ザザ―ン、ザザ―ン。耳を打つ波の音。幻想郷には存在しない、青い海と白い砂浜。
水平線の彼方に見える、青く輝く大きな星。月ではない。あれこそが母なる惑星・地球だ。
では――ここはどこだ?
「月だぁーっ!!」
砂浜を踏みしめ、レミリア=スカーレットは両手を広げて歓声を上げた。
幻想郷の暦で第122季、星と秋と水の年。三日月の夜に打ち上げられた月ロケットは、約12日間もの長旅を経て、遂に月面に辿り着いたのである。
月の重力に引かれ、ロケットは月の都から見て正反対の場所に広がる大海「静かの海」に不時着。
着水の衝撃でロケットは大破したが、レミリアにとっては大した問題ではなかった。浜辺で霊夢と魔理沙が膝を抱えているが、気にしない。
元より月に行くためのロケットだ。月からの帰りなど考えていない。過去を振り返らないのがレミリアの主義なのだ。
お気に入りの日傘を差し、レミリアは早速散策を開始する。お目付役の咲夜は今、霊夢と魔理沙を慰めている。逃げ出すならば今が好機だった。
「桃、桃、桃……。どこを見ても桃の木ばっかね」
あてもなく森の中を歩き回るが、行けども行けども桃の木ばかり。ここは桃畑なのだろうか? それとも、月の民は桃しか食べないのか。
呆れ顔で周囲を見渡すレミリアの背中に、突然硬い感触が。振り返ると、番兵らしき兎が銃剣の切っ先を突きつけていた。レミリアは鼻を鳴らし――、
「がおーっ!」
吼えた。
「わきゃあああああああっ!?」
情けない悲鳴を上げて逃げ去る兎の背中を見送り、レミリアは散策を再開する。
はるばる月までやってきたのだ。桃とか兎とか、そんなありふれた物ではなく、もっと何か珍しい物でもないものか。
溜息を吐くレミリアの頭上に、不意に影が差した。
顔を上げると、片手に幅広の長剣を携えた一人の人間が、人間には珍しい紅い眼で空中からレミリアを見下ろしている。
――紅い眼の月人には手を出さないで貰えますか?――
いつか聞いた藍の言葉が、レミリアの脳裏に蘇った。月の獣。そうか、こいつか。レミリアの顔に喜色が浮かぶ。
「ふーん? 月には兎ばっかり住んでると思ってたけど、ちゃんと獣だっているみたいね」
紅い眼の月人、シン・アスカを見上げ、レミリアは獰猛に笑った。
東方儚月抄異伝~ツキノケモノ~
第三話「ゲキトウ(前編)」
空中へ浮上し、魔力を集中。迸る膨大な魔力が一つに集束し、真紅の槍となって実体化する。その数、五本。
レミリアは右手を頭上へ持ち上げた。腕の動きに合わせて五本の魔槍がふわりと空中に浮き上がり、その先端をシンへ向ける。
「まずは小手調べよ」
レミリアはそう言って右手を水平に下ろし――パチンと指を鳴らした。
――神槍「スピア・ザ・グングニル」×5
瞬間、空中の五本槍が矢のように撃ち出され、紅い閃光となって一斉にシンへ襲いかかった。シンは右手の長剣を振るい、襲いくる魔槍を斬り払う。
だが次の瞬間、槍の形に圧縮されていた魔力が爆発。至近距離で生じた爆炎がシンを直撃する。更に追い討ちをかけるように、他の槍も次々と着弾した。
「あら? 意外とあっけなかったわね」
もくもくと立ち昇る黒煙を見遣り、レミリアが落胆したようにひとりごちる。だが直後、黒煙の一点がきらりと煌めき、一条の光線がレミリアの片翼を撃ち抜いた。
徐々に晴れる煙の奥から、無傷のシンが姿を現わす。長剣をまるで銃のように水平に構えている。剣のように見えたが、どうやら銃剣だったらしい。
「意外と元気そうね。そうこなくっちゃ」
無邪気に笑うレミリアの視界から、シンの姿が突如消え失せた。
そして次の瞬間、炎を思わせる真紅の瞳が、至近距離からレミリアの眼を覗き込んでいた。
同時に胸に衝撃。視線を下げると、銃剣が胸に深々と突き刺さっている。
レミリアは吐血し――にやりと笑った。
瞬間、レミリアの身体が風船のように膨張し、破裂。無数の蝙蝠へと姿を変えてシンの前から飛び去った。蝙蝠達は再び一つに集まり、レミリアの身体が復活する。
「いきなりやってくれるわね。このブラウス、結構お気に入りだったのよ?」
