ツイッターでもそこそこ有名な、フランス哲学者、美術・文学・ファッション・サブカル批評家である千葉雅也の、これまた有名な本。
本書の大体の概要
「本書は、ドゥルーズ&ガタリの哲学とラカンの精神分析学を背景として、僕自身の勉強・教育経験を反省し、ドゥルーズ&ガタリ的「生成変化」にあたるような、または、精神分析過程に類似するような勉強のプロセスを、構造的に描き出したものです」(222)わかる人はこれだけで大体わかるだろう。わからない人向けに説明するならば、本書は、「『勉強』というものが一体何なのか」ということをテーマにした本ということができる。その答えは、一言で言えば「勉強とは、自己破壊である」(18)ということ。自己破壊という言葉が意味するのは、自らの置かれた環境のコードから、別の環境のコードへの移動のこと。言い換えると、その場のノリから、別のノリへの移動のこと。もう少し具体化すると、いつも友人達と喋っているような、言葉の使い方、言葉遣いから離れて、言葉の別の使い方、言葉遣いへ移動することで、自らを、別の人間に作り替えていく、ということである。
また、後期ヴィトゲンシュタイン、ドナルド・ディヴィドソンの言語ゲーム論も参照されている(222)
気になった記述・個人的思考
正直なところ、本書に書かれている「勉強」のプロセス、方法といったものに関する中心的主張は、俺にとって、そう新しいものではない。普段自分がやっていること、考えていることが、改めて考察されている。そういう印象を受けるにとどまる。とはいえ、
その他本書に書かれていることの端々に、気になる記述があったため、それをここにメモし、少しばかり考え事をしてみたい。
「したがって、言語は、私たちに環境のノリを強いるものであると同時に、逆に、ノリに対して「距離をとる」ためのものでもある」(39)
一方で、人は、常に言語のフィルターを通してしか、現実と関わることができない。だがもう一方で、言語それ自体の領域では、我々は現実から離れた自由を得ることができる、ということである。この前半部については、俺も正しいと思う。
後半部については、賛同しない。「言語」は、その出生において、あくまでも一つの現実に依拠して構築されており、言語を用いるということは、その現実にどっぷりと浸かっているということを意味するからである。「言語」というものが、現実から独立した世界に属するのは確かである。本書でも述べられているが、「靴は、犬である」「この文は間違っている」のように、言語の用い方は、必ずしも現実を反映する必要はない。言語はあくまでも現実(または非現実)を表現するための道具である。しかし、その「言語」はどのように生まれたのか、ということを考えると、それは単純な理解である。
言語というものは、それが生まれるとき、それを生み出した人々のとらえる、一つの現実を表現するために生まれたのである。例えば我々の母語である日本語は、他の場所ではない、日本固有の、日本的な現実を表現するために生まれたものなのである。例えば、言霊、という言葉があるように、我々日本人には、その音から感じ取られる、日本人固有の、日本人としての感性が、深く刻み込まれている。我々が何かを話すとき、我々は表記された、言葉の意味を伝えているわけではない。伝えているのは、言葉の「音」である。そしてその「音」は、同じ日本人としての感性を持つ者に対して、感覚的なものとして伝達される。「かちん」「カチン」という文字を見ても、わかるだろう。日本人としての感性を持つ者には、「かちん」は、優しい感覚を伴う。「カチン」は鋭い感覚を伴う。それは、我々がこれらの文字を、感性的な「音」として感じているからである。
となると、我々は、現実から離れ、言語だけの世界に走り出したとしても、そこには、その言語が表現しようとしていた現実の中に走り出すということにしかならない。日本語を喋り、日本語によって思考している限り、我々は日本人としてしか思考できないのである。「ノリに対して「距離」を取る」というのは、あらゆるノリから自由になるということにはならない。ただ、その場のノリから、その言語を生み出したノリに移動するというだけのことなのである。
「夢や希望を抱くことができるのは、言語を環境から切り離して操作できるからである」(49)
これは正しい。但し、その夢や希望は、我々が用いる言語のノリ・コードに依存している。
「深く勉強するとは、言語偏重の人になることである」(53-57)
