【読書感想文】遠藤周作(1966)『沈黙』

去年暇つぶしに書いた読書感想文をそのまま貼る。

  • 筆者概要
遠藤周作(えんどう しゅうさく)1923-1996
小説家・エッセイスト、文芸評論家。「第三の新人」の一人。
キリスト教を主題にした作品を多く執筆。代表作は「沈黙」
1955年発表の「白い人」で芥川賞。脚光を浴びる。
神学教育を受けておらず、そのキリスト教理解も正統とは言い難いものであるが、日本のキリスト教を代表する人物とされている。
そのテーマは「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」
根底にある日本人像は「現世利益的」、またエディプス。コンプレックスも根底にあったとされる。

  • 本書について。
1966年執筆・新潮社より出版。第二回谷崎潤一郎賞受賞。
17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作された。
江戸時代初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人司祭を通じて、神と信仰の意義を描く。
「弱者の神」「同伴者イエス」という、後の遠藤作品の主題が現れた。
戦後日本文学の代表作として高く評価され、またキリスト教文学としての評価は海外でも高い。
その一方でカトリックからの反発も非常に強いものがあった。
1971年映画化。


  • 感想
 本書はイエズス会教父、クリストヴァン・フェライラが日本において棄教したとの知らせがローマ教会に届いたことから始まる。
この信じがたい知らせを受け、ポルトガルにおいて、フェライラ教父の教え子であった3人の若い司祭が、その真相を目にするべく、日本への潜伏布教を計画する。
その一人が、本書の主人公であるセバスチャン・ロドリゴである。
本書では、彼ロドリゴが日本に渡り、隠れキリシタンの部落に潜伏し、やがて捕らえられ、棄教に至るまでが描かれる。

 本書の骨組みは、「ロドリゴが自らの弱さに気づく」ことであろう。
日本に渡ろうとするロドリゴ、キリシタンの部落に潜伏するロドリゴは信仰に燃える人物である。この時点での彼は「強い人間」である。
いや、「自らを強いと思っている人間」であるという方が正確であろう。彼はその後、自らが「弱い人間」と見定めるキチジローと出会い、彼を軽蔑し続ける。
しかしやがてロドリゴが捕らえられ、最後には棄教に至る。その時彼は自分もキチジローとなんら変わりないこと、自分が「弱い人間」であることを悟るのである。
「それらすべてを私は認めます。もう自分の全ての弱さをかくしはせぬ。あのキチジローと私とにどれだけの違いがあると言うのでしょう」(p243)
この点で疑問を挟むものはいまい。

 またここで改めて提示されるのが「弱者の神」「同伴者イエス」というキリスト教観である。
「だがそれよりも私は聖職者たちが教会で教えている神と私の主は別なものだと知っている」(p243)
これは当然、それまで彼の思案を前提にしている。それを端的に表すのが、
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」(p219)
という本書を代表する有名な一節である。つまるところ、カトリックの神を「(信仰を守り、殉教できる)強者の神」として「弱者の神」に対比させているのである。
この点でも疑問を挟むものはいまい。

 しかし私にとって重要なのは「ロドリゴが自らの弱さに気づく」ことでも「弱者の神」「同伴者イエス」でもなかった。
棄教したロドリゴの元にキチジローが現れ、告悔を求めるシーン。ここでのロドリゴの言葉、
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」(p241)
そしてこの言葉を受けたキチジローは怒っていた。
これが妙に引っかかるのである。

 この引っ掛かりを整理すると、一つは「何故キチジローは怒ったのか」、もう一つは「強い者と弱い者の違いは一体どこにあるのか」である。
「何故キチジローは怒ったのか」これについてはネット検索をかけると、この後の一節
「この国にはもう、お前の告悔を聞くパードレがいないなら、この私が唱えよう。全ての告悔の終りに言う祈りを ……安心して行きなさい」(p241)
この言葉によるという説があった。「キチジローは同じ「踏み絵を踏んだ者」としてのロドリゴに赦しを乞うたのであって、司祭に赦しを乞うたのではなかった。故にキチジローは、ロドリゴのこの言葉を「司祭」としての赦しとして捉え、失望し、怒ったのである」という説。
また「この祈りが形式的な、義務感から生じたものに感じ、失望し、怒ったのである」という説もある。

 私にはこれらの説は不十分なものに思える。ロドリゴが「司祭として」赦すこと、「義務感から」祈ること。これだけでは失望、怒るほどの失望には足りないはずである。
我々が誰かに失望するのは、誰かが我々の期待に反したときである。期待の度合いが大きければ大きいほど、深刻であれば深刻であるほど、失望の度合いは高まる。

 ここでキチジローが期待しているのは、ロドリゴに「告悔をきく力」があること(p239)である。ここでの「告悔をきく力」は、ロドリゴが「踏み絵を踏んだ者」であることであることに由来するのだろう。その意味で私は上記の説に同意する。
 しかし、キチジローが、ロドリゴが「司祭として」赦すこと、「形式的に」祈ることをもって「告悔をきく力」が無いと判断することは不可能なはずである。
ロドリゴは、赦し、祈る前に、自らの「告悔をきく力」を心中で否定しており、キチジローにも「どうかな」と弱い形で否定の意志を伝えている。ロドリゴは「自らの「告悔をきく力」を信じていない」ことを示しているのである。
この上で考えれば、キチジローは「司祭として」赦すこと、「形式的に」祈ることをもって「ロドリゴが自らの「告悔をきく力」を信じていない」とは判断できても、「ロドリゴに「告悔をきく力」がない」と判断することはできないし、しないだろう。キチジローは「弱い者」として描かれてはいるが「短絡的な者」としては描かれていない。そして「ロドリゴが自らの「告悔をきく力」を信じていない」という程度の失望では、キチジローが怒るには足りないだろう。キチジローはなんとかしてロドリゴに信じさせようとするはずである。では何故キチジローは「ロドリゴに「告悔をきく力」がない」と判断したのだろうか。

 それこそが「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」(p241)という言葉であったと私は考えている。
神の救いにおける、強い者と弱い者の区別の否定。この時点で、ロドリゴは、自らが「弱い者」であることを認めながらも、キチジローとは異なることを名言したのである。
 キチジローは「弱い者」である。ロドリゴも「弱い者」である。しかしキチジローは「弱者の神」を知らないが、ロドリゴは知っている。
「救われる」という観念を持つロドリゴと「救われない」という観念を持つキチジロー。ここには相対的な「強き者」と「弱き者」が現れている。
キチジローは日本人である。本書で述べられているように、カトリックの神と、キチジロー(日本人)の神は異なる。
ロドリゴは、全ての者の救いを説いたが、キチジローが求めていたのは「弱き者」であることの共有だったのではないか。
キチジローはロドリゴが「弱き者」であることが「告悔をきく力」だと考えていたのではないか。

ここでもう一つの引っ掛かりに移ろう、強い者と弱い者の違いは一体どこにあるのかということである。
本書から言えば、強き者とは、信仰を守りきれる者、殉教者であり、弱き者とは、信仰を捨ててしまう者である。
しかし私は、既に述べていることからもわかるように、別の線引が必要だと考えている。
つまりは「救いを信じる者」が強い者であり、「救いを信じられない者」が弱い者である。
この意味で、ロドリゴは「強い者」のままである。キチジローこそが、真に「弱い者」である。
本書の通常の読み方は、真に「弱い者」を見落としているようにしか私には思われない。
これまで理解されているような、遠藤の「弱者の神」はキチジローを救えないだろう。

(2018/04/16)
最終更新:2018年04月16日 04:26