巻一百七十四 列伝第九十九

唐書巻一百七十四

列伝第九十九

李逢吉 元稹 牛僧孺 蔚 徽 叢 李宗閔 楊嗣復 授 煚 損


  李逢吉は、字は虚舟で、先祖は隴西より出た。父の李顔には持病で臥せり、李逢吉は自ら薬を調合して、遂に医方書に精通した。明経科にあげられ、また進士に及第した。范希朝は上表して振武軍節度使の掌書記とし、徳宗に推薦したから、左拾遺を拝命した。元和年間(806-820)、給事中・皇太子侍読に遷った。中書舎人、知礼部貢挙に改任された。その職にとどまることなく、門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)を拝命した。礼部尚書の王播に詔して李逢吉の名前を貼り出させた。

  李逢吉の性格は嫉妬深く冷酷で、陰険でせっかちであった。宰相の位となると、仕事は好悪で報いた。裴度が淮西を討伐すると、李逢吉は功績をあげてしまうのではないかと思い、密に沮止をはかり、和議するからといって諸道の兵を停止することを要請した。憲宗は知って憎み、京師から出して剣南東川節度使とした。

  穆宗が即位すると、山南東道節度使に遷った。皇太子侍読であった時の縁によって、密かに近習と結託した。長慶二年(822)、召還されて兵部尚書となった。当時、裴度と元稹が国政にあたっていたが、裴度はかつて元稹のことを度々弾劾しており、李逢吉はその隙は乗じ易いとみて、遂に二人の間に並び立ち、人を派遣してお上に変事を告げ、「和王傅の于方が客と結託して、元稹のために裴度を刺そうとしています」と言い、は尚書左僕射の韓皋・給事中の鄭覃と李逢吉に命じて審問させ、事実ではなかったが、元稹と裴度は罪に問われて皆罷免され、李逢吉が代わりに門下侍郎・平章事(宰相)となった。そこで恩爵によって虚偽軽薄な者を動かし、讒言を捏造して裴度を中傷し、ここに李紳韋処厚らは大っぴらに裴度が李逢吉のために困窮させられていると公言し、裴度ははじめて留任できた。当時すでに河朔の地を失い、王智興は徐州によって叛き、李㝏が汴によって叛き、国威は振わず、天下は首を長くして裴度が宰相となるのを待ったが、内外の官吏が次々と上奏したにも関わらず、帝はついに取り上げず、裴度は遂に外任に遷された。李㝏が平定されると、尚書右僕射に昇進した。

  が突然病気となり、内外を妨害し、李逢吉は宦官の梁守謙・劉弘規・王守澄の議によって、景王を立てて皇太子とすることを願い、帝は言うことができず、ただこれに頷くだけであった。翌日詔を下して皇太子が定まった。鄭注は王守澄に厚遇され、李逢吉は従子の李訓を遣わして鄭注に賄賂を贈り、王守澄と結託して宮中奥の応援とし、これより意のままにして憚ることがなかった。その与党は張又新李続張権輿劉栖楚李虞程昔範姜洽および李訓の八人で、さらにそれに付き従う者がまた八人いて、全員要職に任じられたから、「八関十六子」と号した。李逢吉に請求することがあれば、まず八関子に賄賂を贈り、後で李逢吉に達せられると、願うところは得られないことはなかった。しばらくもしないうちに涼国公に封ぜられた。

  敬宗が新たに即位すると、裴度は宮中での謁見を求めたが、李逢吉は不安であったから、張権輿はそのため讖言をつくって裴度を阻もうとしたが、韋処厚がしばしばに申し上げたから、計略はついぞ行なわれなかった。武昭なる者がおり、陳留の人で、勇敢で弁がたった。裴度は蔡州を討伐しようとし、呉元済に派遣して説得させたものの、呉元済は兵をもって答えとした。しかし言葉で答えて屈することがなかったから、逆に厚遇されて帰された。裴度は武昭を軍職に任じ、太原の駐屯に従わせ、石州刺史に任じた。罷免されて帰ったが用いられず、怨みを懐き、太学博士の李渉と金吾兵曹参軍の茅彙と長安にいて、俠気で互いに相許す仲であった。李逢吉と李程が同じく宰相となったが、反りが合わなかった。李程の族人の李仍叔が武昭に「丞相(李程)は君を用いたいと思っているが、李逢吉がよろしくないと譲らないのだ」と言うと武昭はますます怒り、酒場で友人の劉審と語り、李逢吉を刺してやると息巻いた。劉審は密かに張権輿に語り、李逢吉は茅彙を通じて武昭と召見し、厚く互いに交誼を結び、険悪な関係は解消できた。李逢吉はもとより茅彙を厚遇しており、かつて書簡を与えて、「あなたは「自求」の字を私にとすべきで、私は「利見」の字を君としよう」と述べ、会話もかなり昵懇であった。裴度が帰還しようとするとき、また人に命じて武昭の事を暴かせた。これによって武昭・茅彙は獄に入れられ、御史中丞の王播に命じて審議させた。李訓が茅彙を唆して武昭と李程が共謀したと誣告させるならばよいが、そうでないのなら死ぬだろうとした。茅彙は出来ないとし、「人を誣告して自分が助かるなんてできないな」と言った。判決が出て、武昭は笞打ちで死に、茅彙は崖州に、李渉は康州に流され、李仍叔は道州司馬に貶され、李訓は象州に流された。王審は長寿県主簿に任命された。しかし李逢吉の謀はますます暴露された。武昭が死ぬと、人は皆冤罪だと思った。

  それより以前、李逢吉武昭の獄に引き起こして裴度が朝廷に入るのを阻止しようとしたが、阻止できず、天子は裴度の忠誠を知って、ついに宰相に任じた。李逢吉はここに次第に疎んじられ、検校司空・平章事の職によって山南東道節度使に任じられ、上表して李続を自身の副官とし、張又新を行軍司馬とした。しばらくして検校司徒となった。それより以前、門下史の田伾は李逢吉と信頼されているのに頼って、財利を還元し、婢を進上されて寵愛した。田伾が罪を得た時に李逢吉の家に匿われ、名目上は捕らえられなかったとした。鎮を出ると上表して軍に従わせ、一年後に人に偽って門下省を過ぎさせ、房州司馬に任じた。役人に暴かれ、襄州で捕らえられたが、偽って派遣しなかった。御史が弾劾奏上し、詔して一年の年俸を剥奪し、これによって李続を涪州刺史に、張又新を汀州刺史に貶した。しばらくして宣武軍節度使に移され、太子太師の職によって東都留守となった。李訓が宰相になると、召還されて尚書左僕射を拝命したが、足の病により朝廷に赴くことができず、司徒の職を以て致仕した。卒し、年七十八歳であった。太尉を贈られ、諡を成という。子がなく、従弟の子の李植を後嗣とした。


  元稹は、字は微之で、河南河南の人である。六代の祖の元岩は、隋の兵部尚書となった。元稹は幼なくして父を失ったが、母の鄭氏は賢く教養があり、自ら読み書きを教えた。九歳にして巧みに文章をつくり、十五歳で明経科に推薦されて合格し、校書郎に補任された。元和元年(806)に制科を受験して、第一位の成績であり、左拾遺を拝命した。性格は聡明であったがきつく、事あるごとに問題を起こした。

  それより以前、王叔文王伾が太子の厚遇を得て国政をまげ、元稹は正しい人を選んで政治を輔弼しなければならないと言い、そこで書を献じて述べた。

  「伏しておもんみるに陛下、英邁な詔を降され、荒廃した学業を修められ、王侯貴族の長子を増されましたが、しかしながら事はこれより先んじなければならず、臣は愚見ですのであえて死も覚悟して申し上げます。