血で汚れ、大きな穴まで開いたブラウスを指先でつまみ、レミリアが口を尖らす。だが服の破損とは裏腹に、レミリアの身体自体に傷らしい傷は見当たらない。
「……化け物め」
シンは苦々しそうに顔を歪めた。
「お前達の目的は何だ。何のために月へやってきた?」
「目的ぃ? そんなの決まってるじゃない」
シンの問いに、レミリアは得意げに胸を張る。
「この永遠に幼き紅い月・レミリア=スカーレット様による月の都の乗っ取りよ!」
それは真顔で語るにはあまりに壮大でふざけた野望だった。人が聞けば、十中八九痛々しいと失笑するか、或いは微笑ましいと苦笑するだろう。
だがシンは、そのどちらでもなかった。レミリアの言葉は、彼女が語る野望は、シンの中に眠る特大の地雷を――踏み抜いたのだ。
「――ああ、そうかい」
底冷えするような低い声でシンが唸る。炎を思わせる真紅の双眸は、明らかにその色を変えていた。
シンの姿が再び掻き消える。次の瞬間、横薙ぎに振り抜かれた銃剣がレミリアの首を斬り飛ばしていた。
しかし血飛沫とともに宙を飛ぶ首を、レミリアは自らの両手で掴まえ、平然とした顔で元の位置に嵌め直す。直後、銃剣のレーザー光線がレミリアを撃ち抜いた。
「そんなに」
怒涛の如く放たれるレーザー光線の嵐がレミリアを蜂の巣にする。
しかし無数に穿たれた傷口は、まるでビデオを逆再生するかのように瞬時に修復されてしまう。
それでも、シンは止まらない。
「そんなにっ!」
両手に握り直されたシンの銃剣が、レミリアを滅茶苦茶に斬りつけていく。だが斬った傍から傷口が再生。その繰り返しだった。まさに千日手である。
このままでは千日手である。しかしシンは諦めなかった。死なないならば、死ぬまで何度でも殺す。まさにそう言わんばかりに攻撃の勢いを増していく。
「そんなにいいいいいっ!!」
苛烈さを増すシンの斬撃が、レミリアの再生速度を徐々に上回り――そして遂に、完全に凌駕した。
柄の根元にあるトリガーを長押しし、銃剣のエネルギーをチャージ。ジェネレーターがフル稼働し、過剰供給されるエネルギーが刀身を淡く光らせる。
フラッシュバックする遠い昔の記憶。蹂躙される故郷、吹き飛ばされる家族。連鎖する憎しみ。行き場のない怒り、怒り、怒り怒り怒り怒り怒り!
そんなに殺したいのか? そんなに壊したいのか? そんなに、そんなに……!
「そんなに戦争がしたいのか!? あんた達はあああああああっ!!」
シンは絶叫とともにトリガーから指を離した。瞬間、最大出力で放たれたレーザー光線がレミリアを消し炭に変えた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
耳が痛くなるような静寂の中、荒く乱れたシンの呼吸音のみがその場に響き渡る。銃剣を握る右手をだらりと下ろし、シンは脱力した。
しくじった! シンの顔が苦渋に歪む。つい熱くなりすぎて、ペース配分を完全に誤った。地球からの侵入者は、あの吸血鬼一匹ではないというのに。
とにかく、今は体力の回復が最優先だ。一旦地上へ降り立とうとしたシンは、しかし次の瞬間――信じられない光景を目の当たりにした。
「――ねぇ、もう気は済んだかしら?」
耳を打つ幼い声。日傘を差し、まるで見せつけるかのように優雅に宙を舞う小さな影。
「じゃあ、次は私の番ね」
倒した筈の吸血鬼・レミリア=スカーレットが、まるで何事もなかったかのように――そこにいた。
吸血鬼は大妖怪の中でも最上位の一角に数えられる。当然、それは弱点や対抗手段が極端に限定されることを意味している。例えば白木の杭、例えば銀の十字架。
だがシンの武器は、そのどちらでもない。月の兵器は確かに強力だが、幻想の存在を完全に殺しきる決定打に欠けていたのだ。
――紅符「スカーレットシュート―Lunatic―」
レミリアの周囲に無数の魔法陣が浮かび上がり、魔力の光弾が次々と撃ち出される。高速で迫る数百もの光弾は、撃ち落とすにはあまりにも数が多い。
シンは「くそっ」と舌打ちし、襲いくる弾幕の嵐の中に自ら飛び込んだ。光弾の軌道を見切り、弾幕の僅かな隙間を潜り抜ける。
