【読書感想文】鈴木健(2013)『なめらかな社会とその敵: PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』勁草書房。 全体評。

かなり長くなっているため、全体評だけをひとまずアップする。各論については後日。

著者紹介

著者は鈴木健。SmartNewsの設立者の一人で、最近Forbesの起業家ランキングで二位に輝いた人である。
起業家ではあるが、元々は電子貨幣や地域通貨などの情報系研究者で、スマートニュースなども研究の一環として設立した(結果大成功)。

本書概要

さて、『なめらかな社会とその敵』*1は、この鈴木の思想を明らかにし、その未来構想を明らかにするものである。その核心は次の言葉にある。

この世界に境界が引かれていることへのナイーブな違和感、少年時代のそうした原体験の多くを、人々は忘れてしまう。世界をあるがまま観ることはもはや許されず、他の人がそうであるように世界を単純化して観るようになっていく。 (ⅱ)

 彼の原体験は、ベルリンの壁であった。可視化された、コンクリートの境界線。境界線こそなければ流れなかったであろう血。そして世界を分割するのは物理的な壁だけではなく、人間の心の中にもある。むしろ、境界線を作ることは生命の本質でもある。リソースを囲い込んで自らのものとし、世界を分割することで認識を可能にする(ii)。しかし、それは時に暴力をも生み出すのだ。もし境界線がなければ、境界線をなくせば、暴力は生み出されないのではないか。彼はそう考える。

 ではどうやって境界線をなくすか?そもそも境界線はそんなに固定的で、何者をも通さない厚いものなのだろうか?そこで鈴木は、細胞のアナロジーで世界を捉えることで、境界線が越えうることを根拠づけようとする。【核】、【膜】、そして【網】。
【核】とは、中央集権の象徴である。中央集権的な組織に満ちあふれる現代社会(8)、他者を認識し、資源・他者を制御する自己(15-18)の象徴である。
【膜】は、境界線である。【核】は、【膜】によって資源を囲い込み(8)、自己の所有物を確定する(18)。
これら【核】、【膜】を生み出す複雑な反応ネットワークが、【網】である。【核】や【膜】は仮の姿あるいは一時的な現象として生まれるのであり、それは全体そのものではない(19)。もしそうなのであれば、【核】や【膜】が人間の生み出した現象に過ぎないのであれば、それらを変えることも、なくしてしまうことも可能ということになる。【膜】をなめらかにし、世界がネットワークであることを認識することも、越境することも可能ということになる(19)。それはかつてであれば不可能であった。人間の認知能力には限界があり、だからこそ、【核】と【膜】によって世界を単純化してとらえようとしたのである。しかし今では、なんらかの技術的な方法によってその限界を突破することができるかもしれないのだ(45)。なぜならば、オートポイエーシスとしての生命システム(人間)は、外部の環境と相互作用し、環境を変えながら自らも変容させるからである。
 我々は技術によって環境を作り替えることで、我々の認識能力をも変えることができるのだ。であれば、技術革新によって、世界を単純化しないままに認識できるようにもなりうる。それが、「なめらかな社会」である。それは、多様性のない「フラット」ではなく、非対称な関係が非連続的であり、その間に断絶がある「ステップ」でもない(39-41)

 そして、鈴木はこの『なめらかな社会』を実現するための4つのコアシステム――貨幣システム(伝播投資貨幣PICSY)、投票システム(伝播委任投票)、法システム(伝播社会契約)、軍事システム(伝播軍事同盟)を提案する(ⅲ)。

全体評

 決して易しい本ではない。理由は二点有る。一つが途中出てくる数理的モデルなどを理解するのがかなり難しいこと。これは微積分すらもうなさっぱり思い出せない俺が悪いともいえるのだが、俺みたいな奴は一杯いるだろう。ただ、本書における数理的モデルは、筆者自身が読み飛ばしてくれてよい(69)との旨を記述しているため、理解せずとも特に問題はない。
 もう一点が、鈴木の言う『なめらかな社会』の構想自体が、我々の認識している現実からあまりにも乖離しているが故に、イメージが非常に難しことである。大まかに、鈴木が何を言いたいのか、をつかむのはそこまで難しくない。国家、制度、そして人間、それらを分かち、その支配範囲を画定する境界線を、境界線自体を残しつつも、より越えやすい境界線にしていく。これが鈴木の構想する「なめらかな社会」である。しかし、このイメージはあくまでも「なめらかな社会」という社会構造についてのイメージであって、「なめらかな社会」に生きる人間についてのイメージではない。このことが、第三章以降の各論を読む上で問題となるのだ。
 伝播投資貨幣PICSY、伝播委任投票、伝播社会契約、伝播軍事同盟。これらは社会制度であり、これらの総体が「なめらかな社会」の社会構造となるのだが、これら社会制度を使うのは人間である。しかしそれは現在生きる我々とは違う認識能力を持つ人間である。それゆえ、これら社会制度について検討する際に、我々がこれら社会制度を用いるかのようにイメージしてしまうと、これら社会制度を理解することができない。そのようにイメージしてしまったならば、鈴木に対して論点を間違えた無意味な非難を浴びせることになるだろう。