  賈誼は「三代の君主の仁が長く続いたのは、教えることが異なっていたからである」と述べています。周の成王はもとより能力としては中程度で、管叔鮮と蔡叔度を近づけて讒言を受け入れてしまいましたが、周公・召公を任じてそこで親しく聞き入れました。どうして天が聡明だといえるのでしょうか。終わりをよくする道というのは教なのです。始め太子となるや太公を太師とし、周公を太傅とし、召公を太保とし、伯禽・唐叔虞とともに学び、目には淫らで艶やかなものを入れず、耳には滑稽な俳優を聞かせず、居ては凡庸・邪悪な者を近づけず、物は珍異なものを備えませんでした。君主となると、血気はすでに定まり、学問はすでに成熟し、心を奪われるようなことがあっても、すでに完成した性格を奪うことはできません。そこで彼の道徳を言うには、もとより自分が習い聞くところで、これを述べる者はやさしく諭したのです。よこしまで凡庸な者が説いたところで、もとより自分の蓄積したところを恐れるので、諂う者は弁じたところで対処が簡単なのです。人の情は、輝かしいことをよしとするので、党を近づけることは本当に志を得て、必ずその蓄積するところを快しとするのです。物性もまた同じで、そのため魚は水を得て遊び、鳥は風に乗って飛び、火は薪を得て燃え上がるのです。成王が蓄積したものは道徳で、近づけたのは聖賢であったのです。蓄積したものを快しとしたのは、礼楽を興し、諸侯と朝見し、刑罰を差し控えることで、これは教育の賜物なのです。

  秦はそうではなく、先王の学を滅ぼし、太師・太保の位をしりぞけました。胡亥が生まれると、『詩』『尚書』を聞かせることができず、聖賢は近づくことができませんでした。彼の趙高は、刑罰を受けた人で、これを傅とするには残忍に殺害する術によって日々ほしいままに睨みを効かせ、天下の人は真心をつくさず、胡亥は馬と鹿の区別ができないほどだったのです。趙高が天下に威嚇すると、胡亥は宮殿の奥深くに自ら幽閉したようになったのです。秦が滅亡したのは、それはこのような原因だったのです。

  太宗が太子になられると、道徳を知る者十八人を選んで彼らとともに学び、即位の後は政務の合間に宴して飲食しましたが、十八人全員いました。上は失政があれば発言しないことはなく、下は民情を伝えないことはなく、三・四年もしないうちに名声は古の時代よりも高く、これは学習の結果なのです。貞観年間(623-649)以来、太保・太傅はすべて宰相を兼任し、ほかの官もまた時宜にかなって選ばれ、だから馬周が高位でも司議郎にならなかったのを恨んだのは、そのような理由があったのです。

  武后が政権を握ると、王室を切り捨て、中宗睿宗を太子とし、剛直であえて諌言する者がいたとはいえ、宰相であっても職を保つことができず、讒言・中傷され、ただ楽工(安金蔵)が腹を割って身の潔白を証明したというのは、どうして悲しまずにいられましょうか。近頃この弊害は最も甚だしいもので、太保や太傅となって教え導く者は、眼や耳は問題ないが、外敵がいなくなって将軍を辞めた者が任命されるようになっています。また愚鈍かつ老年の儒者を侍直・侍読に備えていますが、それでも一ヶ月すぎても召されることはありません。ただつまらない男によって愛する子をあずけるようなもので、本来なら明哲かつ慈悲深い師とすべきで、どうして天下の太子を逆に適切ではないようにするのでしょうか。

  臣が思いますに、高祖から陛下に至るまで十一聖の方々は、生まれつき神明で、長じて仁聖となられたので、このため細々と働く者はだからここに省りみられなかったのです。さらに万世の後になって、周の成王のような中程度の能力で、宮殿の奥深くに生まれ、教え導く者の教えがなければ、それは喜怒哀楽の由来を知ることがでなくなるでしょう。ましてや農業の困難についてはいうまでもありません。願わくば皇太子から諸王の年若い長子にいたるまで講義を受けさせ、厳しい師匠について道を問うの礼をとらせ、狩猟と女色の娯楽をやめさせ、学習の善の助けとすれば、なんと素晴らしいことでしょうか。」

  また自ら職をもって諌めたが、しばしば召見されることがなかったから、上疏して以下のように述べた。

  臣はこのように聞いております。治乱の始めは、それぞれ前兆があります。直言を受け入れ、広く物事を見聞きし、自ら庶務に務め、大臣を信任し、左右の近習にとって関係が悪い者を覆い隠したりさせなければ、象を治めることになります。大臣に親しまず、直言を奉られず、忌諱されるべきことに触れた者を殺し、左右の者が法を犯せば処刑し、一・二人の近習と宮中の奥深くで物事を決裁し、群臣とともにできなければ、これは乱の前兆なのです。人君が始めて即位してから、前兆が見られないのは必ず狂ったように直言する者がいるからです。お上はある時は怒ってもこれを進め、そこで天下の君子は仰ぎ見て「彼の狂人すらお上が受け入れるのは、天下の士が来るのを望んでいるからなのか。それなら私の道も受け入れられて行なわれるだろう」と言い、小人はそこで利を恐れて、「彼の直言がお上の歓心を得るなら、私はまさに直言して利を求めよう」と言い、これによって天下の賢きもそうでない者もそれぞれお上に忠誠を捧げるところになり、上下の志は、大雨が突然降るかのように通じ合うのです。天下の智が合えば、万物の心も治まり、人々は楽しんでそれを得て、お上を戴くことは赤子が母親の慈しみを受けるかのようで、そうなれば彼らを誘って乱をおこそうとしてもできるでしょうか。計略を奉る者が入り、直言する者が殺されると、天下の君子は心の内に「進言して用いられなければこの身が殺されてしまうから、私は危険を避けて安全なことをしよう。巧言を行って終わりを保った方がよい」と思い、小人ならば利を選んで、「我が君が憎むのは心を払い耳に逆らう者だ。私はいやしくも良しも悪しも従って仕えることにしよう」と言い、これによって進見する者はあらためて参内しなくなり、言上する者は休んで奏聞しなくなり、このようであればたった十歩の距離の事でも見ることができず、ましてや天下四方の遠きことは到っては言うまでもありません。そのために「耳が聞こえず眼が見えない君主には耳や目がないわけではない、左右前後の者が遮って籠らせ、見聞きさせないのだ」と言いますが、政治を乱さないと望んでいるのにこんなことで果たしてできるのでしょうか。

  太宗がはじめて即位されると、天下に有言する者がなく、孫伏伽は小事によって諌さめ、厚く恩賞を賜い、これによってさらに勉めました。これより事を論じる者はただ言上して直さず、諌めて極めず、激することができない、とお上の気持ちを恐れましたが、かつてお上の機嫌を損ねることをおもんばかることはしませんでした。ここに房玄齢杜如晦王珪魏徴は可否を御前で議し、四方は外に得失を言い、それによって数年もせずに大いに治まりました。どうして文皇(太宗)一人が上位にあって聡明であったといえましょうか。思うに下はその言を尽くし、これによって盛んに宣揚しようとするでしょう。そもそも楽しんで全うしたり安全であろうとしたり、憎んで刑罰による辱めを与えたいと思うのは古今思いは一つで、どうしてただ貞観の人が軽度の犯罪や主君の機嫌をそこねることで好んで刑罰を受ける辱めを受けたいと思うのでしょうか。思うにお上が怒っても諌言を進るというのは、従順であることを喜び、諌言されると怒るのも、また古今思いは一つで、どうして一人文皇(太宗)だけが耳に逆なですることを喜び、意志への従順を怒るというのでしょうか。従順な者に従えば後々の利益は軽度なものとなりますが、滅亡の危険の禍いは大きくなるのです。子孫のためを思って永遠安全の計略を建てるのです。後嗣となる者は、一朝の意に従うべきであって、文皇の天下を蔑ろにするべきなのでしょうか。

