●日本の大学にはなぜ哲学科があるのか。
僕たちはヨーロッパ人ではありません。
一般的に言われている哲学はギリシャから来たという話をしたばかりですが、それだけではないということは当然ご存知のことと思います。もうひとつ、キリスト教の影響があります。
キリスト教はアラビア半島のほうに移り、それがもう中近東に移りました。キリスト教といえば、ローマ・カトリックとプロテスタントを知っていると思いますけれど、起源はエルサレムですよね。それに最初にできた五つの大きい教会のうち、ローマは一番西だった。エルサレムを筆頭として、あとはアレキサンドリア、アンティオキア、コンスタンティノープル。もともと文化中心は中近東と東欧なんですよ。ローマ帝国は東西に分裂したときには民主制に近いところから皇帝制になり、大土地制になっていったときに皇帝を四人たてましたよね。正皇帝が二人、副皇帝が二人。一番とったのは東の正帝です。ビザンチンのほうが文化中心で、ローマは辺境だったんですよ。キリスト教のなかにも違いがありますし、アラブのほうに行って――アラブというのはもっと後にできた概念だからこういう言い方は正確ではないのですが――研究されて、イスラムという形で旧約聖書のつながりをもって、そこで研究されたものがもう一度ヨーロッパに入ってきて、融合して、大航海時代と近代を通過して、いまに至っているわけです。つまり、ものすごくいろいろな要素が入っているわけです。
さきほどお話したとおり、「私はどうして生きているのか」「世界はどうしてあるのか」「なぜ私はあの人が好きなのか」――愛に関してはとても重要なテーマですよ。けれど、それだけで哲学の問いとなるのか。なにを問いたいかということは普遍的かもしれない。でも、どのように問うか、どのように問いにするかというやり方は、哲学はきわめて特殊な問い方をしているわけなのです。
哲学はとても根本的な事柄を論ずる、基礎学である。それは問おうとしているものがすごく根本的だからと思えるかもしれないけれど、根本的なことだったら、そもそも哲学で問わなくてもいいんだよ。ちょっとひどい例ですが、すごく悩んでしまった結果、自殺をしてしまった人がいるとする。しかしその自殺はその人の命をかけた回答かもしれないじゃない。問い方としては間違っているかもしれないけどね。その回答に対して、どうして哲学の問い方が特権的だということができるでしょうか。
つまり、哲学ということで漠然となにかやっている気になっていることに、苛立ちを持ってほしい。日本の哲学者というのはみんな良い人たちで、学会の発表ではなくてお酒を飲んでこういう話をすると、みんな素直にこういうことに関心をもっているわけですよね。
でも、さっき言ったように「哲学」でしょ。ここに来ている人たち全員が大学のポストをもらえるわけじゃないけれど。社会的な要求のセレクションによって「哲学」という枠があってそこで給料をもらえるかぎりは「哲学やっています」という顔をして仕事をするしかないじゃない。「哲学」の問い方が天職であるという人はそれでいいけれど。ヨーロッパの人たちは幼いころから哲学というものの土壌に知らず知らずのうちに親しんできているわけですよ。教会でお説教を聴いたりとかしてね。キリスト教と哲学の交錯はほんとうに複雑で、哲学対宗教、という単純な図式ではまったくない。お互いに貶しあいながらその貶す方法によって大きくなってきた。
カトリックには聖体拝領というのがありますね。キリストが最後の晩餐で「このパンは私の肉である、これを食べなさい。このワインは私の赤い血である、これはあなた方と罪の許しのために私が交わす契約の血である、これを飲みなさい」。そして「この中に裏切り者がいる」と言って使徒たちが「うわあ!」となっているのが有名なダヴィンチの絵ですね。その聖体拝領と、旧約聖書の一部、新約聖書の一部の朗読をする。その合間にミサ曲を賛美歌として歌う。そしてその後に、説教というのが入る。本来はこれを毎日やるんですよ。そういうような暮らしをずーっとカトリックの修道院では繰り返してきたわけですよ、何百年間も伝統的に。
