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第02回 2009年09月28日 > 3.真理=見るという構造は避けがたい

目次


「疑われている私」と「疑っている私」のずれ

 デカルトは言います。神様は悪しき霊かもしれない。あるいは、欺く神であって嘘をついているかもしれない。でも、「疑っている私が、いま疑っているということを、私は疑えない」。これがポイントになるわけです。
でも、なんででしょう? なんで「疑っている私が、いま疑っているということを、私は疑えない」んでしょうか? これは不思議なんですよ。疑ってもいいじゃないですか。じっさいにサルトル(Jean-Paul Sartre, 1905-1980)は若い頃にこの問題を扱いました。そして、疑っている私と疑われている私が同じである保証がないことに気がつきます。デカルトの言葉では、「pour soit(fur sich):対自」と「an soit(an sich):即自」がすでにずれているじゃないか、というのがサルトルの意見です。この二つの言葉はヘーゲルから来ているのですが。つまり、「疑われている私」が「対自」で、「疑っている私」が「即自」です。
ここで実存哲学者サルトルが注目しているのは行為なんですよ。疑うという行為が疑い得ない。つまり、内容ではなくて、行為に対して「疑えない」ということをデカルトは言っているわけです。
 ここで「行為とはなんだ」という議論に戻ります。「見る」ということは行為の結果、「見たこと」であったわけです。目線を向ける(look)だけでは見る(see)ということは起こらないわけですよ。「見て取った」という完了した結果がないと見る(see)は起こらないわけです。完了した結果を、結果として固定してくれるのが、「見た内容」なんです。行為はすでに流れ去ってしまっているため、結果を固定してくれない。――それが真理という言葉のベースとなってしまっている一つの考え方なんです。
 その見方をベースにしてよいのだろうか、という議論があってもよかったんですよ。ところが、真理の発見という結果の議論ばかりをしていた。
 これはシラバスに書いたとおりですが、社会との関係という問題とも関わるし、現代ならハーバーマスのコミュニケーション理論とかルーマンの社会システム論なんかと関わってきます。そういう文脈の問題があるにもかかわらず、真理の発見が問題なのだと言ってしまっていいのだろうか。見たことの結果、に限定してしまってよいのだろうか。
 科学においてはこういいかえられます。実験することが重要なのか? 実験結果が重要なのか? この問いが科学哲学で問われ始めたのも最近のことです。出てきた結果をさらになにに使うか――「運命」や「神」を見ることも含めて――という目的論的な部分をぜんぶ知らん顔して真理を自己目的化したのが科学であったわけです。
 ということをふまえると、見るということ、思考するということが完了動詞だと考えるところに哲学の問題点があるわけです。

(哲学の)言葉は信頼を置くに足るか?