「へぇ? 結構やるじゃない」
見事全弾を避けきったシンに、レミリアが感嘆の声を上げた。
「じゃあ……コレはどうかしら?」
――獄符「千本の針の山―Ultra Hard―」
再び虚空に魔法陣が浮かぶ。今度は空を覆い尽くすほど巨大なものだ。
天上に蓋をする巨大魔法陣に、ぽつぽつと無数の光点が生じ、次の瞬間、針状に結晶化した妖気の塊が雨のように上空から降り注いだ。
降り注ぐ紅い針の雨は、一見無秩序にばら撒かれているようもに見えるが、その実、まるで自らの意思を持っているかのように正確にシンを狙って襲いかかってくる。
襲いくる針の雨から必死に逃げ回るシンを、レミリアは日傘を片手に悠然と見物していた。隙だらけだ。まるで襲ってくれと言わんばかりである。
だが弾幕の豪雨に晒される今のシンに、降り注ぐ針の雨の中を抜けて攻勢に転じる余裕はなかった。今や形勢は完全に逆転していた。
「あはははは! 凄い凄い!」
ルナティック級のスペルを二枚も凌いで魅せたシンに、レミリアは楽しそうに手を叩いて笑う。ここまで骨のある人間は久しぶりだった。
月まで来た甲斐があったというものだ。八雲の女狐にくれてやるなど勿体ない。紅魔館に持ち帰り、地下暮らしで暇を持て余す妹へのお土産にしよう。
でもその前に――もう少しだけ私が独占しても罰は当たるまい。レミリアは新たな魔法陣を空中に描いた。
だがその時、未完成の魔法陣をシンが銃剣で撃ち抜いた。術式が崩れ、魔法陣は跡形もなく消滅。漂う魔力の残滓もやがて消滅した。
「何よ。ノリの悪い奴」
スペル発動を阻止され、レミリアはへそを曲げたように口を尖らす。
「……ふざけた奴め。遊んでいるのか?」
苦々しげに顔を歪めて唸るシンに、レミリアは「あら?」と心外そうに首を傾げた。
「今更な話ね。こんな茶番、遊び以外の何だと言うのよ」
さも当然のような顔でうそぶくレミリアに、一度は鎮静化しつつあったシンの怒りがふつふつと再燃を始める。だがレミリアは、シンの変化に気づいていない。
「そもそも伊達や酔狂以外で、わざわざこんな月くんだりまで足運ぶ筈ないじゃない。馬鹿じゃないの、あんた?」
呆れたように肩を竦めるレミリアの科白に、シンの頭は沸点を超える。伊達や酔狂、そんな理由で月に攻めてきたのか?
そんなことのために、何の関係もない月の住人を混乱に陥れようとしているのか? ――ふざけるな! シンの怒りが爆発した。
銃剣を振り被り、虚空を蹴ってレミリアの眼前まで一瞬で間合いを詰める。無防備を晒すレミリアの脳天に、シンは躊躇なく銃剣を振り下ろした。
だが次の瞬間、渾身の力で繰り出した筈のシンの斬撃は、いつの間にか畳まれていたレミリアの日傘によって難なく受け止められていた。
「あまり図に乗るなよ? 小僧」
愕然とするシンを上目遣いに見上げ、レミリアは嗤う。
左手の日傘でシンと鍔迫り合いを演じながら、レミリアは空いた右手に魔力を集中。指先に小さな光弾を生み出し、シンを撃ち抜いた。
「うぐっ!?」
怯んだ隙を衝いて日傘で銃剣を弾き、がら空きの胴体に蹴りを一撃。身体をくの字に折り曲げて吹き飛ぶシンを見送り、レミリアは日傘を差し直す。
そのまま追い撃ちでもかけてやろうかと、レミリアが新たなスペルを紡ごうとしたその時――金色の閃光がレミリアの日傘を掠めた。
――式輝「狐狸妖怪レーザー」
突然の出来事だった。金色の光線が上空から無数降り注ぎ、シン・レミリアの区別なく襲いかかる。
「――私はちゃんと言いましたよね? 吸血鬼。そいつは私の獲物なのだと」
頭上から降る凛とした声に、レミリアが憤怒の形相で顔を上げた。釣られてシンも上空を見上げる。
大陸風の衣装を纏った一人の美女が、上空から二人を見下ろしていた。背中に見える九本の尻尾。狐の妖怪である。
「ごきげんよう、月の獣。私の愛しい怨敵君」
呆然とするシンを悠然と見下ろし、、突如現れた九尾の妖狐――八雲濫は、そう言って妖艶に笑った。
――続劇
最終更新:2011年02月15日 16:52