巻七 本紀第七

唐書巻七

本紀第七

徳宗 順宗 憲宗


  徳宗神武聖文皇帝は、諱を适といい、代宗の長子である。母は睿真皇太后沈氏といった。かつて、沈氏は開元年間(713-741)末年に選ばれて代宗の宮に入った。安禄山の乱が起こって、玄宗が蜀に避難すると、諸王妃妾で従わなかった者は、皆賊のために捕らえられ、東都(洛陽)の掖廷に拘束された。代宗が東都を落とすと、沈氏を確保して宮中に留めた。史思明が再び東都を陥落させると、ついに行方不明となった。

  粛宗元年(762)建丑月、徳宗を封じて奉節郡王とした。代宗が即位すると、史朝義が東都に拠り、徳宗を天下兵馬元帥として、魯王に進封した。八月、雍王に移封した。

  宝応元年(762)十月、陝州に駐屯して、諸将と進撃して史朝義を攻撃し、これを破り、史朝義が河北に逃れると、そのまま東都を落とした。十一月、史朝義が幽州で死に、守将の李懐仙がその首を斬って来献すると、河北は平定された。功によって尚書令を兼ね、功臣の郭子儀李光弼らとともにみな鉄券を賜り、肖像画を凌雲閣に描いた。広徳二年(764)二月、立って皇太子となった。

  大暦十四年(779)五月辛酉、代宗が崩じた。癸亥、太極殿で皇帝の位についた。
  閏月甲戌、常袞を左遷して河南少尹とし、河南少尹の崔祐甫を門下侍郎・同中書門下平章事とした。丙子、諸州府および新羅・渤海が鷹鷂を貢納するのを罷めさせた。戊寅、山南が枇杷を、江南が甘橘を宗廟に供するものではないのを貢納するのを罷めさせた。辛巳、邕府が奴婢を歳貢するのを罷めさせた。癸未、梨園が楽工三百人・剣南の貢生が春酒を貢納するのを罷めさせた。甲申、郭子儀が尚父となり、太尉・中書令を兼ねた。丙戌、祥瑞を貢納するのを罷めさせ、貢器を金銀で飾って貢納した物を返還した。丁亥、宮人を出し、舞象三十二を荊山の麓に放った。
  六月己亥、大赦した。文武の官に階・爵を、民のうちで戸となって古いものに爵一級を賜った。乗輿の服御を減らした。士庶の田宅・車服で制を侵した者は、役人に法度を立件させた。百官が邸宅で粥を売ることを禁止した。武徳・至徳年間の将相として功績があった者の子孫が官にあずかった。庚子、子の宣城郡王李誦を進封して宣王とし、子の李謨を封じて舒王とし、李諶を通王とし、李諒を虔王とし、李詳を粛王とし、李謙を資王とした。乙巳、弟の李迺を封じて益王とし、李迅を隋王とし、李遂を蜀王とした。丙午、六品以上の清望官に詔して、一日に二人を待制とした。癸丑、皇族の五等以上で地方にいる者は、家の一人を山陵に赴かせた。己未、揚州が鏡を、幽州が麝(ジャコウジカ)を貢納するのを罷めさせた。癸亥、刺史・京令となるべき者を推薦させた。
  七月戊辰朔、日食があった。庚午、邕州での金採掘の禁を緩めた。辛卯、酒の専売を罷免された。
  八月甲辰、道州司馬の楊炎が門下侍郎となり、懐州刺史の喬琳が御史大夫・同中書門下平章事となった。乙巳、吐蕃の俘虜を返還した。
  十月丁酉、吐蕃と雲南蛮が黎州・茂州・文州・扶州の四州を寇し、鳳翔節度使の朱泚と金吾衛大将軍の曲環が七盤城でこれを破った。己酉、睿文孝武皇帝を元陵に葬った。戊午、九成宮に獣形の炭、襄州の蔗蒻工を貢納するのを廃止した。辛酉、沙苑の家畜の豚三千を貧民に給付した。
  十一月壬午、喬琳が罷免された。
  十二月乙卯、宣王李誦を立てて皇太子とした。丙寅晦、日食があった。

