鷲宮神社(埼玉県)

  • 名称
   鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)

  • 所在
 〒340-0217 埼玉県北葛飾郡鷲宮町鷲宮1-6-1
  • 交通
 電車:東武伊勢崎線わしのみや駅下車徒歩7分
    JR宇都宮線東鷲宮駅下車タクシーで約10分
 車 :東北自動車道久喜インターより約10分
    東北自動車道加須インターより約5分
    ※駐車場有り(100台)


  • 奉仕者




  • 社格
 別表神社
 ≪旧社格≫准勅祭社、県社


  • 御祭神
≪御祭神≫
 天穂日命(あめのほひのみこと)
 武夷鳥命(たけひなとりのみこと)
 大己貴命(おおなむぢのみこと)

<合 祀>
 建御名方神(たけみなかたのかみ)
 伊邪那美神(いざなみのかみ)
 大山祇神 (おおやまつみのかみ)
 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
 天照皇大神(あまてらすすめおほみかみ)
 迦具土神 (かぐつちのかみ)
 素戔嗚尊 (すさのおのみこと)
 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)


  • 摂末社




  • 祭事
  一月  一日:歳旦祭
  二月 十一日:紀元祭
  二月 十四日:年越祭*1
  二月 二十日:祈年祭
  三月二十八日:例 祭
  四月  十日:春季祭*2
  七月三十一日:夏越祭、大祓式*3
  八月  七日:風入祭*4
  十月  十日:秋季祭
 十一月二十六日:新嘗祭
 十二月初酉の日:大酉祭*5
 十二月二の酉日:二の酉祭
 十二月三十一日:除夜祭
  毎月  一日:月次祭


  • 由緒と歴史

 当神社は、出雲族の草創に係る関東最古の大社である。古く土師部(はじべ)(素焼きの土器などの製作、また埴輪を製作し葬送儀礼に関わった氏族)が河内国から移住したと伝えられ、社名の古くは「土師の宮」と称したという。この「ハジ」が「ワシ」に転訛して「鷲宮」になったという社伝がある。由緒は神代の昔に天穂日命(あめのほひのみこと)とその御子(たけひなとりのみこと){武夷鳥命}とが、昌彦・昌武父子外二十七人の部族等を率いて神崎神社(大己貴命)を建てて奉祀したのに始まり、次に天穂日宮の御霊徳を崇め、別宮を建てて奉祀した。この別宮が現在の本殿である。
 崇神天皇(すじんてんのう)の御世には、太田々根子命(おおたたねこのみこと)が司祭し、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)彦狭島命(ひこさしまのみこと)御諸別王(みもろわけのきみ)が、それぞれ幣帛を奉納した。
 景行天皇(けいこうてんのう)の御世には、日本武尊(やまとたけるのみこと)が当社の神威を崇め尊み、社殿の造営をし、併せて相殿に武夷鳥宮を奉祀した。
 桓武天皇(かんむてんのう)の御世には、征夷大将軍坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)が、武運長久を祈り奥州鷲の巣に当社の御分社を奉祀した。
中世以降には、関東の総社また関東鎮護の神として、武将の尊崇が厚く、歴史上有利な武将だけでも藤原秀郷・源義家・源頼朝・源義経・北条時頼・北条貞時・新田義貞・小山義政・足利氏歴代・古河公方・関東管領上杉氏歴代・武田信玄・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康等があげられ、武運長久等を祈る幣帛の奉納や神領の寄進、社殿の造営等がなされた。天正19年(1581)に徳川家康より四百石の神領を与えられ、代々の徳川家将軍の名で朱印状が残されている。
 明治天皇の御世には、神祗官達により准勅祭社に定められ、勅使参向のもと幣帛の奉納がなされた。そして明治天皇行幸の際、当社に御少憩され、祭祀料として金壱封を賜り、昭和天皇の御世にも、幣帛を賜った。
 現在は神社本庁包括宗教法人として別表神社に称せられている。


  • 文化財
 土師一流催馬楽神楽(はじいちりゅうさいばらかぐら)(国指定重要無形民俗文化財)
→この神楽の始行年代は明らかではないが、古文書「東鑑」に紹介されている。享保年間以前には三十六座の曲目があり、それを時の大宮司藤原国久が現在の十二座に再編成したと伝えられている。
演目の大半は古事記・日本書紀の神話に材を取った一種の舞踊劇で神楽舞の中に催馬楽を取り入れているという特色があり、舞の型には四方固めや三度(三歩ずつ歩く)などといった宗教色の濃い動作が含まれている。なお関東地方に分布する神楽の多くが、この土師流から出たということから、関東神楽の源流と称されている。

 堀内遺跡(埼玉県選定重要遺跡、町指定史跡)
→当神社境内地及び周辺地区は、上代人の居住地跡であり縄文・弥生・古墳時代の複合遺跡と称され、約三千年前の勾玉や土器が多種にわたり出土している。