  陛下は即位されてからすでに一年たっており、百人もの卿士・天下四方の人を任命し、かつて一計を献じ、一言を進言して褒賞を受けなかった者はおりません。左右前後の拾遺や補闕もまた意見封事したり諌言したりしてお褒めいただかなかった者はおりません。諌鼓(諌言する者が意見を申し上げるときに叩く太鼓)を設け、匭函(目安箱)を置き、かつて冤罪を雪ぎ、一事を決し、収監されている者を明白に聞きません。陛下の明らかで賢く広く深く、精力的に治めようとされていますが、どうしてこの言を用いられないのでしょうか。思うに下僚が明らかに説明することができないだけなのでしょう。顧問をうけたまわる者は、ただ一・二人の宰相で、一つの問題には対処できますが、しばらくもしないうちに罷免されてしまい、どうして合い間に治安を述べ教化を議することができましょうか。他の役人もある時に召して謁見されますが、わずかに帳簿で銭や穀物を数えてその上下を申し上げることができるにすぎません。陛下の政治から貞観の治を見るとどうでしょう。貞観の時はなお房玄齢杜如晦王珪魏徴が輔弼の智があり、日々賛否すべきことを申し上げていました。今陛下はまさに政治を行なわれるの最初でありますが、言上したり献策する者は一年に一人もおりません。どうして群下が遅延しているのを位を窺っている罪とはしないのでしょうか。そこで死を覚悟して箇条書きにして十の事を申し上げます。一は太子を教育して国家の根本とすること、二は諸王を封して盤石を固めること、三は宮人を宮中から出すこと、四は宗室の娘を嫁に出すこと、五は時折宰相を呼び寄せて政務を講じさせること、六は官位の序列によって群臣に対し聡明を広めること、七は正衙の奏事を復活させること、八は許方幅を糾弾すること、九は通常ではない貢献を禁止すること、十は遊猟の出入を省くこと。」

  当時、論傪・高弘本・豆盧靖らが出されて刺史となったが、十日もしないうちに追って詔書によって召喚した。元稹は、「詔令がしばしば改められるならば、天下の人は信じることができなくなるでしょう」と諌め、また西北の辺境の事について述べた。憲宗は喜び、召喚して時節の得失を尋ねた。政権を担当する者はこれを憎んで、元稹を京師から出して河南県の尉としたが、母の喪によって職を辞した。服喪があけると監察御史を拝命した。東川の監察に赴き、節度使の厳礪が詔を違えて賦税を数百万も超して徴収し、塗山甫ら八十家あまりの田宅・奴婢を没収した罪を弾劾奏上した。当時厳礪はすでに死んでおり、七人の刺史が全員減給処分となり、厳礪と親しい者は怒った。しばらくして東都に分司となった。

  当時、浙西観察使の韓皋が安吉県令の孫澥を杖刑にし、数日して死んだ。武寧軍節度使の王紹は護送監軍の孟昇が死んだ時に駅で逓送し、柩を駅舎に安置したが、官吏はあえて止める者がいなかった。駅舎内では勝手に人を拘束して年を越したが、御史台は知ることができなかった。河南尹が諸生の尹太階を誣告して殺し、飛龍使が逃亡の奴婢を誘って養子としたり、田季安が洛陽の衣冠の娘を拉致したり、汴州が志望した商人の銭千万を没収した件について、およそ十事あまりのことをことごとく論奏した。当時、河南尹の房式が罪によって元稹が取り上げて言外し、過去に遡って罪を追求しようとして、文書によって職務を停止させた。詔して房式の罪を減給とし、元稹を召還した。敷水駅に行くと、宦官の仇士良が夜にやって来たが、元稹は譲らず、宦官は怒り、元稹を殴って顔に傷つけた。宰相は元稹が年少の後輩でありながら権威を笠に着るようなことをしたとして、江陵士曹参軍に左遷し、李絳崔群白居易は皆その不法を論じた。しばらくして通州司馬に移り、虢州長史に改められた。元和年間(806-820)末、召還されて膳部員外郎を拝命した。

  元稹はもっとも詩に長じ、白居易とともに名声は等しく、天下で伝え諳んじて、「元和体」と号し、往々に楽府で演奏された。穆宗が東宮であった時、妃嬪や近習は皆これを謡い、宮中では「元才子」と呼んでいた。元稹が江陵に流謫されると、臨軍の崔潭峻と親しくなった。長慶年間(821-825)初頭、崔潭峻が都に戻っての寵愛を受けると、元稹の歌詞数百十篇を献上すると、帝は大いに喜び「元稹は今どこにいるのか」と尋ねたので、「南宮の散郎(膳部員外郎)となっています」と答えると、そこで祠部郎中、知制誥に抜擢された。詔書の文体を変え、素直で明白であるのに務めたから、世の人々にもてはやされた。しかしもとを通った正式なものではなかったため、朝廷内の士は恨んだ。元稹は心内に不平があり、そこで「誡風俗詔」をつくって役人達を一人づつそしって、その恨みをはらした。

  少しして中書舎人・翰林承旨学士に遷った。しばしば召されて宮中に入り、礼遇はますますあつく、自ら天下の事を申すことができると言った。宦官は争って元稹と親交を持とうとし、知枢密の魏弘簡とはとくに親しかった。裴度は長安を出て鎮州に駐屯し、論奏したが、二人とも阻んで却けた。裴度は三度上疏して魏弘簡・元稹が国政を乱し傾けていると弾劾し、「陛下が賊を平定したいと思われるのでしたら、ただちに先ずは朝廷を清めるのがよいでしょう」と言い、は群議に迫られ、そこで魏弘簡を罷免し、元稹を出して工部侍郎とした。しかし帝の寵愛が衰えたわけではなかった。しばらくもしないうちに、同中書門下平章事(宰相)に昇進し、朝野は雑然として嘲笑し、元稹は優れた節操によって天子に報いようと決意し、そして人心を嫌った。当時、王廷湊牛元翼を深州で包囲しており、元稹はその地方に詳しい者と親しく、「王昭・于友明は皆傑出した人物で、つねに燕・趙の間を旅しており、賊と懇意にしています。密かに通じて牛元翼を救出しましょう。私財をだしてください。兵部の空白の辞令書二十通りをつくり、士を募る便宜とします」と言われ、元稹は裁可した。李逢吉はその謀を知って、密かに李賞なる者に裴度に対して「于方は元稹のために刺客となって、公を刺殺するでしょう」と言わせたが、裴度は隠蔽して発覚しなかった。神策軍中尉が奏上し、韓皋鄭覃および李逢吉に詔して取り調べさせると、裴度を刺そうとする件については立証できなかったが、一連の計略はすべて露見したので、遂に裴度とともに宰相を罷免され、京師より出されて同州刺史となった。諌官たちは争って裴度は罷免・左遷を免除されるべきとし、元稹は罰が軽すぎるから斥けるべきだとした。帝は一人元稹を憐れみ、ただ長春宮使を免じたに留まった。それより以前、処分が決定する前に、京兆尹の劉遵古が警邏の役人を派遣して元稹の邸宅を包囲したから、元稹はこれを訴え、帝は怒って、京兆尹を責めて、捕賊尉を罷免し、使者を派遣して元稹を慰撫した。一年後、浙東観察使に遷った。明州が毎年蚶(アカガイ)を貢納していたが、運搬の者は一万人となり、その疲弊は耐えられず、元稹は奏上してこれを止めた。

