石上神宮の鎮魂祭

総 説

 先代旧事本紀によれば石上神宮の鎮魂祭は神武天皇の御代に初めて宮中に於いて行われ、以来勅命に依って毎年取り行われた国家の祭儀として存在して居た。これをそのまま信じる訳にはいかないが、文武天皇の御代に令が制定されてそこに「伯一人掌鎮魂」とあるから、奈良時代以前より存在したのは間違いない。御祭神は石上神宮の御主人に坐す布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)で、祭主が神業を行じつつ、饒速日尊(にぎはやひのみこと)が天神から受伝えた鎮魂の十種の瑞寶(とくさのみづのたから)を用いて、宝祚の弥栄と国家の地鎮を修する特殊神事であると同時に、また鎮魂の法を伝える儀式でもある。
 祭日は毎年仲冬の寅の日に行われるのが普通で、臨時に行うこともあったがこの場合は特にこれを平国祭と呼んでいた。
 う第10代祟神天皇の御代、御祭神が宮中から石上の地に御遷座になられたので、この鎮魂の祭儀も石上に於いて行われることとなり、以来次第に変遷して今日に至った。
 古、これに奉仕して鎮魂の祭儀を司る者は必ず物部連の祖“宇摩志麻治命(うましまじのみこと)”の末裔で、これを連綿と受け継ぎ祭主として奉仕していた。これが国家のために行う本来の鎮魂祭であったが、後世に至って宮中でも別に鎮魂祭を行うこととなった為に、憚りに鎮魂祭と称さず宮中の祭儀と区別して石上神宮鎮魂祭と名付けることとなった。


名称の意義

 鎮魂祭は「みたましづめのまつり」と唱え、神武天皇の勅命に依って制定され永く之を行う事となったが、其の意義は鎮魂祭の御祭神に坐す石上神宮の御神徳を列挙することによって窺うことが出来る。
 石上神宮の記録によれば御主神の布都御魂大神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)が国家平定に御佩用になった十握剣(とつかのつるぎ)の神の御気(神剣そのものではない)を、神籬(ひもろぎ)に招請して大神と称え奉った神で、その御神徳は「百王萬代之奉平ノ守護神」「天下泰平ノ守護明神」「天下の人民を平安に治護する大神」「豊葦原を安国と平けく又天下国家を理平にする大神」「剣振国家納ノ大神」などと尊称され、また鎮魂を司る天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)はその神として働く御気を布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)と称えて、石上神宮の御祭神として祀られ、御主神と併せて二座となった。
 鎮魂を司り魂を招き、「痛み病む所もなく、鳥獸鱗虫の災いもなく打拂うて幸へ(さきわえ)給ふ故に布留御魂大神と云う也」とも、「神を返し魂を招き、天壽天寿を終へずして死る(まかる)人も此の神寶によつて性命成就長壽長寿たり」、また「人間及畜類迄にも及ぼす壽命寿命の祭神也」「萬物成就の體也」などとも称せられ、この布都御魂大神と布留御魂大神の二神を併せた石上神宮の御神徳としては「天下泰平、五穀成就、性命長壽、疾病を攘厭(じょうえん)払い厭うする平國-國家を平安にする-鎮魂祭を取行ふ故に百姓に至る迄當宮当宮恩頼(みたまのふゆ)を蒙りて皆驗有り、鎭護國家の爲の祭祀也。巧徳廣大舉げて量り難く鎭魂祭執行の事日本第一の祭祀、韴靈(ふつのみたま)の神劍並十種神寶靈威煒煌(いこう)盛にして荒を治め寶祚を護り人間離遊の魂魄を鎭めて壽考の域に遊ばしむ、國家安全の御祈禱此の上はあらず」など記してある。これを要するに石上神宮の御神徳は平国鎮魂祭を生命とするものであると言うことが出来る。
後に石上神宮には前記二柱神の外、素盞鳴尊の佩いていた十握剣の神の御気を迎え、この御気を布都斯御魂神として併せ祀り、更にまた草薙剣の神の御気を迎えて摂社出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)(式内社)に祀っている。この神等の御神徳も平国である。
 これら石上神宮に於ける御祭神悉くが剣或いは瑞寶そのものを神とせず、その神の御気を認め抽出して御祭神としたという点は特に注目すべきである。
 なお、鎮魂祭の意義に就いてさらに補足すれば、天下泰平・国家安穏の鎮魂は布都斯御魂大神の御守護の下に行われ、斎主が自ら鎮魂の神業を修めて自らの魂を鎮め、その威力を増強して鎮魂の神業を行う事によって始めて祭儀の意義をなすのだ。前記布留御魂の御神徳に依り、鎮魂の神業を自修または他修によって行い、その境地に至れば人々はその諸魂の調和を得、天凛の技能を発揮し、無病長寿を得る事ができる。
 布都御魂を祭神とする国家鎮魂は自らの魂の中に神気を呼び起こし、神祇の御気に接して、敬神祭祖の道を知るに至り、ひいては天下泰平宝祚の弥栄の結果となるので、神武天皇が天壌無窮の裏の行事をして永遠に遺された誠に意義深い儀式である訳だ。