一言で言えば、「言語だけの世界に走り出すことが、深く勉強するということである」、本書の言葉で言えば「その場にいながら距離をとっている、「もう一人の自分」というポジションを設定する」(55)ということである。
本書が気に入らないことの一番大きなポイントであるが、本書は「勉強」をあまりにも狭く捉えすぎている。本書で言うところの「勉強」には、ルソー的な徳の学問、カント的な実践理性、デューイ的な経験の教育、そういったものは含まれていない。頭の中でだけ完結する、悪く言えば机上の空論というものだけに、「勉強」の名が与えられているのである。さらに悪いことに、このような「勉強」は、実際のところ「自分の」頭の中で完結しているものですら、ない。「その場にいながら距離をとっている「もう一人の自分」」の頭の中で完結しているのである。これが端的に現れているのが、本書の最後の方にある、「入門書を読む」という節である。その冒頭を引用しよう。
次に、入門書への取り組み方について説明しましょう。
まず、言葉づかいに慣れる。難しげな言い方が出てきても、「そういう言い方をするもんなんだ」と冷静に読んでいくこと。第一章で述べたように、新しい言葉づかいへの違和感を大事にします。その分野=環境における言い方=考え方のコードを、メタに観察するのです。
そのために重要なのは、自分の実感に引きつけて理解しようとしないこと。
「実感に合わないからわからない」では、勉強を進めようがありません。
自分の実感から離れて理解する。これは言い換えれば、人ごととして理解するということである。それはそもそも「理解」と呼べるのか、という問題が出てきそうだが、それはおいておこう。重要なのは、それは「無責任な理解」であり、自己忘却であるということだ。
人ごととして物事を理解するということは、その物事を、自分とは無関係なものとして、規定することである。その物事が、どんなものであろうと、どうでもいい。その理解がどんなものであれ、自分に対して、いかなる効力ももたらさない。それは、自分の勉強・思考に、自分で責任を持たない、そういうことである。その勉強・思考から得られた知見を、他者に語るとき、それは自分が語っているのではない。その言葉がどのような結果をもたらそうと、自らに責任はない。自分の中で、他者が語っている。そこに主体性というものは存在しない。自己の存在は忘れられ、そこにいるのは他者でしかない。自分の、自分に対する緊急性の欠如。これはやがて、共感性の欠如に繋がるだろう。ありとあらゆる物事を、自分の問題として捉えないのである。戦争が起きて、兵士や、民間人がたくさん死んでも、そんなことは自分には関係ない。「俺は嫌な思いしてないから」とは、そういうことである。しかもこの共感性の欠如は、自分にも向けられてしまうのだ。
一応本書においても「享楽的なこだわり」の名で、自分の実感から離れすぎないよう、ある程度のところで限定する。離れた思考を自分の元に引き戻す契機の存在を、規範的に指摘してはいる。だがそれでは不十分なのだ。思考が一度自らから離れてしまった以上、それは現実とは切り離されてしまっている。現実を、捨象してしまっている。そのようなものを自らの元に引き戻したところで、それは自らの実感として理解しなおすということにはならない。他者を、他者のファクターを通して、理解しようとしているに過ぎないのである。自らの実感として理解することは、常に,その瞬間瞬間において、行わなければならないのだ。
ギザギザと書いてきたが、こういった問題の解決策は、ルソー「学問芸術論」の1節を引けば済む。
おお、徳よ!素朴な魂の崇高な学問よ!お前を知るには多くの苦労と道具とが必要なのだろうか。お前の原則はすべての人の心の中に刻みこまれていはしないのか。お前の掟を学ぶには、自分自身の中にかえり、情念を静めて自己の良心の声に耳をかたむけるだけでは十分ではないのか。ここにこそ真の哲学がある。われわれはこれに満足することを知ろう。そして、文学の世界で不滅の生を生きている、あの有名な人々の名誉を羨むことなく、彼らとわれわれのあいだに、かつての二大民族の間に認められたあの輝かしい区別――一つはよく語ることを知り、他はよく行うことができた――を設けるようにつとめよう。
「さまざまな環境のあいだを、「諸言語」のあいだをいったり来たりする。これは、旅人のようなあり方でしょう。これが、第一段階の、ある環境に縛られた保守的状態から脱し、「一周回って」環境依存性を認めることなのです」(90)