ところで、「いま私が疑っているということを、私は疑えない」ということをなんで言えるの? という問いに対する反論として、こう答えることもできます。「だって、疑ってしまったら「疑う」という言葉が成立することができなくなるじゃないか」と。デカルトもこう反論します。
さて、ではなぜデカルトは言葉に信頼を置くことができるのでしょうかね。
もちろんこの反論はまともなもので、一般的に考えれば納得することもできます。でも、疑うというのは言葉でしょう? 疑うという行為について、彼は答えていないよね。言葉に即して「「疑う」が成立しないからだめです」という話は、なにによって保証されるのか、という問いかけに対してデカルトは答えを持たないわけですよ。
 でも、デカルトはそのあとで「cogito, ergo sum (Je pense, donc je suis )」まで導いた。この移行をデカルトはしょうがないとした。でもこれはピュロン派のしょうがなさと近いんですよ。要するに、そこに現にそれが起こっているということ(デカルトの場合は疑うという行為が行われているということ)を認めてもいじゃないですか、べつにそれを判断のベースにしてもいいじゃないですか、ということです。そしてデカルトは「私はある」へと移動する。でもこれは現象的にいまある、基礎がなくていまあるに留まってしまったらそれで終わってしまうし、と言っても、涅槃に行きましょうということでもない。ここで、デカルトは真理のもっている強制通用力として、結局もう一度神様を持ち出すわけです。神の連続創造ということを彼はいいますし、神様はいつでも私たちに誠実であるとも言いますし、神の存在論証もやります。だから非常に不徹底な側面が残ってしまう。
 だからその神様の話、意志論的神学を排除しなければならないということでライプニッツの批判があり、神という言葉を持ち出さずに「見る」ということを正当に行うためにカントが出てきたわけですね。
カントが行うのは、経験の可能性に対する吟味です。その経験とはなにか? 見られた、というかたちでの内容なんです。「見た」ということではなくて、「見られた」ということです。カントが影響を受けているイギリス経験論のヒュームは、意識という概念を、私たちが脳科学を通じてイメージするようなある種の機能的なものと捉えません。そうではなくて、「見た内容」のプールとして、そしてその「見た内容」が自己組織化していく、という両方の働きとして考えます。つまり、見られた内容の書き込まれる場所、溜まる場所として、その内容がどういうふうに関連しているのか、文節しているのかを考えているわけです。
それを問うのがカントです。しかしカントはそれを意識ではなく「判断」だと捉えました。判断という行為をベースにしたのです。でもやっぱり判断という行為ではなくて、判断の中身しか議論していない。
最近になって生の哲学ということが言われ始めましたが、少なくとも伝統的な哲学概念の成立に関しては「見る」ということを「行為として見る」ということの意味が捨象されたままずっときてしまったわけですよ。広い意味での理性が行き過ぎて、しかもカント哲学はニュートンの力学をモデルにしてその思想的受容としてヨーロッパで受け入れられました。ですから機械論的自然観ともかかわってくる。例えば、そこに座っている彼が何を考えているのかを知ろうとしたときに、MRIとかで脳のどこが励起しているかを計測して、そのデータをとって、これで彼がなにを考えているのかわかった、と思いたがる人が今でもいるじゃない。近世では、デカルトの機械論的自然観があります。自然とはパチンコ玉やビリヤードの玉の運動であり、それを外から見ていけばいいんだと。そうやって「見る」ということの整序化をどんどんやっていって、科学技術は発展していった。でも、いやいや、俺たちはそんなんじゃないぞ、生きてるんだぞ、というロマン主義の巻き返しもあった。「疾風怒濤」(Sturm und Drang)ですね。そのころから、生きているということをどうにかしようという風潮が起こった。けれど、哲学は非常に微妙になってしまったわけです。矛盾する立場ですよね。哲学は行為ということから受け取るべきものをなんとかしようと考えはじめなければいけなかった、しかし難しくてできなかった。
だから哲学者、というより思想家ニーチェ(Fridrich Nietzsch, 1844-1900)は哲学的な言い方に対して拒否感、というか、最終的に保証するものとして認めず、とりあえず支えるもの以上の何かして捉えることをしなかった。そういう流れのなかで、方法論的懐疑なんてひどいんで、コギトをとりあえず存在の問題のほうに振り分けちゃった人がいる、それがフッサール(Edmund Husserl, 1859-1938)です。現象学の始まりですね。そしてハイデッガー、とくに後期ハイデッガーが詩のなかで神話的な体系を作り、反哲学という流れを作っていった。

真理=見るという構造は避けがたい。

 私がここで問いたいのは、行為ということを、ある時空間の内部で行為しているよ、と見なすことはできるんだけれど、そうではなくて、どういう機能なのかということなのです。伝統的哲学においては「見る」ということの行為の側面を捨てて、「見た結果」の部分だけを抜き取ってきた。「見た結果」というのは「見る」という行為の措定に関して無頓着でよかったわけです。だから、行為ということはどういうことなのか、ということを言わなければならない。ふつう、行為というと肉体が入ってきますよね。身体が関わってくる。いまこうやって右腕を右から左へ動かしてみる。でも、これは外から見た記述だよね。右腕がこの位置からここまで動いたというだけで、僕がそれをやったということはわからない。
つまりいま、「行為そのもの」が行為として言われたのではなくて、行為を他から「見た結果」が行為として言われたのですよね。つまり、視覚が持っている、生物的に異常なほどに強い情報収集力に、私たちは常に引きずられてしまう。さらに哲学においては「見る」ということを主題化しなければならない。真理=見るという構造は避けがたい。でも、これを行為という文脈に置き直したらどうなるか。――という方向で考えていくときに、科学といっていることがどういうかたちで関わってくるか、という問いかけになるわけです。
 近代科学が成立するときには、思想的に近代化学を理解するという方向から進んできた。つまり「見る」という比喩をつかいながら科学の現状を考えることで、次なる発展を準備してきたわけです。だから、どういう考えに基づいているか、という側面が大事だった。
 でも今日では、科学の全体を私たちの誰もが見ていなくても、科学はどんどん進んでいく。そして私たちに影響を与えていく。つまり、「見る」ということを成立させる部分に対して、行為が逆転するかたちで効いてきている、それが今日の状況です。まずこの状況を受けとめるように、行為として哲学をするということを問いかけとして考えたらどうかな、というのが今日のメッセージです。