鎮魂祭の起源及び沿革並びに宮中儀式との関係

 鎮魂祭は、物部氏の祖である宇摩志麻治命が神祖 饒速日命より受伝えた鎮魂十種神宝を神武天皇に奉り、その元年十一月宮中に神楯を立てて十種神宝を斎い、今木(賢木)をさし巡らし、神籬を造り、その中に韴霊の剣を納めて布都御魂大神を招請し、鎮魂の神業を行って天皇皇后の壽祚を祈請し、神宝を布都御魂大神の許に韴霊の剣と同じように納めて宝祚の鎭めとせられたことが起源となっている。その後、神武天皇の御代の七年、物部連祖 伊香色雄命(いかがしこをのみこと)が勅命によって宮中に奉安した布都御魂大神と布留御魂大神-十種神宝の神気-の御神体を共に大和国山辺郡石上の地底に埋蔵し、その上に霊畤祭場を作り奉斎する事となってからは此の平国鎮魂の祭儀は石上神宮において行われる事となり、祭主としては常に宇摩志麻治命の裔孫(えいそん)遠い子孫が連綿として相承けて歴代奉仕したが、外教伝来や物部氏の衰微、その後の国変などで神道の衰微を来し、遂にこの重大な儀は廃絶に等しい状況に立ち至った。その間、中世において石上神宮の祭儀の一部が宮中に入って、天皇の大御身(おおみみ)のための御鎮魂を行ったものと推定される。それは伯家部類鎮魂祭の条を参考すればただちに首肯されるものだ。即ち「神祇官にあった祝部殿の御祭神は石上神宮の御祭神に坐す布都御魂大神・布都斯御魂大神・出雲健雄神となっているのである。又祝部という職名は石上神宮の神職の中に古来あったものか、もしくは石上から奉仕のために宮中に入ったものか」とある。また或る説に「石上の式に着鈴賢木を用いる事から宮中でも同じ着鈴賢木を用い、また祝部殿の御神体が鈴なる由等にも関係あるものと考察される。また宮中の御儀は国家鎮魂の本系でないことは、その祭神が布都御魂大神に坐さずして天皇大御身御守護の神、神祇官八神を祀り、十種神宝の御霊を招請して御鎮魂の神業が行われる。故に石上神社備考には神祇官八神殿は天皇のための鎮魂の神なり。初めの祭式は国家鎮魂なり」と記され、石上神宮略記には「八神は十種神宝を司る神なり」などと見えて、両者の区別を明らかにしている。
 宮中鎮魂が令の制定以前すでに石上から移って行われていたことは、神祇令に鎮魂の条があることからも明らかだ。物部氏が盛大であった頃はこの儀式も古式厳かしく行われたように思考される。即ち、祭主であった物部 尾輿(もののべのおこし)連の奏に曰く、「我が国家の天下に王とましますは、恒に天地社稷百八十神を以て春夏秋冬祭り拝み給うことを事とす。令改めて蕃神を拝せば恐らくは国神の怒を致さむ」と。
同じく守屋連の言に「如何でか国神に背きまつりて他神を敬ふことあらむ。由来如斯ことを識らず」と。
 石上神宮の古伝によれば、伯家部類祝部殿中の祭神の一柱である出雲健雄神は、天武天皇の朱鳥元年六月十日鎮座せられたという。また栗田寛が著した『物部氏纂記鎮魂祭』の註に「(上略)・・・かくて上代の様を推し測るに、凡て此の祭には専らと布都御魂大神又天瑞寶を以て天皇命ろ皇后の御魂を鎮め奉り壽祚を壽ぎ奉ることなりしが、漸く移りて祈年祭祝詞にある八神の神徳など自ら之に通ひて聞ゆる故に此の八神を祀れるなるべし」と。また鈴木重胤が著した『祝詞講義鎮魂祭』の講義に「(上略)・・・後に神祇伯の職掌とすることをぞ宇摩志麻治命は行ひて、それ即ち其の氏人の職なるをや、良其家の衰ふる運にあたりて神祇伯といふ職の出で来れるより遂に物部は其家業を失ひて伯の職掌とはなれるなり」とあるなど、合わせて大略を知ることが出来る。また石上神宮記録にはその後も物部氏の正統は神主家となり、市川臣の末裔が神主或いは祝部となって同宮の祭儀を奉仕していることが記されている。
 桓武天皇の御代延暦二十四年石上神宮の造宮使石川吉備人が工程を支度して太政官へ報告したものを見ると、造宮料軍功十五万七千余人とあってその巨費と社頭の壮大なのは天皇を驚かし奉ったと云うことが記されている。また石上神宮の宝物を平安に運收せしめられた際、たまたま桓武天皇が御不豫(みやまい)にわたらせられたので、特に宣命*1を賜り、天皇の御衣を御輿に乗せ石上神宮に送って社頭に幄屋(あくのや)*2を設け鎮魂を申し上げたことが日本後記に記載されている。
 下って白河天皇の御代、石上神宮高庭の前に建てられた勅符の神門を改めて現今の拝殿を造らせられたが、これは毎年仲冬の中の寅の日鎮魂祭に際しての雨の妨害を考慮しての事と記録に見えている。森氏所蔵の古記録に「往昔は十人神主、五人神人、三十六人蔵人、八人神女、六人童子、十二人児、罷り在り神式相勤め罷り在り候。」などとあるによっても、祭儀が厳重に執り行われていたことが窺われる。また延喜式や江家次第によると神祇官の笛師と琴師が伴奏し、神部および雅楽の歌人が唱和するにつれて御巫が舞ったとある。