また、フランスでは非常に知的なものを重んじる風土がありますね。日本で言うと高校、大学予備門にあたるような学校にリセというのがあります、その最後にバカロレアという試験があります。バカロレアの第一に重要な科目は哲学の論文です。大学に入る前の子に、六時間、論文を書き続けさせる。全国でもっとも優秀な論文は、フランスでもっとも有名な新聞のル・モンドに全文が載ります。そのバカロレアを通ると、あと大学は無試験です。ただし例外がありまして、パリ政治学院(エコール・ド・ポリティーク)、ナポレオンの時代に作られた大学校(エコール)は、技術的なものを極めるための能力開発的な側面があるので、もっとむずかしい試験があります。フランスの総理大臣はほとんどパリ政治学院の卒業生です。彼らは同時に、哲学者でもある。
彼らは哲学というものが染み付いている。
そうではないところで、日本は大学で哲学科を有しているわけです。なんででしょう。中身云々の話ではなくて、どうして哲学科がいま日本の大学にあるのでしょう。
●ヨーロッパ的、日本的<1>
僕はもうあまり外国には行きませんけれど、君たちは行くかもしれないね。そのとき、外国人と話をしたときに「どうして日本には哲学科があるの」と聞かれたときにどういうふうに答えますか。
よく昔からあるのは、日本は無宗教の国だと言うと、向こうは驚くわけです。「お前ら人間じゃないんじゃないか?」。なぜならいま言ったように、考えることの基礎として宗教というものを考えているからです。宗教というのは、葬式仏教みたいに死んだときだけ担ぎ出されるものではないし、古代そうであったように戦争に行って勝つために生贄を捧げるとか、そういう神秘的なものだけではない。宗教という概念はものすごく広い。それがまったくないというのを向こうの人が聞いたら、「彼らは人間ではない」と思うのも無理はないんです。
ヨーロッパは植民地で悪行の限りを尽くしてきたわけですが、それは彼らが現地人を人間だと見なしていなかったからです。アフリカの奴隷をアメリカに運ぶにあたってのロジックはすごいよ。アメリカでインディアンが酷使と病気のためにばたばたと死んで、労働力が減ってしまった。どうしよう、困った。しかし伝え聞くとアフリカのほうではサルに近い奴らがいるらしい、それなら文化的な新大陸で飼ってやれば、彼らにとっても極めて幸せだろう、と。そういうことを真面目に考えていたんですよ。そういう背景を考えないでこちらのイメージだけで「日本は無宗教の国です」と言えば、理解してもらえないのは当たり前ですよね。そんな私たちは、哲学というものをどのように知っているのでしょうか。
新田さんは七十歳近くになるおじいちゃんですが、彼はすごく優秀な人で、一生懸命文献を調べて論文を書いていますが、ヨーロッパに行って、それはすごい、これこれを教えてください、となると思う? ならないよね、いまのところ。
日本は科学技術においては、科学技術においては世界のトップを走っている分野がたしかにあります。また、聖書講読学という聖書をテキストとして科学的な方法を用いて分析する分野があります。人文系で最初にコンピュータが導入された分野の一つですが、そこでは日本人はものすごく業績をあげています。ところが、いま言ったようにファンダメンタルな部分に関して意見を言う哲学的な営為に関して、日本人はなにを期待されるか。「科学技術について語ってください」とは、まず言われない。そうではなく、例えば西田幾太郎と現象学の関係性を教えてください、西田独自の思想はあるのでしょうか、とかです。西欧には自分たちとは違う血を入れることによってどれだけ自分たちの哲学が伸びていけるか、という歴史があるんですよ。それに取り残された地域もいっぱいあった。
さっき言ったように、カリブ海の人たちは、二十世紀の初めごろに俺たちはいったいなにものなんだ、ということを散文や詩を使って考え始めた。それがエスニックと呼ばれる思想展開 です。日本においてそれができているでしょうか。日本的ということはどういうことなのか。清少納言が曙光を讃えることなのか、紫式部が世界初の長編ロマン小説を書いたことなのか。仏教は日本的なのか。そもそも「日本的」と言ったとき、それは誰の日本なのか。