  建中元年(780)正月丁卯、改元した。群臣が尊号をたてまつって聖神文武皇帝といった。己巳、太清宮に朝献した。庚午、太廟に朝享した。辛未、南郊を有事摂事にて祀り、大赦した。文武の官に階・勲・爵を賜り、黜陟使を天下に派遣し、子で父の後嗣となる者に勲両転を賜った。
  二月丙申、初めて両税を定めた。
  四月乙未、四鎮・北庭行軍別駕の劉文喜が涇州でそむき、処刑された。己亥、地震があった。
  六月甲午、崔祐甫が薨去した。
  七月丙寅、王国良が降った。己丑、忠州刺史の劉晏を殺した。
  八月丁巳、遠くにおられる母沈氏を尊んで皇太后とした。
  九月己卯、雷があった。庚寅、睦王李述が奉迎皇太后使となった。
  この冬、雪がなかった。黄河・滹沱・易水が氾濫した。

  建中二年(781)正月戊辰、成徳軍節度使の李宝臣が亡くなり、その子の李惟岳が留後を自称すると、幽州盧龍軍節度使の朱滔がこれを討った。魏博節度使の田悦がそむくと、神策都虞候の李晟・河東節度使の馬燧・昭義軍節度使の李抱真・河陽節度副使の李芃がこれを討った。永平軍節度使の李勉が汴・滑・陳・懐・鄭・汝・陝・河陽三城・宋・亳・潁節度都統となった。
  二月乙巳、御史大夫の盧𣏌が門下侍郎・同中書門下平章事となった。乙卯、振武軍で乱がおこり、その使の彭令芳および監軍の劉恵光を殺した。丁巳、兵を発して関東に駐屯し、軍に望春楼で誓約した。山南東道節度使の梁崇義がそむいた。
  五月、京師雨と雹があった。庚申、待詔官三十人を設置した。
  六月、熒惑(火星)と太白(金星)が東井でかち合った。癸巳、淮寧軍節度使の李希烈が漢南・漢北兵馬招討使となり、梁崇義を討った。辛丑、郭子儀が薨去した。
  七月庚申、楊炎が罷免された。検校尚書右僕射の侯希逸が司空となり、前永平軍節度使の張鎰が中書侍郎・同中書門下平章事となった。侯希逸が薨去した。癸未、馬燧李抱真田悦と臨洺で戦い、これを破った。
  八月、剣南西川節度使の張延賞・東川節度使の王叔邕・山南東道節度使の賈耽・荊南節度使の李昌巙陳少游梁崇義を討ち、李希烈を諸軍都統とした。辛卯、平盧軍節度使の李正己が亡くなり、その子の李納が留後を自称した。壬子、梁崇義が処刑された。
  九月、李納が宋州を陷した。李惟岳の将の張孝忠が易・定二州をもって降った。壬戌、功績を立てた兵卒に帛を賜い、戦死した者の家は三年免税とした。
  十月戊申、李納の将の李洧が徐州をもって降った。
  十一月辛酉、李納が徐州を寇し、宣武軍節度使の劉洽が七里溝でこれを破った。丁丑、馬燧田悦と双岡で戦い、これを破った。甲申、李納の将の王渉が海州をもって降った。
  十二月丁酉、馬万通が密州をもって降った。馬燧が魏博招討使となった。
  この年、崖州司馬の楊炎が殺された。

  建中三年(782)正月丙寅、朱滔と成徳軍節度使の張孝忠李惟岳と束鹿で戦い、これを破った。辛未、常膳および太子・諸王の食物を減らした。再び酒の専売を罷免された。癸未、李納が海・密二州を陥落させた。
  閏月乙未、李惟岳の将の康日知が趙州をもって降った。甲辰、李惟岳が処刑されると、その将の楊栄国が深州をもって降った。庚戌、馬燧田悦と洹水で戦い、これを破った。この月、田悦の将の李再春が博州をもって降り、田昂が洺州をもって降った。
  二月戊午、李惟岳の将の楊政義が定州をもって降った。甲戌、再び易・定・深・趙・恒・冀の六州に三年免税とし、吏民で李惟岳に脅迫された者を赦した。己卯、通化門に雷が落ちた。
  四月戊午、李納の将の李士真が徳・棣の二州をもって降った。甲子、借商銭令を施行した。甲戌、昭義軍節度副使の盧玄卿が魏博・澶相招討使となった。戊寅、張鎰が罷免された。壬午、殿中侍御史の鄭詹を殺した。この月、朱滔がそむき、徳・棣の二州を陥落させた。
  五月辛卯、朔方軍節度使の李懐光田悦を討った。
  六月甲子、京師で地震があった。恒冀観察使の王武俊がそむいた。辛巳、李懐光馬燧李芃李抱真朱滔王武俊田悦と連篋山で戦い、敗れた。
  七月壬辰、殿中丞の李雲端が反乱を計画し、処刑された。癸巳、借商銭令を停止した。
  八月癸丑、演州司馬の李孟秋と峰州刺史の皮岸がそむき、処刑された。
  九月丁亥、初めて商銭・茶・漆・竹・木に税をかけた。
  十月丙辰、吏部侍郎の関播が中書侍郎・同中書門下平章事となった。李希烈がそむいた。丙子、粛王李詳が薨去した。