鎮魂式の種類と祭神

 鎮魂式には本系の祭儀すなわち公式の祭式として国家鎮魂の祭を行って天下泰平宝祚無窮を祈請するものと、傍系の祭儀すなわち天皇、中宮、院、皇太子の御平安を祈請するものと二種があり、更にまた鎮魂には自己のために行う自修鎮魂式と他を鎮魂救渡せしめる他修鎮魂式の二種がある。
 以上、四種の鎮魂式の内、
  (1)国家鎮魂の祭儀には石上神宮の祭神である、平国の剣の神気たる布都御魂大神と十種神宝の神気たる布留御魂大神の二座を祭神として拝祭。
  (2)宮中鎮魂の祭儀には八神及び特に祀る大直神を中心として十種神宝の神業を行う。
この場合、布都御魂大神など石上神宮の祭神は、御玉緒が斎い納めてある祝部殿の守護神として招請されることになったのである。また私的鎮魂の場合には、
  (3)自修的鎮魂と他修的鎮魂ともに鎮魂の司の神たる布留御魂大神を祀る。
 鎮魂式の種類はおおよそ以上の四種類に分かれるのであるが、何れの式にしても行者は必ず自修鎮魂を修め、その境地に達することを基本的必要条件とするのである。


鎮魂の神業

 ここに鎮魂の神業とは自修鎮魂に入る神業をさすので、鎮魂の神業は石上神宮記に次のごとく記されている。
天神御祖ハ皇孫天火明櫛玉饒速日命ニ詔シテ天璽瑞寶十種ヲ授ケタマフ。
所謂瀛都鏡一ツ、邊都鏡一ツ、八握剣一ツ、生玉一ツ、死反玉一ツ、足玉一ツ、道反玉一ツ、蛇比禮一ツ、蜂比禮一ツ、品物比禮一ツ、是レ也。
天ツ御祖教ヘ詔シテ曰ク若シ痛處者有ラバ玆ノ十種ヲ令テ一二三四五六七八九十謂ヒテ、而布瑠部由良由良、由良止フ、布瑠部、
此ノ如ク之レヲ爲セバ者、死人モ反リ生ク矣。是レ即チ所謂ル布瑠部之言ノ本矣。
 これによって見れば、神業の根元とするところは天神の神勅であり、口授に渉る秘法は石上神宮相伝の鎮魂神業によって知ることが出来る。
 この神業の目的とする所は云うまでもなく鎮魂であって、神祇令鎮魂の義解に
 「謂フ鎭ハ安也。人ノ陽氣ヲ魂ト曰フ也。言ハ離遊ノ運魂ヲ招キ、身體之中府ニ鎭ムルヲ鎭魂ト曰フ也」とあるによっても知ることが出来る。
 また岩上神社備考に「離遊の運魂とは亂雜之心也、身體之中府に鎭むるとは清浄正直の本心なり」とあり、また宮地博士著『神祇史』には「魂の調和狀態なり」ともあり、これを信仰的に見れば宇宙の元霊に通じるとも言われている。この行の結果現れる功験中最も尊いものは無病長寿であるから、上に掲げる布留御魂神の神徳の主なるものと称えられているのである。
