内2時間限定開店。スーパーは会社によって通常営業開始
牛乳・食パンを手に入れるのは奇跡。


福島県
南相馬市から相馬市の避難者が多い
相馬市から宮城県内に避難が難しいので山形や新潟への避難者が増えている
すでに新潟へは一万にほどの避難者がいるとのこと
避難所での差別も少し出始めてるとのこと
福島県民が他県へ避難した際に被爆の風評被害で受け入れを断られたりする
また他には南相馬市の人が相馬市に避難した際にその避難所で物資が配られる時に地元の相馬市の人が優先され余所から来た避難者に物資が回りづらくなってるとの報告あり
お金を所持しているか、所持してないかいかでは大きな違いがある。これは重要で早急の対策望む。


他教区との連携について
仙台教区が活動発信、他教区の有志が後方支援をする。
真宗大谷派災害V活動のブログにも情報を発信して貰う。

ボランティア活動の問題点
物資を運ぶ際に乗用車では限界があるので大きめのトラックがあればもっと効率よく運送できる(トラックの準備だけど宮城県内のレンタルは需要が高く不可とのこと)
教務所に届いてる物資に何があるか教区で共有すると物資を運んだり購入する際に効率がいいのではないか。出入りが激しいので詳細の個数は難しいかもしれないが種類や大雑把物資を仙台教区に輸送する場合にリレー方式にしてはどうか。遠方からの輸送になるとその教区に負担をかけるので分担して運んではどうか。その際の中継地点は三条教区や東京教区など、場合により山形教区にお願いしてはどうか
お金の出し入れは各自の財布から出して後から精算。現状まとまったお金がない早急の対策望む


所感。
刻一刻と状況変化。各自、臨機応変に対処していかなくてはいけない。
なにが正しくて、なにが悪いのか、わからない状況。
恐れずただ進むべし。


2011年3月27日日曜日
宮城県七ヶ浜町に行く

今朝も、震度5弱の地震で目が覚めました。復興は始まってますが、決して地震は終わっていません。
実は、七ケ浜に従姉妹が住んでいます。宮城県仙台港近くの沿岸部ですが、地震当初から、かなりの被害が出ているとの報道が為されていました。
別の場所に住んでいる従姉妹の母は、娘は死んでしまった、孫にも二度と会えないと、酷く取り乱していました。ですが、人づてに家族みなの生存が確認され、現在避難している避難所が判明したので、昨日は従姉妹に会いに七ケ浜へ行ってきました。
七ケ浜へと向かう道は、他の沿岸部同様、酷い有様。都市部に近いからか、側道に連なる廃車の数もかなりのもの。
恐らく田んぼだっただろう場所は水が引きにくいためか、湖のようになっていました。
避難所には、300名程が避難されていました。名簿から従姉妹を確認して、無事に再会。
ご主人も帰ってきて、色々な話を聞かせてもらうことに。
地震のあと津波が来るからと、高台へ避難
津波が来て、目の前で近所の人、自宅が飲み込まれていくのを見たと。
打ち寄せられる瓦礫には、人の残骸が幾重にも絡まり、直視できるものではなかった。
第一波が来た後、水が引いていき、もともと海が見えていたところにも水が無くなり、海が消えた。
周りにいる人たちは、死を覚悟し、みんなで手を握りあい、世界が終わるんだと信じて疑わなかったそうです。
幸運にも、高台のギリギリで第二波は止まり、助かったよう。それでも、周りは水没し孤島と化していた
真っ暗闇の中、食糧も水もなく一晩過ごし、夜が明けて水量が減った箇所を探し、瓦礫と遺体の山を乗り越えて避難所へとたどり着いたとのこと。
自宅の一階部分は、全て無くなり、ご主人の仕事である養殖は全て駄目になった。船も車も全てなくした。
チリ沖地震でも、養殖に被害を受け、私財を投じて、やっと形になったところを全てやられた。
そう語るご主人の目は、涙で赤くなっていた。
何か言葉をかけたいと思うし、力になりたい。身内だもの、その気持ちは尚更で。それでも、言葉が見つからなくて、ただ頷き、聞くことしかできない。
子供の学校もあるし、土地を離れたくないと言われたら、何もしてあげられなく、とても無力で。
話を聞いてあげるだけでも違う、そうは思うけど。 本当に沢山のモノを失った人を目の前にして、萎縮して、悔しくて、同情して、それなのに、自分は無事だということに安堵さえ感じていて。
支援ということの、難しさを改めて感じました。
地元いわきの友達にこんなことが。旦那さんが、警察官なのですが、乳幼児がいるので、原発が爆発したのを見て、娘と妻を会津若松の実家に車で送り避難させた。
いわきに戻ると、職場放棄でクビだと言われ、職を失うことに。
あんな状況の中、家族の安全を優先したら、クビにされる。
公務員の事情やら、わからないことだらけだけど、こんな状況で職を失い不安だらけな友達を思うと、心がかき乱されます。