 では「なめらかな社会」に生きる人間はどのような人間なのだろうか。私自身もその正確な理解ができているのかには自信がないが、おそらく、その端的な例となるのが「統合失調症」であろう。鈴木は、これまでの近代社会が前提としてきた、「自由意志をもった一貫した自己」というイメージを否定する(174)。かわりに提示されるのが、ドゥルーズの「分人」概念である(134-135)。鈴木は、この「分人」を、近代的な個人にかわる政治・社会の最小単位として扱おうとする。

頭のなかをかけめぐる複数の異なる声、これこそが分人たちの声である。これらの声は矛盾し、会話し、ときに溶け合うこともある。ちょうど自分の腕を他人の腕だと信じて疑わない自己身体失認と同様に、自分の脳の中の声も他人の声として聞こえてしまうのが統合失調症によくある幻聴の症状である。それはら宇宙人や神の声として解釈されることさえあった。(174)

現代社会においては、これら分人たちの声は、「責任を要求される」などの手段によって、一貫性のある一つの自己として結晶化される(174)。一方、鈴木の構想では、この「自己の結晶化」が拒否される、「身体が生み出す矛盾した声を、矛盾したままはき出す」(174)。「分人民主主義が大事にする規範と倫理は、身体から生じる自然な声や情動を重視し、個人の中、組織の中、国家の中の矛盾を理解し許容する文化である」(175)。
 鈴木の「なめらかな社会」は、このような分人を前提としている。伝播投資貨幣PICSY、伝播委任投票、伝播社会契約、伝播軍事同盟。これらを利用するのは分人であり、現代社会で前提とされ、我々もまたそうであるような「個人」ではない。このことを理解しないまま本書を読むと、間違った理解にたどり着く。例えばであるが、山形浩生による書評、鈴木『なめらかな社会とその敵』ヒース『ルールに従う』:社会の背後にある細かい仕組みへの無配慮/配慮について、あるいはツイッターでなめ敵とかいって喜んでる連中はしょせんファシズム翼賛予備軍でしかないこと。これを読む際には注意しなければならない。
 この書評においては、本書で重視される「関係性」がめんどうなしがらみでもあること、「なめらかな社会」とはそのような関係性を重視する閉鎖的農村社会であること。PICSYが社会貢献度に応じた新たな階級社会を生み出すだろうということ。分人民主主義の分割投票が、投票者個々人の責任を問わない、ナンセンスで無責任な制度であること。「なめらかな社会」における近代個人観の否定は自由、平等、プライバシーをも全て否定してしまい、究極の全体主義と化すること。これらを指摘する。しかし、これらの指摘は、鈴木に対する批判としては全く的を外している。この書評にも記述があるが、

むろん、真になめらかな社会は人々の自由も平等もプライバシーも必要としないのかもしれない。すべてはつながりあった一つの「自分」であり、それ以下の個体など考慮しないのかもしれない。これは著者がかなりはっきり述べていることだ。著者は、国家と個人だけが突出して(つまりなめらかでない形で)重みを与えられている現状を批判し、会社、コミュニティ、地域などにそうした主体としての意味づけを分散させることをこのシステムで目指したいと述べている。これはつまり、個人というものに与えられている意義や権利、たとえば自由や平等やプライバシーなどの重み付けも下げると言っているに等しい。個人の価値付けも、いまはデジタルだ。人間だから固有の価値と権利がある、というわけだ。でも、なめらかさを追求する鈴木のシステムはそんなデジタルな断絶は許さない。人間の価値だってなめらかに変化する。結果的にそこには、価値の高い人、価値がその半分くらいしかない人、まったくの最低限の人間といった人間としてのランク付けがなめらかに生じる。人々に潤いを与え、なごやかにし、ネズミをたくさん捕った近所のどら猫より価値の低い、本当に猫にも劣る(しかもそのおとり具合を数値的に示されてしまう)人間がたくさん生じる。(山形 2013)

