崩れ落ちる巨体からは轟々と炎が立ち昇る。
巨体をマンションに預け、燃え立つ姿はまるで大火に見舞われた山を思い起こさせる。
シンの唇に焼け落ちていく巨神の脂肪が貼り付いていく。
それを拭うには、余りにもシンの身体は酷使されていた。
鼻を突く刺激臭が、巨神の焼けていく臭いだとすぐにわかった。
不快でしかないはずのそれが、しかし今だけは心地良く思えた。
(ようやく……守れたんだ……)
何を、とは問わなかった。
ただ漠然とした、けれども確たる達成感が身体中に満ち満ちていく。
緩みそうになる頬を押さえながら、何となく照れ臭いようなむず痒さを覚えて、顔を下に向けた。
座りこんでいたエリオと不意に目が合う。
互いに言葉は交わさない。
けれども、エリオの顔にも似たような照れ臭さ、誇らしさが滲んでいた。
煤に汚れ、汗が張り付いた顔は、昨日よりもどこか大人びて見えた。
自分も同じような顔をしているのだろうか。
尋ねてみたくなった。
脳裏に浮かぶのは今はもう遠い過去のように思える親友の顔。
「やったね、シン!!」
「隊長…」
隠し切れない疲労を滲ませながら、それでも喜色満面の表情でフェイトが駆け寄ってきた。
その顔を見て、くすりとシンは小さく笑う。
何故シンが笑ったのかわからずに首を傾げる仕草は、彼女を年よりも幼く見せた。
本当に自分より三つも年上なのだろうか。
何だか可笑しく思いながら、シンはそっとフェイトの鼻の頭を指でなぞる。
フェイトの鼻の頭に付いた煤を指の腹で拭うと、悪戯が成功したように笑う。
その仕草、その表情にフェイトの顔が林檎のように染まる。
シンは気付いていなかったが、シンの浮かべた笑みは今までの彼のものとは異なっていた。
子供っぽさの残るやんちゃな少年少年した顔ではなく。
一つの事を成し遂げた、夢をその手に掴んだが故に勝ち得た、強さと気高さを孕んだ『男』の笑みであった。
(あ……)
その表情に、シンから放たれる雄の空気に、フェイトは急激に鼓動が高鳴るのを覚えながら、ようやくある事に気付いた。
「背、伸びたんだね」
自分の頭の上に手を当てて、そのまま横にスライドさせる。
フェイトの手は丁度シンの頬に触れて止まる。
「初めて会ったときは私の方が高かったのに」
「そういえばそうですね」
男の子なんだなぁ、とフェイトが感慨深く思っていると、フェイトの手をシンが掴んだ。
「ふぇッ!?」
突然の行動にフェイトがうろたえる。
普段シンにそれ以上のスキンシップを迫っているくせに。
そう、心の中で何度も自身に言い聞かせながらも、主と袂を分かったかのように、鼓動は高鳴る一方だ。
シンはそんなフェイトの事など知らぬとばかりに、まじまじと細い羽のようなしなやかな彼女の手を見つめる。
次第に、シンの眉間に皺が寄る。
「怪我してるじゃないですか隊長」
「え?」
「ほら、ここ」
「あ……そうだね、そういえばそうだった」
「直してもらってきて下さいよ?」
「う、うん」
子供を叱る様に、嗜めるように言い聞かせるシンの言うままにフェイトは頷く。
これではいつもと立場が逆だ。
たった一つの戦いで。
たった一つのきっかけで。
随分と大人になったようにフェイトは感じた。
これが男の子の成長なのかと、どこか嬉しく思うと同時に、寂しくも思えた。
「フェイトさん!!大変です!!」
「キャロ?どうしたの」
慌しく走ってきたキャロの帽子を直してやりながら、フェイトは落ち着かせる。
キャロは短く呼吸を整えると、縋るようにフェイトを見上げる。
「まだ、避難が済んでいないんです!!!」
指さしたのは巨神がもたれかかるマンション。
炎が揺らめき、蛇の舌のように近隣の建物を舐め回している。
炎を勢いは衰える事を知らず、真昼の如くシン達の立っている場所までを煌々と照らし出す。
ぎりッ、歯が軋む程に強くシンは歯を噛み締めた。
「俺が行きます」
「そんな、キケンだよ!!」
「中にいる人はもっと危険でしょ」
「それは……だったら私が行く!!」
フェイトの手がぎゅっとシンの袖を掴んだ。
「魔力が空なのにですか?」
「それは…シンだって一緒でしょ!!!」
