岡田良平
岡田良平<おかだ りょうへい>
(号恭堂 1864(元治元)・05・04~1934(昭和9)・03・23)
1917年9月、
臨時教育会議が設置された。その中心となった人物のひとりである。
静岡県小笠郡倉真村岡田良一郎(淡山)の長男として出生。次弟は一木喜徳郎。明治20年東京帝国大学卒業。
23年第一高等中学校教授。26年
文部省視学官。文部省参事官。27年山口高等中学校長。3年文部省実業学務
局長。万国衛生及び人口会議のためフランスへ渡る。34年文部総務長官。37年貴族院議員。40年京都帝国
大学総長。41年文部次官。大正5年文部大臣。6年
臨時教育会議を起こし、多年懸案になっていた学制改革
問題についての答申を実行して、
義務教育の国庫負担制度の端緒を開く。12年東洋大学長。13年文部大臣。
昭和4年枢密顧問官。
教育行政に尽くす。また
社会教育の面では大日本報徳社々長、産業組合中央の中心
人物として、特に農村の社会教育問題に意をつくした。大正10ー昭和8年根津育英会顧問。
最終更新:2007年05月10日 09:34