田悦 でんえつ
751-784
唐の代宗・徳宗朝の節度使(第2代魏博節度使)。平州・盧竜(河北省昌黎県)の人。魏博節度使の
田承嗣の甥。早く孤児となったが、戦術に長じ、田承嗣に愛された。田承嗣の死後、留後となり(779)、ついで検校工部尚書・御史大夫・魏博節度使となった。初めは朝廷に恭順をよそおったが、内では7万の軍隊を養っていた。しかし朝廷はそのうち4万に帰農を命じたので、田悦はそれらの将士に自分の家財・帛衣を与えて帰農させたので、田悦の徳を慕う者が多かった。そのころ、成徳節度使の
李宝臣が死去したが、朝廷はその子の
李惟岳の留後を認めず、これが原因で反乱が起こった。田悦もこれに乗じて反乱を起こした(781)。ついで盧竜節度使の
朱滔も反し、反乱は拡大した。まもなく田悦は魏王、朱滔は冀王、成徳の
王武俊は趙王を称した(782)。しかし翌年、
朱泚の反乱のため、朝廷は田悦らをゆるし、検校尚書右僕射・済陽王とし、節度使ももとのまま許した(784)。しかしこの反乱のときの作戦がまずく、戦死者は7・8割にもおよんだので、人心は田悦を去り、田承嗣の子の
田緒に殺された。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典6』(平凡社,1960年)
外部リンク
最終更新:2024年08月05日 09:43