神田神社(東京都)

  • 名称
   神田神社(かんだじんじゃ)
   ≪通 称≫神田明神(かんだみょうじん)
   ≪旧 称≫神田大明神、芝崎明神

  • 所在
   〒101-0021 東京都千代田区外神田2-16-2
  • 交通
   ● JR
   中央線・総武線 「御茶ノ水駅(聖橋口)」より徒歩5分
   京浜東北線・山手線線 「秋葉原駅(電気街口)」より徒歩7分

   ● 地下鉄
   東京メトロ丸ノ内線 「御茶ノ水駅(聖橋口)」より徒歩5分
   東京メトロ千代田線 「新御茶ノ水駅(聖橋口)」より徒歩5分
   東京メトロ銀座線 「末広町駅」より徒歩5分
   東京メトロ日比谷線 「秋葉原駅」より徒歩7分

   ● 都バス
   茶51駒込駅南口←→御茶ノ水線 「神田明神」より徒歩1分

   ● 首都高速
   首都高速都心環状線 「神田橋」出入口
   首都高速1号上野線 「上野」出入口


  • 奉仕者


  • 社格
   別表神社
   ≪旧社格≫准勅祭社、府社(明治5年)


  • 御祭神
   ・一之宮 大己貴命(おおなむちのみこと)
+ だいこく様
 天平2年(730)ご鎮座。
日本神話において国土開発、殖産、医薬・医療に多大な神威を示された神、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されている。また祖霊の鎮まる世界「幽冥(かくりよ)」を守護する神とも言われています。大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もあり、島根県の出雲大社の御祭神でもある。

   ・二之宮 少彦名命(すくなひこなのみこと)
+ えびす様
 商売繁昌、医薬健康、開運招福の神。日本に最初に生じた神様の内、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)の御子神で、大海の彼方「常世(とこよ)」の国より来訪し、手のひらに乗るほどの小さな御姿ながら知恵に優れ、だいこく様とともに日本の国づくりを行ったという。

   ・三之宮 平将門命(たいらのまさかどのみこと)
+ まさかど様
 除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守った人物。明治7年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座されたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたっている。東京都千代田区大手町・将門塚(東京都指定文化財)には将門公の御首をお祀りしている。


  • 摂末社
   ・祖 霊 社:神田明神の氏子崇敬者の先祖を御祭神とする社。平成16年創建。
   ・籠 祖 神 社: 御祭神は猿田彦大神、塩土翁神、瓊瓊杵尊。祭礼日11/5。
          → 降臨の際、日向高千穂へ先導役を務めた猿田彦大神と、塩の神として崇められた塩土翁神が合祀されている。
           寛政7年に鎮座された古い社で籠造り職人の守護神として崇められている。
   ・末廣稲荷神社:御祭神は宇迦之御魂神。祭礼日は3月午の日。
          → 宇迦之御魂神、級長戸辺之命、級長津彦之命を祀っていた旧社。
           元和2年頃の社で極めて古く、昔から庶民信仰が強かった。現社殿は昭和41年に再建。
   ・三 宿 神 社:御祭神は宇迦之御魂神。祭礼日10月初旬。
          → 江戸時代より神田三河町二丁目の守護神として奉斎されていた。
           当社12代神主芝崎美作守の邸内に祀られていた内山稲荷と合祀され当社の末社として奉斎された。
   ・金刀比羅神社:御祭神は大物主神、金山彦命、天御中主命。祭礼日10/10。
   ・浦安稲荷神社:御祭神は宇迦之御魂神。祭礼日は3月午の日。
          → 元は江戸平川の河口に近い所(現内神田鎌倉町附近)に祀られていたもので、天保14年に遷座された。
   ・江 戸 神 社:御祭神は建速須佐之男命。祭礼日は5/14。
          → 大宝2年(702)江戸の地(現在の皇居内)に創建された江戸最古の地主神。
           現社殿は平成元年、神田市場の移転により、大神輿を御神座として再興された。江戸三天王の一之宮。
   ・大伝馬町八雲神社:御祭神は建速須佐之男命。祭礼日は6/5。
          → 江戸時代以前より祀られていたと伝えられる古社である。江戸三天王の二之宮。
   ・小舟町八雲神社:御祭神は建速須佐之男命。祭礼日は6/6日。
          → 現在地へ移転された神田神社と共に、江戸城内吹上御苑にあったものを同時期現在地に遷座された。
   ・水神社(魚河岸水神社):御祭神は弥都波能売命(みつはのめのみこと)。祭礼日は5/5。
          → 日本橋の地を発祥とする現在の築地魚河岸会の人々の守護神として篤いご信仰を集めている。