  建中四年(783)正月丁亥、鳳翔節度使の張鎰が吐蕃の尚結賛と清水で会盟した。庚寅、李希烈が汝州を陷し、刺史の李元平を捕らえた。戊戌、東都・汝行営節度使の哥舒曜李希烈を討った。二月丁卯、汝州で勝利した。
  三月辛卯、李希烈が鄂州を寇し、刺史の李兼がこれを破った。丁酉、荊南節度使の張伯儀李希烈と安州で戦い、敗れた。
  四月庚申、李勉が淮西招討処置使となり、哥舒曜がこれの副使となった。張伯儀が淮西応援招討使となり、賈耽と江南西道節度使の嗣曹王李皋がこれの副使となった。甲子、京師で地震があり、生毛。丙子、哥舒曜李希烈と潁橋で戦い、これを破った。
  五月辛巳、京師で地震があった。乙酉、潁王李璬が薨去した。乙未、劉洽が淄青・兗鄆招討制置使となった。
  六月庚戌、家の間架を税とし、除陌銭を算用した。丁卯、李逾を移封して丹王とし、李遘を簡王とした。
  七月、馬燧が魏博・澶相節度招討使となった。壬辰、盧𣏌関播李忠臣が吐蕃の区頰賛と京師で会盟した。
  八月丁未、李希烈が襄城を寇した。乙卯、李希烈の将の曹季昌が隋州をもって降った。庚申、京師に星が落ちた。
  九月丙戌、神策軍行営兵馬使の劉徳信李希烈と扈澗で戦い、敗れた。庚子、舒王李謨が荊襄・江西・沔鄂節度諸軍行営兵馬都元帥となり、普王に移封された。
  十月、涇原節度使の姚令言がそむき、京師を犯した。戊申、奉天にいった。朱泚がそむいた。庚戌、朱泚が司農卿の段秀実および左驍衛将軍の劉海賓を殺した。鳳翔後営の将の李楚琳がその節度使の張鎰を殺し、留後を自称した。癸丑、李希烈が襄城を陷し、宣武軍兵馬使の高翼がここに死んだ。甲寅、朱泚が涇原節度都虞候の何明礼を殺した。乙卯、尚書右僕射の崔寧を殺した。丁巳、戸部尚書の蕭復が吏部尚書となり、吏部郎中の劉従一が刑部侍郎となり、京兆府戸曹参軍・翰林学士の姜公輔が諫議大夫となり、ともに同中書門下平章事となった。朱泚が奉天を犯し、禁軍が城東で敗れた。辛酉、霊塩節度留後の杜希全・鄜坊節度使の李建徽朱泚と漠谷で戦い、敗れた。癸亥、劉徳信朱泚と思子陵で戦い、これを破った。甲子、行在都虞候の渾瑊朱泚と城下で戦い、これを破り、左龍武軍大将軍の呂希倩がここに死んだ。乙丑、将軍の高重傑がここに死んだ。この月、商州軍で乱があり、その刺史の謝良輔を殺した。
  十一月、剣南西山兵馬使の張朏がその節度使の張延賞を追放し、張朏が処刑された。癸巳、李懐光朱泚と魯店で戦い、これを破った。李懐光が中書令・朔方邠寧同華陝虢河中晋絳慈隰行営兵馬副元帥となった。
  十二月、朱泚が華州を陷した。壬戌、盧𣏌を左遷して新州司馬とした。庚午、李希烈が汴・鄭二州を陷した。