鈴木ははっきりと述べているのだ、人々の自由も平等もプライバシーも必要ではないと。ゆえに、「なめらかな社会」が究極の全体主義に至ったところで、鈴木にはなんの不都合もない*2。「なめらかな社会」の全体主義性に拒絶反応を示す人間は、あくまでも現代社会の人間である。「分人」であれば究極の全体主義たる「なめらかな社会」を、特になんら疑問を抱くことなく受け入れる、そのように想定されているのだ。
 本書が全体主義の書であることは、事実であろう。その意味で山形の批判は正しい。しかしそれは本書に対する批判にはならない。本書を絶賛する人々を「ファシズム翼賛予備軍」と呼んだところで、彼らには何らダメージをもたらさない。山形は「本書が誤っていること」を指摘したのではない。山形は「「ファシズム」や「全体主義」という言葉の持つ悪いイメージを用いて、本書と本書のフォロワー達を非難する」だけである。
 本書の誤りを指摘したいのであれば、次の3つの道をとることができる。一つは、「なめらかな社会」が前提とする諸概念を否定すること。「分人」やら「核、膜、網」といったものを否定すればいい。そうすれば「なめらかな社会」は崩壊する。もう一つは、鈴木の提示する社会制度が、「なめらかな社会」に寄与しないことを指摘すること。PICSYやら伝播委任投票などを導入したところで、社会はなめらかになどなりはしない、といえばいい。最後の一つは、理念的批判である。「なめらかな社会」そのものが、「正しい社会」なるものから外れていることを指摘すればいい。山形はこの三つ目の道をとるが、「全体主義に対する現代人の持つ悪いイメージ」をその根拠としているところに大きな欠陥がある。一応山形はヒースの『ルールに従う』を引きながら、本書を「一見粗雑さに見えるものが保存していた社会的な価値をまったく顧みることなく、きわめて単純な理念だけを乱暴に適用した社会システムを構想してしまった」(山形 2013)ものとしているが、これも本書の立場からすれば「だから何?」としかならないだろう。


 さて、ここまで本書の擁護論を書いてきたわけだが、私自身は本書の「なめらかな社会」には賛同しない。「関係性」を重視するという本書の視点には賛同するものの、そのためにはむしろ、ある意味で社会をより「ステップ」にする――内と外の断絶をより強くする――べきだと考えるからである。本書の主張が「ステップな社会をなめらかな社会に」だとすれば、私の主張は「なめらかな社会をステップな社会に」である。本書の認識と異なり、現実の現代社会は、既にかなりなめらかな社会である。Twitterやフェイスブック、グローバル企業、タックスヘイブン、環境問題、グローバル経済、移民。既に一国家によって、または一組織によってのみ決定できる領域のほうが小さくなっている。
 本書が執筆された当時には想定されていなかったであろうが、現在においては、福祉排外主義政党が支持を集め、またイギリスではブレグジット、アメリカではトランプ大統領の誕生と、反グローバリズムの潮流が力を持っている。この現象を、本書の言葉に即して言い換えるならば、現在では、無視できない数の人々が、国家の膜が薄くなってくことに耐えられず、むしろ膜を厚くし、核を強力にし、網を見ないようにしようとしている、ということになるだろう。彼らは分人ではないため、なめらかな社会に耐えられないのは必然である。
 しかし、現代社会の人間は、どうすれば分人となれるのだろうか。本書の答えは不完全である。システム(人間)と環境の相互作用たる構造的カップリング。技術によって人の認知能力を変容させる。そしてそのための諸制度を本書では提案した。しかし、これらによって実際に人間がどのように分人となるのかは、本書に記述されてはいない。構造的カップリングは神秘化されてしまっており、それら社会制度が「なめらかな社会」を作り出せるのかは自明ではないのだ。
 であれば、「こんな面倒なシステムを作るまでもなく、勝手に近所づきあいをふやし、親戚づきあいをすればいいだけではないか?」(山形 2013)。山形は――本書で想定されている関係性が、近所づきあいや親戚づきあいのような「近い」関係性ではなく、ソーシャルネットワークという「遠い」もしくは「弱い」関係性であることを見落としているものの――この点についてはいみじくも指摘している。なめらかな社会を作り出す制度を実現することよりも、現代社会の既存の制度を強化するほうがたやすく、さらに、各人が自らの関係性を強化していくほうがはるかにたやすい。そもそも、自らの隣人との関わりを充実させることなしに、地球の裏側の人々との関係を意識することなど、できるのだろうか。


参考文献

山形浩生(2013)「鈴木『なめらかな社会とその敵』ヒース『ルールに従う』:社会の背後にある細かい仕組みへの無配慮/配慮について、あるいはツイッターでなめ敵とかいって喜んでる連中はしょせんファシズム翼賛予備軍でしかないこと」https://cruel.hatenablog.com/entry/20130326/1364268478(2018/12/19最終閲覧)

(2018/12/19)
最終更新:2018年12月19日 18:38

*1 タイトルはおそらく、カール・ポパー『開かれた社会とその敵』のオマージュ

*2 これはルソーについてよくある批判と共通する。ルソーの一般意志論は全体主義に至る理論であるという批判である。この批判にルソーがであればこう答えるだろう「確かに、私の理想は全体主義かもしれない。しかしそれの何が問題なのか。真の民主制とは全体主義のことなのだ」。