われわれ個人の問いというものと、われわれの世代の問いと、われわれの世代を超えた日本という単位の問いはすべて違うものです。あなたはどれに対してそれを問うのでしょう。日本的なこと、日本的な哲学というのは一時期、流行りました。でも、自分の問いとして、根っことして、ルーツとしてそれがどうなっているのか。
●ヨーロッパ的、日本的<2>
哲学のもっともベーシックといえる部分がヨーロッパ人には染み込んでいます。
ロゴスはロジックになりますが、ロジックは真理とかそういう概念と結びついています。また、知識という語に関して言えば、「間違った知識」は存在しない。「君の知識は間違っているよ」と日本では言いますが、ヨーロッパ人から見ると、それはおかしい。知識(knowledge)は常に、絶対に正しいからです。分析哲学や言葉の哲学では「間違った知識」を「信念(belief)」と言っていますがこれはいわゆる「臆見・ドクサ(doxa)」です。これに対して「知識」は「エピステーメー(episteme)」と呼ばれます。後期プラトンではこの二つが対比されています。
「存在というものは絶対にある」とするかっちりした考え方と、仏教的な文化の一つの典型として禅、そのなかの縁起という思想がありますね。インドにおいて縁起の思想というのはなかなか複雑なものがあるようなのですが、その部派のなかに説一切有部というのがありまして、「法則は実在する」と主張する人たちもいます。それに対するのが、私たちにお馴染みの大乗仏教です。竜樹菩薩(Nāgārjuna ナーガールジュナ 150‐250頃)、が空を説いて、それが「空即是色、色即是空」というフレーズとして日本に入ってきて、私たちは、「空即是色、色即是空? うんうん、そういうのはあるよね」と思うわけです。それらは私たちのなかに染み込んでいる。
●「業(ごう)」を授ける
昔のものを材料として、判断のための足掛かりとしてとらえるのはとても大事です。何もないところを登っていくのはつらいものね。でも、自分の問いとしてあるか。人から受け取って、人に向けて出すだけということになってしまいがちではないか。
皆さんに貢献するという形で、「正しい知識」を与えていく、これはひとつの訓練としての授業のあり方だと思う。でも、最初に言ったとおり、僕はそういうことができない。ですから、「なんでこんなことを考えなきゃいけないの?」ということを問いかけたいと思います。
これは落語みたいな話ですが、なぜ授業という言い方をするのでしょうか? 大学では講義と言いますが、講義は「義を講ずる」だよね。仁義礼智信のなかのひとつを講ずるという、非常に格調高いものである。授業は、「業(わざ)をさずける」。さっき言ったように「正しい知識」を含めた技術を授ける。でも、僕がここでは授業の「業」を「わざ」ではなく、「どうしてこんなことを考えてしまうのだろう?」という「ごう(カルマ)」を授けることとします。中島義道さんは哲学病ということを言っていますね。「そんなことを考えなくてもいいのに、どうして存在の意味などを考えてしまうのだろう?」と。そんなことよりどこそこのバイトが時給がいいとか考えているほうがよっぽど楽しいのに、問いから離れられない。業(ごう)ですよね。
だから、この授業は、業を授ける時間です。すでに業を持っている人はしょうがない、一緒に苦しみましょう。業を授けられるのがいやな人は、あまり聞かないほうがいいかもしれない。とりあえず、これが私のやりたいことの前置きです。
●なぜ科学ということをシラバスに書いたか
哲学はどう問うか、ということを考えてきた。問いたいことはみんなあるんですよ。人生の意味、死について、愛について。でも、同じような意味で「科学」というのは問いたい問いになるでしょうか。
僕は問いたいです。
例えば、死というのは僕にとってもものすごい大事な、必ず来るらしい――どうも死ぬ気はしないんだけどね、もしかしたら死なないんじゃないかと思っているんだけれど――ことである。このまえ、車を運転していたら突然人が飛びだしてきて、ブレーキを踏んでハンドルを切って、壁にぶつかる! と思ったときは、死ぬ事を考えました。そういうとき、「死とはなんだろう」と問いたくなるよね。
