馬殷 ばいん
852-930
中国、五代十国の楚の建国者(在位896-930)。許州・鄢陵(河南省鄢陵県)の人。諡は武穆。木工より身をおこし、唐末の流賊
秦宗権の部将
孫儒の将校となり、孫儒の死後、
劉建峰にしたがい、淮南各地を転戦して湖南に入り, 894年劉建峰が湖南 節度使に任ぜられると、馬殷も馬歩軍都指揮使となった。しかるに、劉建峰が部下に殺されたのち、衆に推されて湖南留後となり、潭・衡等7州を領有した。907年唐を滅ぼし、後梁がおこると遣使として入貢し、太祖より侍中兼中書令楚王に封ぜられた。ほぼそのころまでに湖南全域を平定、さらに広西の昭・賀等6州をあわせて20余州を領有し、潭州にあってこれを治めた。910年天策上将軍に任ぜられて天策府を開いた。馬殷は、対内的には、よく部下を用い民心を安定させ、産業を奨励して富国強兵の実をあげた。とりわけ、商業政策においては、中原への茶の輸出や仲介貿易を行ない、領内への商人の往来を保護して商業の繁栄をはかるなど非常な努力をはらい、楚国の富強をもたらした。また対外的には、中原王朝に対しては終始称藩修貢の態度を堅持した。後梁に代わり後唐がたつと、その子馬希を使いとして修貢し、927年楚王に封ぜられた。以後、制度・文物すべて中原王朝にならった。
参考文献
『アジア歴史事典7』(平凡社,1960年)
最終更新:2024年05月20日 20:09