――今夜もまた、両親は言い争っていた。
理由は知らない。時折この部屋まで聞こえてくる罵声を聞く限り些細なことから衝突したらしいことが聞こえていた。
……家は、嫌いだ。ここには何の温かみもない。
そして、マネージャーに聞かれてしまった。隠すつもりはなかったが、それでも最悪の形で知られてしまった。
そのことが、なぜか気になって仕方がなかった。
CDプレーヤーに手を伸ばす。中には自分がプロダクションに初めて貰った曲が入っている。
イヤホンを着け、再生ボタンを押す。目を閉じ、耳を塞ぎ、現実から自分を切り離す。
瞼の裏にはいつもと同じ観客。たった一人、彼女の歌を聴く少年。
――いや、今夜はもう一人、赤い瞳の少年の姿もあった。
少し面食らったものの、いつも通り続けることにした。
何も気にすることはない、ただ歌を歌うだけなのだから、と。
小さく深呼吸をして、出来る限り声を抑えて旋律を奏でる。
「――泣くことなら容易いけれど、悲しみには流されない……」
再び怒声とガラスが割れる音が響く中、安らかな、そして悲しい歌声が紡がれた。
一年の計は元旦にあり、一日の計は朝にあり。
どこかでそんなことを聞いた気がするが、その言葉が正しいなら今日『も』最悪な一日になるということか。
「……眠い」
目の前に映る自分の鏡像がピンぼけした写真のように霞がかっている。思考もまとまらず支離滅裂なものだっ
た。ようやく焦点が合って確認できた自分の顔は酷い有様で、目が泣き腫らしたように充血している。
寝起きは誰でもこんなものなのかもしれないし、何より事務所のソファーの上に毛布一枚というこの時期にはか
なり厳しい寝方をしていればこうなるのも無理はないのかもしれない。
だが、曲がりなりにも数ヶ月前まで軍人として生きていてこの体たらくはありえないだろうということは自分がよく
分かっていた。
原因は考えるまでもない、プロデューサーが交通事故に遭った日、もっと限定すれば千早を送った翌日からこ
の有様なのだから。
……あれから千早はいつもと変わらない様子だった。レッスンも良くも悪くもそれまでと同じ流れであり、逆にこ
ちらが落ち着かないほどにいつもの千早だった。
だが、――今まで気が付かなかっただけなのかもしれないが――どこか焦りのような感情が見え隠れしていた
ようにも感じた。ともすれば見落としてしまいそうなほどわずかなものであったが。
「……はぁ」
朝からひとつ幸せを逃してしまう。今までの回数を考えれば自分にどれほど運が残っているのかも分からない
が、せめて秋スペまでのツキは残っていてほしいところだった。
顔を洗い、借り物のスーツに袖を通す。やっと違和感なく着こなせるようになったかもしれない。
「おはようございま……」
物置部屋からのそりと抜け出し、挨拶を発したところで、誰かがいることに気付いた。
「あ、マネージャー。おはようなの!」
ピンと人差し指を立て、ウインクをする少女。わずかに外へはねたショートの茶髪がその動きに合わせて小さく
揺れた。
――誰だ?
765プロの事務員にもアイドルにも見覚えは……いやあるのだがはっきり言って自分の中のイメージからかけ
離れていて正しく認識できずにいた。
シンの知る彼女ならロングの金髪のはずだし、自分からこちらへ普通に挨拶するほど気が利いてはいないはず
だし、何よりまだ早朝だというのにあくびの一つも漏らしていないし……
「あれ? どうしたの? 挨拶はおはようでいいんだよね?」
「あ、ああ。この仕事は朝から夜までおはようでいいけど……」
眉根を寄せてこちらを覗き込んでくる少女にうろたえながら一歩後退さる。そのとき、別の扉からプロデューサー
が入ってきた。
「おはよ……」
「ハニー!」
目の前にいた少女が凄まじい速さでプロデューサーの元へと走っていった。
「おはよっ!」
「お! 今日も元気だな」
「うん、今日のレッスンもこの調子でかるーくこなしたいな~ってカンジかな」
こちらを置いて爽やかな朝の挨拶を交わす二人に近づき、プロデューサーの肩を掴む。
「おはようございます、プロデューサー。ちょっと話があるんですけど」
「あぁ、シン君。おは……って痛っ!? ちょっ、力強っ!?」
ちょっと借りる、と少女に断ってずるずると襟首を掴んでプロデューサーを引きずっていく。美希の視界から
外れたところで解放し、ずいと詰め寄る。
「いくつか聞きたいことがあるんですけど」
「な、なんか怖いよシン君?」
怯えるプロデューサーの言葉をスルーし、とりあえずあの少女が誰なのかを念のために聞いてみた。
「誰って……美希だろ?」
「そう見えなかったからこう聞いてるんですが!?」
まぁそうだろうなぁ、と呟きながらプロデューサーは説明を始めた。
事故が起こった翌日から、美希はまるで別人のようにレッスンに打ち込むようになったらしい。プロデューサーも
