【読書感想文】北原みのり・朴順梨(2014)『奥様は愛国』河出書房新社。

 一通り感想を書き上げてから、以前何かの本で紹介されていたのを、いずれ読もうとメモしていた記憶があることに気づいた。小熊英二の本だったか?あまりよく覚えていない。どんな文脈で触れられていたかにも、記憶がない。
 世間的にはそこそこ評価の高い本である。小林よしのりが高く評価しているのには驚いたが、(同じく本書を高く評価している雨宮処凜と同じく)本書の中で「そう否定的ではなく」触れられている人物であるため、そのことをもって本書を優れていると安易に捉えるのは危険だろう。個人的には、「読む価値はあるが、好きではない」の部類に入る本である。 
 この手のジャーナリズム系の書籍に関しては、あまり込み入った感想は難しい。「こうこうこういう印象を持った」ぐらいのことしか書けないのだが、そういうことを書いておく。

本書概要

北原みのり(日本人・おそらく第二波フェミニスト)、朴順梨(在日コリアン三世)が、近年増加している(と言われている)「愛国的な女性達」、言い換えれば、保守運動や対朝鮮人排外主義運動に参加する女性達について考察する本。著者達が、保守運動・排外主義運動を観察し、また愛国的な女性達と対面し、その内容と感想をまとめたものである。半ジャーリズム、半エッセイといったところか。
共著本であるが、共同執筆した箇所はなく、それぞれが書いたものをバンドルする形式をとっている。
印象ではあるが、北原は非常に感性的な記述が中心となっており、またフェミニズム運動の視点が強い。対して朴は分析的記述が多く、「愛国とは何か」という視点が強く出ている。個人的には、朴の書いたもののほうが面白い。



読み手の立場

 一応、読み手の立場として、本書で扱われているような、在日外国人だとか従軍慰安婦について、俺がどう考えているかは簡単にまとめておく。
  1. 日本での永住権資格を持つ外国人に対しては、日本人と同じ権利と義務を与えなければならない。永住権資格を持たない外国人に対しては、義務は最低限、権利も最低限にしなければならない。例えば生活保護や国民健康保険などは、永住権資格を持たない外国人には、適用すべきではない。
  2. 但し、何らかの正当な理由で、日本において保護を受けることが合理的であるとみなされる場合(例えば自国に戻るとほぼ確実に生命の危険に曝される場合)、限定的に権利義務を付加するべきである。但し、それは追々永住権もしくは日本国籍の取得を目指すことが前提となる。
  3. 従軍慰安婦問題は、強制があっただとかなかっただとか、賠償金を払うだとか払わないだとか、謝罪がどうかという問題以前に、戦前・戦中日本についての歴史的総括を行わなければ話にならない。また、日韓双方が最も認識すべきは、どちらかに責任を帰せば済む問題ではないということ。強制性があったか、直接的関与があったかは問題ではない。少なくとも、日本が従軍慰安婦を必要とし、それに朝鮮の業者が応えたのだから、日韓双方で責任を負わなければならない。というか、俺の歴史観からいえば、当時韓国という国家は存在しないし、現在の日本国と当時の大日本帝国は別国家なのだから、日韓双方に「当事者としての国家」責任はない。だが、従軍慰安婦は、その後各国家に国民として引き継がれた人々が関わった性搾取という事件である。当事者としての責任はないが、問題解決の責任はある、という考え方をとらなければならない。

「はじめに」

この本の「はじめに」と「おわりに」は、著者二人がそれぞれ別々の文章を書いている*1

そのうち、朴の「はじめに」の内容は、すんなり入ってくる。少し引用してみよう。実にわかりやすい。

かつて私に向かって悪意で殴りかかってきたり、ハッキリと「朝鮮へ帰れ」「チョンコはキライ」と口にしたのは全員男性だった。女性は「私とあなたは違う」ということを、卑屈な態度で示してきたのみだった。でもここにいる女性は、韓国人を射殺したいとすら考えているようだ。[中略]彼女達は「韓国人を 射殺しろーーー!」と叫んだ帰りに地元の店で食材の買い物をして、家では夕食の支度をして家族とテーブルを囲んだりするのだろうか。もし子供がいるなら、叱ったりかわいがったりしているのだろうか。[中略]新大久保で「殺せ」と叫ぶ一方で、家では「かわいい奥様」をやっていたりするのだろうか(21-22)。