  興元元年(784)正月癸酉、大赦をおこない、改元した。「聖神文武」の号を去った。李希烈田悦王武俊李納の官爵を復した。奉天に赴いて京城の奪還に参加した将兵に罪があっても三等を減じ、子孫も二等を減い、行営にあった者は勲五転を賜った。文武の官に階・勲・爵を賜った。間架税・竹木茶漆税および除陌銭を廃止した。奉天に五年免税を、城中は十年免税を給した。関播が宰相を罷免された。丙戌、吏部侍郎の盧翰が兵部侍郎・同中書門下平章事となった。戊子、蕭復が山南東西・荊湖・淮南・江西・鄂岳・浙江東西・福建・嶺南宣慰安撫使となった。戊戌、劉洽が汴滑宋亳都統副使となった。
  二月甲子、李懐光が太尉となり、李懐光はそむいた。丁卯、梁州にいった。李懐光の将の孟庭保が兵をもって追ってきたので、左衛大将軍の侯仲荘が駅店でこれを破った。
  三月、李懐光が鄜坊京畿金商節度使の李建徽・神策軍兵馬使の陽恵元の兵を奪い、陽恵元はここに死んだ。癸酉、魏博兵馬使の田緒がその節度使の田悦を殺し、留後を自称した。甲戌、李懐光が左廂兵馬使の張名振・右武鋒兵馬使の石演芬を殺した。丁亥、李晟が京畿・渭北・鄜坊丹延節度招討使となり、神策行営兵馬使の尚可孤が神策・京畿・渭南・商州節度招討使となった。壬辰、梁州に行った。丁酉、劉洽を権知汴滑宋亳都統兵馬事とした。己亥、渾瑊が朔方・邠寧・振武・永平・奉天行営兵馬副元帥となった。
  四月、李懐光が坊州を陥落させた。甲辰、李晟が京畿・渭北・商華兵馬副元帥となった。甲寅、姜公輔が宰相を罷免された。涇原兵馬使の田希鑑がその節度使の馮河清を殺し、留後を自称した。乙丑、渾瑊朱泚と武亭川で戦い、これを破った。丁卯、義王李玼が薨去した。この月、坊州刺史の竇覦が坊州を落とした。
  五月癸酉、涇王李侹が薨去した。丙子、李抱真王武俊朱滔と経城で戦い、これを破った。壬辰、尚可孤朱泚と藍田の西で戦い、これを破った。乙未、李晟がまた苑北でこれを破った。戊戌、また白華でこれを破り、京師を回復した。
  六月癸卯、姚令言が処刑された。甲辰、朱泚が処刑された。己酉、李晟が司徒・中書令となった。癸丑、梁州を興元府とし、一年間免税とし、耆老に版授を加えた。甲寅、渾瑊が侍中となった。己巳、洋州を一年間免税とし、興元府にさらに一年間免税を加えた。鳳州のこの年の税を免除し、父老に版授を加えた。
  七月丙子、鳳翔に行き、この年の秋税を免除し、八十以上に刺史を、他は上佐を版授した。丁丑、宗室で殺害された者を葬った。壬午、興元から到着した。丁亥、李懐光が宣慰使の孔巣父を殺した。辛卯、大赦をおこなった。百官と将士に階・勲・爵を、京城を奪回した者に升八資を賜った。京兆府に一年間免税とした。この月、嗣曹王李皋李希烈と応山で戦い、これを破った。
  八月癸卯、李晟が鳳翔隴右諸軍・涇原四鎮北庭行営兵馬副元帥となり、馬燧が晋・慈・隰諸軍行営兵馬副元帥となり、渾瑊が河中・同絳・陝虢諸軍行営兵馬副元帥となった。丙午、渾瑊が朔方行営兵馬副元帥を兼ねた。己酉、延王李玢・隋王李迅が薨去した。
  十月辛丑、李勉が司徒・同中書門下平章事を検校した。
  閏月戊子、李希烈の将の李澄が滑州をもって降った。
  十一月癸卯、劉洽・邠隴行営節度使の曲環李希烈と陳州で戦い、これを破った。戊午、汴州で勝利した。乙丑、蕭復が宰相を罷免された。
  十二月乙酉、渾瑊李懐光と乾坑で戦い、敗れた。
  この年、陳王李珪が薨去した。

