日枝神社(東京都)

  • 名称
 日枝神社(ひえじんじゃ)
   →慶応4年(明治元年)6月11日以来、日枝神社の称号を用いることとなったが、古くから「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「江戸山王大権現」「麹町山王」ひろく「山王社」などと称され、氏子にとっては「お山」であり、一般には常に「山王さん」の名で親炙されてきた。

  • 所在
   〒100-0014 東京都千代田区永田町2-10-5
  • 交通
   丸ノ内線・銀座線で赤坂見附駅
   銀座線・南北線で溜池山王駅
   千代田線で国会議事堂前駅


  • 奉仕者
+ 旧社家・別当・社僧について
 山王権現の社号を称した往時の記録で別当は天台宗観理院、神主は日吉大膳、社僧に圓成院・成就院・宝蔵院・長命院・福聚院・智光院・宝泉院・無量院・智乗院・常明院の十坊があり、神職社家は小川織部・千勝主水・千勝采女・金丸靱負・宮西頼母・正木主膳・諸井喜内の七家、巫女として左近・土佐・伊賀の三家、更に山王権現御旅所(萱場町)の神主として諸井喜内が専任した。徳川時代は神仏の両部習合の法で神道に於いては天下泰平国家安穏の祈祷を修し、圓頓止観の天台にあっては唯我三密の直心を凝らしめた。(「江戸鹿の子 巻三」「江府神社略記」「江戸砂子」)
 元禄10年5月15日江戸山王の神主に日吉(江州坂本)の社人樹下民部を命じ、民部後任に日吉大膳の子息を遣わせる由が見え、此の時より神職は樹下氏と定まったようである。



  • 社格
 当神社は江戸城の鎮守として徳川家の崇敬は特に篤く、将軍世嗣、子女及び諸大名などの社参は途絶えることなく、毎年正月・六月には必ず使い遣して幣を奉り、国家事ある時には必ず祈祷を修し、崇敬他に異なるものがあった。
東京奠都の後明治元年11月8日准勅祭社に、同2年7月2日祈年奉幣の列に入り、同5年5月8日府社に定められたが、皇城の鎮護たる故を以て、同15年1月11日官幣中社に列せられ、大正天皇御即位にあたり、氏子区域内に御降誕せられたる故を以て、大正天皇御即位の当日、更に昇格して官幣大社に列せられ、終戦とともに社格を廃せられた。現在は別表神社。



  • 御祭神
 主祭神
   大山咋神(おおやまくひのかみ)
+ 大山咋神
   須佐之男神-大年神-大山咋神-別雷神
 「古事記」に『大山咋神。またの名は山末之大主神。この神は近津淡海国の日枝山に坐す。また葛野の松尾に坐す。鳴鏑になりませる神なり』とあるように、近江国(今の滋賀県)の日枝山(比叡山)に鎮まり坐したのが最初。大年神の御子神で、別にその御名を山末之大主神と称え申し上げている。

 相殿
   国常立神(くにのとこたちのかみ)
   伊弉冉神(いざなみのかみ)
   足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)




  • 摂末社
 摂社
   日枝神社(御旅所):寛永年間(1624~1643)山王御旅所に定められ、山王祭(神幸祭)では三基の神輿が出て摂社に至り、一時駐輦の上、神事を営み帰輿する。(東京都中央区日本橋茅場町1-6-16


  • 祭事
+ 大 祭
祈年祭          2/17
例 祭(隔年神幸祭)   6/15
+ 山王まつり
 江戸時代、時の将軍が自ら奉迎せられた優雅で格調高い神幸祭の行列は、狩衣・直垂・黄衣・白丁等の装束に威儀をただした氏子総代・氏子青年五百余名の奉仕により、午前八時本社を御発輦、氏子各町を巡幸、途中国立劇場、皇居坂下門で駐輦祭を、日本橋摂社で御旅所祭を執り行い都民の平安と繁栄を祈りつつ午後五時半本社に還御する。
新嘗祭          11/23
+ 中 祭
若水祭(ひとり翁奉奏)  1/1
歳旦祭(初神楽)     1/1
元始祭          1/3
紀元祭          2/11
神嘗祭          10/17
日本文化祭        11/3
天長祭          12/23
+ 小 祭
印章護持祭(おしでまつり)1/13
成人祭          1/15
神札焼納祭        1/15
節分追儺式        2月節分の日
学業成就祈願祭・絵馬まつり3、4月中
山王稲荷社(末社)    4月下午の日
天満天神祭(摂社)    5/25
八坂神社祭(末社)    6/7
嘉祥祭(和菓子の日)   6/16
浅間神社祭(摂社)    7/1
箸感謝祭         8/4
敬老長寿祭        9/15
山王祖霊祭        9月秋分の日
仲秋管絃祭        15夜
除夜祭          12/31日
猿田彦神社祭       庚申の日
朔旦祭(山王御縁日)   毎月1日
月次祭(山王御縁日)   毎月15日
+ 山王御祓・鎮火祭
夏越祓          6月中旬
年越祓          12/31