  大和三年(829)、召還されて尚書左丞となり、務めて綱紀を振るい、郎官で最も目立った功績がない者七人を地方に飛ばした。元稹はもとより定見がなく、人望も薄く、公議のためにならなかったがの座右にあった。王播が卒すると、宰相に復帰したいと謀って務めたが、ついにできなかった。間もなく武昌節度使を拝命した。卒し、年五十三歳だった。尚書右僕射を贈られた。

  論著が非常に多く、世に行なわれた。越にいた時、竇鞏を副官に任命した。竇鞏は天下でも詩に巧みであり、彼とともに酬和し、そのため鏡湖と秦望山での唱和したものはますます伝えられ、当時は「蘭亭の絶唱」と号した。元稹は当初厳しくも正しいことを言い、名を建てようと思っていたが、中年になって斥けられて失脚すること十年におよび、道に通じても堅くはなく、そのため守るべきものを失った。宦官と接近して宰相となったが、宰相の位にわずか三ヶ月いるだけで罷免された。晩年はいよいよ阻まれ失うと、廉節を加えて自身を飾ることはなかったという。


  牛僧孺は、字は思黯で、隋の僕射で奇章公の牛弘の後裔である。幼くして父を失い、杜樊郷に下って賜田が数頃ほどあったから、これによって生計を立てた。文章を巧みにし、進士に及第した。元和年間(806-820)初頭、賢良方正科に受験し、李宗閔皇甫湜とともに第一位となり、箇条書で失政をあげ、直言して避けることなく、宰相まで避けなかった。宰相は怒り、そのため楊於陵鄭敬韋貫之李益らは罪ありとされ、考課の評価は良くなく、皆地方に任命されて去った。牛僧孺も伊闕県の尉に任命され、河南に改められ、監察御史に遷り、考工員外郎・集賢殿直学士に累進した。

  穆宗が即位した当初、庫部郎中の職にあって知制誥に任じられた。御史中丞に遷り、違法を摘発し、内外を粛正した。宿州刺史の李直臣が賄賂のために罪ありとして死刑に相当し、宦官に賄賂を贈って命を助かろうとした。調書がお上に送られると、は、「李直臣は才能がある。朕は命を助けて用いたいと思う」と言ったが、牛僧孺は、「彼は不才者で、禄を得ながらもさらに懐に入れるだけの人間です。天子が法を制するのは、才能がある者を束縛するからからなのです。安禄山朱泚の才能は人より上回っていましたが、だからこと天下を乱したのです」と述べ、帝はその発言を優れたものだと思い、そこで沙汰止みとした。金紫服を賜い、戸部侍郎同中書門下平章事(宰相)とした。

  それより以前、韓弘が入朝し、その子韓公武は財力を用いて権勢者に賄賂を贈り、物言う者の口を塞いだ。突然韓弘と韓公武が卒し、孫が幼く政務を行うことができないから、は使者をその家に派遣し、すべて財貨を計上して没収し、出納に計上した。所以その財貨から朝臣全員に下賜があったから、牛僧孺のもとにも下賜されたが、一人その左に、「某月日、銭千万を贈られたが、納めなかった」を書き記した。帝はお褒めになり、左右の者に「私は人を知るのに誤りがなかった」と言った。これより遂に宰相となった。ついで中書侍郎となった。

  敬宗が即位すると、累進して奇章郡公に封ぜられた。この当時、政治はの側近寵愛の者から出ており、牛僧孺はしばしば上表して宰相の位を去ろうとしたから、帝は鄂州に武昌軍を設置し、武昌節度使・同平章事を授けた。鄂城の土が悪く、しばしば城壁をつくって毎年増築していたが、茅葺きを民に賦税とし、吏は法を盾にしたから騒動となった。牛僧孺は陶甓(レンガ)で城をとつくり、五年で完成し、鄂人は再度毎年の払いを費やす必要はなくなった。また沔州を廃止して冗官を省いた。

  文宗が即位すると、李宗閔が宰相となり、しばしば牛僧孺の賢人ぶりを称え、外官に出すべきではないとした。また兵部尚書平章事となった。幽州が乱れ、楊志誠李載義を追放した。帝は非常時であるから宰相を呼んで計略を尋ね、牛僧孺は、「これは朝廷が心配するほどのことではありません。そもそも范陽は安史の乱以後、国家が良し悪しに関わるようなところではなく、先日劉総が境を引っ提げて帰国しましたが、財力や国力を百万費やしましたが、ついに范陽は兄弟不仲のため豊穣の地を手に入れることができず、突然また朝廷の手から失われたのです。今、楊志誠がまた前のように李載義を戴き、節度使に委任して、奚・契丹を防ぎ、彼がまた存分に力を伸ばしたとしても、逆を以て秩序を安定させることができないのです。」と述べ、帝は、「私は最初深く考えていなかったが、公の発言こそそうなのだ」と言い、そこで使者を派遣して慰撫した。門下侍郎・弘文館大学士に昇進した。

  この時、吐蕃が和平を願い、軍縮を約束した。しかし大酋の悉怛謀が維州をあげて剣南に降伏し、ここに李徳裕は上言して、「韋皋は西山を経略し、死んでも恨みを晴らすことができませんでしたが、今生羌二千人を擁して十三橋を焼き、敵の虚をつけば、志を得ることができるでしょう」と述べた。は群臣に大いに議論させると、李徳裕の策の通りにするとの結論になった。牛僧孺は持論を述べて不可とし、「吐蕃の地は綿々と続くこと一万里にもおよび、ただ維州一州を失ったところで、強盛には全く害がありません。今修好の使者はまだ到っておらず、にわかにその言を翻すことになります。また中国は戎を防ぎ、信を守るのを上策としていますが、敵に応じてこれに次ぎます。彼がやって来て責めて「どうして信を失うのか」と言い、賛普は蔚茹川で牧馬し、もうし東に向かって隴山を襲撃すると、騎兵によって蹂躙されると、三日しないうちに咸陽橋に到達し、そうなれば京師は戦時下に入り、百もの維州を得たところで何の益なぞありましょうか」と述べた。帝はそうだと思い、遂に詔して投降者を吐蕃に返還した。当時の人は皆牛僧孺の偏狭さを怨み、同僚は協議して阻んで解任し、帝もまた信任しなかった。

  たまたま宦官の王守澄が気弱な人を引き立てて密かに朝政を議し、他日、延英殿に宰相を召見して「公らは太平への思いはあるのか。どのような方法によってこれを行うのか」と言ったから、牛僧孺は、「臣は宰相の席を汚してまいりましたが、民を救うことができませんでしたが、しかし太平もまた形跡がありません。今、四夷は国内に侵入することなく、百姓は生業を安んじ、民間には強盛の家はなく、上は秘匿せず、下は怨恨で誹謗せず、まだ盛時であるとはいえないにしても、また治世であるというのには足るのです。しかしさらに太平を求められるのでしたら、臣の及ぶところではありません」と返答し、退いて他の宰相に「お上は責めることはこのようであるから、私は長らくここにいるべきだろうか」と言い、強く免職を願い、そこで検校尚書左僕射平章事となり、淮南節度副大使となった。天子はすでに治世に性急であり、そのため李訓らは隙に乗じてその妄りに行うことができたが、そのことはしばらくして亡国に至る契機となった。

