【政治】「国益に資さない研究に税金を投入してはならない」という言説についての意見

2018/05/04にTwitterに書いたことを加筆修正して載せる。 

 最近、ごく最近(2018/05/04現在)、法政大学教授(行政学)山口二郎氏と、自民党所属国会議員杉田水脈氏との間でケンカがあった。
これである。
こういう形でどうやってリンクで貼るかが分からないから画像化してリンクした。

 どういう話か簡単に言えば、
  1. 前々から「科学研究費助成事業の助成金(以下、科研費と略)を、研究活動とはいえない政治運動に使ってるんじゃないか」として左派研究者を批判していた杉田氏が、
  2. 科研費についての調査を行い、
  3. その成果をジャーナリスト櫻井よしこ氏が、週刊新潮(4月26日発売)で「科研費の闇 税金は誰に流れたか」として発表し、
  4. その中で、左派政治活動に積極的な山口氏に対して科研費含め6億円近い研究助成が行われていたこと、を指摘したところ、
  5. 山口氏が東京新聞で反論し、
  6. そのケンカがTwitter上にまで伸びた。
と、こんなところである。


 今回山口氏の科研費の使途について書くつもりはあんまりないのだが、一応科研費について適当に解説*1し、できるだけ状況を明らかにしておこう。
科研費というのは、文部省所管の「日本学術振興会」が「科学研究費助成事業」として、あらゆる分野の研究に対し、応募とその審査によって、研究者に研究助成金を与える「科研費制度」で与えられる研究助成金のことをいう。
毎年2000億円以上の予算がこの科研費制度に割り当てられており、応募総数は28年度で10万9千件。
この応募の中から3万件近くに、審査によって助成金が与えられる。当然、他の研究よりも優れていなければ審査には通らないため、「競争的資金制度」と呼ばれる。これは政府全体の「競争的資金制度」の5割以上にあたっている。

 審査の手続きについては研究分野によって多少は異なるようなのだが、
各研究者は研究計画などなどを記載した応募内容を電子申請し、その時に自らの研究種目(分野)を指定する。
それを、各研究種目に応じて、その分野の古参研究者が審査委員として審査する、という形をとっている。
一応審査委員の選定基準についてはその分野の古参研究者「以外」が選定される可能性もなくはないのだが、現実的ではない*2

次に応募者、研究助成対象者だが、これは個人の場合も、複数人からなるグループの場合もある。
当然、研究規模が大きければ大きいほど、必要な資金も多くなるわけで、複数人からなるグループにはより多くの助成金が与えられることになる。

 そして与えられた助成金だが、これは研究者個人が自由に使えるというものではない。
慶応大教授(外交史)の細谷雄一氏がそのブログで書いていることに尽きるだろう。
「基本的な事実として、科研費の管理は通常、本人ではなく大学が行います。ですのでボールペン一本の経費支出についてさえも、それが不適切だとみなされれば、通常は経費が下りません。ですので、科研費はとても使いにくいというのが私の印象です」*3
以上が科研費の大体のあらましである。

 付言するなら、今回の杉田氏、山口氏のケンカは、山口氏に大きな分があり、俺は心配していない。
「山口氏に与えられた」とされている6億円の殆どは、「山口氏が代表となっている研究グループ」に与えられたものであり、山口氏個人に与えられたものではない。
そしてその使途についても、現在の科研費管理の仕組みでは、使途不明瞭金は、よほどのことがない限り、出ない。

 但し、科研費の審査が、国民から遠すぎる、というのは、一つの重大な問題である。次に述べることにも関わるが、専門家と国民の乖離という問題は、非常に困難だからだ。



 やっと今回本当に書きたかったことに移ろう。今回のケンカを機に、最近の「理系重視」の流れの延長としてだろうが、「文系叩き」が始まった。要は「国益に資さない研究に税金を投入してはならない」という(昔からある)言説がまた力を持ち出した、ということである。このとき、「国益に資さない研究」として槍玉に挙げられるのが文系の研究である。
Twitterで「科研費 文系」を検索するとよくわかる。
「文系不要論」の持つ問題性には今回触れない。今回書くのは「国益に資さない研究に税金を投入してはならない」という言説についてである。

 「国益に資さない研究に税金を投入してはならない」という言説は、ストレートかつシンプルである。実にわかりやすい。
税金は国民のために使うべきであって、それ以外の利益のために使うべきではない、ってのは当たり前の話である。但し、この言説には二つの疑問点があるのだ。

 一つは「国益とはそもそも何か」ということ。辞書的な定義では「国の利益」となるが、これも全く明確ではない。一体どのような利益が国の利益となるのだろうか。それは科学技術の発展か、秩序の維持か、国民の幸福の増進か、給料が上がることか、ソクラテス的な「善く生きる」ことか、強力な軍事力をもって世界に影響力を示す事か、軍事力を持たずに世界で名誉ある地位を占めることか、国家の存続か、国民の存続か、それとも両方か、全く明確ではないのだ。ある一個人の中では「国益」はただ一つの、明確なものであるかもしれないが、するともう一つの疑問が生じることになる。