あの巨神を倒すのに、なのは、はやて、そしてフェイトのトップ3は、その持てる力の全てを使った。
文字通り全てを。
否、死力を尽くさなかった六課の者は誰一人としていない。
シンも当然例外ではなく。
「同じガス欠なら、男の俺が行くべきでしょ?」
シンの言葉にフェイトが押し黙る。
正論であった。
魔力というアドバンテージがなければ一人の少女でしかないフェイトと、屈強な元軍人のシンとを比べたならば、どちらが適任かは明白である。
けれども、フェイトの手は引きとめるようにシンの袖を放さない
。
幼子が親を行かせまいとするように。
必死というよりも、健気なその行為に、シンはフッと険しく引き結んでいた唇を緩めた。
そっとフェイトの頭を撫でると、シンは一つ頷く。
「大丈夫。守ってみせます。誰であろうと」
「シンッ!!!」
そう言いきると、踵を返し、炎に向かって行くシンの背に、悲鳴にも似た声を上げる事しか、フェイトには出来なかった。
◇
少女は震えていた。
とうとう来たのだ。
とうとう来たのだ、と小さく呟くと一層震えが増した。
しかし、恐怖はなかった。
視線をぐるりと移す。
テーブルに突っ伏した一人の女。
少女の母であった。
手には包丁が固く握られていた。
左手からはおびただしい血。
既に固まり、どす黒く成り果てた血を汚らわしげに見つめる。
愚かな母だと思う。
少女の家はある宗教に入っていた。
母がではない。
母も父も、祖父も祖母も。
敬虔な宗教家であった。
そのような家に生まれた少女もまた例に漏れず、その宗教を信仰していた。
母親と同じように。
いや、それ以上に。
教典には今日という日が刻まれていた。
『悪魔が跋扈し、狂宴が始まる』
何とも陳腐なものだ。
しかし、少女は、そして少女の家族はそれを陳腐だとは思わなかった。
教典は絶対であったからだ。
そして、教祖はこう言った。
『悪魔に殺されれば魂が穢れる。その前に聖水で清めた刃で自らの命を絶つのだ』と。
母はそれを忠実に実行した。
何故なら母は信仰心に篤い人であったからだ。
愚かな母だと、少女はもう一度思った。
穢れた魂になるのを嫌って命を絶つ。
それはなんて……
「なんて利己的なの…」
自らの魂の清らかさばかりを思うあまり、肝心の事に気が行っていない。
舞い降りた悪魔を野放しにしておいても良いのか。
いいはずが無い。
主の手を煩わせてよい筈が無い。
本当に主への愛があれば、愛があれば自らを犠牲にしてでも悪魔を一匹でも多く殺すべきではないのか。
「そうよ………そうに決まってる………」
少女は信仰心に篤かった。
母親以上に篤かった。
しかし、少女の未熟な精神は、『自己犠牲』という大儀に酔いしれ、歪んでいた。
少女は恐怖で震えてはいなかった。
ただ、ただ、自己陶酔のあまり、興奮に打ち震えていた。
少女は窓の外をみる。
外は夕焼けのように赤く染まっている。
そう一面の赤。
何と禍々しいのか。
悪魔の赤。
その時、少女の住むマンションの一室がけたたましく開けられた。
「大丈夫か!!!」
少女の瞳に紅が飛び込んだ。
◇
「大丈夫か!!!」
一室一室マンションに飛び込んでは人の有無を確認した。
声を外から掛けているだけではわからない。
恐怖に声すら上げられない人間を何人も見てきた。
恐怖に足がすくんで動けない人間をごまんと知っている。
故に、一室一室、部屋を抉じ開けては確認をしていた。
倒れたタンスに足を挟まれている者がいれば手を貸した。
恐怖で動けない者がいれば叱咤した。
ティアナとスバルが駆けつけてくれたのは僥倖であった。
飛び込んだ先には、まだ幼女と言っても差し支えない少女が一人。
小刻みに震える不安げなその姿に今亡き妹が、出会った頃のヴィヴィオが重なった。
「もう大丈夫だから……君は俺が守る」
シンはだからこそ、気付かなかった。
気にもしなかった。
少女の震える手に握られているものに。
激しい炎と、それ故に刻み付けられた濃い影の隠すものに。
「さぁ、いこう……」
そういって、少女の肩に触れた時、初めて少女の瞳とぶつかった。
その瞳の色に、シンは心当たりがあった。
それは ―――――――――
「あ……くま……」
見開かれた黒目がちの瞳、掠れた声。