 もっともこの神業には十種神宝の霊能が行の中心を成すものであるから、一二三四五六七八九十と唱えるは、神宝十種の隠語であり、猿女君氏の宇氣槽を衝くときに一二三四五六七八九十と唱える十度の数、玉緒を結ぶ回数の十度、玉緒を入れた葛筥を結ぶ時の「ソロヘテ、ナラベテ、イマハリ、サラニ、タネ、チラサズ、イハイ、ヲサメテ、ココロ、シヅメテ」と唱えること十度、神業に両手を組み合わせて前後左右中と各十度づつ振ること十回などの数は、いずれも神宝十種の数に因るもので、また両掌を握ることは神宝を掌中に納めた形をするものであって、すべて十種の霊能の導きに重きを置くことと知るべきである。これがこの瑞寶を鎮魂の司としその働きを布留御魂大神と尊称する謂である。
 十種神宝はそれぞれの功徳の種類を現すのであって、古来種々の説明が行われている。十種神宝の本体は布都御魂大神の許に国家の鎮めとして治め、その神気を布留御魂大神として祀られ神業守護の神となっているのである。一般の神業には代物あるいは図形を用いるか、或いは十種を観念しつつ行うのである。
 この神業はおおよそ唱言と布留業と息との三部に分かつ事が出来る。詳しくは口授に譲って、実習に当たって参考となるべきことを二三挙げる事とする。
一、神業の中に一二三四五六七八九十と唱える言葉を一ツ二ツ三ツ四ツ五ツ六ツ七ツ八ツ九ツ十ヲとも記されて津の音を口を閉じる音すなわち陰に当てはめて十ヲの雄音を口を開いて吹く陽に当てて、陰陽の妙理にあてて居るとも言われている。津の振り仮名は口をすぼめて“ツ”と唱える標である。
二、上文の布留部由良由良止布留部は口授神業の中の身体をユラユラと振り動かす事であって、その振る時の心得を「十種を振る時心を天地一杯にして心身共に動揺し天地と共に運転する」。また「天地の霊これを布留という。十種寶死を返す。それ生類氣を調うにその身を振う」ともいい、また「神宝を左右の手の内に握り指を組み合せて振う也。月日の運転し給う如く氣を天地一杯に充満して天地と一体になりユラユラと振って魂魄を招ぎ反して身体の中府に鎮める神術なり」などとも記している。
三、口授神業の中に息の神業がある。これを息を長く吹く業であって、息を吹く事は神道の特殊神術である。この神業を妙法に行う時は殊勝の功験があることは熱心に修してみた者の初めて知るところである。


鎮魂祭の時期および場所

 石上神宮の鎮魂祭の祭日は神武天皇の御時「毎年仲冬寅日有司事を行ひ永く鎮祭せよ」との勅命に依って毎年この日を以て行われる事となり、また「仲冬上卯の日の次の寅の日行はれ、尤も二ツあらば後の寅の日行はる」ともしるしてある。また或いは「毎年仲冬の中の寅の鎭魂祭を行ふ」また異説としては「仲冬の上の寅の日行はる」などとある。
 この国家鎮魂祭祭儀の場所は石上神宮において行うことを根本としているが、その他各所でこの祭儀を執り行ったことがある。