  貞元元年(785)正月丁酉、大赦をおこない、改元した。榷税を罷免された。
  三月、李懐光が歩軍兵馬使の田仙浩と都虞候の呂鳴岳を殺した。丁未、李希烈が鄧州を陷し、唐鄧隋招討使の黄金岳を殺した。
  この春、旱害があった。
  四月乙丑、李誼を移封して舒王とした。壬午、渾瑊李懐光長春宮で戦い、これを破った。丙戌、馬燧渾瑊が河中招撫使となった。
  六月己丑、幽州盧龍軍節度使の朱滔が卒し、涿州刺史の劉怦が留後を自称した。辛卯、剣南西川節度使の張延賞が中書侍郎・同中書門下平章事となった。戊子、馬燧李懐光と陶城で戦い、これを破った。
  七月、灞水・滻水の水が枯れた。庚子、大風で木が抜けた。
  八月、配饗功臣の子孫を襲封させた。甲子、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。甲戌、李懐光が処刑された。己卯、河中、同州・絳州の二州に一年間免税とした。馬燧が侍中となり、張延賞が罷免された。丙戌、李希烈が宣慰使の顔真卿を殺した。
  九月辛亥、劉従一が罷免された。庚申、幽州盧龍軍節度使の劉怦が亡くなり、その子の劉済が留後を自称した。
  この秋、木に氷が降った。
  十一月癸卯、南郊を有事摂事にて祀り、大赦をおこない、奉天・興元に扈従した百官と京師を奪回した将兵に階・勲・爵を賜った。

  貞元二年(786)正月丙申、詔して御膳の半分に減らし、貧困者に施して官を授けた。壬寅、盧翰が罷免された。吏部侍郎の劉滋が左散騎常侍となり、給事中の崔造、中書舎人の斉映がともに同中書門下平章事となった。
  二月癸亥、山南東道節度使樊沢李希烈と泌河で戦い、これを破った。
  四月丙寅、李希烈が処刑された。甲戌、土が雨で降った。甲申、淮西に二年間免税とした。
  五月、李希烈の将の李恵登が隋州をもって降った。己酉、地震があった。
  六月癸未、滄州刺史の程日華が亡くなり、その子の程懐直が観察留後を自称した。この月、淮西兵馬使の呉少誠がその節度使の陳仙奇を殺し、留後を自称した。
  七月、李希烈の将の薛翼が唐州をもって降り、侯召が光州をもって降った。
  八月丙子、大雨と雹があった。丙戌、吐蕃が邠・寧・涇・隴の四州を寇した。
  九月乙巳、好畤を寇し、李晟が汧陽でこれを破った。
  十月癸酉、邠寧節度使の韓游瓌がまた平川でこれを破った。
  十一月甲午、淑妃の王氏を立てて皇后とした。丁酉、皇后が崩じた。辛丑、吐蕃が塩州を陷した。
  十二月丁巳、夏州が陥落した。馬燧が綏・銀・麟・勝招討使となった。庚申、崔造が宰相を罷免された。甲戌、吐蕃が辺境を寇したので、正殿を避けた。

  貞元三年(787)正月壬寅、尚書左僕射の張延賞が同中書門下平章事となった。壬子、劉滋が宰相を罷免された。斉映を左遷して夔州刺史とした。兵部侍郎の柳渾が同中書門下平章事となった。
  二月己卯、華州潼関節度使の駱元光が塩・夏の二州を落とした。甲申、昭徳皇后を靖陵に葬った。
  三月丁未、李晟が太尉となった。辛亥、馬燧が副元帥を辞任した。
  五月、揚州で長江が氾濫した。呉少誠が申州刺史の張伯元と殿中侍御史の鄭常を殺した。
  閏月辛未、渾瑊が吐蕃と平涼で会盟し、吐蕃が会盟副使・兵部尚書の崔漢衡を捕らえ、判官・殿中侍御史の韓弇を殺した。戊寅、太白(金星)が昼に見えた。
  六月、吐蕃が塩・夏の二州を寇した。丙戌、馬燧が司移となり、前陝虢観察使の李泌が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  七月甲子、朔方節度使の杜希全が朔方・霊塩・豊夏綏銀節度都統となった。壬申、張延賞が薨去した。
  八月辛巳朔、日食があった。己丑、柳渾が宰相を罷免された。戊申、吐蕃が青石嶺を寇し、隴州刺史の蘇清沔がこれを破った。庚戌、大馬が蒲関・潼関・武関を出るのを禁じた。
  九月丁巳、吐蕃が汧陽を寇した。丙寅、華亭および連雲堡が陥落した。
  十月甲申、豊義を寇し、韓游瓌がこれを破った。乙酉、長武城を寇し、城使の韓全義がこれを破った。壬辰、射生の将の韓欽緒が反乱を計画し、処刑された。
  十一月己卯、京師・東都・河中で地震があった。
  十二月庚辰、新店で狩猟した。