しかし、科学というのはそういうふうに問いたい問いでしょうか。多くの人は言います。現代は科学のただなかに生きている、携帯を持っていない人はほとんどいないし、メールを使ったりパソコンを使って検索しない人もいない。GPSなんて軍事設備を最近は徘徊老人や子どもの誘拐防止のために使っている。飯を食うにも、自然農法がクローズアップされるほど食品添加物だ農薬だと騒がれている、けれど、それらは入れないと流通システムが成り立たない。科学は、愛とか、死とか、人生や世界の意味とかよりも、ある意味でものすごく陰険な問題のあり方なんですよ。
愛とか死は、まるで私たちの前にあるかのように語られますよね。「愛ってなんだ」といったときに、愛という一塊りのものがあるかのように語りますよね。死も、ペットの死とかお祖父さんの死とか、憎かった奴の死とか自分の死とかあるけれど、一塊りの死というものがあるかのようにして語りますよね。人生の意味も、世界の意味も同様です。
これは脱線だけれど、カルヴァン(Jean Calvin、1509-1564)が「召命」という概念を語っていますね。これは人生の意味を、まさにものとして捉えた概念です。
キリスト教は本当に面白くて、神学には三つのパターンがある 。神様の性格を分析するときに、
① 存在論的神学:スコラ哲学に代表されるような、ある意味で合理的な、神が世界をいかに作ったかという構造的な視点をもつ。このパターンにおいて、神はある意味で構造です。世界を創造に対して理法を考えようとしました。
② 意志論的神学:神が世界をどのように創造したか、に焦点をしぼります。代表はデカルト(René Descartes, 1596 - 1650)です。
③ 聖霊論的神学:父=神と子=キリストとをつなぐ、媒介項としての聖霊に注目します。
ルネサンスで初めてギリシャの復興が行われたわけではありません。十一、十二世紀に、すでにオリエントからの写本が絶え、アラビア・イスラム系の研究・解釈を施されたブラトニズム、ヘレニズムの思想がちゃんと戻ってきて、それに入門するかたちでギリシャ思想をとりこんだ。だから、ギリシャのイデア論やアリストテレスの形而上学が、①存在論的神学のなかには組み込まれています。それに対して、デカルトは②擬人化された神の意志を論ずる。ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646 - 1716)はデカルトに反対します。「神が悪意をもっていたらどうするんだ?」。デカルトは答えます。「神は完全だから悪意を持たない」。どちらが正しいのでしょう。(笑) ②意志論的神学は、その後イギリスでピューリタリズムとして発展しました。それらの中間に③聖霊論的神学があって、これはインドから伝わってきている「プネウマ(呼吸)」やヨガとも関連して、世界の理法と創造の意志とをつなぐものとして論じられているわけです。
カルヴァンは①存在論的神学です。この神という構造が対応しているのが、カトリックのヒエラルキーであると。ゴシックの大伽藍は神の構造を背景としていた。しかしいろいろ頽廃もおこったわけですね。免罪符を売ったは、教皇領で政治に狂奔するは、陰謀は渦巻くは、坊主が結婚しちゃいけないのにボルジア家では法王その人が結婚しちゃうとか。そこでまじめだったルター(Martin Luther、1483-1546)が聖書との対話ということを持ち出してきて、宗教改革を起こしたのでしたね。
話を「召命」にもどしましょう。人生の意味、と言ったときに、キリスト教では実体的に義務感や責任感を発動させるものとして受けとめられるわけですね。近代のヨーロッパの経済的な側面を支えた義務感を支えるものひとつであり、そして哲学のなかで非常に問いやすい。
それに対して、科学はどういう問いになるでしょうか。
いまはみんな科学科学って言うじゃない。インフルエンザのワクチンの安全性だって、DNA鑑定の確実性だって科学的検証がキーになっていますね。では科学ってなに? それを指すことはできますか? あたかも指せるかのように語っていはしませんか? 科学といわれるようなものが「科学」と名づけられているのでしょうか? それとも「科学」という名前があるだけで、そこから科学があるように思われているだけなのでしょうか?
――このような問いかけは、じつは哲学のほうに帰ってきます。
最終更新:2011年05月28日 10:53