自修鎮魂式相伝覚書

 前述のごとく、石上神宮鎮魂の秘法は中古以来同宮社家の転退と共に、永く煙滅の状態であったが、明治の初め松山藩儒であった三輪田高房翁が、同宮の小宮司として在職中、専ら探求研鑽し漸く得るところあり、その後これを神宮奉斎会主禮叶眞吉翁に伝えられた。
 昭和九年森津倫雄氏がたまたま石上神宮宮司となるや、旧知の故を以て叶翁より石上神宮に秘法返納の申し出があったので、同年二月十八日を卜し、当時の神宮奉斎会専務理事藤岡好春氏、国務中社敢国神社宮司櫻井稻麿氏、石上神宮嘱託住田平彦氏など立ち会いの上、これが相伝を受けた。次にこの際の「自修鎭魂式相傳覺書」を記す。
+ 森津倫雄氏略歴
明治10年2月5日 :奈良県宇智郡宇智村に出生
明治29年7月  :東京國學院大學卒業
明治35年7月  :東京和佛法律学校卒業
明治40年2月  :官幣大社多賀神社禰宜
明治45年4月  :国幣中社気多神社宮司
大正5年3月   :神宮神部署岡山支署長
大正13年12月  :神宮神部署広島支署長
大正14年7月  :官幣大社廣田神社宮司
昭和4年4月   :官幣大社賀茂御祖神社宮司
昭和8年4月   :官幣大社石上神宮宮司
昭和12年12月  :勅任官を以て待遇
昭和13年2月  :叙従四位
昭和13年12月  :神宮奉斎会岡山本部長
昭和14年3月  :神宮奉斎会理事


自修鎮魂式相伝覚書
 ・時 刻  夜一時
 ・次 第   修祓
        燈火を滅す
        降神
        座を直し安座となり姿勢を整う(口授あり)
        左右の手を組み合わす(口授あり)
        手を組みたる侭、日文の神語「ヒフミヨイムナヤコト」を称えつつ身体を振る
        ※左振り右振り前振り後振り中振り(口授あり)
        上終わりて息気を鼻孔より吸い込み臍の下にある丹田に留め貯め徐々に口より吹き出す(一回)
        昇神
        点火
        退出

伝授式状況
 石上神宮拝殿に於いて執行する。午後八時。
先ず相伝奉告祭が執行される。終わって相伝準備。拝殿中央大前に祭壇を設く(まく)

 装 束   相伝者の叶眞吉翁は浄衣を着け烏帽子を冠す。
       受伝者の森津倫雄宮司は狩衣に烏帽子を冠す。
       立会人の藤岡・住田両氏は白衣白袴を着く。 


 神 体   神籬を起し樹つ。
        ※但し清い薦を敷きその上に神座を設く。
 神 燈   二基両側に設く。
        ※但し油燈。
 神 供   壹臺一台八足案の上に置く。
        ※但し浄水浄鹽洗米を土器に盛り三方に並べ備える。
 修 祓   中臣祓詞を奏す。終わって祓具にて打祓う。※*3
 次 に   祭壇の前に着座拝礼をなす。
 次 に   燈火を滅す。
 次 に   降神の式あり。
 次 に   鎮魂作業あり。
 次 に   昇神の式あり。
 次 に   点火をなす。
 次 に   鎮魂作業の形を示し説明をなす。
        安座を本来の形とするが、叶眞吉翁は常の習慣に依って端座を以て執行。

  • 手の形
 先ず左右の掌を組み合わすことなるも、その前提として結び合わす形を成す。
 先に左の掌を上にして斜めに握飯の結びを作るように握りあわすこと、次に右の掌を上にして斜めに握り合わす、次に左の指を上にして四指と四指を組み合わせ、拇指は左右に並び合わせ、両掌は空虚にする。そして臍のあたりに構え措く。

  • 左振り
 作業は左より始める。()()()()()()()()()()ヲヲの声に連れて、組み合わせたる両手を臍の前辺りより左の方へ向けて布留(振る)。()に一度振る。()に一度振る。十までに十回振る。ただし振り方は、組み合わせてる両手を臍のあたりより前に出し、左方に向けて円形に振る。ゆえに臍の前方より出して円形に振って、臍前に戻る様である。

  • 右振り
 左振りと同様。ただし臍前から右の方へ向けて振る。

  • 前振り
 次に前振り。前振りの型は、臍の前より前方に向かって組み合わせた両手を出して、上の方に円形の形を作り、胸のあたりより上にせずして、元に復する如く振う。

  • 後振り
 次に後振り。臍の前で組んだ両手を、前振りのように前へ出さず、上方、すなわち胸の方に上げて、胸の前の方より前へ出して、円形の様に振り、元の臍の前に戻す。

  • 中振り
 臍のあたりで組み合わせた両手を顔の辺りに上げて、顔前より前方に向かって出し、胸の前の辺りに下げつつ、円形の様を作って振る。

  • 息の術
 次に空気を鼻から吸い、下腹に留め静かに口より吹き出す作業。中振りが終わった際、胸の前辺りにある組み合わせた両手を、鼻より吸気すると共に、臍の前に戻し、下腹に力を込めて息を留め、そして静かに口より吹き出す。(一回だけ)

