井上毅


明治22(1889)年2月11日「大日本帝国憲法」が公布された。プロイセン憲法を手本として作られたこの憲法は、反民主的要素と天皇の絶対性が結びつき日本の民主化を妨げたが、結果的に封建社会の近代化を進め、政党政治の発展に大きな影響をあたえた。この日本初の近代的成文憲法の草案をつくったのが井上毅である。

幼い頃から、熱心に勉強に励み「神童」と呼ばれるほど優秀であった。その学才を認められ藩儒木下犀湛に入門、「木下門下の四天王」のひとりに数えられるまでになった。
明治3(1870)年には、開成学校(現 東京大学)の舎長を務め、その後司法省に勤務する。

明治5(1872)年法律調査の一行に加わり渡欧、フランスやドイツをまわった。井上毅は、台湾征討事件の解決のため、大久保利通が清国に派遣された際に、提出した意見書が認められ、随員の一人となった。
後に、伊藤博文のために「教育議」を起草するなど、多くの政治要人と繋がりを持つようになる。

民権運動が激しくなり、国会開設の要求が高まっていた明治14(1881)年、ついに大隈重信が政党内閣・国会即時開設の意見書を提出し、岩倉具視をはじめとする政府は苦慮していた。
ここでも井上毅は岩倉に意見を述べ、政治を誘導した。彼の意見は、政府が最も頭を抱えていた『天皇の存在』を、立憲制においてもきちんと据えなおす、という部分がきちんと解決されていた。このことで右大臣であった岩倉具視の感服を受け、憲法顧問となる。

大隈重信の国会開設の主張から、明治政府内の対立は深まり、「北海道開拓使官有物払い下げ事件」が勃発したことから、世間の政府を批判する声は一層高まった。
そこで政府は、大隈重信を辞職させ、官有物払い下げを中止し、「国会開設の詔」を出させ
明治23年の国会開設を公表した。(明治十四年の政変)これら全ての草案が井上毅の手によるものである。
彼は大隈重信を追放し伊藤博文中心の薩長政府の樹立を図ったのだった。
最終更新:2007年03月21日 16:09