 寛保治水碑(埼玉県指定史跡)
→寛保三年(1743年)に長州毛利公によって利根川堤防の修築が完工したことの記念碑。

 太刀『備中国住人吉次作』(国指定有形文化財)
→永和2年(1376年)卯月19日。小山下野守義政の寄進。『武州太田庄鷲山大明神』の刻字あり。

 銅鏡『双鶴蓬莱文鏡』(県指定有形文化財)
→蓬莱山に鶴と亀が遊ぶ図柄。

 銅鏡『桐文鏡』、付筥『沈金彫文筥』(埼玉県指定有形文化財)
→鏡の背には全体に桐の文様が浮き出している。納められている筥は金を漆に埋め込んだ沈金の手法で製作。

 鷲宮神社文書付棟札(埼玉県指定有形文化財)
→室町~戦国時代に掛けての棟札。足利氏・北条氏・大田氏関係の中世文書と、文禄四年の社殿造営の棟札。


  • 土師一流催馬楽神楽
 国指定重要無形民俗文化財。
 土師一流催馬楽神楽(はじいちりゅうさばらかぐら)の始行年代は明らかではないが、鎌倉幕府の記録書である吾妻鏡に建長3年(1251年)4月に鷲宮で神楽を行っていたことが記されている。しかし、この記事に登場する神楽が、現在行われている催馬楽神楽と同じ系統のものであるかは分かっていない。少なくとも、江戸享保年間に時の大宮司藤原国久が三十六座あった演目を十二座に再編しているため、現在の姿をそのまま当てることはできない。
 鷲宮神社は、古代に素焼の土器を製作していた「土師部(ハジベ)」の人々が創建した神社との伝承があり、初めは「土師の宮」と称していたのが、いつからか「ハジ」が「ワシ」に訛って現在の社名になったと伝えられている。神楽の名称もこの伝承に基づき、「土師」の名称を用いている。
また、“催馬楽”とは、平安時代に流行した歌謡の一種。一説には、地方から朝廷に年貢を運ぶ時に馬子が歌ったことから、この名前がついたと言われている。このように、古い時代の歌が演目に取り入れられている。関東地方に分布する多くの神楽が、この土師流から派生したということから、関東神楽の源流と称されている。
 戦国時代になると、武将も兼ねていた鷲宮神社の神主は軍務に忙しくなり、神楽は徐々に衰退してしまった。しかし、江戸時代になり、天下泰平の世が訪れると、神社の神主は武将をやめて神職として奉仕に専念するようになる。そして、鷲宮神社の大宮司であった大内國久は廃れてしまった神楽を再興しようと試み、享保11年(1726年)頃までに12座の神楽に再編をした。この時に再編された神楽が、現在も行われている催馬楽神楽である。江戸時代には、神楽を代々世襲で行う「神楽役」がおり、領主でもあった大内氏の家臣として田畑を与えられていた。
 江戸から明治・大正時代と神楽は盛んに行われていたが、時代が昭和になると、神楽を行う神楽師の数が徐々に減っていった。そして、昭和20年代になると、神楽師は白石國蔵という人物たった一人になってしった。しかし、昭和30年、神楽の笛の音がラジオで全国放送されると、これを機会に町内の心ある若者10数名が集まり、「神楽復興会」が組織され、白石氏の指導により神楽が伝えられた。現在は「鷲宮催馬楽神楽保存会」と名称を変え、当会が伝統ある神楽を継承している。



  奏演の日と場所
 現在、神楽が行われる定例日は年6回。

   一月  一日(歳旦祭)
   二月 十四日(年越祭)
   四月  十日(春季祭)
   七月三十一日(夏越祭)
   十月  十日(秋季祭)
   十二月初酉日(大酉祭)
 ※四月十五日には鷲宮神社の分社である八甫(はっぽう)地区の鷲神社でも行われる)

 奏演場所は南面する本殿に向かい合っている入母屋造、三方吹き抜けの神楽殿。鏡板の前には日の丸に松が描かれている。間口三間、奥行二間半の舞台の奥に三尺の囃子座がある。また、東に間口一間半、奥行一間の橋掛りがある。東西に出入り口があり、東が舞人(まいにん)、西が拍子方(ひょうしがた)の出入り口となっている。
 神楽を行う時は、舞台前の中央に朱塗りの机を神座として置き、その上には、中央に大きな白の幣を、右に白の小幣、左に色幣を立てる。
 なお、この神楽殿は文政4年(1821)、当時の宮司大内国義氏が再建したものである。


