なきむし狼と羊のその後の一夜
「綺麗な名前ね、花から取ったんだ?」
セツコは窓ガラスに書かれた文字を目で追っていきながらそっと呟く。
「うん、俺もセツコさんも東洋系統の名前だから合うでしょ」
セツコを後ろから抱き締める格好で、シンの指が窓をなぞる。
二人は生まれたままの姿で、一枚のシーツに身を包んでいるのみであった。
ガラスの水滴をなぞり、男にしては白く長いシンの指の軌跡をセツコのほっそりとした指が寄り添うように追っていく。
窓ガラスに無数に浮かぶ水滴。それは外気と室温との温度差故に窓ガラスを曇らせていた。
そして、それはすなわち、二人の寝室はつい先ほどまでに重ねていた互いの熱と吐息に、しっとりとして、熱く、そして気怠げな空気が充満していることを意味する。
セツコは窓に書かれた花の名前をもう一度口の中で呟くと、自分の下腹部にそっと視線を移す。
シンはイタズラ盛りの子供のように、控えめに窪んだセツコのおへその前に手を置き、優しく撫でる。それだけの行為に、シンによって目覚めさせられ、或いは開発されたセツコの身体は、薄い皮膜のような快楽の蜜を甘受する。
「シン君…」
「ん?」
シンは、セツコのうなじに顔を寄せ、情事の余韻が残る、ほんのりと甘酸っぱい彼女の
香りに微かに蕩けたような表情を浮かべながらセツコの言葉を促す。
セツコは、微かに口を小さく動かし、言うか言うまいか迷った挙句、おずおずと口を開く。
「怒らない?」
「怒らないですよ」
セツコがこういう事を聞くときは大抵、いじらしい事と相場は決まっている。
相手を怒らせるような事ではなく、そんな事に胸を痛めていたのかとシンの方が、己の不徳を呪いたくなるのだ。
「私ね…女の子って聞いたとき、少しドキッとしたの……」
「男の子が欲しかったの?」
シンの言葉にセツコは幼子のように首を振る。
シンの剥き出しの胸板を、サラサラとしたセツコの髪が首の動きに合わせてくすぐる。
「女の子が出来たら…シン君は『マユ』か『ステラ』って名付けるんじゃないかと思ってた…」
セツコの言葉に、シンは納得半分、呆れ半分といった複雑な顔をした。
前者は、大戦中自分が如何に過去に捕われ続けていたのか、その醜態を間近の、最前列で曝していたことによるもの。後者は今更何を下らないという思いからくるものだった。
「例えばセツコさんが、自分の名前が父親の死んだ恋人の名前だったらどう思います?」
「……気持ち悪いと…多分真っ先にそう思うかな…」
「俺もそうです。自分の名前が母さんの好きだった人の名前とかだったら、一体父さんの存在は何だって思います。例え、それが死んでしまった人の分まで幸せにするっていう意味が込められてるとしても、名を実際に背負うのって子供でしょ?」
「うん…」
「俺は…多分ZEUTHの皆と出会わずに、セツコさんとこうならなかったら、もしかしたら自分の娘にマユとかステラって付けてたかもしれない…」
シンは、それは単なる代償行為に過ぎないのだろうと思う。
死んでしまった者の分まで幸せにするといえば聞こえは良いが、そんな誓いを子供の名に付けなければ幸せにできないなら子供など作るべきではない。
「過去を忘れないようにって適当にもっともらしい理由を付けて……でもさ、過去なんて忘れないように気をつけたってやっぱり忘れるんですよ……っていうかそれが当たり前なんです。だって、そうしなきゃ前に進めないから。でも過去は決して消えない。だから俺たちは安心して忘れられるんです。たまに思い出してあげる、それが過去ってやつなんだと思います」
ズルズルずるずる、過去を引きずって、忘れまいとしながら戦って、彼女に出会って、惹かれ合って、愛し合った。気付けば思い返す時間が嘗てよりもずっと少なくなっていた。
