靄の掛かった視界に小さな、本当に小さな人影が二つ映る。
誰なんだろうかと思う一方で、知っていると思う自分がいる。
『ヒック、ヒッグ、エグッ…グス…』
届いてくるのは幼い少女の泣き声。
この声は誰なんだろうと思う。
『ほらぁ…泣くなよぉマユ…』
そうだ、この声はマユだ。
マユって誰だ?
『だ、だっで、だって、お、お、おにい、ちゃん…』
『も~う、だからこの本を読むのは止めようって言ったのに…』
そうだ、マユは妹だ。誰の?
俺の?
そうだ、俺の妹。
次第にハッキリしてくる視界の中、小さな人影の内、更に小さな人影は妹のマユであった。
栗色のサラサラした髪の毛を二つに可愛らしく結んだ妹は大きな瞳いっぱいに涙を浮かべている。
尽きることを知らないかのように拭っても拭っても涙は溢れる。
『だって、すきなんだもん…このごほん…』
『そういって、いつも泣いてるじゃんか…』
もう一つの小さな人影は男の子。
納まりの悪い黒髪は鴉のようで、
血色の瞳はほとほと困りきったように情けなく歪んでいる。
涙を服の袖で拭ってやっているのは兄としての使命感なのだろうが、如何せん気が利かないのか、
力を入れすぎているせいで妹の目元は可愛そうなくらいに赤くなってしまっている。
あ~あ…
駆け寄ってやって濡らしたハンカチで冷やしてあげたいと思うが、
『自分』にはそうすることが出来ないということもとうに知っている。
◇
『あらあら、また泣いてるのマユ?』
優しい声と共に第三の人影が近付いてくる。
あ…
不意に懐かしさが込み上げ、眉間から目の奥にかけてツンとした感覚が走る。
人影は大きく、優しいラインを描いている。
『母さ~ん』
『お、おかあ、さ、ん…』
『またそのご本読んだの、マユ?しょうがないわねぇ…ほら、チーンしてチーン』
母さんと呼ばれた人影は、優しく妹を膝の上に抱き上げると優しく涙を拭ってやり、鼻をかませてやる。ぽんぽんぽんと優しく、宥める為に背中を叩く手を少年は羨ましそうに見ている。
『マユはどうしてこのご本が好きなの?』
『だって…お、おおかみさんが ――― で…』
『マユはどうしてこのご本で泣いてるの?』
『だって…ひつ ――― で、だから、かなしいの…』
『わけわかんねぇ…』
ところどころ、古びたラジオのように聞き取れない単語があるが、わかることがある。
妹はその本に登場するキャラクターが好きらしい。だから何度も読むのだろう。
妹はその本のストーリーの結末が悲しいらしい。だから何度も泣いてしまうのだろう。
しかし、少年にはそんな機微はイマイチ理解できていないようだ。
『こらっ、シンッ!!』
『ウッ…なんだよ…だってさぁ、泣くってわかってんなら読まなきゃいいのに』
『だって、だって、すきなんだもん…そんなこというおにいちゃんきらい!!』
『何だよ!オレだっていちいちメソメソ泣くマユなんて嫌いだよ!!』
『う、うぇ、うぇぇぇぇん!!おにいちゃんきらい!きらい!!』
『俺だって大嫌いだよッ!!』
『もう喧嘩するんじゃないの!シン、お兄ちゃんが妹を嫌いなんて言うんじゃないの!マユはまだ小っちゃいのよ。いつもは仲良しさんなのにどうしてこの本を読む時はそうなるのかしら…』
母はほとほと困り果てたという声を上げながらも、その表情は優しく緩やかに笑っていた。感受性の強い子供達の他愛もない兄妹喧嘩が微笑ましくてしょうがないのだろう。
そんな母の気持ちも露知らず少年は、シンは、小さい俺は、「ふん」と可愛げも無く鼻を鳴らす。
我ながら呆れるほどに生意気な子供だと思うが、今もそう変わっていない気がする。
そう苦笑しながら見守っていると、いつしか幼い兄妹は仲直りをしたようだ。