  • 由緒と歴史
 当社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明10年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威赫赫として江戸の町の繁栄を築いた。

 やがて天正18年(1590)、徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として、また江戸市民からは「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として崇敬された。二代秀忠の時の江戸城大改造の際、城内紅葉山より新たに社地を江戸城外に定め、社殿を新築して遷祀された。世に伝える元山王と称する地は今の隼町国立劇場附近である。この時から別当神主を定め神社の規模は大いに備わり、広く一般衆庶も参拝し得る道を開いたが、明暦3年(1657)の俗に言う振袖火事に社殿炎上の災に遇ったが、時の将軍家綱は直ちに赤坂の溜池に臨む松平忠房の邸地を官収して社地に充て、結構善美を尽くした権現造の社殿を造営・遷祀され、天下泰平、万民和楽の都を守護する祈願所として崇敬された。

 明治元年東京奠都と共に勅使奉幣が行われ、御西下御東幸に際しては御途中安全の御祈禱を修せしめられ、明治2年7月天下水患にあたり勅使祈晴の御事があり、宮妃御懐妊の際は御安産の御祈を修せられ、皇室典範帝国憲法の制定を始めとして開戦及び平和克復などの重大事に際しては、常に勅使参向御奉告が行われ、畏くも大正天皇儲宮にまします時、新しく御参拝があり、明治天皇は御愛蔵の御太刀一振(長光)を進献あそばれた。

 万治2年御造営の社殿は、江戸初期の権現造の代表的建物として国宝に指定されていたが、昭和20年5日の戦禍に遭い、末社山王稲荷神社を残し悉く烏有に帰したが、氏子崇敬者の赤誠奉仕により「昭和御造営」の画期的な大業が企画され、昭和33年6月本殿遷座祭斎行、引続き神門・廻廊・参集殿などが逐次完成、更に末社改築、摂社の大修築、神庫校倉の改造などを相次いで竣工し、全都を挙げて之を慶賀し、昭和42年6月奉祝祭が先ず斎行され、この間、昭和33年6月現社地御鎮座三百年祭を斎行し、ここに昭和24年復興後援会発祥以来10年に亘る歳月を以て、山王台上に再び大社の偉容を拝するに至った。
 昭和52年7月に江戸城内御鎮座五百年奉賛会が結成され、昭和53年6月五百年を祝する式年大祭を厳修し、昔をしのぶ天下祭にふさわしい山王神幸祭の復元、尚記念事業として「日枝神社史」の刊行、宝物殿の建築、本殿以下社殿の修繕、境内整備などが実施された。



  • 文化財
 刀剣を主要なものとし、現在保存されている刀剣は27口で、内国宝1口、重要文化財14口を数えている。これらは歴代の将軍及びその世子等が初宮詣、或いは自身が将軍宣下奉告参拝、或いは特殊の崇敬の下に社参されたときに、神前に奉納されたものであることを特色とする。
 また、社蔵文書として重要な徳川歴代将軍の朱印状が、6代将軍家宣、7代家継及び15代慶喜のそれを除いて、12通現存し社蔵されている。他に3代家光の手習い草子を貼って作ったといわれる「獅子頭」や山王まつりの山車人形、記録文書類などが所蔵されている。



+ 太刀 銘「則宗」(国宝)
≪附糸巻太刀拵・長二尺五寸九分一厘≫
 この太刀は、正保三年六月六日徳川徳松君の初宮参りの折に寄進されたもの。徳松君は三代将軍家光公の第四子で、のちの五代将軍綱吉公である。則宗は鎌倉初期の刀工で福岡一文字派の祖であり、後鳥羽院御番鍛冶の 一人である。福岡一文字というのは、備前国福岡に在住したからの称呼で、細身の腰反りの高い上品な姿は平安時代の趣を伝え、小丁子に小乱という古雅な出来である。
「則宗」現存はすこぶる稀でありこの太刀はその白眉である。附属太刀拵は江戸初期の製作である。
+ 太刀 銘「国綱」(重文)
≪附糸巻太刀拵・長二尺二寸九分≫
 この太刀は延宝九年六月十五日将軍綱吉公が将軍宣下の初めての祭礼にあたって奉納されたもので、附属太刀拵は江戸中期の製作である。
国綱は山城国粟田口派の刀工で、その兄国友・久国等は後鳥羽院御番鍛冶に列せられている。国綱は鎌倉幕府の要請によって鎌倉に移住し、相州鍛冶の開拓者となった。
+ 太刀 銘「師景」
≪附糸巻太刀拵・長二尺三寸三分≫
 この太刀は宝暦十年十月六日徳川家治公が将軍宣下の奉告参拝の折奉納されたもので、付属太刀拵は江戸中期の製作である。
師景は備前長船派の刀工であり、俗に小反備前と称せられる南北朝期の作である。この刃文を魚の目と云い、この時代に流行を見る。従来師光作と伝えられていたが、「光」ではなく「景」である。
+ 千代田御表 山王祭礼上覧
≪楊洲周延 筆≫
 楊洲周延は幕末から明治期に活躍した浮世絵師。歌川国芳、豊原国周の門下で、美人画や風俗画に優れた作品を多数残している。
赤や紫といった色調を好み、鮮やかな色彩の浮世絵で人気を博した。(昭和33年 中沢村人 奉納)