私が高校生だった20年以上も前から、「好きな番組は『皇室アルバム』と『皇室ご一家』で、理想の女性は美智子様!」と公言していた同性の友人はいたし、和食を食べたり、神社に行ったりした際に「日本人でよかった」「日本大好き」と発言する友人の女性は、今までも周りにたくさんいた。[中略]思えば2011年8月に始まったフジテレビへの抗議デモや、その後の花王への抗議デモや、その後の花王への抗議デモには、子連れの主婦が数多く参加していたっけ。でもあれは「韓流ドラマばかり流す」フジテレビや、そのフジテレビのスポンサーの花王という、生活に身近な企業に抗議するものだったはず。でも今日のデモは島根県の沖から158キロも離れている、絶海に浮かぶ小さな島をテーマにしたものだ。あまりにも生活からかけ離れているし、何より「不逞韓国人を 全員射殺しろーーー!」というヘイトスピーチを垂れ流している。私が今まで見てきた、日本が大好きな日本人女性とは何かが違う女性達が、目の前に存在していた(22-23)。

自らの知る、イメージできる「朝鮮人嫌いの女性」「愛国的な女性」と、現代の「朝鮮人嫌いの女性」「愛国的な女性」の間の乖離。同様の、イメージの乖離、という違和感は、朝鮮人に関する問題に限らず、あらゆるところで、あらゆる人々が感じることができるものであろう。
 しかし北原の「はじめに」の内容は、どうにもわからない。

もしかしたら新幹線の中で「逃げる者は恥を知れ」というツイートを読んだときから、ずっとダメだったのかも。耳の中でずっとカサコソカソコソ音がしていて、動悸は激しく、不安な気分に押しつぶされそうになってようやく気がついた。私はずっと、もの凄いストレスの中を生きてたんだ。人と違うことを言ったり、自分の意見を言ったり、自分の思うままに行動して「間違った」ときに、もの凄い勢いで叩かれる空気が、もう限界だったのだ(北原:28)。

わからない、住んでいる世界が違うというか、感性が違いすぎるというか・・・。非難する意味ではないが、ここまで敏感な感性だと、心配になってくる。
 一応同じ日本人であるはずの北原の問題意識に共感できず、在日コリアン*2の朴の問題意識に共感できるというのは、不思議な話なのかもしれない。○○人という問題ではないからと考えるべきだろう。朴の問題意識は、在日コリアン固有の問題意識ではなく、普遍性を持った問題意識なのだ。一方北原の問題意識は、かなり「東京的」であり、個人的なものである。

やっぱり著者達は「リベラル」

本書の著者達は、やはり「リベラル」なのだ(当然ながら、ここでの「リベラル」というのはリベラリズムのことではなく、日本の左翼主流派、戦後左翼、のことを言う*3。具体的に引用するのは面倒なので省く。読めばわかる。

かみ合ってない対面

 著者達は、愛国的、もしくは排外的政治活動を行っている女性達の姿を、聴衆として見るだけでなく、実際に一対一で対面し、その話を聞いている。それは評価する。しかし、そこには「対話」が存在していない。そういった女性達の言葉と、それに対する著者達の感想、が主な記述なのだ。著者達は、女性達の言葉に、矛盾を感じ、それは解決されないまま、わだかまりとして残る。当然である。著者達の感じる矛盾は、女性達に伝わっていないし、殆どの場合、伝えようともしていない。自らだけで考えること、自らを内省的に問い直すこと、確かに大切なことだ。しかし、それだけでいいのか。そのわだかまりを、対面した当事者にぶつけず、著作として発表することは、相手に対しても、自らに対しても、不誠実なことではないのか。
 著者がここで感じているのは「憐憫」である。憐憫は、上下関係を前提としている。決して対等な目線ではない。
 その他、本書の記述の端々にかみ合いの悪さを見ることができる(例えば46-48)が、ここで詳細には触れない。