冷たい感触。
「え……」
冷たい感触がするりとシンの『中』に入り込んでいた。
ゆっくりと、やけにゆっくりとシンは顔を下ろす。
其処には装飾華美な銀色のナイフが根元までシンの腹に入り込んでいた。
刺さっているというよりも埋まるというように。
埋まるといよりも隙間を通すように。
冷たいと思ったのはほんの一瞬であった。
熱い。
急激な熱さ、そして脱力感がシンの全身に広がった。
痛いとは余り思わなかった。
それが少し意外で、何故か滑稽だった。
シンはもう一度顔を上げると、其処には熱病が一気に引いたように、真っ青な顔をした少女の怯えた顔があった。
「わ…わたし…わた…」
カタカタと震える手を見下ろそうとするのを、シンは自分の手を少女の手に被せることで止める。
少女の肩が大きくビクリと震える。
シンは何故だかその少女が愛しくなった。
愛しいというのは些か違うのかもしれない。
放っておけない。
そう思った。
どうしてなのだろうか。
少女は怯えた瞳をシンに向ける。
「あ、ああ、あの、あたし…」
「大丈夫、全然平気だよ?」
少女の黒い髪を撫でる。
叩かれると思っていたのか、一瞬強張る少女が可愛らしかった。
苦笑が漏れる。
「ゴメンな?」
「え?」
「お兄ちゃんの目怖かったか?」
少女は暫しの逡巡の後、おずおずと頷く。
素直でよろしいと、シンは大人ぶって言う。
頭には、嘗てのなのはの姿があった。
彼女達も、或いはこんな思いで自分を見ていたのだろうか。
「大丈夫だよ。怖くない。君を怖がらせたりなんかしない」
「ほんとう?」
少女の震える手をぎゅうっと握り締め、シンは頷く。
一つ、小さく息をする。
腹部に広がる熱が、下半身を覆い、痺れを齎し始めている。
(BJくらい展開出来る余裕くらい残しておけばよかったな)
「いいかい、今からこの棟を出て真っ直ぐに走るんだ。階段に向かって真っ直ぐに」
「まっすぐ……」
「そこにお兄ちゃんの友達がいる。大丈夫、君をいじめたりしないから。その人に付いて行くんだ。そうすれば全部オッケーだから」
こくん
少女は小さく、けれども確かに頷く。
シンはホッとすると、少女の手を引いて立ち上がらせる。
立ち上がらせた瞬間、シンの身体に少女の小さな重みが掛かる。
本当に小さな、些細な重みだ。
しかし、それだけでシンは倒れそうになる。
それを歯を食いしばって耐えると、少女の背中をぽんと叩く。
二、三踏鞴を踏むと、びっくりしたように少女はシンを見上げる。
(もう一ふんばりだ)
「さ、先に行きな」
「うん…」
赤い服を着ていて良かった。
心の底からそう思う。
少女の背が遠ざかるのを見つめながらシンは深く息を吐いた。
「あの!!」
壁にもたれたシンに少女の声がかかる。
「ごめんなさい!!」
涙を浮かべながら言う少女に、シンはニイッと唇を吊り上げて笑ってみせる。
不敵な笑み、力強い笑み。
それを心に牢記しながら。
少女は安心したように、微かに唇を緩める。
初めて見せる少女の笑み。
「ありがとう、お兄ちゃん!!!」
そう言って、今度ははっきりとした笑みを作る。
瞳を閉じて、満面の笑み。
閉じた拍子に両の目の端から涙が零れ落ちた。
それでも少女は笑っていた。
走り出し、部屋から出て行く少女を見つめながら、ようやくシンは座り込んだ。
救われた。
シンは何故かそう思った。
冷たくなり、感覚の無い手を懐に入れると、シンは携帯に手を伸ばす。
一つ一つ渾身の力を込めるように、ボタンを押すと、暫しのベルの後で、喧騒が飛び込んだ。
『シン!!』
「ああ、ティアか……」
『こっちの避難は全部終わったわよ』
「ああ、こっちは最後の一人を送り出したところ。階段に向かってるからさ、頼むな」
『わかったわ』
「ああ……頼むよ」
『シン?』
電話口のティアナの声に不審な色が浮かぶ。
シンは自らを奮い立たせると、努めて軽い声を出す。
「何だよしおらしい。ティアナ様らしくないんじゃないのか?」
『ば、馬鹿!!何よしおらしいって』
「ははは……それでこそティアだ」
『………あんたこそらしくないわよ?無理矢理テンション上げてない?』
鋭い。
シンは内心驚く。
