李晟
727-793
唐の武将・藩鎮・宰相。武州・臨潭(甘粛省臨潭県)の人。字は良器、謚は忠武。祖父の李思恭、父の李欽はともに隴右の部将であった。彼は生まれつき孝で、早く父を失いよく母に仕え、騎射をよくし、18才のとき河西節度使の王忠嗣に仕え、吐蕃を討ち、ついで鳳翔節度使
高昇の列将となった。代宗朝(762-779)、武功により遷して、開府儀同三司・合川郡王にい たった。徳宗朝(779-805)となり、藩鎮の横暴ますますはげしく、魏博節度使の
田悦が反したとき(781)、神策先鋒都知兵馬となり、これを破った。 また盧竜節度使の朱泚の反したとき、
渾瑊とともにこれを討伐し(784)、尚書左僕射・同中書門下平章事にすすんだ。しかし藩鎮跋扈の大勢はいかんともなしがたかった。ついで鳳翔隴右涇原節度使兼行営副元帥・西平郡王・実封千五百戸となった。平素は寡黙で行ない正しく、軍中では最下層の者の小善までよく知りつくし、とくに朋党をにくんだという。子の李愿・李愬らも大官になった。
最終更新:2023年03月24日 09:00