  • 祭事
01月(睦月) :歳旦祭、初詣、仕事始め参拝、神楽始(太々神楽)*1、だいこく祭*2、寒中禊*3四條流庖丁儀式*4、祈願串成就祭*5
02月(如月) :節分祭豆まき式*6、紀元祭
03月(弥生) :末社・末広稲荷神社例祭、末社・浦安稲荷神社例祭
04月(卯月) :崇敬会春まつり、新入学児童健育祭、祖霊社春季例祭(氏子英霊慰霊祭)、祈年祭(春大祭)
05月(皐月) :末社・魚河岸水神社例祭、神田祭
06月(水無月):末社・富士神社例祭、摂社・大伝馬町八雲神社例祭、摂社・小舟町八雲神社例祭、夏越大祓式
07月(文月) :大祓形代流却神事、七夕祭
08月(葉月) :末社・八幡神社例祭
09月(長月) :将門塚例祭*7
10月(神無月):末社・金刀比羅神社例祭、末社・三宿稲荷神社例祭
11月(霜月) :末社・籠祖神社例祭、七五三詣祝祭(十一月中斎行)*8、新嘗祭(秋大祭)
12月(師走) :煤納奉告祭、天長祭、師走大祓式、除夜祭


  • 由緒と歴史
 神田明神と呼びならわされているが正式名称は「神田神社」。神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神。旧社格は府社(1870年まで准勅祭社)。現在は神社本庁の別表神社となっている。また旧准勅祭社の東京十社の一社である。

 社伝によれば、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村*9に入植した出雲系氏族の真神田臣が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと伊勢神宮の神田(みとしろ)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。または神社を創建した真神田氏の名から名付けられたという説、御祭神の平将門の「からだ」が訛ったという説、平将門が片目を射抜かれたという伝説から「かため」が訛った説など諸説ある。

 承平5年(935年)に敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国の平氏から崇敬を受けた。嘉元年間(1303-06年)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)には荒廃した社殿を修復し、将門を相殿神に迎えた。一般に平将門は勝負ごとに御神徳があるとして崇敬されている。

 江戸幕府を開いた徳川家康は神田明神を尊崇し、駿河台に一時仮遷座、さらに元和2年(1616年)に江戸城の表鬼門守護*10を目的に現在地に遷座し社殿を造営した。以後、「江戸総鎮守」、江戸城の鬼門除け、江戸総鎮守として江戸庶民・徳川幕府・将軍家より尊崇され、神田祭の山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、一名「天下祭」とも言われ、江戸三大祭りの一つと言われる。また平将門の末裔である芝崎氏が神主と府内神社触頭(ふれがした)に任命され、寛文3年(1626年)に天皇より将門に勅免が下った。

 明治元年に准勅祭社、明治5年には東京府社に指定され、社名も神田神社に改められた。明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門は祭神から外され、代わりに少彦名命が大洗磯前神社(おおあらいそさき)から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、戦後昭和59年(1984年)になって氏子の要望により、三ノ宮祭神に復帰した。

 江戸初期に豪華な桃山風社殿が造営されたが、1923年の関東大震災で焼失した。その後再建され、1945年の東京大空襲では本殿・拝殿などは焼失を免れた。





  • 神田祭について
 山王祭、深川八幡祭りと並んで江戸三大祭の一つとされ、また、祇園祭*11、天神祭中括弧内には1以上の整数を入力してください。 例: &footnote(){1}といい小規模で行う。

 詳しくはこちらを参照→ 神田祭



  • 文化財
 現在、神田明神には国登録有形文化財の御社殿や千代田区指定有形文化財の神田明神祭礼絵巻をはじめ、国指定重要美術品『梅花鮫皮包鞍・鐙』、東京都指定文化財の将門塚や神田囃子、千代田区指定の『山車人形 熊坂』、嘉永四亥年 神田明神祭礼御用留』などの古文書や『石獅子(獅子山)』などの記念碑、摂末社の水盤、天水桶、石造群など、計14の文化財がある。また神田明神にほど近い宮本公園には『三谷長三郎胸像』や『神田の家(遠藤家旧店舗・住宅母屋)』なども観られる。さらに神田祭のときに境内に飾り付けられる『魚河岸水神社賀茂能人形山車』(中央区区民有形民俗文化財、東卸会館所在)など、神田明神・神田祭に関わる文化財が各地に残されている。


+ 御社殿
<国登録有形文化財>
 昭和9年に竣功。権現造。当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿。本殿・幣殿・拝殿さらに神饌所・宝庫が重なり合うように造られており、昭和初期の神社建築では新しい形式をもつ。伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一といった近代神社建築・都市建築を代表する建築家により設計された。小屋組を鉄骨にして荷重を軽減し、柱間を少し狭めるなどして木造建築の姿に近づけ、鉄骨鉄筋コンクリート造ということを感じさせない工夫が施されている。拝殿の手前を土間にし、その先を畳敷きの床にすることによって、参拝者が靴を履いたまま立って拝礼できるとともに、神職が床において祭式を行うこともできるという、現代社会に対応した構造が、昭和初期の段階で採り入れられている。 昭和20年の東京大空襲では焼失を免れた。
 平成元年に、参拝者の増加に伴いって本殿右脇にエアコン完備の「奥御殿」を造営。さらに、平成の御造替事業(平成6年~11年)により、全面的に塗替・修復が行われた。江戸開府四〇〇年記念の年・平成15年9月、国登録有形文化財に登録。
ちなみに、現社殿の前は、天明2年に江戸幕府によって造営された。豪華な桃山風社殿であったが、1923年の関東大震災で焼失した。木造で権現造・総朱漆塗。江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であったと言われている。社殿内には江戸幕府造営を象徴する徳川将軍家の葵の御紋が見える。


