First stage
目の前に穴があった。
狭く、深く、そして昏い。傍から見ればどこまで深いのかも分からないほどだ。
別の世界と繋がっているんじゃないかという、そんな笑ってしまいたくなるような考えすら浮かん
でくるほどに日常とはかけ離れた穴。
……ゆっくりと、穴を覗き込むために近づく。
焦ってはいけない。中から何が飛び出してきてもいいように警戒しながら歩を進めていく。
やがて穴の縁まで辿り着き、片膝を着く。
できる限り声を抑え、シンは穴に向かって呼びかけた。
「おーい、雪歩? 大丈夫かー?」
「ひっく……ごめんなさい、ごめんなさい」
2メートルほど掘り下げられた穴の中には、泣きながらスコップを片手にさらにザクザクと地面を
掘り進める雪歩の姿があった。
「ってまだ掘るのかよ!? そろそろ俺でも引っ張り上げられなくなるから止めてくれ」
「うぅ~……」
子犬の瞳に言葉鳴き訴えが見えたものの、それを無視してゆっくり手を差し出す。
おずおずと手を伸ばす雪歩だったが、指先が軽く触れたところで弾かれたように引っ込んだ。
「はぁ……律子さん」
「はいはい、ほら雪歩。これで登ってきなさい」
そう言いながら縄梯子を持ってきて穴の中に垂らす律子の手際のよさに感心していいのか疑問
に思わないでもなかったが、そうこう考えている内に雪歩が穴から這い出てきた。
「今日の収録あまりよくなかったのは知ってるけど、だからって事務所の中に穴掘るのはやめなさ
いって」
「ぐすっ、すいません……」
そう、今日は雪歩の新曲が収録される『はず』だったのだが、あまりにも不調が続いたため延期
することになったのだ。
今回初めてのスタジオ、初めてのスタッフに囲まれての収録だったからだったのだが、人見知り
で男性恐怖症の雪歩にとっては並大抵のプレッシャーではなかっただろう。
結果、また事務所に深い穴が空いてしまったというわけだ。
「はぁ……とりあえず、今日はもう休みなさい。明日は休みだけど、疲れまで持っていく必要はないわ」
「…………はい」
目を真っ赤に腫らした雪歩が肩を落としたまま事務所を後にしようとする。
一瞬目が逢ったが、声をかける前に視線を外されて出て行ってしまった。
「やっぱり、かなりショックだったみたいですね」
「そうねぇ、最近は調子良かったみたいだし……まぁ、理由はただ失敗しただけじゃないでしょうけど」
え? と聞き返すが、なぜかジト目が返ってきただけだった。
「今日一日、雪歩の様子を見ててどう思った?」
どう、と聞かれてどう答えるべきかしばらく悩んだが、ひとまず率直に感じたことを言うことにした。
「最初は緊張してて……いえ、それだけならいつも通りだったんですけど、それから調子が良くな
るどころかどんどん悪くなって……なんです?」
はぁ、と小さな溜息が聞こえて反射的に問いかける。
当の律子はと言うと自嘲が含まれたような呆れた顔になっていた。
「いや、まぁ予想はしてたけどね……ちょっと気を遣いすぎちゃったかな」
今度はこれ見よがしに大きな溜息が出てきた。さすがに何度も繰り返されると不愉快な気分に
なってしまうのだが、文句が口から出るよりも早く後ろから声が上がった。
「律子さん、とりあえずある分はみんな持ってきたけど、ここに置いていいかしら?」
「あ、ありがとうございます小鳥さん」
振り向くと、何やら大きなケースを持ってきた小鳥がいた。どうやらスーツケースらしいが、それが
全部で3つとかなりの大荷物のようだ。
「なんですかこれ?」
「まぁそれは後で説明するわ。ところでシン、雪歩の力になりたいと思わない?」
「え?」
「人見知りとか男の人が怖いとか、ずっとそのままじゃ雪歩は前に進めないわ。だから、それをなん
とかするために協力してほしいってこと」
――考えるまでもない。