ぶっきらぼうながらも、六つ下の妹にとんと弱い兄が結局最後には折れ、ワガママなところもあるが甘えん坊で素直な妹は拗ねる素振りをするだけで、兄を謝罪を受け入れるとすぐに笑顔満面で兄にくっ付くのだ。そして兄はそんな妹の笑顔に毎回喧嘩のわだかまりなど何処かへとうっちゃってしまう。
母はそれがわかっているからこそ、無理矢理仲直りをさせようとはしない。
いつも適度に宥めて背中を押してやるだけで、この本当に仲の良い兄妹は元通りべったりになるのだから、呆れて溜息を就きたくなるのも無理も無かった。
「あの本…無くなった時マユのやつ随分泣いたっけ…」
呟いたのと同時に、何時しかシンの視界に映る世界は柔らかな空気と、温かな光に満ちた光景ではなく、一面鉛色に覆われた世界だった。
自身の呟きに目を覚ましたのだとシンはおぼろげに理解する。
『シン、どうした?』
「カミーユ…いや、何でもない…」
くぐもった無線越しの戦友の声に、曖昧に返す。
半舷休息とはいえ戦場が近いこともあり、主戦力のシン達はいつでも出撃できるようにコックピット内での各々警戒態勢に入っていた。
次元を越え、世界を越え、宇宙すら揺るがしかねない史上類を見ない混然とした世界の中、ザフト所属『ZEUTH』のエースパイロットの一人、シン・アスカは回転し始めた頭でようやく現状を把握した。
先ほどまでの温かく、優しい世界はただの夢。
鋼の揺り篭にいる自分こそが紛れも無い現実。
『凄いな…シンの奴…』
通信越しに聞こえる溜息にも似たガロードの声には、感嘆と微かな畏怖の色が混ざっている事に、人の感情の機微に聡いセツコはすぐに気付いた。
眼前のバルゴラのモニターに映るのは鱠切りにした巨大な機械の化け物達の屍の山に大剣を突き立て黒煙と紅蓮の火の海に傲然と佇む深紅の機体の姿があった。
インパルスガンダム
それは、三タイプの特化した性質を持つパーツを換装しながら様々な戦いを想定されたシン・アスカの専用機であった。中でも彼が好んで使うのが眼前の深紅のソードインパルス。
墓標のように立てられた大剣の傍らで、まるで何かがそこに視えているかのようにインパルスは遠くを見つめているように見えた。もう一つの大剣は既にビーム刃を消し、実体剣の部分は敵機のオイルが血の如く滴っている。
前髪の一部を赤く染めた少年と、色黒の少年達が「また徹夜だ~」と嘆く姿は最早ZEUTHの日常風景となりつつあった。
シン・アスカはZEUTHのエースパイロットの一人であるが、他のカミーユやアムロ、そしてセツコとは明らかに異なる点はそこにあった。
常に機体のエネルギー、耐久度の限界ギリギリまで酷使して戦うのだ。
その点が僅か一年足らずの実戦経験ながらも一番の撃墜数を誇る『スーパーエース』と称される所以なのだろう。
しかし、セツコは彼の戦いを見る度に泣きたいような気持ちになる。
シンはアムロ、カミーユのように自身で設計したからこその自機に対する愛着も無ければ、セツコのように敬愛した上官や仲間との絆の証という思い入れを抱いてなどいない。
それは当然といえば当然で、戦争においてはむしろセツコ達のようなケースが珍しいのだろう。第一、自機に過度な思い入れをすることは時として死にさえ直結する。
それでも、彼が単純にインパルスをただの使い捨ての道具、もしくはアスラン・ザラの如くMSを人殺しの武器と嫌悪する故にそのような戦い方をしていればそのような感情は湧かなかったのだろうとセツコは思う。
『シンはまるで、インパルスと一体化するような、自分自身を投影するかのような戦い方をしているように見えるな』
かつてクワトロが言っていた言葉を思い出す。
その言葉を聞いた時、セツコは自身の中にわだかまっていたものがすとん、と音を立てて落ちた気がした。セツコがシンの戦いを見て泣きたいような、胸を締め付けるような思いに駆られるのは、まるでインパルスを通してシンが己の身体を、命を、心を、魂をすり減らしながら戦っているように見えるのだ。
