元稹
779-831
唐代の宰相(在任822)。河南(河南省洛陽市)の人。後魏の帝室の子孫。字は微之。父の死後、貧困のなかで勉学し、15才で早くも明経に及第し、のち政治の腐敗を嘆き、革新の意図をい だいた。24才で抜萃科に合格し、28才で官吏選任の大改革を提案し、制科に首席をしめた。806(元和元)年右拾遺に任ぜられ、時代の欠陥を突く10ヵ条を上奏したり、社会風刺の詩歌を作ったが、執政に避けられ、4ヵ月で河南尉に落とされた。809年監察御史となり、節度使の横暴や大官の不法を糾弾し、宦官の暴力に対抗したが、権勢者の憎しみ を買い、地方の属官に追放された。やがて宦官のとりなしで穆宗に認められ、821(長慶元)年翰林学士から中書舎人をへて工部侍郎にのぼり、翌年宰相となり、年来の政治改革を断行しようとしたが、
裴度と政策を争い、5ヵ月で辞した。のち浙東観察使となり、武昌軍節度使で終わった。年53才。尚書左僕射を贈られた。少壮の政治批判はたたえられたが、後年権力を握ろうと急いだため、広い支持を得ず、抱負を実現することができなかった。その政治的主張は『元氏長慶集』60巻のなかにみることができる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典』3(平凡社,1960)
外部リンク
最終更新:2024年03月19日 17:57