李㝏 りかい
?-822
中唐の藩鎮・叛将。義成軍節度使権知留後。義成軍節度使に
李愿が赴任すると、吝嗇・厳刑のため長慶二年(822)七月、牙将の李臣則が叛乱をおこして追放し、都押牙の李㝏を留後に推し、李㝏も自身が権知留後となったことを奏上した。しかし朝廷は李愿を左遷したものの、後任の節度使には
韓充を任命し、李㝏を右金吾将軍とするのに留めたから、李㝏は詔に背き、宋州を攻撃した。
李光顔・
曹華は李㝏を攻撃し、八月には
王智光らの攻撃を受けたが、李㝏は皮膚病のため軍務を李臣則・
李質に委ねたが、敗北して斬られた。
史料
『資治通鑑』巻二百四十二 唐紀五十八 穆宗中 長慶二年七月・八月条
最終更新:2024年09月24日 00:40