自分のように、文字通り機体に取り込まれるわけでもないのに、そこにセツコは共感と、自分自身でさえ説明の付かない憤りを抱く。
最初は、何故わざわざそんな戦い方をするのだという、自身の嫉妬から来る憤りだと思っていた。少なくともレーベンに裏切られ、アサキムに叩き潰され、ツィーネ等に人間から遠ざかると知らされた時、自身の味覚の欠如を通してそれが事実であると突き付けられた時はそう思っていた。
けれど、この戦いに命を懸けようと覚悟を決めた時心に生じたしこりの様な、棘のような痛みを伴う憤りの正体がそのような単なる八つ当たりのようなものだけではないと感じた。
けれども、それが何なのか、セツコはわからぬままただ戦いを今日もシンと共に終えた。
深い溜息を吐くと、戦闘によって汗で張り付いた髪の毛の感触に不快感を覚えると同時に、まだ味覚以外は正常に機能している事に安堵する。
もう一度改めて眼前のスクリーンに目をやると、インパルスは妙に人間味のある、気だるいと言いたげな緩慢な動作で墓標と化していた大剣を引き抜く。
まるで先ほどまで佇んでいたのが死者への黙祷のようにセツコには見えた。
ふと、何気にズームにすると、返り血のように浴びたオイルがインパルスの額の角から、瞳の形状をしたメインカメラを伝いゆっくりと顔を舐めるように垂れていくのが映った。
それはまるで涙のようで。
じゃあ泣いているのは誰なの?
ぶっきらぼうで、真っ直ぐで、不器用で、優しい赤い瞳の少年が脳裏にちらつく。
セツコは我知らずに胸元で手を握り締めていた。
◇
エクスカリバーを振るいながら、自分は何故あえてソードシルエットを使うのかという疑問に捉われる事が多かった。広域戦闘が可能なブラストも当然使用するのだが、シンはあえてソードシルエットを使用することが多い。
『ブラストならブワーッて殲滅できるじゃん』
軍人として、パイロットとして疑いたくなるような要領を得ない物言いをしてきたのはアカデミー時代からの友人のルナマリアであった。たしかに、射撃の苦手な彼女にから見れば弾数やケルベロスといった単純な火力で圧倒できるブラストシルエットは魅力的に映るのだろうし、それを使わない事が勿体なく見えるのかもしれない。
シン自体は射撃は特に苦手ではないので、寧ろ機動力の低いブラストシルエットに不満点があるくらいだ。
しかし、それはあくまで個人戦としての話だ。
愚連隊と言っても過言ではないものの、ZEUTHは小隊を幾つも組み、チーム一丸となって戦う。どのような原理原則で動いているのか疑いたくなるようなスーパーロボットまでいるが、そんな彼らでさえチームプレー、コンビネーションを決して軽視してはいない。
そういった意味では、ある意味大味なスーパーロボット達の後方支援から、遊撃隊まで幅広い戦術の可能なインパルスのブラストシルエットを多用しないのは宝の持ち腐れかもしれない。その事について特にアムロやクワトロ、鉄也といった指揮官的な立場の人間から注意を受けないのは一重に自分が彼らを差し置いて最も多くの敵機を撃墜しているからだろう。
しかし、ルナマリアに改めて聞かれると、自分でも確かに不思議に思えた。
剣を振り回すのが格好良いという程には流石に子供のつもりは無い。
そして、最近になって、その疑問に唐突に気付いた。否、気付いてしまった。
自分がエクスカリバーを振るうのが、MSのように人が乗った機体や、半生命体のような敵機が殆どであり、無人機に対して自分でも驚く程に使用していなかった。
その事に気付いた時は、インパルスに記録されている全ての戦闘データを、それこそガンダム強奪から現在に至る全ての戦闘を見直した。