彼女と、セツコと過ごす時間に少しずつ、少しずつ置き換わっていた。
けれども、シンはそれを寂しいとは思えども悲しいとは思わない。
何故なら ――――
「みんな『過去』『現在』『未来』ってやたら区切りたがるじゃないですか?でも違うんです…セツコさんといてそれを初めて知りました」
「私と?」
振り向こうとするセツコの動きを封じるように、強く抱き締める。
柔らかく、温かい肌の感触に、シンの全身が喜びの声を上げている気さえする。
栗色の艶やかな髪に顔を埋めながら、セツコの体温をしっかりと刻みつけながらシンは続ける。
「セツコさんと……まあ初めて『イタした』時なんですがね」
「ちょ、し、シン君ッ」
「ははは…照れないで下さいよ、俺も恥かしいんですよ?あの日、俺はザフトに戻りました。ZEUTHから離れて、ミネルバに移ろうとした時にね、日が昇るのが見えたんですよ」
セツコはいつしか、己を抱き寄せるシンの手をそっと握っていた。
微かに込められた力が、シンに続きを催促する。
「何だ、今日がずっと続いてたらいつの間にか明日になってるじゃんって、そう思ったんです」
ずっと起きてれば今日はずっと今日のまま、でもただ時計の針が少し動くだけで今日は昨日になって、明日が今日になる。
それは、極当たり前の事であるが、同時にいつしか忘れていることであった。
「だから、ステラもマユも確かに過去だけど、決してそれはぷっつり切れたわけじゃない、ずっと繋がってるんです。だから、やっぱり俺にとってのステラは……海で溺れてて、無邪気で、でもデストロイでベルリンの人達を殺しちゃって、そして…俺が救えなかった子なんです」
「シン君…」
「マユも、俺にとってはわがままで甘えん坊で、俺が
誕生日にあげた携帯を宝物にしてて、それで、八歳で死んじゃったマユでしかないんです。だからリセットみたいにしたくない」
生まれてきた新しい命に、守れなかった命の名を付ける。
それはとても美談のように聞こえるかもしれない。
新しく生まれ変わったようで、嘗て味わえなかった幸福を今度こそは与えてあげたいという美しい願いに思える。
けれど、それは親友が、自分の分身であり、兄でもあった男に捕われ続けたことと何が違うのだろうか。
シンは思う。きっと、そういう綺麗な願いや想いは他ならぬ自分の為の行為に過ぎないと。
「だから、生まれてくる子にはその子の為の名前を用意してあげようって。世界にたった一つの花の名前を付けたくて。今度は吹き飛ばされないように、しっかりと守れる花の名前を付けようって……」
セツコは、シンの言葉にどれ程の悲しい決意があるのかを感じ取っていた。
それはつまり、守れなかった少女を、失った妹を、その『喪失の傷』を癒す為の逃げ道を
決して作らないという意味なのだ。
もっと楽に生きて行けるのに、何処までも不器用なシンに、愛しさと切なさが込み上げ、
そっとシンの胸にもたれかかる。
「シン君」
「なんですか、セツコさん」
見下ろすように、紅の瞳を和らげるシンを真っ直ぐに見つめると、そっと触れるだけの小鳥のようなキスをする。
珍しいセツコからの可愛らしい愛情表現にシンは嬉しそうに、はにかむように微笑を浮かべる。
「うふふ……何でもありません」
そう言うと、セツコは自分よりも三つ年下の少年に、子猫のように身を摺り寄せながら甘える。
この人を何処までも支えて生きたい。
荷物を背負ってあげることが出来ないのなら、荷物の重さに負けぬように、隣でずっと支えていきたい、そう心から願い、そして祈るように翡翠色の瞳を閉じる。
シンの鼓動を感じ、シンの体温を感じ、セツコは何度も何度も祈った。
FIN
最終更新:2008年12月07日 11:26