「実はさ、ちょっと怪我して凹んでる」
『何よ。情けないわね~~~怪我してるんじゃないわよ。折角ヴィヴィオがパーティーの準備してるのに』
「パーティー?」
『今日でアンタがこっち来て二年でしょ?』
二年。
もうそんなに経つのか。
あっという間の歳月の流れにシンは急激に感傷を抱く。
『ヴィヴィオったら張り切ってるんだから。シンパパをお祝いするんだって』
「そりゃあ楽しみだ」
本当に。
心底シンはそう思った。
『わかったら…さっさと帰ってきなさいよね』
ティアナの声はこの上なく優しかった。
シンは鼻の奥がツンとした。それは感激だけではなかった。
ようやく気付いた自分の感情。その激しい衝動に涙があふれた。
「わかったって。ああ、それとティア」
『ん?』
これが最後の最後の力だ。
歯を食いしばってシンは顔を上げた。
「俺さ、かなりお前の事好きかも」
『はぁッ!!!ば、ば、馬鹿言ってるんじゃないわよ!!!』
「それだけ。じゃあまたな」
『ちょ、シン!!』
自身の血でぬるぬるとしていた携帯はいつしか乾き、固まり、ごわごわとした感触になっていた。
しかし、シンの手は既にそれを感じるまでもなく、ころんと携帯を落とした。
シンはゆるりとうつぶせに崩れ落ちる。
さっきの少女の目。
マユに似ているとも思った。
それは確かだ。
しかしそれ以上に。
あの瞳の色に、シンは心当たりがあった。
それは ―――――――――
「俺の目じゃん……」
マユを失った自分。
ステラを失った自分。
レイを失った自分。
全てを失った自分。
ただ全てが憎かった自分。
全てが敵に見えた自分。
恐怖と怒り、混ざり合い濁り歪んだ自分。
いつの間に忘れていたのだろうか。
あれは嘗ての自分。
あの世界にいた頃の自分。
「そっか………救いたかったんだ………」
誰をではない。
あの頃の自分をではない。
あの日、あの時、全てを失ったあの日。
妹の手を握り締め、打ちひしがれ、泣き伏していた無力な自分。
あの光景丸ごとを救いたかったのだ。
「じゃあ、やったのか……」
シンの瞼の裏に浮かび上がったのはあの日の光景ではなかった。
なのは
はやて
フェイト
それだけではない。
六課の仲間達の顔。
エリオ
キャロ
シグナム
ヴィータ
シャマル
ヴァイス
かけがえの無い友人。仲間。家族。
スバル
ヴィヴィオ
そしてティアナ。
全てがこの世界に来てシンが手に入れたもの。
世界から失せたはずの『色』は、いつしか戻っていた。
嘗てのように。
それ以上の鮮やかさで。
「帰らなきゃ……」
シンは両の腕に力を込めた。
ずるずる。
血が張り付き、腹が擦れる度に気が遠退きかける。
それでもシンは力を込める。
どれほど進まなくても。
それでもシンは力を込める。
どれほど痛くとも。
「帰らなきゃ………帰りたい………帰りたい………」
◇
「どうしたの?」
フェイトが覗き込むティアナの顔は赤い。
それは炎のせいだけではなかった。
火照りを冷ますように、ティアナは両手を己の頬に当てる。
「な、何でもありません!!!」
「そ、そう?」
あまりの勢いにフェイトは後ずさる。
耳だけではなく首筋まで真っ赤にしておいて何でも無いわけは無いのだが、それを言うにはフェイトは勇気が足りなかった。
「そ、そういえば、ヴィヴィオの準備の方はどうなんですか?」
「ああ、二周年記念パーティーの?うふふふ、ヴィヴィオってばプレゼントまで用意してるよ」
娘の愛らしさを自慢する親馬鹿のように、相好を崩すフェイトを見て、つられるようにティアナも頬を緩める。
ヴィヴィオの健気さが目に浮かぶようだった。
それだけではない。
ヴィヴィオを溺愛するシンのデレデレになるであろう姿を想像したら自ずと頬が緩んだ。
『俺さ、かなりお前の事好きかも』
電話口でのシンの言葉が甦る。
また冷ました頬が熱を帯び始める。
「ばぁーーか…………とっくの昔から私はそうだったわよ」
口にすると、妙な温かさが胸に広がる。
シンが帰ってきたら言ってやろうか。
その時シンはどんな顔をするのか。
それを思ってティアナは一人はにかむように笑った。
最終更新:2009年09月12日 23:39