韋皋

韋皋 いこう

745-805
唐の節度使。京兆・万年(陝西省西安)の人。字は城武。諡は忠武。建陵挽郎から殿中侍御使権知隴州行営留後事に昇進、783(建中4)年涇原の兵が乱を起こすと、これに乗じて長安に入った朱泚が彼を用いようとしたが、韋皋はその使を斬って従わず、奉義軍節度使を授けられた。785(貞元元)年剣南、西川節度使となり、死ぬまで21年間蜀地(四川省)に住み、吐蕃を破って西南辺の安定に力を注ぎ、この間、検校司徒兼中書令に昇進し、南康郡王に封ぜられたが、月進と呼ばれた毎月の進奉(羨余)を行なって自己の栄達をはかり、蜀の人びとをおどした。

参考文献

『アジア歴史事典1』(平凡社,1959年)

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最終更新:2025年01月21日 00:18
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