  開成年間(836-840)初頭、上表して政務が激務である藩鎮からの任を解かれ、検校司空の官職をもって東都留守となった。牛僧孺は洛陽の帰仁坊の中に邸宅を構え、多くに嘉石・美木を置き、賓客とともに楽しんだ。開成三年(838)、召還されて尚書左僕射となった。牛僧孺は入朝すると、たまたま荘恪太子李永が薨去しており、謁見すると、父子君臣、人倫のおおもとを述べ、これによっての思いを悟ったから、帝は涙を流した。足の病のため謁見するのに堪えないとして、検校司空・平章事となり、山南東道節度使となった。古代の祭酒器を賜わり、「精金な古器は君子を引き較べるというが、卿も多少は持っておくべきだ」との詔があったが、牛僧孺は固く辞退したから、その通りに行われた。

  会昌元年(841)、漢水が氾濫して城郭を毅、防備に手をつくさなかったことを問題とされ、太子少保に左遷されたが、後に少師に昇進した。翌年、太子太傅の官職を以て東都留守となった。劉稹が誅殺されると、石雄軍の吏は劉従諌と牛僧孺・李宗閔の間の交友を示す書簡を得た。また河南少尹の呂述は「牛僧孺は劉稹が誅殺されたことを聞いて、恨み歎いていました」と言い、武宗は怒り、退けて太子少保とし、東都の分司とし、さらに循州長史に貶した。宣宗が即位すると、衡州・汝州の二州の刺史とし、召還されて太子少師となった。卒すると太尉を贈られた。年六十九歳。文簡と諡された。子達のうち牛蔚牛叢が最も名があらわれた。


  牛蔚は、字は大章で、若くして両経に応じ、また進士に及第し、監察御史より右補闕となった。大中年間(847-860)初頭、しばしば箇条書きで政治について述べ、宣宗は喜んで「牛氏は父のような子があり、人の心を慰めさせてくれる」と言った。金州刺史に出され、累進して吏部郎中に遷った。皇帝の寵愛を失って、国子博士に貶され、東都の分司となった。再び吏部に召還され、史館修撰を兼任した。

  咸通年間(860-872)、昇進して戸部侍郎となり、奇章侯を襲封した。罪によって免職となり、一年もたたないうちに官に復した。しばらくして検校兵部尚書・山南西道節度使となった。梁の地を治めること三年、徐州で叛乱が発生し、神策軍の両中尉が諸藩鎮に財政・援軍の助力をほのめかし、牛蔚は府帛三万を集めて献上したが、宦官はその吝嗇ぶりを嫌って呉行魯を登用して牛蔚と代らせた。黄巣が京師に侵入すると、山南に逃れ、そのため吏民は牛蔚が来たのを喜び、争って迎えた。古老の願いによって、尚書右僕射の官を以て致仕し、卒した。子に牛徽がいる。


  牛徽は貢挙を受けて進士となり、累進して吏部員外郎となった。乾符年間(874-879)官吏の選抜が頻繁となり、吏は多くが奸悪で、毎年四千人が新たに任命されていたが、牛徽は職務に厳正明確を以てし、特別な計らいを止めさせたから、法令はまた復活した。

  牛蔚が梁の地に避難する途中に病となり、牛徽と子とともに駕籠を担ぎ、桟道に到着すると、盗賊がいてその首を撃たれ、血が顔に流れたが、駕籠を持ったままで休まなかった。盗賊が追ってくると、牛徽は拝礼して「人には全員父がいます。今親が老いて病となっています。驚かさないようにしていただきたいのです」と言うと、盗賊は感じ入って止めた。谷を前にするとまた盗賊に遭遇したが、すぐに語らい合って、「こいつは孝子だぞ」と言い、一緒に駕籠をかかげて家にいたり、そこで絹で傷口を包み、粥を牛蔚に飲ませ、留まった後に去った。梁につくと、牛徽は蜀に走り行在に到ったが、帰って親の看病に付きそうことを願った。諌議大夫を拝命したが固辞し、宰相の杜譲能に面会して、「上はの遷幸に付き従うべきですが、親が病気のため付き従わなければなりません。しかし私の兄が朝廷におりますので、私自身は戻って看病させてください」と言った。当時、兄の牛循がすでに官位は給事中であったから、許された。父を喪うと、梁・漢の地の間で居候となった。喪が明けると中書舎人として召還されたが病のため辞退し、給事中に改任されて陳倉に留まった。

  張濬が太原(李克用)を討伐すると、引き立てられて判官となったが、行在に赴くよう勅があった。牛徽は太いに嘆息して、「王室が復活しようとしている時に、倉庫は使い尽くしており、諸侯が心を合わせて藩屏とならなければいけないのに、武力によって解決しようとすれば、諸侯は離心し、必ず後の憂いとなろう」と言って、赴くことをよしとしなかった。張濬ははたして敗北した。また召還されて給事中となった。

  楊復恭が山南で叛き、李茂貞が招討節度使に任命されてこれを討伐することを願い、その回答が到着する前に王行瑜と共にただちに出兵した。昭宗は怒り、奏上を知りながら詔を下さなかった。李茂貞はしばしば要請したから、は群臣を召集して議したが、誰も敢えて言う者がいなかった。牛徽は「王室は多難ですが、李茂貞は本当に功績があります。今、楊復恭が兵を阻んでいるのを討伐していますが、罪は命令を待たなかったことだけなのです。臣はこのように聞いています。両鎮兵が多く殺傷しあい、速やかに止めるものがおらう、そこで梁・漢の人が死に絶えてしまいます。討伐の節を任じられることを願っており、約束を明らかにすれば、軍は畏れるところがあるでしょう」と述べ、帝は「そうだな」と言った。そこで招討使を李茂貞に授けると、果して功績があったが、ますます驕り高ぶり、帝は宰相の杜譲能に兵を率いて誅伐させようとした。牛徽は諌めて「李茂貞の岐は国の西門です。李茂貞がその軍によって暴虐ですが、もし万が一失敗してしまい、国威は衰えてしまってはどうなるのでしょうか。願わくば徐々に抑えてくださいますように」と述べたが聴されなかった。軍が出兵すると、帝はまた牛徽を召還し、「今李茂貞を討伐すれば、彼は烏合の衆で、必ず万全を取れるだろう。卿は何日で勝てると思うか」と尋ねられたが、「臣の職は諫めることですが、言われたことは軍国の大体で、賊を平らげる時期を探すようなものです。願わくば陛下、占いで考察したり、将帥を責めたりするのは、臣の職ではないのです」と答え、果たして軍はすでに敗北しており、大臣は殺され、王室は益々弱体化した。

  にわかに中書舎人の職によって刑部侍郎となり、奇章男を襲封した。崔胤は牛徽の実直さを嫌い、左散常侍とし、太子賓客に遷した。刑部尚書で致仕し、樊川に帰った。卒すると吏部尚書を贈られた。


  牛叢は、字は表齢で、進士に及第し、藩鎮の幕府の下僚に任命され、しばしば奏上を行った。たまたま宰相が諌員の増員を願うと、宣宗は、「諌臣というのは職をあげて行うことをよしとするのだろう。どうして多くの者を用いようか。今、張符・趙璘・牛叢が朕にまだ聞いたことがないことを聞かせてくれる。この三人で充分だ」と言ったが、司勲員外郎をもって睦州刺史に任じられ、はねぎらって「卿は宰相を怨まないのか」と聞いた。「陛下が詔され、刺史県令によらず、近臣に任じないのは、宰相がこれによって臣を選んだからですから、嫌うことはありません」と答えた。そこで金紫を賜ったが、謝して「臣は今刺史の衣は緋とするところですが、紫を賜っていますと、等級を超えてしまいます」と述べたから、そこで銀緋を賜った。