  貞元四年(788)正月庚戌朔、京師で地震があった。大赦し、刺史の一子に官を授け、戸数を増やし墾田した者は位階を加え、県令は選を減らし、九品以上の官に政事を議論させた。壬申、劉玄佐が四鎮北庭行営・涇原節度副元帥となった。この月、金・房の二州で地震があり、江が氾濫し山が裂けた。雨木が陳留で凍った。
  四月、河南・淮海で地面から毛が生えた。己亥、福建軍で乱があり、その観察使の呉詵を追放し、大将の郝誡溢が留後を自称した。
  五月、吐蕃が涇・邠・寧・慶・鄜の五州を寇した。
  六月己亥、子の李謜を封じて邕王とした。
  七月庚戌、渾瑊が邠・寧・慶副元帥となった。癸丑、寧州軍で乱があり、邠寧都虞候の楊朝晟がこれを破った。己未、奚・室韋が振武を寇した。この月、河水が黒ずんだ。
  八月、灞水が氾濫した。
  九月庚申、吐蕃が寧州を寇し、邠寧節度使の張献甫がこれを破った。冬、夾城を築いた。
  この年、京師で地震が二十回あった。

  貞元五年(789)正月甲辰朔、日食があった。
  二月庚子、大理卿の董晋が門下侍郎となり、御史大夫の竇参が中書侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。
  三月甲辰、李泌が薨去した。
  夏、吐蕃が長武城を寇し、韓全義が仏堂原でこれを破った。
  九月丙午、剣南西川節度使の韋皋が吐蕃を台登北谷で破り、巂州を落とした。
  十月、嶺南節度使の李復が瓊州を落とした。

  貞元六年(790)春、旱害があった。
  閏四月乙卯、詔して常参官・畿内の県令に政務を議論させた。京兆府の夏税を免除した。
  八月辛丑、皇太子妃の蕭氏を殺した。
  十一月戊辰、太清宮で朝献した。己巳、太廟で朝享した。庚午、南郊を有事摂事にて祀った。文武の官に階・爵を賜った。囚人の罪を一等降し、徒以下は赦した。戦没者で曝されている者の骨を埋葬した。
  この年、吐蕃が北庭都護府を陥落させ、節度使の楊襲古が西州に逃れた。

  貞元七年(791)正月己巳、襄王李僙が薨去した。
  四月、安南の首領の杜英翰がそむき、処刑された。
  五月甲申、端王李遇が薨去した。
  九月、回鶻が楊襲古を殺した。
  十二月戊戌、睦王李述が薨去した。
  この冬、雪がなかった。

  貞元八年(792)二月庚子、土が雨で降った。
  三月甲申、宣武軍節度使の劉玄佐が亡くなり、その子の劉士寧が留後を自称した。
  四月、吐蕃が霊州を寇した。丁亥、左諌議大夫・知制誥の呉通玄を殺した。乙未、竇参を左遷して郴州別駕とした。尚書左丞の趙憬・兵部侍郎の陸贄が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  五月己未、大風がおこって太廟の屋根瓦を落とした。癸酉、平盧軍節度使の李納が亡くなり、その子の李師古が留後を自称した。
  六月、淮水が氾濫した。吐蕃が連雲堡を寇し、大将の王進用がここに死んだ。
  九月丁巳、韋皋が吐蕃と維州で戦い、これを破った。
  十一月壬子朔、日食があった。庚午、山南西道節度使の厳震が吐蕃と黒水堡で戦い、これを破った。この月、幽州盧龍軍節度使の劉済がその弟の瀛州刺史劉澭と瀛州で戦い、劉澭は破れ、京師に逃れた。
  十二月甲辰、城東で狩猟した。