疑いようも無く、自分は『命』を奪う際に剣を用いていた。
これは一種の儀式のようなものだとシンは判断した。
人を殺しているのだという確認をするための。
昔アカデミーの教官が「拳銃は人を殺した実感が湧かない。ただ引鉄を引くだけだからだ」と言っていた。その共感はだからこそ、戦場では躊躇うことなく銃を撃てと教えられた。ナイフは拳銃の使えない状況下で使用すべきであると。
人を殺す事に躊躇を覚えただけ、自分が死に一歩近付くのだと、そう教えられた。
酷い欺瞞だ
どちらにしろ命を奪うのなら、そんな拘りなんか必要無いと思った。
銃なら人を殺せて、ナイフなら人を殺せない、そんな奴が戦場にのこのこ出てくるものじゃないと思ったし、MSに乗ってしまえば関係ない事だと内心教官の言葉を一笑に付していた。
敵機の反応が消えたとの通信を受けて、シンはヘルメットを外す。
汗が髪の毛から滴るが、シンの視線は屍と化した異界の生物であったものをモニター越しに見つめ続ける。
『シン、帰艦するぞ』
「りょ~かい」
アスランの声に顔を微かにしかめると、ぞんざいな敬語でもって応対した。
最早自分の不遜な態度に諦めたのか、愛想を尽かしたのか、微かな溜息と共に通信が途絶える。ミネルバに向けてエネルギー残量の少なくなったインパルスを駆りながら、以前アスランに言われた言葉を思い返す。
『戦争はヒーローごっこじゃない!!』
「そんな事…アンタにだけは言われたくない…アンタ達だけには…」
以前上官に殴られた頬に手を当てながら忌々しげに呟く。
ならば、相手の武装やメインカメラのみを破壊する事は違うのか?
メインカメラを破壊されたMSは鉄の檻と化す。銃弾が飛び交う戦場で武装も無く、視界を暗闇に覆われる事はどのような心地なのだろうかと思う。
想像するだけで背筋が凍るようだった。自分であったら一層殺してくれと思うに違いない。
そうやって自分の正義に酔いながら、高みから相手を天使気取りで見下しながら偽善の刃を振るう事の方が余程ヒーローごっこに映る。
だから、シンはせめて自分が人殺しをしているのだという実感を得るためにあえて『剣』を用いているのだと、自分で自分を分析してみる。
「ははははははははは……」
嘲笑のような笑い声がコックピット内に力なく響いた。
ミネルバの格納庫に収容されると、ヨウランとヴィーノが何か喚いている。
きっと機体の使いかたが荒っぽいとか何とかいっているのだろう。面倒なのでしばらく身体の中から戦いの熱が出て行くまでコックピットに残っていようかなと呆けたように考えているうちに忘れていた戦闘の疲労がドッとやってきた。
緊張が一気に緩んだのか、瞼が鉛のように重くなる。
このまま寝てしまおうかなぁ…でもブリーフィングあるんだっけ…フケようかなぁ…
でもブライト艦長とか鉄也さんだと容赦なく修正が飛んで来るんだよな…
コン、コン、コン
いつの間にか半分眠りかけていたシンの耳にノックの音が聞こえる。
気付けばモニターの真ん前に人がいて思わずビクッと身体を起こす。
「シン君。ブリーフィングだよ」
インパルスのキャノピーの前に立っていたのはセツコ・オハラだった。
絹糸のような黒髪が覗き込むような仕草と共にサラサラという表現がぴったりに零れ落ちる。彼女のような人を『ヤマトナデシコ』と言うのだと以前グランナイツの琉菜が言っていた。彼女達の国で遥か昔から理想の女性像の一つとして例えられる言葉らしい。
清楚で凛として、慎ましやかな美女の事をいうのだそうだ。
「つまりルナとは真逆のタイプか…」と思わず呟いてしまったのを、運の悪いことに背後に来ていたルナマリアが耳にし、思いっきり足を踏みつけられた記憶がある。
けれども、確かにその表現は彼女をみている限りぴったりの表現であると思った。