自分ができることなら何でもするつもりだった。
「……わかりました」
「うむ、大変よろしい。それじゃあ小鳥さん」
「えぇ。じゃあシン君、これなんだけど」
そう言いながら小鳥がスーツケースを開ける。
その中にはフリフリのレースをあしらったゴスロリ調のドレス、やけにスカート丈の短いチャイナ服、
シンプルな柄のワンピースなど様々な衣装が収められていた。
そして、長い黒髪のウィッグと化粧道具が一式……
「……失礼しましたー」
爽やかに笑いながら回れ右して帰ろうとしたところで、グワシと肩を掴まれた。
「ちょっとちょっと! まだ何も言ってないでしょ!?」
「言わなくてもわかるだろこれは! っていうかまたこんな展開かよ!? いい加減にしてくださいよ
もう!」
律子の手を振り払って出口へと向かおうとしたが、今度は両肩を掴まれた。
先ほどとは違う、まるで万力のような力で。
「こ、小鳥さん……?」
肩越しに振り返って確認すると、小鳥が俯きながらわなわなと震えていた。
「……シン君。これは雪歩ちゃんのためなのよ。ウチの事務所じゃ男の人は社長とプロデュー
サーさん、それにシン君しかいないし、社長には当然こんな頼みはできないしプロデューサーさん
は今日は接待で明日は休みなの」
「ちょ、小鳥さん痛い! 痛いですって!」
ミシミシと軋みを上げる肩の痛みに小鳥の手を引き剥がそうとするが、まるで鉄でできているかの
ようにピクリとも動かなかった。
「それにシン君は春香ちゃんたちにも負けないくらい顔立ちも整ってて肌も綺麗で、その上この前
の水泳大会のアレ……あの姿なら雪歩ちゃんだって男の人とは思わないはずよ」
「なんかあまり嬉しくないんですけど……って近っ!? 小鳥さん顔近いですって! なんか怖い
から離れてください!」
背後で膨れ上がる異様な迫力。そして得体の知れない悪寒にかつてないほど恐怖を感じていた。
中途半端に窺える小鳥の眼にはギラつく光すら見える。
「なにより! あのコスチュームは私のむこう一ヶ月分の妄想を満たすほどのものだったわ!」
「それ雪歩のことと関係ないじゃないですか!? っていうか小鳥さんマジで放してくださいって!」
どんなにもがいても肩に食い込んだ手が離れることはなく、それどころかより一層力を増していく
一方である。さらに首筋に熱っぽい息遣いを感じてたちまちパニック状態に陥った。
「だだだだだだ大丈夫! やっ、優しくするから!!」
「いやっ! やめてっ! 小鳥さん、小鳥さぁぁぁん!!」
「ってコラーーーーーー!!」
律子に後頭部をひっぱたかれた小鳥は、強引にこちらの服を脱がしにかかった状態でハッと
夢から覚めたように辺りを見渡した。
「あ、あれ? 私いったい何を……」
「こっ、小鳥さん。落ち着いたんならとりあえず離れてください!」
「えっ? あっ、ご、ごめんなさい!」
ようやく自由になったが、両肩にジンジンと痛みを感じる。ひょっとしたら痣になっているかもしれない。
「まったく……断られたら別のプランで行こうって言ったじゃないですか。なんで無理やり剥こうとし
たんです?」
「それはその……日頃の妄想が暴走した結果というかなんというか」
「いつもどんな妄想してるんですか小鳥さん……なんか俺まで引っ張られたじゃないですか」
今さら恥ずかしそうに頬を染める小鳥と鏡を見ずとも憔悴しきっていることが分かるこちらの顔を
交互に見て、律子は大きく溜息を吐いた。
「やっぱりダメか……しょうがないわね。シン、明日は休みでしょ? 予定空けておきなさいね」
そう言って律子はこちらの返事を待たずに携帯を取り出し、誰かへと繋いでいた。
「――あ、もしもし真? ちょっと頼みたいことがあるんだけど、明日のオフにね……」
最終更新:2008年10月24日 23:32