  咸通年間(860-872)末、剣南西川節度使を拝命した。当時、蛮(南詔)は辺境を犯し、大渡河を渡って、黎州・雅州・叩州・邛崍関を侵略し、軽々しく書簡で入朝を求め、また道を仮りると述べていた。牛叢はその四十人を捕らえ、二人を釈放して帰したから、蛮は恐れ、ただちに引き返した。

  僖宗が蜀に行幸すると、太常卿を授けられた。病のため巴州刺史となることを求めたが許されなかった。京師に帰還すると吏部尚書となった。嗣襄王李熅が叛乱すると、牛叢は太原で客死した。


  李宗閔は、字は損之で、鄭王李元懿四世の孫である。進士に及第し、華州参軍事に任じられた。賢良方正に挙げられ、牛僧孺とともに時政を手厳しく非難し、宰相のことに触れ、李吉甫はこれを憎んで、洛陽の尉に任じられた。しばらく流落して不偶をかこったが、去って藩鎮に辟署されて下僚となった。京師に入って監察御史・礼部員外郎を授けられた。裴度が蔡を討伐すると、引き立てられて彰義軍観察判官となった。蔡が平定されると、駕部郎中、知制誥に遷った。穆宗が即位すると、中書舎人に昇進した。当時李䎖が華州刺史であり、父子が同時に拝命していたから、世間はこれを恩寵であるとした。

  長慶年間(821-825)初頭、銭徽が典貢挙となると、李宗閔は親族を銭徽に託したが、李徳裕李紳元稹が翰林にあって、に寵遇されており、共に銭徽が内々のはからいを入れ、士を及第させたが内実が見合うものではなかったと申し上げたから、李宗閔はこのことに連坐して剣州刺史に左遷させられた。これより対立が表面化し、党派を立てて互いに軋轢しあうことおよそ四十年、貴顕の禍は解消できなかった。

  にわかに中書舎人に任じられ、典貢挙となり、及第させた者には有名な士が多く、唐沖・薛庠・袁都らのようなものは、世間で「玉筍」と称された。宝暦年間(825-827)初頭、累進して兵部侍郎となったが、父の喪によって解官した。大和年間(827-835)、吏部侍郎同中書門下平章事(宰相)となった。当時、李徳裕が浙西より召還され、宰相となろうとしており、李宗閔には助力する者が多く、先に昇進することができ、そこで牛僧孺を引き立てて同じく宰相とし、自身と異にする者は去らせ、李徳裕と親しい者は全員追放した。中書侍郎に遷った。

  しばらくして李徳裕が宰相となり、李宗閔とともに国政にあたった。李徳裕が挨拶に向かうと、文宗が「ところで朝廷に朋党があることを知っているか」と尋ね、李徳裕は、「今朝廷の半分は党人となっており、後から来る者がいたとしても、利にはしって靡き、往々として陥ってしまいます。陛下はよく中立無私の者を用いられれば、党は破られるでしょう」と答えた。は「衆は楊虞卿張元夫蕭澣を党の巨魁としている」と言い、李徳裕はそこで彼らをすべて京師から出して刺史とするよう願い、帝はそうだと思った。そこで楊虞卿を常州刺史、張元夫を汝州刺史、蕭澣を鄭州刺史とした。李宗閔は、「楊虞卿の位は給事中で、州は張元夫の下にあることを受け入れません。李徳裕は長いこと外任にいて、党人について知っていることは、臣のように詳しいわけではありません。楊虞卿は日々賓客と邸宅で会見しており、世間は「行中書」と呼んでいます。だから臣はいまだかつて美官を与えたことはありません」と言ったが、李徳裕が「給事中は美官ではないというのなら、何なのだ」と質問したから、李宗閔は阻まれて答えることができなかった。突然、同平章事の職のまま山南西道節度使となった。

  李訓鄭注が用いられるようになり、李徳裕が病となると、共に李徳裕を排撃した。そこで李徳裕は罷免され、再び李宗閔が召還されて知政事となり、襄武県侯に進封され、自分の望むように頼み任せた。たまたま楊虞卿が京兆尹の職にありながら罪を得て、全力で助けようと弁解したが、は激怒して「お前はかつて鄭覃に妖気があると言っていたが、今自分が妖となったのではないか」と言い、そこで外任に出して明州刺史とし、さらに処州長史に貶めた。李訓・鄭注はそこで弾劾して「李宗閔は他日に駙馬都尉の沈𥫃・女学士の宋若憲、宦官の韋元素王践言らと結託して宰相となるよう求め、かつこの頃お上が病であると言って、密かに術家の呂華に尋ねて、考命暦を意に入れさせ、「悪しきことがおきるのは十二月」と出させました。しかも王践言は剣南の監軍となり、李徳裕の賄賂を受けさせて、また李宗閔の家とともに私にしました」と言い、そこで李宗閔を潮州司戸參軍事に貶め、沈𥫃を柳州に追い、韋元素らをすべて嶺南に配流し、親しい者や信任した者はすべて排斥した。当時、李訓と鄭注は天下に専権しようとし、だいたい己につかない者は、すべて二人の党であると名指しし、追放した。人々は恐れおののき、毎月の先行きは不透明であった。帝はそこで李宗閔・李徳裕の婚家・門家生と部下に詔し、今より一切不問とし、内外に対して慰撫した。帝はかつて嘆息して「河北の賊を鎮めるのは難しくないが、朝廷内の朋党を収めるのは難しい」と言った。

  開成年間(836-840)初頭、幽州刺史の元忠・河陽の李載義が重ねて上表したから、そこで移されて衢州司馬となった。楊嗣復が宰相となると、李宗閔と親しかったから、再度任用したいと思ったが、鄭覃を恐れ、そこで宦官に託してに仄めかした。帝はそこで紫宸殿で鄭覃に向かって「朕は李宗閔をしばらく排斥していたが、一官を授けたいと思う」と言ったが、鄭覃は「陛下は移してしばし近づけるのがよいとのことですが、もし再び用いられるのでしたら、臣はその前に辞めさせていただきたい」と答え、陳夷行は、「李宗閔の罪は、死罪ではないということが彼にとって幸いなのです。宝暦年間(825-827)、李続張又新らを「八関十六子」と号し、その輩は邪悪で偽りが多く、朝廷は危ないところでした」と言った。李珏は、「これは李逢吉の罪です。今李続は喪があけましたので、官に任用しなければなりません」と述べたが、陳夷行は「そうではありません。舜は四凶を追放して天下を治めましたが、朝廷はどうして数人の権力に媚びる人間を惜しんで、綱紀を乱そうするのでしょうか」といい、楊嗣復は「事は適宜しなければならず、憎愛によって奪ってはなりません」と言った。帝は「州刺史ならどうか」と言うと、鄭覃は洪州別駕を授けるよう願った。陳夷行は、「李宗閔ははじめ鄭注を庇っていました。その禍いを重ねていけば、ほとんど国を覆すことになるのです」と言った。楊嗣復は「陛下は鄭注に官位を与えようと思われても、李宗閔は詔を奉っておらず、なおこれを記すべきです」鄭覃は質して「楊嗣復は李宗閔の与党の者です。彼の悪は李林甫に似ています」と言うと、楊嗣復は「鄭覃は言い過ぎです。李林甫は賢人を妬み、功績を嫌い、族滅する者は十族あまりに及んでいますが、李宗閔にはもとよりそのようなことはありません。当初、李宗閔と李徳裕はともに罪を得ました。李徳裕は再び藩鎮に移りましたが、李宗閔はそのまま貶地にあります。懲罰と勧奨は同一にすべきで、与党だからというのはよくないことです」と答えたから、鄭覃は折れて「この頃殷侑韓益のために官を求めましたが、臣は彼が昔収賄に連座したことから許しませんでした。この鄭覃は、臣に託されても論じることはありません。これをどうして党としましょうか」と答えた。ついに李宗閔を杭州刺史とした。太子賓客に移り、東都に分司となった。