  貞元九年(793)正月癸卯、茶税を復活した。
  四月辛酉、関輔・河中で地震があった。
  五月甲辰、義成軍節度使の賈耽が尚書右僕射となり、尚書右丞の盧邁とともに同中書門下平章事となった。丙午、董晋が宰相を罷免された。
  八月庚戌、李晟が薨去した。
  十一月癸未、太清宮で朝献した。甲申、太廟で朝享した。乙酉、南郊を有事摂事にて祀り、大赦した。
  十二月丙辰、宣武軍の将の李万栄がその節度使の劉士寧を追放し、留後を自称した。

  貞元十年(794)正月壬辰、南詔蛮が吐蕃を神川で破り、来朝して勝報を献じた。
  四月癸卯朔、京城で赦した。戊申、地震があった。癸丑、また地震があった。この月、太白(金星)が昼に見えた。
  六月丙寅、韋皋が吐蕃を破り、峨和城を落とした。春からこの月まで雨がなかった。辛未、雨があり、大風で木が抜けた。
  七月、西原蛮が叛いた。
  八月、欽・横・潯・貴の四州が陥落した。
  十月、昭義軍節度留後の王虔休が摂洺州刺史元誼と鶏沢で戦い、これを破った。
  十二月丙辰、城南で狩猟した。壬戌、陸贄が左遷されて太子賓客となった。

  貞元十一年(795)四月丙寅、奚が平州を寇し、劉済がこれを青都山で破った。
  五月庚午、中書門下で囚人を再審した。
  八月辛亥、馬燧が薨去した。
  九月、横海軍兵馬使の程懐信がその兄の節度使の程懐直を追放し、留後を自称した。
  十月、朗・蜀の二州で長江が氾濫した。
  十二月戊辰、苑中で狩猟した。

  貞元十二年(796)二月己卯、吐蕃が巂州を寇し、刺史の曹高仕がこれを破った。
  三月丙辰、韶王李暹が薨去した。
  四月庚午、魏博節度使の田緒が亡くなり、その子の田季安が留後を自称した。
  六月己丑、宣武軍節度使の李万栄が亡くなり、その子の李迺が兵馬使を自称し、処刑された。
  七月戊戌、韓王李迥が薨去した。
  八月己未朔、日食があった。丙戌、趙憬が薨去した。
  九月、吐蕃が慶州を寇した。
  十月甲戌、右諌議大夫の崔損と給事中の趙宗儒が、同中書門下平章事となった。

  貞元十三年(797)正月壬寅、吐蕃が和を請うた。
  四月辛酉、旱によって囚人を再審した。壬戌、興慶宮で雨乞いした。
  五月壬寅、吐蕃が巂州を寇し、曹高仕がこれを破った。庚戌、義寧軍が乱を起こし、その将の常楚客を殺した。
  七月乙未、京師で地震があった。
  九月己丑、盧邁が罷免された。

  貞元十四年(798)三月丙申、鳳翔監軍使の西門去奢がその将の夏侯衍を殺した。
  五月己酉、始めて雷がなった。
  閏月辛亥、西北に星が落ちた。辛酉、長武城の軍が乱を起こし、その使の韓全義を追放した。
  六月丙申、帰化堡の軍が乱を起こし、その将の張国誠を追放し、涇原節度使の劉昌がこれを破った。
  七月壬申、趙宗儒が宰相を罷免された。工部侍郎の鄭余慶が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  九月丁卯、𣏌王李倕が薨去した。
  十二月壬寅、明州の将の栗鍠がその刺史の盧雲を殺してそむいた。
  この冬、雪がなく、京師で飢饉があった。