シンには年齢以上に不意に幼い表情や仕草をするこの儚げな女性が未だに自分と同じくMSのような機体を駆り、戦場に身を投じている事が信じられないのだ。
「シンく~ん?寝てるの?」
遠慮がちにノックをする様が妙に可愛らしく、もう少し見ていたいなと思いながらもいつまでもそうさせておくわけにもいかないと申し訳なさが勝り、返事をしてやることにした。
「スイマセン。今開けますから、ちょっと下がっててもらえますか?」
返事があってようやく安心したのか、彼女特有の柔らかな薄っすらとした微笑を浮かべる。
その笑みを見る度に、シンの胸に形容し難い痛みが走る。
ズクンと、まるで心の奥の何かを揺さぶられるような。これに似た感情をかつてホンコンシティで出会った少女 ――― ステラにも抱いたが、それとは似ているようで、しかし、明確に異なっていた。
『戦争で家族を失い、軍に身を投じた』
そう聞き及んでいる彼女の境遇は、酷く自分と酷似していた。きっとこの痛みは其処から来る歪なシンパシーか何かなのだろうと思い、シンは思考を切り替えることにした。
モニターの向こうに映るセツコの微笑みを見つめる自身の瞳にどんな色が浮かんでいるかなど、当然シンには知る由もなかった。
◇
儀式に気付いた切欠はオーブ黒海のクレタ沖海戦を終えての事だった。
シンはその戦闘の際、獅子奮迅とも言える活躍をした。強奪された次世代機の一体、アビスガンダムを撃破し、オーブの空母タケミカズチを始めとする大半の敵艦隊を沈めた。
その戦闘後、未だ戦いの昂揚感の冷めぬうちにシンは、自分が撃墜した艦隊のリストに目を通した。オーブ軍の情報から抜き取ったデータに目をやったのは、単純にミネルバに大きな損傷を負わせ裏切り者のオーブの艦隊にはどんな名前の奴らがのっていたのだろうという気持ちからだった。そこにはシンにとって信じ難い名前があった。
『オーブ黒海派遣軍司令 トダカ一佐』
背筋に氷柱を突き立てられたような、ぞわりとした感覚が走る。
激しく動悸が高鳴り、酷く冷たい汗が背をチロチロと蛇の舌のように不快に流れ落ちる。
急ぎ足でインパルスのデータを洗いざらいチェックした。メインカメラに映っている艦隊の映像を一つ一つ最大望遠でチェックする。
半ば確信めいた予感がありつつも、それでも祈るように映像に目を通していくと、最後に落としたタケミカズチのブリッヂにただ一人佇むオーブの軍服を身に纏った男が立っていた。二年以上の時が経過していようと忘れる筈のない人物が其処には立っていた。
インパルスと目を合わせるように。
まるで、インパルスを通して自分を見つめるように、酷く静かに、到底死の寸前とは思えない表情で佇んでいた。
気付けばシンは膝を突いてコアスプレンダーの翼の上に崩れ落ちていた。
心には殆ど動揺らしきものは無い筈なのに、どうして自分が膝を着いているのかが判らなかった。シンは錆付いた機械のように自分の手に視線を落とした。
血相を変えて走っていったシンを心配してか、カミーユ、レイそしてセツコが格納庫に入ってくるのが足音でわかった。
「どうした?」と心配するカミーユの声も、「シン?」と怪訝な顔をするレイの声も何処か遠くに響いて聴こえた。
視界の隅に、何かを雰囲気で察したとでも言いたげな、痛ましげに自分を見つめるセツコの翠の瞳だけがやけに鮮やかに映った。
◇
特別な間柄というわけではなかった。
連合軍がオーブに侵攻して来た際、家族を失ったシンは暫しの間ではあったが、避難所での生活を強いられた。
そこで、シンはそれまでオーブにいて受けたことの無い境遇に遭うこととなった。特別にリンチを受けたというものではなく、シンが受けたのは無言の悪意というものであった。
避難勧告さえままならない状態で、オーブが戦場になったこと。