話は一転しますが、BOPに新たな動きがっ!

初号機は、薪式五右衛門風呂ドラム缶Verでしたが、二号機は、薪式追い焚き機能付きバスタブVer という劇的な進化を遂げました!



2011年3月25日金曜日

ドラム缶風呂、気仙沼にて

まず報道通りの惨状の南三陸町に入り沿岸部を北上することに。
目的地は、気仙沼近辺で、子供がいて、且つライフラインが整わず、且つ多過ぎない避難所である。
というのも、そうあの有名な、(せーのっ)BOP「仏青お風呂プロジェクト」をもう実行に移すことに。
構想の段階では、足湯も併設、足が伸ばせて、お年寄りも安全に入れて、女性も気にせずに入れるようにプライバシーにも考慮する。シャワー、洗い場完備。
湯上がりには、新品の下着に、牛乳。
なんて、夢のようなバスタイムを提供するつもりでいたのですが、早くお風呂に入りたいという心の叫びに1日も早く答えたいと、当初のサービスから大幅にクオリティを下げ、子供限定五右衛門風呂、洗い場お菓子付き、という結果に。
しかし起草から二日目で、しかも物の手に入らない被災地で準備しなければならないことを鑑みると、最初はこの位で妥協せねば。
今回の課題や反省、場所やニーズに合わせて今後は、他の方から頂いたアドバイスも参考にクオリティを上げられたらいいのになぁと次の予定も未確定のまま、思っています。
結果としては、どこでやるかということが一番のネックに。ライフラインが整わない場所ということは、避難所に知り合いでもいないことには、電話連絡が限りなく不可能に近いのです。
現地に直接出向き、役場を巡り、様子を伺い、私達の求めるBOP(ベストお風呂ポイント)を発見!
私達の申し出を快く受けてくださった避難所の皆さんに感謝です。
また、この避難所の方々が気持ちの良い人ばかりだこと!
子供の為のお風呂と聞いたら、自分たちの生活用水の為に貯めていた湧水のほとんどを使ってくれと。子供達に、からだ洗ってお風呂入ってサッパリして欲しいと、全面的に協力して下さいました。
地元の消防団が土地を提供してくれ、自分の家を無くした人達が、あぁだこぅだ言いながら、踏み台がいるだろうから作ってやる、水は集めてきてやる、薪が足りないだろうと薪割りを始めるおじいちゃん、こちらが提供しようと思っていたのに、結果的には一緒に作り上げることに。
初めて入る五右衛門風呂に、子供達は大興奮。 久しぶりの洗髪にお風呂で、子供も親も喜んでくれたよう。お風呂の順番を待つ間には、鬼ごっこをしたりして。お菓子を持たせて帰らせて。久しぶりに楽しかったなあ。避難所の皆さんもとても暖かく迎えてくださり、帰りぎわには半ば強制的に手土産まで。支援にきて、物資を渡されて帰ることに。
同行者が次の予定があるので、晩御飯を辞退して帰ったのが心残り
もっとぺーじぃちゃんのマグロ漁で世界をまわった話聞きたかった
家を無くしたばあちゃんが今後どうすればいいかって話をじっくり相談乗ってあげたかった
かまどを囲んでじいちゃん達の昔話の続き聞きたかった
地震が来る前に知り合ってれば、いくらと新巻鮭をたくさん贈ったのに、という言葉の真偽を聞きたかった
何より子供達ともっと一緒に遊びたかった
子供御遠忌やりたいなぁ
1日を振り返ると、今日は沢山泣きました。
仲間と語り合って泣き
南三陸町に足を踏み入れて泣き
そこで、家を無くした人の話を聞きながら泣き
子供の為に風呂を、と張り切る避難中のおじいちゃんの背中で泣き
子供の笑顔に泣き
帰りの車で久しぶりに音楽に耳を傾けて泣き
大阪に避難している姉からのメールを見て泣き
今、改めてカウントしてびっくりしました。か弱い乙女になったようです。
今後は、そのように扱って下さい。
どれが嬉し涙で、悲し涙で、悔し涙で、または他の涙かは、わかりませんが、とりあえず今日は久しぶりに明るい写メが送れそうで嬉しいです。