  • 社殿天井絵について
 日枝神社復興50年を記念して、平成20年6月に国立東京藝術大学宮田亮平学長監修の下、江戸山王権現社草創期の鎌倉時代古江戸・武蔵野の原野を彩った百花草木に鳥虫を加えた123枚の板絵が拝殿天井に掲げられた。彩色には、緑青・藤黄・朱・群青・臙脂・黄土を始め天然岩絵具を使用している。


  • 境内施設
 ○ 山王鳥居
 御社殿正面・男坂口、外堀通りに面した赤坂口・山王橋口に「山王鳥居」がある。「山王鳥居」は鳥居の笠木の部分の上端に合掌のように破風を付したもので、合掌鳥居ともいわれていう。「山王鳥居」は、大山咋神を祀ったお社に用いられる特徴的な鳥居であり、日枝神社や日吉大社などに見ることができる。
 ○ 社号標
 揮毫は宮内庁侍従長故入江相政による。
 ○ 表参道(山王男坂)
 日枝神社の表参道。左側のゆるやかな“女坂”に対して“男坂”と名付けられている。石段数52、山王台地、またの名を星が岡ともいう景勝地であった。
 ○ 参道(山王女坂)
 正面の石段に対し“山王女坂”という。別名「御成坂(おなりざか)」。『東京名称図鑑』には“左緩かに通ずる石段を女坂と呼ぶは非なり。昔時将軍御成の節、峻坂を避け、此坂のみ御通行遊ばされしにより御成坂と申侍るを女坂と聞誤りしにあらぬか”と書かれている。
 ○ 宝物殿
 日枝神社の宝物を納める宝物殿は、昭和53年に行われた江戸城内御鎮座500年大祭の記念事業として、その翌年に造営された。 国宝・重要文化財を含む刀剣31口の他、徳川将軍家ゆかりの宝物が多数所蔵されている。
     ・開館時間 午前10時~午後4時
     ・定 休 日 火曜日・金曜日(神社行事により休館日が変更になる場合あり。)
     ・入 館 料 無料
 ○ 神 門
 神号額「日枝神社」又「皇城之鎮」の額は神宮祭主 故北白川房子の揮毫による。また随神像と神猿像が奉安されている。
+ 山王のお猿さん
 当社の神使は古来、猿(申)といわれ、神門及び向拝下に夫婦猿の像が安置されている。
神使とは神の使いの意で、主神の顕現に先だって現れ、主神の意を知る兆しとしてその行動を見るが、その多くはその神に縁故のある動物である。大山咋神は、山を主宰(うしは)き給う御神徳を持った神であり、この猿と比叡の山の神としての信仰とが結びついて山王の神使「御神猿」として信仰されるようになった。
 猿は古くから魔が去る「まさる」と呼ばれ、厄除・魔除の信仰を受け又農業の守護神とする信仰が強く、俗に「さるまさる」といわれ、繁殖の獣として人々に愛され、犬と共に分娩の軽き安産の神として信仰されている。猿は集団生活をして特に子供への愛情が強く、母猿はどの子猿にも乳を与えるという性質があるといわれ、その姿が当社の神猿像に表されており、夫婦円満・安産・家門繁栄の徳を称え安産・子育・厄除のお守りとして参拝者に神猿(まさる)の守土鈴、他に縁(猿)結びのお守りが授与されている。
御参拝の中には子授・安産や身体健康を祈り、向拝下の夫婦猿の像をなでる方もいる。
また、末社の庚申(こうしん)社の祭神、猿田彦神社も山王の本社に由縁深き神社である。
 ○ 御文庫
 日枝神社関係書物及び神幸祭用具を収めている。
 ○ 日枝あかさか
 神前式による結納式、結婚式及び披露宴を行っている。
 ○ 山王茶寮
 休憩所及び軽食場所。
     ・営業時間 午前11時~午後6時
     ・定 休 日 年中無休
     ・総 席 数 200席(個室あり)





以上、日枝神社「参拝のしおり」とホームページより。




最終更新:2009年05月01日 21:30