その変容っぷりに思わず問いただしたところ、「今までの美希は人気があっても中身がスカスカだったから。いつ
も支えれくれてた人の気持ちに甘えてただけだったから……」と言ったらしい。正直、自分の知る星井美希という
アイドルから出た言葉だということが信じられなかった。
「それでさ、今から自分は変わるんだってレッスンにも真剣に取り組むようになったんだよ」
「……なんか信じていいか微妙なんですけど、まぁそれはいいです。で、なんで髪バッサリ切って『はにー』なん
ですか?」
プロデューサーが明後日の方向を向いて見えない太陽の日差しを遮るように手を掲げた。両手で顔を掴んで
強引に向き直させる。
「やましいことがないなら俺の目を見て一から説明してください。じゃなきゃチクリますよ、まず小鳥さんから」
「そ、それはヤメ……妄想してからあることないこと社長に報告されかねないから……」
手を離して、で? と先を促す。傍から見たら異様な光景だろうが気にしないことにする。
「二日前にさ、『髪の短い女の子ってどう思う?』って聞かれて」
……先が読めてしまった。手を振って説明を止めさせる。
「じゃあ、あの呼び方は?」
「なんか『もう気持ちが抑えられない!』とか言い出して、本名呼ぶのはまずいからって『ハニー』にぐえっ」
思いっきりネクタイを締め上げた。
「あんたは! 自分で掴んだチャンスを! 台無しにするつもりかっ!?」
「ゴメ、ホント、ごめんなさぃ……」
プロデューサーの意識が落ちる寸前で両手を離し、大仰に頭を抱える。状況は限りなく真っ赤だった。
「これでスキャンダルとかになったら、秋スペどころの話じゃなくなるな……」
今の段階ですら、美希はいろんな意味で注目されているアイドルである。本当のところはどうなのか分からない
が、このプロデューサーと美希の関係が明るみに出ればどうなるのか、想像するだに恐ろしいことだった。
「とにかく外にはバレないようにしてください。俺も黙ってますから」
「……助かる」
もはやプロデューサーとマネージャーという関係もどこへやらだが、そんなことは問題ではなかった。
「まったく……なんでこう問題ばっか起こるんだか」
しかし、と一息ついた頭で考える。
不安要素はかなり大きいものの美希のモチベーションは以前とは比べ物にならないほど高まっているらしい。
総じてプラスに転じることさえできればむしろ心境の変化をよしと考えるべきなのかもしれない
――ホント、ドラマの仕事とか入ってなくてよかったよな……
ある意味で秋スペの存在に助けられた感はある。追い込まれているのも秋スペのせいではあるのだが。
「おはようございます……どうかしたんですか?」
振り向くと小鳥さんがいた。どうやら今日は少し遅れたらしく、わずかだが息を切らせている。
「おはようございます! いえ別に何でもないですよ何でも!」
は? と首を傾げる小鳥さんの目が自分とプロデューサーを行き来し、怪しく揺れた。
――あ、なんかヤバイかも。
そう考えたとき、小さく呟く声が耳に届いた。
「……プロデューサーさんの乱れた服装、目を真っ赤に腫らしたシン君、誰もいない早朝」
単語が増えるごとに小鳥さんの顔が赤く染まっていく。おそらく頭の中では朝っぱらからとても危険な妄想が
暴走しているのだろう。
「あの、小鳥さん? 頭をクールダウンさせて俺の話は聞いてほしかったりするのですが」
しかし時既に遅し、茹で蛸のように真っ赤になった顔をぶんぶんと横に振りながら叫ばれた。
「いいの! 説明なんていらないから! たしかにかーなーり衝撃的でしたけどほら世の中自由恋愛主義って
言葉もあるから!」
「いや聞けよ頼むから! 俺の沽券に関わることだからお願いします!」
「わ、私もう行くわね! 昨日の仕事の残りがあるから! 二人でハネムーン楽しんでって!」
「ちょっと待て! アンタどこまで妄想した!? つかものの1分かそこらでもうゴールイン!?」
なんという超特急。いや一番重要な問題から目を背けてくれたのだから、むしろよかったのかもしれない。
よかったのかもしれないが……なんで自分は涙を止められないんだろう?
「……昼までにみんなに知れ渡ってるだろうね」
何もかも諦めきったような生気のない声でプロデューサーが呻く。どうしようも出来ない事態に陥った人間はこう
も穏やかな顔になるのかということを初めて知った。というか、口から魂が抜けかけてる。
「おはようござ……どうかしたんですか?」
再び振り向くと、そこにはいつもと変わらない千早が驚いた顔でこちらを見つめていた。
「……いや、なんでもあるけどないことにしてくれ」
山積みとなった問題に新たな問題――そして厄介なことにその解決に割く暇がない――が追加され、肩身の
狭い思いをしながらもシンの一日が始まった。
最終更新:2008年07月11日 20:06