  貞元十五年(799)正月甲寅、雅王李逸が薨去した。壬戌、郴州の藍山が崩れた。
  二月乙酉、宣武軍で乱が起こり、節度行軍司馬の陸長源を殺し、宋州刺史の劉逸淮が留後を自称した。
  三月甲寅、彰義軍節度使の呉少誠がそむき、唐州を陷し、守将の張嘉瑜がここに死んだ。
  四月乙未、栗鍠が処刑された。
  九月乙巳、陳許節度留後の上官涗呉少誠と臨潁で戦い、敗れた。丙午、呉少誠が許州を寇した。庚戌、宣武軍節度使の劉全諒が亡くなり、都知兵馬使の韓弘が留後を自称した。丙辰、宣武・河陽・鄭滑・東都汝・成徳・幽州・淄青・魏博・易定・沢潞・河東・淮南・徐泗・山南東西・鄂岳の軍が呉少誠を討った。
  十月己丑、邕王李謜が薨去した。
  十一月丁未、山南東道節度使の于頔呉少誠と呉房で戦い、これを破った。陳許節度使の上官涗がまた柴籬でこれを破った。辛亥、安黄節度使の伊慎がまた鍾山でこれを破った。
  十二月庚午、寿州刺史の王宗がまた秋柵でこれを破った。辛未、渾瑊が薨去した。乙未、諸道の兵が小溵河で潰滅した。

  貞元十六年(800)正月乙巳、易定の兵が呉少誠と戦い、敗れた。
  二月乙酉、塩夏綏銀節度使の韓全義が蔡州行営招討処置使となり、上官涗が副使となった。
  四月丁亥、黔中宴設将の傅近がその観察使の呉士宗(韋士宗)を追放した。
  五月庚戌、韓全義呉少誠と広利城で戦い、敗れた。壬子、徐泗濠節度使の張建封が亡くなり、その子の張愔が知軍事を自称した。
  七月丁巳、伊慎が呉少誠と申州で戦い、これを破った。己未、韋皋が吐蕃の末恭城を落とした。丙寅、韓全義呉少誠と五楼で戦い、敗れた。
  八月、劉済がその弟の涿州刺史の劉源と涿州で戦い、劉源が敗れ、これを捕らえた。己丑、遂州別駕の崔位を殺した。韋皋が吐蕃の顒城を落とした。
  九月庚戌、鄭余慶を左遷して郴州司馬とした。庚申、太常卿の斉抗が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  十月辛未、通州別駕の崔河図を殺した。
  この年、京師で飢饉があった。

  貞元十七年(801)二月丁酉、大雨と雹があった。己亥、霜が降った。乙巳、韋皋が吐蕃と鹿危山で戦い、これを破った。戊申、大雨・雹が降り、雷が鳴った。庚戌、大雪で、雨と雹が降った。
  五月壬戌朔、日食があった。
  六月丙申、寧州軍が乱を起こし、その刺史の劉南金を殺した。己亥、浙西観察使の李錡が上封事人の崔善貞を殺した。丁巳、成徳軍節度使の王武俊が亡くなり、その子の王士真が留後を自称した。
  七月、霜がおりて菽(まめ)を枯らせた。戊寅、吐蕃が塩州を寇した。己丑、麟州を陥落させ、刺史の郭鋒がここに死んだ。
  九月乙亥、韋皋が吐蕃を雅州で破り、木波城を落とした。
  この年、嘉王李運が薨去した。

  貞元十八年(802)七月乙亥、正衙の奏事を罷免された。
  十二月、環王が驩州・愛州の二州を陷した。

  貞元十九年(803)二月己亥、安南の将の王季元がその経略使の裴泰を追放したので、兵馬使の趙均がこれを破った。
  三月壬子、淮南節度使の杜佑が司空・同中書門下平章事を検校した。
  七月己未、斉抗が宰相を罷免された。正月からこの月まで雨が降らなかった。甲戌、雨が降った。
  閏十月庚戌、塩州の将の李庭俊がそむき、処刑された。丁巳、崔損が薨去した。
  十二月庚申、太常卿の高郢が中書侍郎となり、吏部侍郎の鄭珣瑜が門下侍郎・同中書門下平章事となった。

  貞元二十年(804)二月庚戌、大雨と雹があった。七月癸酉、大雨と雹があった。
  冬、木に氷が降った。

  貞元二十一年(805)正月癸巳、皇帝会寧殿で崩じ、年は六十四であった。

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最終更新:2025年01月11日 23:39
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