国民が敬愛していた指導者ウズミ・ナラ・アスハの死亡。
狭い空間に押し込められた他人との共同生活。
極度の緊張とストレスからくる無言の苛立ちが空気となって避難所の狭い空間に蔓延し始めるのにそう大して時間は必要がなかった。
その頃、避難民の間で一つの噂が流れた。
『今回、オーブが戦場になったのはプラントに協力していたかららしい』
プラントと敵対関係にある連邦の攻撃に曝されることになったのは、プラントに対する見せしめと、宇宙に在るプラント侵攻への足掛かりとするためのものであるというものであった。そして、オーブの避難民達の怒りの矛先はプラント=コーディネーターへと向う事となった。それはオーブに在住しており、ある意味ではプラントと無関係である筈のシン達オーブ在住のコーディネーターに向いた。
冷静に考えれば、政策の舵取りを誤った政治家達やプラントに怒りの矛先は向けられるべきである筈なのだが、そのどちらも無い状態で彼等は無意識に苛立ちを向ける先、拳を振り下ろす先を求めていた。
それは露骨な暴力ではなく、会話の端々であったり、自分達を見る目の中であったり、真綿でゆっくりと窒息させるような不快感とストレスを与えた。
特にシンの紅の瞳は自然にはまず有り得ない色であり、一目でコーディネーターとわかるものであった。それ故に、一際シンに向けられる視線は冷たいように感じられた。
もしかしたら、シンが幼くなければ、もっと直接的な差別を受けていたのかもしれない。
その頃になると、シン達コーディネーターの間でもオーブの民に対する不満、憤り、怒りが鬱積していった。他国と一線を画するオーブの様々な技術は全てコーディネーターによるものであることは周知の事実であるというのに、この仕打ちは何だ。
避難所で最も年長のコーディネーターがそう洩らしていた。
不用意な発言は、現状においては危険であるという事は避難所の中でも最年少の部類であったシンにも理解出来たが、誰も咎めようとはしなかった。口にこそしないものの、それはシン達が皆抱いていた気持ちでもあり、何よりシン達もまた、周囲の偏見と差別の視線に耐えることに疲れきっていた。
シンは避難所で満足に眠れぬ日々が続いていた。
日々曝される偏見の目には辛うじて耐えられた。同じコーディネーター同士で身を寄せ合うことで仲間がいると安心できたからだ。
本当に苦しいのは夜だった。
折れた木の下敷きになっていた穏やかだった父。
爆風で岩に叩き付けられた優しかった母。
そして、無惨に小さな、華奢な身体を壊れた人形のように投げ出された妹。
耳の奥深くで何かが割れる音が聞こえた。
それは多分自分の中で自分の世界が壊れた音なのだろう。
小さくいつも自分の裾を引っ張ったり、手を握ってくる柔らかな手、それまで当たり前のように傍らにあった筈のそれは、妹の身体から離れ、生々しいずしりとした力なき腕の重みがシンの手にしみついていた。
毎夜毎夜夢に見ては跳ね起きる。
自分の右手を見つめると、暗がりで尚赤々と妹の血がこびり付いているように思えた。
悪夢で跳ね起きるたびにシンは手を洗った。
それも執拗に。何度も何度も。
手が赤くなるほどに手を洗う内に、シンは再び眠りに就くのが怖くなった。
瞼の裏に焼きついた光景を改めて体験させられる恐怖。
夢の中では痛くないとは、一体誰が言ったのだろうか。
頭上を飛翔するMSの放つ衝撃に痛む耳
爆風に吹き飛ばされる瞬間の浮遊感
地面に叩き付けられた痛み
辺りに立ち込める硝煙と、人の肉の焼ける匂い
眼球に抉り込まれるように飛び込んだ物体と化した『家族だったもの』の姿
耳朶を振るわせる自分が放ったとは思えない慟哭
全てがありありと思い出せる。夢の中で寸分違わず再現される。
もう、いいって…!!