3月23日 

牡鹿半島にある老人ホームが電気、水、ガスが無くて、周りから孤立していて食料も足りないという情報が入り、届けに行きました。

孤立しているというだけあって、そこに至る道はひどいものでした。
道路は陥没し、橋は落ち、船が道を塞ぐ。通行止めの道をいくつか強行突破してたどり着いた半島にある集落は、ほぼ全滅していました。まだ、遺体の収拾作業の最中で瓦礫の中を捜索している横を抜け、老人ホームへ。
物資を届け、帰り道にまた無惨に破壊された集落にさしかかる。
津波の被害を既に嫌という程見てきたのに、ついさっき見たはずの景色でさえ、再び目にすると、胸が詰まる。
何度見ても、慣れない

天気が良く、暖かくて気持ち良い日に、世界はこんなにも美しくて、それなのに現実はとてもとても厳しくて、それでもみんな必死に生きていて。

失われた街を見るたびに、言葉では表せない喪失感のようなものを感じます。
それでも、物資を届けた時の喜んだ顔、様々なものを失って尚、生きようとする姿に、前を向かせられているように思います。

世界は、とっても美しいです。瓦礫だらけで、泥だらけの避難所で炊き出しをしている人達、それを食べている人達の姿は、生きていく人の姿は、とても美しかったです。

全国から今被災地では、何が欲しいの?送るよ!という声が届きます。ですが、被災地のニーズは刻一刻と変化していて、本当に早い。必要な物を聞いて、それから会議して、京都に要請して、次に本山から送るトラックに載せる。
これでは遅くて情報も、錯綜してる。
ある人は、物が足りなく危険だと、違う人があそこは十分物があると、どちらも嘘ではなく、数日前の話か昨日の話かで。物が足りないと聞いたんだけど、という情報には、何時の時点での情報かをはっきりさせなきゃいけなくて。

避難所の方から、これが一番欲しいんですけど、と言われても、在庫が無くて届けられないもどかしさを何度も感じてる。

情報が入ったら、すぐに調達して、判断を仰がずに向かえたらなぁと。でも今は足がなく、本山が用意した車、物資を使わせてもらわねば何も出来なくて、そうなると一存では動けず。

でも、その中で少しでも効果的に動くコツがわかってきた気がします。

話は、変わりますが
BOP(仏青お風呂プロジェクト)を発足しようかと考えてます。

避難所にお風呂を作って入ってもらうという非常にシンプルなプロジェクトです。
実現可能な方法や、運搬方法など、アイディアがもしあれば下さいまし。
現時点では、ドラム缶風呂が有力です

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救援物資 福島県相馬市 2011年3月22日火曜日

相馬にある避難所の環境が劣悪との情報が入り、物資を積んで届けに行ってきました。

廃校になった校舎の床は冷たく、段ボールを敷いてその上に毛布を敷いて寝ておられます。やはり高齢者が多く、決して衛生的ではない場所に500人程がおられました。

体が動く人達には比較的、笑顔が見られ、「地震の前は寝て起きては、酒を飲んでたけど、今は飲んでられないし、まいった」と、みんなで力を合わせて物資の搬入をしながら言うおっちゃんの顔は、どこか嬉しそうにも見えました。

帰り道、津波の被害を受けた地区を少し見回ることに。

何度も通って知っている町が、景色が無くなってた。

言葉にならない

何も無くなった景色を茫然と見ているおじさんに、話を聞くと、「あそこに自宅があった、家はまた建てればいいけど、孫の身長を刻んでた柱が無くなってしまった」と言って、瓦礫の中を探していました。

あの津波は命だけじゃなく、いろんな思い出もまとめて流してしまったんだなぁと。
最終更新:2011年04月15日 18:26
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