李康 りこう
?-806
中唐の武将。剣南東川節度使。元和元年(806)長武城使、左神策行営節度使の
高崇文の指揮下、左右神策京西行営兵馬使の
李元奕・山南西道節度使の
厳礪とともに
劉闢を討伐を命じられた。高崇文の軍は斜谷路を経由し、李元奕の軍は駱谷路を経由して梓潼にて合流し、厳礪・李康の軍とともに劉闢を挟み撃ちした。しかし劉闢に梓州を陥落され、李康は捕らえられたが、釈放された。李康は恥を雪ぐことを願ったが、高崇文は防衛失敗の罪を列挙して、斬刑とした。
本紀・列伝・史料
『新唐書』
巻七 本紀第七 憲宗 元和元年正月癸未条
『新唐書』
巻一百七十 列伝第九十五 高崇文
『旧唐書』巻十四 紀第十四 憲宗上 元和元年正月戊子条
『旧唐書』巻一百四十 列伝第九十 劉闢
最終更新:2025年01月14日 23:16