  鄭覃陳夷行が宰相の位を去ると、楊嗣復は謀って李宗閔を引き上げて宰相に復職させたが、まだ実施する前に文宗が崩じてしまった。会昌年間(841-846)、劉稹が沢潞で叛き、李徳裕が李宗閔が昔から劉従諌と親しく、今上党が東都と近いことを建言し、そこで李宗閔を湖州刺史に任いた。劉稹が敗れると、二人が交した書簡を入手されたため、、漳州長史に貶され、封州に流謫された。宣宗が即位すると柳州司馬に移され、卒した。

  李宗閔の性格は聡明機敏で、はじめて世間に令名があらわれ、次第に高貴となっていくと、権勢を喜んだ。最初裴度によって引き抜かれ、後に裴度は李徳裕を宰相となるべき人物であると推薦すると、李宗閔はついに双方怨みとした。韓愈がそのために「南山」・「猛虎行」をつくって戒めた。しかし李宗閔は私党を崇め、気勢は内外を凌ぎ、ついにここに失脚した。

  子の李琨・李瓚は、皆進士に及第した。令狐綯が宰相となると、李瓚を知制誥とし翰林学士とした。令狐綯が罷免されると、また桂管観察使となった。軍を制御できず、そのため将兵に追放され、貶されて死んだ。

  李宗閔の弟に李宗冉がおり、その子李湯の官は京兆尹となったが、黄巣が長安を陥落させると殺された。


  楊嗣復は、字は継之である。父は楊於陵で、始めて浙西観察使の韓滉と知り合うと、その娘を妻に見合わされた。帰って妻に「私は人を見ることが多かったが、後に富貴となりかつ長生きするのにあなたのような人はいなかった。子ができれば必ず位は宰相になるだろう」と言った。楊嗣復が生まれると、韓滉はその頭を撫でて「名と位はすべてその父を超えて、楊氏の慶びとなろう」と言った。字によって慶門といった。八歳で文をよくし、後に進士・博学宏辞科に及第し、裴度柳公綽とともに皆武元衡の知るところなり、上表して剣南の幕府の下僚に任じられた。右拾遺、直史館に昇進した。最も礼家の学をよくし、太常博士に改められ、再び礼部員外郎に遷った。当時父の楊於陵は戸部侍郎となっており、楊嗣復は同省を避け、他官に替えようとしたが、「同司は、親は大功以上、連判・句検の官長でなければ、皆避けてはならない。官は同じても職は違うのだから、父子兄弟だからといっても嫌がってはならない」と詔があった。中書舎人に累進した。

  楊嗣復牛僧孺李宗閔は常に親しく、二人が宰相となると引き立てられたが、しかし父の官職を越えてまで国政に当たりたいと思わなかったから、権知礼部侍郎となった。約二年で士六十八人を得て、多くが顕官となった。文宗が即位すると、戸部侍郎に進んだ。父の楊於陵が老いたから、近くに侍ることを願ったが許されなかった。喪があけると、尚書左丞に抜擢された。大和年間(827-835)、李宗閔が罷免され、楊嗣復も京師を出されて剣南東川節度使となった。李宗閔が宰相に復帰すると、西川節度使に遷った。

  開成(836-840)初頭、戸部侍郎として京師に召還され、諸道塩鉄転運使となった。突如李珏と同時に同中書門下平章事(宰相)を拝命し、弘農県伯に封ぜられ、そこでも塩鉄を管轄した。後に紫宸殿で奏事し、楊嗣復はのために「陸洿は民間に引きこもって、上書して兵を論じています。官とすべきです」と述べ、李珏も趣旨に同意して「士の多くが競い合って走っていますが、陸洿を推奨すれば、貪欲な男も清廉になるでしょう。この頃竇洵直が論事によって賞され、天下の迷いがとれてすっきりしました。ましてや陸洿が官となるのでしたらどうでしょうか」と述べた。帝は「朕が竇洵直を賞したのは、その心を褒めただけだ」と述べた。鄭覃は「彼が包み隠しているかどうかはもとより簡単にはわからない」と不平を述べると、楊嗣復は「竇洵直に邪がないことは、臣は知っています」と言うと、鄭覃は「陛下は朋党を察するべきです」と言い、楊嗣復は「鄭覃は臣の党と疑っていますが、そうなら臣は辞めるべきです」といい、そこで再拝して罷免を願い出た。李珏は言い終わったのを見て、偽って「朋党は次第に減っていくと思います」と言うと、鄭覃は「付いては離れて、また生じるものだ」と言い、帝は「ここにいわゆる同党の人というのはまだ尽きていないのか」と尋ねると、鄭覃は「楊漢公張又新李続がいるからです」と答えた。李珏はそこで辺境についての事を述べ、その語を絶とうとした。鄭覃は、「辺境の事の安否を論ずるのは、臣は李珏のようにはいきませんが、朋党の妬みについては、李珏は臣のようにはいきません」と言い、楊嗣復は「臣はこう聞いています。左右に佩剣すれば、誰も彼も互いに笑います。まだ鄭覃は果たして誰が朋党であると知らないのでしょうか」と言い、そこで香炉卓にあたって頓首して、「臣は宰相の位にあり、賢人を進めて不肖を退けることができません。朋党のために誹謗され、そのため朝廷が重んじられることがないのです」と述べ、固く罷免を願い出たが、帝は政務を委ねているから、これを慰撫した。

  他日、は「符讖は信じるべきか。どうして従うのだろうか」と尋ねると、楊嗣復は「漢の光武帝は讖によって事を決し、隋の文帝もまた讖を好みました。ですから讖の書が天下に蔓延しているのです。班彪は「王命論」で引用してはいますが、特に賊乱の部分だけであって、これを重んじているわけではありません」と答えた。李珏は「治乱のことは直に人事を推すだけです」と言うと、帝は「そうだな」と言った。また、「天后(武后)の時に布衣の者を起用して宰相としたが、果して用いるべきか」と尋ねた。楊嗣復は「天后は刑罰を用いるのに重く、官を用いるのに軽く、自らこの計をしただけでした。必ず良し悪しを責め、試験をへた者を待って用いればよいでしょう」と答えた。