 それは、「誰がどうやって国益を決めるのか」という疑問である。少なくとも一応、自由民主主義国であるわが国においては「国益を決めるのは有権者・国民だ」ということができる。これもシンプルである。しかし、どうやって決めるのだろうか。先ほど述べたように、「国益とはそもそも何か」という問題についての答えは、明らかではない(そしてこれからも明らかになることはないと言いきれる)。そのため、国民の間で、「国益に資する研究」を全員一致で判定することはできない。

 だとしたら多数決をすればいいのだろうか。そうなると、少数派の考える「国益に資する研究」に助成金は与えられないことになるが、それでいいのだろうか。国益が一義的に決定できない以上、多数派の考える「国益に資する研究」が実は国益に資さず、少数派の「国益に資する研究」が実は国益に資す、ということはありうるのだ。にもかかわらず、多数派の考える「国益に資する研究」にのみ助成金を与えることは、正しいことなのだろうか。それとも比例代表制のように、比例的に研究費を分け与えるか?そうすれば少数派の「国益に資する研究」にも予算はある程度回るため、多数決に比べ、問題は少なそうに思える。だが、これら決定方式は、些末な問題である。

 本当に問題なのは、国民が一つ一つの研究を精査して、国益に資するか資さないかを判定するのは、無理だ、ということである。先にも述べたように、科研費の応募件数は、28年度で10万9千件ある。それもそれぞれ分野毎の専門知識が必要となる研究である。それを国民は読めるのか、そして検討できるのか。無理だろう。そんなのは専門の研究者であっても無理である。

 ここで「国民が理解できないのは研究者の責任である」として、各研究者が平易な要約を書くことを求めることもできる。これは、国民に対する知識の開示という民主的要求として、また研究の成果を国民に示さなければならない研究者の義務として、当然の要求である。だがそれでも、10万を超える要約を、国民は読めるのか。そのような時間的・精神的・肉体的余裕を国民は持ち合わせているのか。持ち合わせているはずがない。

 加えて、もう一つ重要な問題がある。研究費はそもそも「研究成果」に応じて与えられているわけではない、ということだ。研究費は研究の「計画」に対して与えられている。判断できるのは、その研究が国益に資そうに「見えるか」にとどまる。これは現行の科研費審査でも同じことなのだが、なんら専門知識を持たない一般の人々が、これら研究の計画を理解し、国益に資そうかどうかを判断するだけの負担を負えるのだろうか*4

 まだ手段はあると考えてもよい。国民の負担を減らすために、既に助成金が投入されている研究に対し、最高裁判所裁判官の国民審査のように、個別に適格か不適格かを国民が判定する方法である。これなら国民一人一人が、興味のある研究の要約だけでも読んで、「国益に資さない」と思った研究に「不適格」の票を入れれば済む。但しこの場合、個々の研究に対して多数決と同じ問題が生じるし、現行の国民審査制度の状況を鑑みると、ほぼ無意味と言えよう。

 結局、「国益に資さない研究に税金を投入してはならない」という言説が帰結するところは、「国民に対して、何万という研究計画に目を通し、国益に資そうかどうかを判定するという、過大な負担を強いる」か「事実上無意味な制度を作り出す」のどちらかでしかない。

 と、ここまで一般論的なことを書いてきたが、ここからは俺個人の意見を書こう。俺は「国益に資さない研究に税金を投入してはならない」という言説には、反対であるが、それは「国益に資さない研究にも税金を投入するべきである」と言うことを意味しない。捉えようによっては、もっと邪悪な意見である。

 それは「時の政権にとって有用な研究以外に税金を投入する必要はない」というものである。これは多数決で研究助成の投入を決めてしまってもいいということだが、「国益」という縛りを外している。例えば、選挙を通して生まれた政権が、税金を投じる研究を、その政権が提示する「国益」に従って決めてしまえばいいのである。それなら国民の負担はかなり小さくなる。選挙で勝利するのは所詮、「多数派の考える国益」に過ぎない。もっと言ってしまえば、「多数派に支持された政権が、国益として提示するもの」でしかない。そのような「国益」が真に「国の利益」であるかどうかは、信じるか、信じないかの神学論争の問題であって、永久に答えの出ない問題なのだ。であれば、最初から、「全く反論の余地のない国益」という幻想を捨てるしかない。

 おそらく、そうなれば、殆どの研究は党派的になり、「御用学者」と「反政権学者」の二極対立の世界ができあがるだろう。「学問の中立」を標榜する学者達は、その数を減らすだろう。望むところである。「中立」を標榜することこそ、危険なものはない。このような世界は、さぞ活気に溢れた世界だろう。

(2018/05/05)
最終更新:2018年05月05日 02:49
添付ファイル

*1 文部科学省・日本学術振興会(2017)『科学研究費助成事業パンフレット』https://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/24_pamph/data/kakenhi2017.pdf 参照

*2 審査委員の選定については、日本学術振興会、科学研究費助成事業 審査・評価についてhttps://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/01_seido/03_shinsa/index.html#kaiji を参照されたい

*3 細谷雄一(2018/5/5)「日本で政治学を研究するということ」『細谷雄一の研究室から』http://blog.livedoor.jp/hosoyayuichi/archives/1966892.html

*4 古参研究者すら、その負担を負い切れてはいないだろう。