本書で全体的に言えることだが、付箋を貼り、書き込みをしていたのはここだけであった。様々な環境のあいだをいったり来たりする旅人。彼は「自分が一体どこから来たのか」という問いを発しはしないのか。また、その旅人は、最後にどこに行き着くのか。旅人のアイデンティティは一体どこにあるのか。それが問題である。もし、そういったことに「答えがない」のであれば、それはまさに「自己忘却」に過ぎない。自己破壊を繰り返し、一体旅人はどこに行くのか。自己破壊そのものを目的としたとき、そこには一体何の意味があるのか。そのような、苦しみにあふれた自己破壊を行うことで、本当に旅人は幸せなのか。それがわからないのである。
「コードは不確定で揺れているから、どういう発言が「決定的に」NGなのかは、誰にもわかりません。発言がなされるたびに、OKかNGなのか、そのつどテストされる」(91)
本書の文脈とは違うが、いつも考えている、「解釈は自由だが、限界がある」ということをそのまま言ってくれている。(ニーチェは読んだことがないのだが)自分の考えは多分にニーチェ的である。この世界で我々を縛っているルールは、所詮我々自らが作り出したルールに過ぎない。さらに言えば、マジョリティの作り出した現実の一解釈に過ぎない。故に、マイノリティの価値観の保護が正当化されうるし、その抵抗も正当化されうる。結局、ある現実についての多様な解釈の中で、どの解釈が最も支持されているか、というだけの問題なのだ。その意味で「勝てば官軍」という言葉は、規範的にも正しい。
ただし、解釈が多様であることは、解釈が無限に自由であることを意味してはいない。その自由を限界づけるのが、アイデンティティである。自らのアイデンティティを破壊してしまうような解釈は、取ることが出来ない。それは、自己破壊であり、自らの存在基盤が消滅するということである。その先には死しかない。しかし、どのような解釈が、自己破壊的であるのかは、先験的にわかるわけではないのだ。それは、実践によってしかわからない。自己破壊的な解釈は、自己が意識的・無意識的かはともかくとして、自らが拒否してしまう。やろうとしてもできないのである。
本書でも同様に、このような限界づけるものを「享楽的こだわり」と呼んでいるが、それは間違いなく誤りである。そのこだわりは、本書的な意味での「享楽的」などではない。むしろ、自らのアイデンティティを賭けた、深刻なこだわりなのだ。
アイロニーから決断主義へ(141-)
特に意見は持っていないが、面白い記述なので、いつか改めて読みなおしたい。
教師は有限化の装置である(182-184)
そのような有限化が、我々の自由を縛り、教師・学校という制度を、教育の唯一の執行機関として特権化しているのだ。
イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』を見れば済む。
「だから、理想論として言えば、学問は、特定の利害に与しないという意味で、中立的なものであろうとしています。しかしこれは理想論で、学者や学会もまた、世の中の利害関係につながっており、学問の営みに「政治的文脈」を読み取ることも必要ではあります」(189-190)
全くもってその通り(俺自身がちゃんとそのように読み取ることが出来ているかは別の話であるが)。
専門書と一般書、信頼性・学問の世界(184-190)
本書で気になった、細かい点の中では一番くそったれなところである。
専門書の大切さや、信頼できる情報の選び取り方を簡単にレクチャーしてくれているのだが、これははっきり言えば、「アカデミズムの世界のルールを、その外側の世界にまで一般化しようとしている」ということにしかならない。この根本には、先にも述べた、本書の想定する「勉強」があまりにも狭すぎる、ということがある。実際の「勉強」や「学問」はアカデミズムのルールでのみ行われる営みではない。結局、ここにはアカデミズムのルールの特権化がある。勉強は、専門書に頼る必要はないのだ。それこそ、カリスマ的な宗教家の言葉に耳を傾け、神との関わりに一生を捧げてもいいし、自らの内なる声に耳を傾け続けるということでもいいのだ。アカデミズムのルールが提供するのは、アカデミズムの世界で「正しい」と思われやすいことの見つけ方に過ぎない。
その他の領域に対しては、まったく説得力を持っていないはずなのだ(しかし現在、説得力を持っていることになっている)。
どっとはらい。
(2018/05/16)
最終更新:2018年05月18日 22:50