以上を以て鎮魂作業の一回(一段)となり、この作業を十回(十段)繰り返すことを作業の定規とする。


 ・付記
 鎮魂神事の初めに唱える呪文は次の四十七文字であって、我が国文字発音の起源をはすものである。この四十七文字を僧空海がいろは歌に改作したことは有名である。
     ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめか
     うおゑにさりへてのますあせえほれけ

なお、上の呪文と共に唱する十種神寶は以下の通り。
     瀛都鏡、邊都鏡、八握剣、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比禮、蜂比禮、品物比禮。


石上神宮に於ける祭神奉祀の形式

 石上神宮における祭神祭祀の形式は、明治七年神體を高庭から発掘して神殿に奉祀することに至るまで、神武天皇御創始以来すべて神籬祭祀の形式であった。
 神武天皇の御創始の時の有り様は神楯を立てて、天璽瑞寶を鎮め今木五十串を刺し廻らして韴靈の御剣を内に鎮め、その神の気を大神として招請し神宝を共に蔵して殿内に奉斎せられたのである。神楯は現在、石上神宮に“日の御楯”と称する極めて古代の鉄楯高さ152cmくらいが二枚ある。また今木とは賢木をいい、天津比母呂岐といい賢木の神籬の事で、尚『石上神宮略抄下』に「今木神は日本武尊也、田村の宮の後に神籬を起し今木を立て日本武尊を祀りて鎭守とす」ともあり。依って今木は斎木の意であることがわかる。
 次いで祟神天皇の御代石上邑に御還座の時の状態は、大和國石上邑に高き斎庭の地を作り件の二品(剣・瑞宝)の神宝を蔵めて祭り奉り、その上に霊畤を設けて祭祀をせられた。以来、この地を名付けて布留の高庭の地といい伝えている。その埋斎の様は、

「石上ノ地底磐石ヲ持テ境ト為シ、地石窟ヲ作リ布都御魂横刀ヲ以テ左座東方ト為シ、天璽瑞寶十種ヲ以テ右座西方ト為シ、同ジク共ニ藏ス焉。
 其上ニ高ク地ヲ築キ。諸ヲ高庭之地ト謂フ。高庭之地ハ神器之上ニ當リ。磐座ヲ設ケ。神籬ヲ立テ。建布津大神布留御魂神ヲ拜祭ス也。
 建布津大神ヲ以テ東座ニ齋ヒ奉リ第一ト為ス焉。布留御魂神ヲ西座ニ齋ヒ奉リ第二ト為ス。之ヲ&ruby(マツリノニハ){靈畤}ト謂フ。
 而シテ神殿無シ。東上ト以ハ爲ス所者。我邦左ヲ尚ブ故也。
 布津御魂横刀之鉾ハ天ニ向ケ。而頭ハ(俗云津加&sub(){束})地に植ヘ。所謂十握劍ヲ倒ニ於ハ地植ヘル是レ也。」

 また埋斎の理由を後世説明して「金は顯露れば人を傷り隱藏すれば人を(をぎ)のふ」と言っている。
 この高庭祭祀の事は新撰姓氏録布留宿禰の条、および延喜式臨時祭の条、白河天皇拝殿御造営の記録などいずれもその趣を説明しているのみならず、明治7年高庭を発掘して封土を崩し地底を窺って、古剣直刀二振り、内反り輪握刀二振り、および玉類などを得たが、これなどは御神体たる韴靈横刀、天羽々斬剣十種神宝のうち八握剣あるいは十種神宝などにあたるものであろう。実に千古の遺式がこの時の変革せられたと言わねばならない。



最終更新:2012年07月13日 10:21

*1 天皇が宣りたまう大命(おおみこと、命令)の意で、本来は口頭で宣布され、それを宣命体で書記した。漢字だけの和文体で記した文書であり、漢文体の詔勅に対していう。

*2 神事や朝廷の儀式などの際、参列者のため庭に設けた仮の建物。四方に柱を立て棟を渡して幕を張り、四方を幕で囲む。

*3 但し相伝者である叶眞吉翁は十八日朝二見浦に於いて海水に入り禊をなし、興玉神社に詣りて御礼を述べ、外宮内宮大前に参拝奉告を行った。立会人の藤岡・住田の両氏も同様。