夢の中でそう叫ぶ。自分の夢だというのに、夢は主の意思を無視して喪失の一部始終を幾度も幾度も再現する。
跳ね起きてから、同類達の姿を見ると、家族、恋人、それぞれが身を寄せ合っている姿が目に映った。
どうしようも無く自分が独りになってしまったのだと思い知らされる。
子供の頃、もっと幼い頃は怖い夢を見ると母親のベッドに潜り込んでいた。
妹が生まれてからは子供心に母親を取られるのではないかという不安もあったが、ヤキモチを焼くどころかマユは母親よりも自分に懐き、怖い夢を見るたびに自分のベッドに潜り込んでくるような子だった。
思えば、自分はどれほどに温もりに包まれ続けていたことなのだろうか…
泣き喚きたい衝動と、そんな気すらも起こらない虚脱感。
二つの矛盾した感情に苛まれながら、結局は避難所の外で女々しく蹲って涙を流すことだけだった。
『君はプラントに行った方が良い』
声をかけてきたのは如何にも優しげな軍人であった。年の頃は父と同じくらいだろうか、軍服を着ていなければ間違いなく単なる気の優しそうなオジサンという印象を抱いたであろうその軍人はトダカとだけ名乗った。
たった十日程度しか経っていないというのに、偏見も、嫌悪も無い、純粋に自分を心配するナチュラルの瞳を見るのが何年ぶりかに思えた。
かける声に厄介払いをするといった感情は全く伺えず、ただ、ただ自分を労わるものであった。トダカと名乗る男性は、自分の年齢をおもむろに尋ねてきた。
「十四…」
感情が上手く作動していなかった自分は擦れた声で一言だけ零した。
自分の出したものとは思えないその声は、言葉ではなく、雑音の塊に聴こえた。よくよく考えて見て、この十日余り会話どころか、殆ど声すら上げていなかった。
トダカと名乗る軍人は、「娘より一つ下か…」と呟いた。
のろのろとした思考の中、唐突に年齢を聞いてきたのは娘と同じくらいの年齢に見えたのだろう。自分の子供がもし自分のような目にあったらと思うと気に掛けずにはいられないのだろうとまで考えると、随分とお人好しな人なんだなぁと他人事のように感じる。
一方で、そういった同情が出来ること自体、この軍人にとってはどこか他人事なのだろう。
娘がこの少年のような哀れな目に遭わずに済んでよかった、そういった気持ちの裏返しのようにその時のシンには思えた。
それは百パーセント有り得ないというわけではないのであろうが、多分冷静に思い返してみれば既に自分はこの時『オーブの人間』という不特定多数の全て、言い換えればオーブに関わる全てを嫌悪していたのだろう。
シンはその夜トダカの申し出に二つ返事で答えた。
避難所にいても先の展望が見えないという理由以上に、オーブという国にいるのが嫌だった。仮にその時薦められた先がプラントではなく、シベリアであろうとベルリンであろうと自分は迷うことなく行っていただろう。
プラントに行ってから、落ち着くと沸々と込み上げる自分の無力さへの怒りとやり場のない憎悪に苛まれ始めた。
ZAFTのアカデミーは、その時の自分には渡りに船であった。
徹底的に自分の心身を苛め抜くことで、強制的にシンは久方ぶりの熟睡を得ることが出来た。悪夢を見る頻度を減らせる上に自分にとって最もわかり易い形の『力』が得られる場所がアカデミーだった。アカデミーはそれなりに充実していた。シンにとって僥倖だったのはレイ・ザ・バレルとルナマリア・ホークという二人の親友に出会えたことだろう。
レイは無神経にシンの心の傷跡を抉る事をしない、シンにとって心地よい距離感を保ってくれる人間であり、ルナマリアは正反対にズカズカと人の内面に踏み込んでくるくせに妙に憎めず、それまでアカデミーで半ば意図的に作っていた他者との間の壁を易々と壊してきた。ぞんざいに扱っても構ってくるルナマリアに、採取的に根負けするような形で友人となった。
彼らと揃ってアカデミーを卒業し、ザフトレッドに選ばれ、新造艦ミネルバに乗ることになった時は、喜び跳ねるホーク姉妹に呆れつつ、内心シンもまた喜んだ。
そして、ミネルバの出航の日、ガンダムの強奪事件とそして、俄かには信じ難い次元の歪みによる異世界、並列世界の融合とも言うべき ――― ブレイク・ザ・ワールドが起きたのだ。
最終更新:2008年11月22日 19:39