  奏演者
 この神楽は一社相伝の神楽であった。神楽を奉仕する家柄は代々世襲し、神楽役と呼ばれ、神社より知行(田畑三反半)を与えられていた。
 しかし、この神楽は昭和20年前後から衰退し始め、伝承者も白石国蔵氏ただ一人になったしまった。事態は深刻であったが、昭和37年7月31日に「浮橋」と「鎮悪神」の笛がNHK放送によってラジオで流された。これを機に地域の若者十数人を集め、白石国蔵氏の指導のもと70日間の練習をし、10月10日に十二座の一部を公開することができた。この時は「鷲宮神社神楽復興会」と称し、会長に針谷健次氏、名誉会長に宮司の相沢正直氏、そして世話人として氏子総代の鈴木福太郎氏が就任した。昭和35年に「鷲宮催馬楽神楽保存会」と改称さた。
 また昭和55年4月、鷲宮中学校に「郷土芸能クラブ」が設立され、鷲宮催馬楽神楽の練習が始められた。平成5年4月に名称をかえ、「郷土芸能部」となっている。


  編成と曲目一覧
 演目の大半は「古事記」「日本書紀」などの神話の部分を取り出して題材としている。神楽舞の中に古代歌謡の一つである催馬楽(さいばら)を採りいれている点に特色がある。江戸時代に現在形の12座に編成される以前は、36座あったといわれている。
 構成は舞人、拍子方と謡方で編成されている。舞人は、面を着けることによって神と化す。舞の型には、四方固めや三度(3歩ずつ歩く)などといった宗教色の濃い動作が含まれており、古い祭りの儀式や作法を偲ばせる。鷲宮催馬楽神楽には全部で14種類の面があって、これらの面は15の演目の内、10の演目で使用されている。舞人の数は曲目によって異なり、1~4人で踊る。また舞人が手に持つ物を採物という。この採物が各演目ごとに小道具として登場し、重要な役割を果たしている。鷲宮催馬楽神楽の採物には、鈴、扇、日の丸扇、五幣、合幣、色幣、宝珠、日形、月形、剣、杓、太刀、鉾、弓、矢、榊、篠、種壺、三方がある。
 鷲宮催馬楽神楽の楽器には、東(神楽殿左手奥)から小太鼓、大太鼓、大拍子、笛の4種類を並べて拍子方と呼ばれる人が演奏する。
 謡方は一名で西側に加わる。

+ 第一座 天照国照太祝詞神詠之段
 天照国照太祝詞神詠之段(あまてるくにてるふとのりとしんえいのまい)
素面(面をつけない)で狩衣を着用し、一人で舞う。舞人はまず扇を持ち、途中で四本合幣と鈴に持ちかえる。
「天照国照」とは、天地を分けへだてなく照らすこと、「太祝詞」とは、立派な祝詞という意味。この祝詞は「これから神楽を行うが、安全であるように」との願いをこめて読み上げられる。このことから、この演目は12座の最初に行われる慣わしとなっている。
+ 第二座 天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
 天心一貫本末神楽歌催馬楽之段(てんしんいっかんもとすえかぐらうたさいばらのまい)
素面、狩衣の二人による舞。一人は榊と鈴を持ち、もう一人は篠と鈴を持つ。
榊と篠を持って舞うのは、ともに常盤(永久不変)の木といわれる、おめでたい木だから。
この演目は、建築にあたっての清めの舞といわれている。
+ 第三座 浦安四方之国固之段
 浦安四方之国固之段(うらやすよものくにかためのまい)
素面、狩衣の四人による舞。四人は、左手に東西南北をあらわす青、赤、白、黒それぞれの幣、右手に鈴を持つ。また舞台中央には黄幣を立てる。
この演目は、国を堅固にするためのもの。また、天候が不順のときにこの演目を行えば、天候が回復するともいわれている。
+ 第四座 降臨御先猿田彦鈿女之段
 降臨御先猿田彦鈿女之段(こうりんみさきさるたひこうずめのまい)
天狗の面をつけた人と鈿女の面をつけた人の二人による舞。天狗は鉾と鈴を持ち、鈿女は赤の幣、鈴、扇を持つ。
天狗はサルタヒコノミコトを、鈿女はアメノウヅメノミコトを顕す。
この演目は「天孫降臨」の神話を題材にした、五穀豊穣、国家安穏を祈るおめでたいもの。
また、安産の祈願のためにこの演目を行ったことも伝えられている。
+ 第五座 磐戸照開諸神大喜之段
 磐戸照開諸神大喜之段(いわとしょうかいしょじんだいきのまい)
素面の巫女が二人と、翁の面をつけた人の三人による舞。
巫女の一人は五十鈴に青幣と麻をつけた榊と鈴を持ち、もう一人の巫女は鏡と白幣をつけた榊と鈴を持つ。
翁は榊の枝をつけた白大幣と鈴を持つ。
この演目は「天岩屋戸」の神話を題材にしていて、人々の喜びをあらわした舞といわれている。






最終更新:2009年06月01日 01:04

*1 旧正月、鷲のとしこしと呼ばれ厄除けの豆がまかれる。

*2 当日は参道に花や庭木等が並び植木市が催される。

*3 罪や穢れを負わせた形代を加須市川口の古利根川に流し無病息災を祈る行事が行われる。

*4 社蔵の御神宝を虫干しする行事。

*5 お酉様の本社として各種縁起物が授与される。