「判断」という行為、「推理」という行為

 今日はずっと「見る」という比喩について話してきたわけだけれど、「見る」ということは対象があるわけですよね。視線を向ければ(look)、結果として何かを見てとる(see)。でも、哲学はずっと「知性で見る」ということを考えきた。繰り返しますが、「見る」が哲学では知性の意味だったわけです。でも「知性で見る」ってどういうことでしょう。一般的には「考えること」ですよね。
 カントにおける悟性のはたらきは「見て取る」に非常に近いです。「SはPである」という形を認識すること。この働きが悟性です。そして述語であるPが「カテゴリー:範疇」と呼ばれます。これはアリストテレスでも同じで、主語はカテゴリーにはなりません。カントは「判断表」としてPの形式に備わっている形として以下の四つを出しました。「私たちがこういうかたちでの判断をするときに、これ以外の型がないだろう」。つまり、カントはあくまでも行為としてのレベルで「判断表」を導き出したわけです。

カントの判断表
量:肯定 Px,
  否定 」(Px),
  無限(」P)x  [u]
質:全称的(すべての~は-である)
  特称的(幾つかの~は-である)
  単称的(一つの~は-である)
関係:定言的(~である)
  仮言的(~ならば、-である)
  選言的(~か-である)
様相:蓋然的(~かもしれない)
  実全的(~である)
  確定的(~であるに違いない)


 命題の形式はなんだろう、と考えると、命題の可能性を全部集めてきて、それを組み合わせることが求められるから、ものすごいあるわけですね。カントはそうせず、Pの内容を変数のままで考える。ただ、Pには違った側面がある、ということを言うときに彼は判断という行為の仕方に基づいた。「量」「質」「関係」「様相」というものに、私たちの考えるという行為の仕方があることをカントは気がついていた。カントは、ある判断を下されている世界の事態を命題に落とし込むときに、そのときに関わってくる行為が帯びる質について考えていたわけです。
 このように、「判断」は行為として位置づけることができました。
 しかし、「推理」はどうでしょう? 推理を行為するとはどういうことでしょう?
 数学で問題を出されて、とりあえず出た答えを先生のところに持っていく。答えは間違っていて、先生は言う。「もっとよく考えろ!」。でも、考えるって、行為としてどういうこと? わからないよね。試験中に答えを探しながら、レポートを書きながら、論文の構成を練りながら、私たちは「いま考えています」と簡単に言います。でも、どう考えているんでしょう? 「考えている」という言葉で何を指そうとしているのでしょう?
 でも、この推理のレベルが一番大事なわけですよ。本当の意味で「見た結果」と世界というものの差異を埋めることができるとして、そのための方針を考えるための働きですから。
 そこに対して「問えないものは問うな」とするのは一つの回答です。そのとき私たちはどうするかというと、また「見て」しまうんですよ。何を見るかというと、まだ考えられていないのに考えようとしているもの、正しいものを「見て」しまうんですよ。カントが言うように、知性は理性の枠を飛び越えていこうとするわけです。哲学は普遍的なものを考えたい。なのに、「考える」ということがどういうことかわからない。だから「愛」、「死」、「運命」、「人生の意味」を、ついつい「見て」しまう、見ようとしてしまう。そこのところで、行為としての見るということの問題が起こってきます。
 次回からは、考えるということの行為性からシステムの議論に行きたいと思っています。今日のポイントとなる問いかけは、「考えるという行為を、どういう意味で私たちは捉えているのか」、これです。これは私たちの課題です。この課題に対して、思想史としての哲学はある特殊な回答をとってきたということを了解していただければ、今日は結構です。
最終更新:2011年06月02日 10:22
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