穏やかな日差し(と言っても、人工の日差しであるが)が部屋に差し込む、休日の昼下がり。
シンは日当たりの良い自室で、専用のテーブルの上に置かれているPCと向き合っていた。
「……えっと、ここがこうだから、こっちの音階は……」
ぶつぶつと呟きながらキーボードとマウスを操作する。
時折、不安定かつ怪しげなメロディーを口ずさみながら作業を続ける。
その顔は期待と不安が8:2くらいの割合で占められている。
「もうすぐできあがるからな。待ってろよ」
そう言って、テーブルの脇に置かれている箱を一瞥する。
パッケージには青緑色の長い髪を持つ女の子のイラストが描かれていた。
事の始まりは一ヶ月ほど前になる。
プラント本国勤務になってから、シンはかつての趣味であったネットサーフィンを再開した。
NJの影響によって地球のページにはアクセスできないものの、プラントのインターネットも充実してお
り、オーブにいた頃は地球のインターネットしか見られなかったシンにはとても新鮮であった。
更に、最近は非番になることが多く、暇を持てあまし気味な事もシンにとって、再びネットにはまるとい
うことは当然の帰結であった。
そしてとある休日、いつものようにネットを徘徊していたシンはプラントにあるPCショップのホームペ
ージに行き着いた。そのページのトップには、閉店前の在庫一斉処分セールを行うと書かれていた。
興味本位でページをめくり続けていたが、一つの商品がシンの目を引き、動きが止まる。
〝ボーカロイド 初音ミク〟
可愛らしいイラストが描かれた音声ソフト。それ自体は珍しいものでは無い。CEの時代では人とまった
く変わらない言葉や歌声を再生できるソフトがあるくらいだ。
だが、シンが動きを止めたのは商品ページに添えられている一文に、その最後の部分がシンの心に響いた
からだ。
『一度だけでも構いません。どうか彼女を歌わせてあげてください』
シンは、半ば衝動的に購入した。
何故かは分からない。イラストが付けられているとはいえ、ただのソフトである。憐憫の情などがわき上
がるはずもない。
だが、今の彼には新しい家族がいる。ただの兵器であったはずの、金属の集合体にすぎなかったはずの物
が、血の通った、暖かな人間として傍らにいる。
――そうだ、大事なのは人か物かじゃないだろ。
そして、一ヶ月。
音楽的な知識などまったく無かったシンであったが、レイやミーアにさりげなく教えを請い、更には自分
で集められるだけの資料を集め、曲の完成は目前に迫っていた。
「良し、これで……出来た!」
達成感からか、シンは大きく立ち上がり、声を上げた。
「これで、後は再生するだけだよな」
緊張した様子でカーソルを再生にあわせる。
――うまくいってくれよ。
心の中で祈りをあげ、クリックする。
「……?」
しかし、動かない。部屋にはPCの低い唸り声が流れるだけだ。
「なんで?! ちゃんとやったのに!」
シンは慌ててPCを調べようとした。こんなところでフリーズなんて冗談じゃない。
しかし、シンがマウスを握り動かそうとした瞬間、部屋は光に包まれた。正確にはモニターから圧倒的な
光量が飛び出し部屋を埋め尽くしたと言っていい。あまりの眩しさにシンは尻餅をつきとっさに手で目を
覆った。目も眩む光の中でシンの耳に、聞いたことも無い歌がささやかに幾重にも重なって聞こえたよう
な気がした。
光が収まり、ゆっくりと瞳を開けたシンの前に女の子が立っていた。
くるぶしまで伸びた青緑のツインテール。SF的な衣装に包まれた小柄な体。瞳は閉じられているが、整
った綺麗な顔立ち。パッケージに描かれていた初音ミクそのものが、シンの眼前に静かに、眠るように、
穏やかな様子で立っていた。
「あ……あ、あんたは」
シンはまだ、目の前の事態についていけず、呆気にとられていた。
シンの言葉に反応したのだろうか、初音ミクは目をパチリと開けた。
深い緑色のくりっとした大きな瞳がシンを捉える。その瞳に浮かんでいるのは歓喜の色だ。
「ご主人様!」
そう言ってミクはシンに飛びつき、抱きしめた。
咄嗟のことに反応できず、シンはなすがままに抱きしめられながら床に倒れた。
「あ、あんた、その初音、初音ミク……なのか?」
呆気にとられながらも、どこか冷静に目の前の事象を理解出来ているのは、似たような事例に出くわした
ことがあるからであろう。
シンが名前を呼んでくれたのが嬉しかったのか、ミクは満面の笑みで何度も頷いた。
「ご主人様の心はずっとミクに届いてました。ミクは早くご主人様の為に歌いたいと思ってました。自分
でご主人様の為に歌えないのがとても悲しかったです。でも、もう何の問題もありません」
言葉を句切り、ミクは特大の爆弾を投下した。
「ご主人様、さぁ早くミクを調教してください!!」
突然の爆弾発言にシンは慌てふためく。無論、これは言葉通りの意味ではない。初音ミクに関する隠語?
のようなものだ。
だが、シンはそんなことを知らない。言葉通りに受け取り、真っ赤になって固まっている。
そして、これは第三者の視点から見ても非常に誤解を生む光景である。若い女の子が男を押し倒し、調教
してくれと頼み込む。ついでに、その女の子がPCのモニターから出てきたイメージキャラクターと来た
日にはミネルバの某副長でなくても「それ、何てエロゲ?」と言いたくなること請け合いである。
そんな第三者的に誤解要素たっぷりな光景を見てしまった人物がいたのは不幸であった。この場合の不幸
が当事者なのか目撃者なのかは定かではないが。
ドサっとそこそこに重い物を詰めたビニール袋が、床に落ちる音でシンは正気をとりもどした。抱きつか
れた格好のまま、部屋の入り口に視線を向ける。
そこには、白のワンピースに身を包んだデスティニーが立っていた。ビニール袋を落とした左手は力なく
垂れ、アイスキャンディーを持った右手は顔の近くで制止している。表情は先ほどのシンと同じで、呆気
にとられ、目の前の光景がさっぱり理解不能だという風情だ。
「あ、あのなデスティニー。これは――」
弁解を試みようと、シンは話を切り出した。流石にシンでもこの状態は非常にマズイと思ったのだろう。
だが、呆けた表情のデスティニーの瞳に涙がたまっていき、シンは言葉につまった。
「マスターの……マスターの……」
「バカァァァァァァッッッ!!」
叫び、走り去ってしまった。
シンが今日何度目かも分からないフリーズ状態に陥っていると
「ご主人様? ミクが悪いの?」
こちらも泣きそうな表情でシンを見つめていた。
心の中で「マユ……お兄ちゃんに力を貸してくれ」と呟き、ミクとデスティニーを何とかしなければと、
己を奮い立たせようとした。
この日、シン・アスカにめでたく三人目の家族が出来た。
その名は、ボーカロイド・初音ミク
初音ミクさんの場合
終わり
最終更新:2008年07月24日 17:49