路巌 ろがん
829-874
晩唐の宰相(任864-871)。字は魯瞻。魏州冠氏県の人。路群の子。進士に及第し、咸通年間(860-874)初頭、屯田員外郎、翰林学士を歴任。咸通五年(864)十一月、兵部侍郎、同中書門下平章事(宰相)となった。わずか三十六歳であった。
懿宗が暗愚で、政治権力は宰相に集中し、そのため
韋保衡と結託して共に権勢を誇り、収賄を受けて政治を混乱させたが、かえって韋保衡と対立することとなり、
咸通十二年(871)四月、讒言によって宰相位を罷免されて剣南西川節度使となった。ここで蛮の慰撫に尽力し、定辺軍を邛州に設置して成果をあげたから、功績によって兼中書令となり、魏国公に封ぜられた。しかし側近の辺咸・郭籌が軍を差配し、これが陰謀の噂となったため、荊南節度使に遷され、新州刺史に貶されて免官となり、流される途中、新州で詔によって死を賜わった。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2026年10月13日 23:12