  この時、延英殿の諮問に回答していたが、史官は知ることができなかった。楊嗣復はまた建言して、「故事では、帝の正衙での出来事は起居注が記録しますが、別室におわします時には記録することはありません。姚璹趙憬は皆、時政記を設置することを願い出ましたが、行なわれませんでした。臣、願うところは延英殿で宰相に対して語ったり、道徳・刑政に関わったりするものは、中書門下に委ねて当日記録させ、毎月史官に送付していただきたく思います」と述べたが、他の宰相が議して意見が同じではなかったため、沙汰止みとなった。しばらくして帝がまた「延英殿の政事は、誰が記録すべきか」と尋ねた。李珏は監修国史であったから、「臣の職です」と答えた。陳夷行は「宰相が記録すると、聖徳を覆い隠して、自ら美名を盗むのではないかと恐れています。臣が以前に権威・権力が下にあるのを望まないと申したのはこのことなのです」と言うと、李珏は「陳夷行は宰相が権威・権力を売り、刑罰・褒賞で金品を得るのではと疑っているが、そうでないのなら、どうして自ら宰相の位にあってこのような発言をするのでしょうか。臣はこのような者を罷免できれば幸いと存じます」と言った。鄭覃は「陛下は開成の初めの政治は非常によく、三年して後は、日々以前には及びません」と言うと、楊嗣復は、「開成の初めは、鄭覃・陳夷行が国政にあたっており、三年の後に、臣と李珏が同じく宰相に進みました。臣は心を尽くして奉職することができず、政治は日々以前に及ばないのは、臣の罪です。たとえ陛下が誅殺するのに忍びなくとも、まさに自ら死に失せなければなりません」と言い、そこで叩頭してこの言葉通りにすることを願い出て、敢えてさらに中書省に戻らず、走って出ていった。帝は使者に呼び戻させて、「鄭覃の発言は失言だった。どうしてこのようなことをしたのか」と言うと、鄭覃は起き上がって「臣は愚かにも忌諱のことを知りませんでした。近事はよしとはいえ、なおいまだ公につくしていません。臣は専ら楊嗣復を退けて、にわかに去ることを求めたわけではありません。臣の発言を用いないだけです」と謝した。楊嗣復は「陛下は月に俸稟数十万を費し、時折新たに優れた者に賜わり、必ず先に賜い物を与えられます。それを臣は聖功を助けて安定昌盛を求めることを責めようとしているのです。初めからのことでしたら、どうして臣は死罪にあたることがありましょうか。陛下の徳を重ねているのはどうでしょうか。思いますに陛下、別に賢人を求めて自らの助けとしてください」と言った。帝は「鄭覃はたまたまこのようなことをしたが、どうして咎めるようか」と言ったが、楊嗣復は門を閉ざして出てこようとしなかった。帝はそこで鄭覃・陳夷行の宰相職を罷免して、楊嗣復は天下の事を専らにした。

  門下侍郎に昇進した。「使府の官属が多いので、減員すべきです」と建言すると、は「かえって才能ある者が滞ってしまわないか」と聞いたから、「才能ある者は自ら優れており、滓や澱のような者は淘汰し、優れた者が出てくるのです」と答えた。帝は「昔蕭復が宰相であった時、言いにくいことは必ず言ったが、卿はこれを志とせよ」と言った。

  しばらくもしないうちには崩じ、中尉の仇士良が遺詔を廃し、武宗が即位した。が即位することは宰相の意ではなかったから、心内で執政の臣を軽んじて、礼を加えず、自ら李徳裕を用いて楊嗣復を罷免して吏部尚書とし、京師から出して湖南観察使とした。薛季稜劉弘逸が誅殺されると、宦官は世間話からかつて楊嗣復・李珏は陛下に不利なことをしていたと述べた。帝は気性が激しいから、そこで宦官に手分けして楊嗣復らを誅殺するよう詔したが、李徳裕と崔鄲崔珙らが延英殿に詣でて「故事では、大臣に悪行明白でなければ誅殺された者はおりません。昔太宗玄宗徳宗の三帝は、皆かつて重刑を用いましたが、後で悔いなかったことはありませんでした。願わくばおもむろにそのよろしいところを思われ、天下をして盛徳が容れられるところがあることを知らしめ、人に冤罪であると思わせないことです」と建言した。帝は「朕が帝位を継いだ時、宰相はどうしてかつて同列にできようか。かつて李珏ならはそれぞれ付会するところがあって、李珏と薛季稜は陳王にであったが、これは先帝の意があったからまだわかる。楊嗣復・劉弘逸のような者は安王に属していたが、これは楊賢妃の謀のためであった。かつ書を偽って、「姑はどうして天后(武則天)に学ばないのか」と言っていたのだぞ」と言った。李徳裕は「流言飛語の類で、何とも言い難いです」と言うと、帝は「妃は昔病気であって、先帝はその弟が入侍することを許していて、その謀を通すことができたのだ。禁中の証拠は最も備わっているが、私は外部に暴きたいとは思っていない。安王が即位していれば、私がいることをよしとしていただろうか」と述べ、言い終わると悲しんだ。そして「卿のために赦すのだぞ」と言い、そこで使者を追って戻し、楊嗣復を潮州刺史に貶した。

  宣宗が即位すると、起用され江州刺史となった。吏部尚書として召還されたが、道の途中、岳州で卒した。年六十六歳、尚書左僕射を贈られ、孝穆と諡された。

  楊嗣復が貢挙を領掌していた時、父の楊於陵が洛陽から入朝し、そこで門下生を率いて出迎え、酒を邸宅中に置き、楊於陵を堂の上座に座らせ、楊嗣復と諸生は両側に序列順に座った。始め楊於陵に考功ありとしたのは、浙東観察使の李師稷を抜擢して及第し、当時また考功ありとした。人々は楊氏上下の門生をさして、世間ではよしとした。楊嗣復に五子があり、その名があらわれた者は、楊授楊損である。


  楊授は、字は得符で、兄弟間で最も賢かった。進士に及第して戸部侍郎となり、母の病のため秘書監の職を求めた。後に刑部尚書となって昭宗の華州行幸に従い、太子少保に遷った。卒すると、尚書左僕射を贈られた。


  子の楊煚は、字は公隠で、左拾遺に任じられた。昭宗が即位した当初、しばしば遊宴があったが、上疏して大いに諌めた。戸部員外郎に任じられた。崔胤朱全忠を招いて京師に入らせると、楊煚は一族を率いて湖南に逃れた。諌議大夫で終わった。


  楊損は、字は子黙で、父の蔭位によって藍田県の尉に任命され、殿中侍御史となった。家は新昌里の中にあり、路巌の邸宅と接していた。路巌は宰相となり、その厩をかえて、邸宅を広げようとしていた。楊損の一族に仕える者十人あまりが議して「家世の盛衰は、権力者の喜怒に懸かっている。拒むことはできない」と言ったが、楊損は「今、尺寸の土といってもすべて先人がもとから贖ったものであり、我らの所有ではない。どうして権臣に奉るべきであろうか。困窮も栄達も天命なのだ」と言い、ついに路巌に与えなかった。路巌は喜ばず、楊損を罪にさばいて黔中に流謫し、一年して帰還した。三度絳州刺史に遷った。路巌が罷免されて去ると、召還されて給事となり、京兆尹に遷った。宰相の盧攜と常に隔たりなく、また給事中に任命された。陝虢が軍乱となり、観察使の崔蕘が追放されると、楊損に命じてこれに代えさせたが、現地につくと有罪の者を全員誅殺した。平盧軍節度使となり、天平軍節度使となったが、赴任以前に再度留任となり、在官中に卒した。

  賛にいわく、口に先王の語を語るのは、行ないは市井の人のようで、それを「盗儒」というのである。牛僧孺李宗閔は正しい諌言を進めたが、宰相となって国政にあたると、かえって私の昵懇とする与党をふるって、憎む者を排撃し、この当時権力は天下を震わせ、人に「牛李」と指さされたのは、盗と言わずして何だというのだろうか。李逢吉は嫉妬深く冷酷で、陰険かつせっかちで、元稹は軽薄で、楊嗣復は弁がたったが、もとより言うに足らない者である。幸運にも君主は惰弱凡庸で、殺されなかったのは、治世の罪人であろう。

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最終更新:2025年08月03日 00:56
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