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◆一部抜粋◆
ギリシャにおいて「運命」は典型的にギリシャ悲劇によって表現されます。そして、ギリシャ悲劇の最盛期、三大悲劇詩人 のころが、さきほどのソクラテス・プラトン・アリストテレスとほぼ同じです。哲学者にはだれも賞金を出しませんでしたが、悲劇詩人には莫大な賞金と名誉が与えられました。『アンティゴネー』や、心理学科の人にとってはおなじみの『オイディプス王』がソフォクレスによって書かれ、上演されたのもこのころです。このように「運命」ということが――これはじつは次の「世界観」の授業にも関係するのですが――「運命」が一番のベースである彼らの発想においては、「運命」をどのように知ることができるか、というのが最大の問題だったのです。
例えばオイディプス王は自分の親を知らずに羊飼いに育てられ、父親を殺し、母親を妻としてしまい、それがもとでテーバイから追放されて死ぬ。これが運命だ、と。でも彼はひとつも悪いことをしていないですよね。責められるべきものを持っていない。しかしそれが決定論しての「運命」であり、しかもそれは私たちにはわからない。
そういうときに、「観想」とは「運命」を観ずることだったのではないか? 「運命」は変えられない。モイラの女神がもう紡いでしまったから。でも、「運命」を見ることによって心の平安を得られるかもしれない。これはストア派やエピクロスなんですよ。哲学をするというときの一番のベースはギリシャにおいて「運命に対して、私たちは何ができるか? もしくは、何ができないのか?」ということに対するひとつの了解のもとで始まった可能性があります。
これは間違いかもしれないですよ、私はギリシャの専門家ではないですから。でも真理とはなんなのか? 大雑把に言ってしまえば、「明らかにする:アレテイア」ことです。世界は明らかなんですよ、運命が進展していけば。しかしそれをそれとして自分が生きるには、 前もって運命を明らかにして、運命にたじろがないようにするための、それが観想だという可能性があります。つまり、非常に消極的な意味での行為、行為をあきらめた行為としての哲学があったと考えることができます。
「観想」=「運命」を観ずることが、基本的には真理の認識というようになるわけですよね。「真理」にはいろいろ訳があって英語だったら「truth」ですし、ドイツ語なら「Wahrheit」、ラテン語なら「veritas」。でも、真理というものに対する関わりであるということが、ギリシャとの接合から来た哲学の成立においてずっと一貫していたわけですね。そうすると、真理である以上、どうやったって私たちの勝手にはならない。だから真理は「見る=観る」ものだと。「見る」というタイプの行為をベースにした形で哲学の議論はずーっと続いているわけですよ。
ところが、だんだんと確実に、純粋に見ているかという危険性を帯びるようになってきた。
繰り返しますが、「見る」というのは行為だとは考えられていません。だから、「見る」ということは外に向かってすることである。もっとも甚だしいのは、「運命」に対してもっとも従順であると言われるエピクロス派で、「平静な心:アタラクシア」と言っていますけれど、まったく無感動であることを説きます。例えば、会社に勤めていたらある朝倒産してお金が一銭も入らなくなった「うわあ、明日からどうしよう!」、あるいはデートの待ち合わせ場所に行ったら恋人が来なくて後日、二股かけられていたことを知った「うわあ、なんてことだ!」、これらは運命を知らなかったからです。人生を楽しむために生きなければならない。では楽しむためにはどうしたらいいか。美味いものを食おう。でも美味いものばかり食べていたら糖尿病になって苦しむかもしれない。それはまずいじゃないか。……それをどんどんあげていき、「見る」という立場の一番の到達点は「運命」と合致するというかたちで幸福に至ろうとするのが「平静な心:アタラクシア」です。ここで「見る」はふつうの意味での行為から完全に切り離されています。
私がここで問いたいのは、行為ということを、ある時空間の内部で行為しているよ、と見なすことはできるんだけれど、そうではなくて、どういう機能なのかということなのです。伝統的哲学においては「見る」ということの行為の側面を捨てて、「見た結果」の部分だけを抜き取ってきた。「見た結果」というのは「見る」という行為の措定に関して無頓着でよかったわけです。だから、行為ということはどういうことなのか、ということを言わなければならない。ふつう、行為というと肉体が入ってきますよね。身体が関わってくる。いまこうやって右腕を右から左へ動かしてみる。でも、これは外から見た記述だよね。右腕がこの位置からここまで動いたというだけで、僕がそれをやったということはわからない。
つまりいま、「行為そのもの」が行為として言われたのではなくて、行為を他から「見た結果」が行為として言われたのですよね。つまり、視覚が持っている、生物的に異常なほどに強い情報収集力に、私たちは常に引きずられてしまう。さらに哲学においては「見る」ということを主題化しなければならない。真理=見るという構造は避けがたい。でも、これを行為という文脈に置き直したらどうなるか。――という方向で考えていくときに、科学といっていることがどういうかたちで関わってくるか、という問いかけになるわけです。
近代科学が成立するときには、思想的に近代化学を理解するという方向から進んできた。つまり「見る」という比喩をつかいながら科学の現状を考えることで、次なる発展を準備してきたわけです。だから、どういう考えに基づいているか、という側面が大事だった。
でも今日では、科学の全体を私たちの誰もが見ていなくても、科学はどんどん進んでいく。そして私たちに影響を与えていく。つまり、「見る」ということを成立させる部分に対して、行為が逆転するかたちで効いてきている、それが今日の状況です。まずこの状況を受けとめるように、行為として哲学をするということを問いかけとして考えたらどうかな、というのが今日のメッセージです。
最終更新:2012年07月12日 09:34