+ 神田囃子
<東京都無形民俗文化財(民俗芸能)>
 現在、神田囃子は神田囃子保存会によって継承され、神田祭をはじめ神田明神の祭事で演奏されている。享保初期(1720年頃)葛西領総鎮守香取明神の神主能勢環が創作した神楽囃子が、神田竪大工町(かんだたてだいくちょう)(現、内神田三丁目あたり)の新井喜三郎によって神田祭に採用され、この囃子が誕生したという。

+ 小舟町八雲神社鉄製天水桶
<千代田区指定有形民俗文化財>
 文化8年(1811)6月、神田明神遷座以前からの由緒を持つといわれる地主神祇園牛頭天王社の三の宮である当社を崇敬していた江戸の魚問屋仲間に属する商人や遠州屋新兵衛ほか10名により奉納。江戸時代以来の小舟町と魚問屋仲間の神社信仰を知る上で貴重な資料である。作成者は釜屋六右衛門こと太田近江大掾藤原正次(通称、釜六)。ちなみに左側の天水桶は、安政4年(1857)に再建されたもの。平成17年4月1日、文化財に指定。

+ 大伝馬町八雲神社鉄製天水桶
<千代田区指定有形民俗文化財>
 天保10年(1839)6月、神田明神遷座以前からの由緒を持つといわれる地主神祇園牛頭天王社一の宮であった当社の氏子たちにより奉納。当社は、江戸時代初期以来大伝馬町が祭礼などを執行したが、次第に太物問屋仲間たちによる執行へと移行していく。天水桶は大伝馬町の銘を持つものの、太物問屋中により奉納されている。作成者は釜屋六右衛門こと太田近江大掾藤原正次(通称、釜六)、材質は鉄、寸法は高さ76.7cm、口縁部の周囲287.3cm、口縁部の内径82.5cm。平成16年4月1日、文化財に指定。

+ 水盤
<千代田区指定有形民俗文化財>
 文化2年(1805)2月、伊勢屋治兵衛により奉納された。その後、安政3年(1856)に神田・日本橋・京橋・下谷・本郷界隈に居住の炭薪(たんしん)問屋・同仲買・人宿・飛脚問屋など45名により再奉納された。現在、金刀比羅神社・三宿稲荷神社境内に安置されている。材質は石、寸法は高さ61cm、横幅136cm、奥行59.5cm。平成14年4月1日、文化財に指定。




  • その他
・銭形平次の碑:野村胡堂の代表作「銭形平次捕物控」の主人公“銭形平次”が神田明神下の長屋に住居を構えていたという設定から、昭和45年12月に有志の作家と出版社が発起人となり、縁りの明神下を見下ろす地に寛永通寶を形どって建立されたもの。脇にがらっ八の小さな碑もある。





最終更新:2009年05月07日 13:35

*1 神楽始めは江戸時代より、神田明神のみで許された神楽の舞が演じられる。江戸時代は神職・巫女により奉仕されていたが、昭和に入って若山社中により継承された。

*2  初詣の賑わいからほどない、成人の日にいたる三日間。この日、境内にはだいこく様に扮した神楽師が、成人式を終えた参拝者の頭上に、小槌をひと振りする姿が見られる。また、この三日間、午後三時よりだいこく様ご尊像の前でだいこく祭が執り行われる。この期間中、開運招福の福笹守りが授与される。

*3 厳寒の中、男性はふんどし、女性は白装束をまとい、大きな氷柱が入った禊場の中で冷水を浴び身を清める行事。

*4  平安時代からの日本料理の伝統を今に受け継ぐ由緒正しい四條流。装束姿で古式に則った庖丁儀式が御社殿で執り行われる。

*5  正月期間中、参拝者が納めた「祈願串」をだいこく様尊像の前でかがり火で焚いて、祈願主の大願成就を祈願する神事。

*6  定刻、江戸消防記念会の鳶頭による木遣りの声も高らかに、赤鬼・青鬼をはじめ、だいこく様・えびす様、雅楽を奏でる楽人、古式装束の神職に続き、氏子総代、特別崇敬者等年男代表が参進する。年男は例年350名前後 (年末から参加者を募集。)弓を天と地に向けて弾き邪気を払う鳴弦の儀が行われる。これは古代の武人の装束を着用した神職により、鬼門・裏鬼門の方角に向けて矢を放つしぐさをする儀式。

*7 当社の旧跡地・将門塚において三之宮・平将門命の御霊をお慰めする神事。氏子総代をはじめ将門塚周辺の大手企業の方々よりなる「史蹟将門塚保存会」の会員のご参列のもと祭儀が執り行われる。

*8 3歳・5歳・7歳の子供の成長を祝って11月に氏神様にお参りをする。3才・・・髪置の儀、5才・・・袴着の儀、7才・・・帯解の儀 ともいわれる。「千歳飴」は当社が発祥の地という。

*9 現、東京都千代田区大手町。将門塚周辺

*10 裏鬼門守護は日枝神社。

*11 京都市、祇園神社