第01回 2009年09月21日

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◆一部抜粋◆



私がここでなにをやるかというと、「なぜいまあなたは哲学ということをするの?」という問いかけを――やってみせるというのはおこがましいな――というのも僕も「哲学とは何か」ということをわかっていないからなのです。僕がそうだと思っていることを一緒に「こうかなあ?」と皆さんの顔を見ながら話しをするつもりでやってみたいと思います。前もっての資料を用意するべきなのですが、そういうその場その場で湧いてくる話題をしゃべるので、持ってきていません。僕がコンテナに知識をつめて皆さんのところにもってくるということはしません。皆さんの顔を見て、目を見て、こういうことに関心がありそうだな、というのを察してしゃべります。意外とこれが正確なんですよ。


 哲学は、「どう問うか」ということを考えてきた。問いたいことはみんなあるんですよ。人生の意味、死について、愛について。でも、同じような意味で「科学」というのは問いたい問いになるでしょうか。
 僕は問いたいです。
 例えば、死というのは僕にとってもものすごい大事な、必ず来るらしい――どうも僕は死ぬ気はしないんだけどね、もしかしたら死なないんじゃないかと思っているんだけれど――ことである。このまえ、車を運転していたら突然人が飛びだしてきて、ブレーキを踏んでハンドルを切って、壁にぶつかる! と思ったときは、死ぬ事を考えました。そういうとき、「死とはなんだろう?」と問いたくなるよね。
 しかし、科学というのはそういうふうに問いたい問いでしょうか? 多くの人は言います。現代は科学のただなかに生きている、携帯を持っていない人はほとんどいないし、メールを使ったりパソコンを使って検索しない人もいない。GPSなんて軍事設備を最近は徘徊老人や子どもの誘拐防止のために使っている。飯を食うにも、自然農法がクローズアップされるほど食品添加物だ農薬だと騒がれている、けれど、それらは入れないと流通システムが成り立たない。科学は、愛とか、死とか、人生や世界の意味とかよりも、ある意味でものすごく陰険な問題のあり方なんですよ。


 (……)記述している現象が科学といわれることは、どういうことなのか。そういうことを、僕は哲学として知りたい。これはギリシャ的な伝統なのかもしれないけれど、哲学はことの本質を知る、ただ記述するだけではなく、本質を知る。科学といわれる本質はなにか。この本質も、なにかあるものがあって、と想定して本質といっていいのか。つまり、実在論や観念論、という話の以前に、ここにチョークがあります、けれどチョークがあるのはパトナム(Hilary Putnam、1926-)の言うところの「桶の中の脳」 の見ている夢のなかかもしれない。でも、日常にそんな問いを立てる人はいない。哲学はそれをやる。業(ごう)としてそういう問いを立ててしまう。どうやってその業をまっとうするか? ということを考える上で、科学というものは非常によろしいものがあるのだということです。逆にそれが西洋の伝統のなかにたくさん入っていた基礎的な概念、「真理」「実体」「普遍」というものをコントラストしてすこしだけ覗かせてくれるかもしれない。だから、僕らにとってまともではない、というのはちょっと言い過ぎですが、僕らの体に染み込んでいないような哲学に対してあえて穿った問いを立てる材料として、科学というものを出しました。























最終更新:2012年07月12日 09:34
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