愛国的女性達の、自己忘却

本書に登場する愛国的女性達について、朴が問題視していることの一つが、彼女らの言動・行動の矛盾である。自らの言動・行動の矛盾、不統一は、『勉強の哲学』の感想文でも書いたように、自己・他者双方に対する、共感性のなさ、無責任に至る。俺はこれを、現代の政治・社会問題の、根本的な原因だと考えている。

ただ彼女も、慰安婦の存在自体は認めている。そしてかわいそうな境遇の人もいたということも。[中略]丁寧な表現をもっている人だと感じた。だからこそ、慰安婦や慰安婦を支援する人達を「嘘つき」とするのではなく、そこにどんな思いがあるのかに、じっくり向き合って欲しいと思った。ましてや「汚い汚い朝鮮人」などとヘイトスピーチを町中で絶叫した会員がいる在特会と関わりを持つことには賛同できなかった(朴:44-45)

一方で男性から性的な目で見られることに憤りを感じ、その一方では極限状態の男性を癒すために体を捧げると言う。だがそもそも慰安婦には、相手を選ぶ権利などない。愛する男性のためだけで済むわけもなく、反目する男性の相手をする可能性も十分考えられる。望まない相手との性的な関わりは、心身ともに女性をむしばんでいく、コナをかけられたことに怒りを感じている彼女なのに、なぜそこに考えが及ばないのか。私の理解の範疇を、はるかに超えていた。だからそのつぶやきに対し、「そんな世界にならないことを祈る」程度の返答しかできなかった(朴:149-150)。

自ら可哀想と認める人々に対する罵倒を、受け入れてしまう。性的な目で見られることを拒否する一方で、そのために体を捧げようとする。自らの本当の意見、思想、思いを、明確に捉えていないが故に、このような態度をとることになるのだ。言い換えれば、彼女達は、分裂したアイデンティティの間で生きている。分裂したアイデンティティは、互いに侵害し合い、破壊し合おうとする。それは本来、アイデンティティの危機として捉えられるものである。そこには大きな葛藤がある。決して消去しえない対抗関係が、そこに存在する。どち
らかのアイデンティティしか、生き残ることはできない。しかし彼女達に、そのような危機感はあるのだろうか。

明示的ではないが、北原も同様の関心を持っている節があるように思う。北原は、愛国女性の集い「花時計」*4に対して、このように述べている。

いったい、なぜ、あなたたちは、この国の男を信じられるのか?自分は濡れても男に傘をさしだし、兵隊さんに「慰安婦」は必要だったと断言し、最後に男にマイクを渡すのは、何故なのか?あなたたちにとって、男はどんな存在なのか?そして知りたいのだ。そこまで男を信じているのならば、なぜあなたたちは「女だけの運動」にこだわるのだろうか?

北原も、彼女たちの行動・言動が、自らのなかで、男性からの女性の独立と、男に対する絶対的信頼という、一見相反する言動・行動が、いかなる統一性を確保しているのか、それを一つの疑問としている。本当に男性を絶対的に信頼し、男性のために生きることに価値を置くのであれば、女性が独自の行動をとる必要はないのだ。
 現実には、これは、「リベラル」の立場から見たときに、言えることなのかもしれない。彼女らの中では、自らの言動・行動は統一されており、矛盾など存在しないのかもしれない。しかし、わからないものは、わからないのである。

その他気になった記述について

まとまりを欠くが、気になった記述をメモしておく。

確かに大きなメディアは彼女たちの声をまともには、拾わない。彼女たちは偏った愛国主義者で、極端な思想の持ち主とされ、大きなメディアが報道することはほとんどない。どこにも届かない声を、だからこそ彼女たちはネットを通じて発表し、そしてこうやって街に出てきて声をあげるのだ、さぞかし悔しい思いをしてきただろう。さぞかし怒りがくすぶっていることだろう。闘わずには、いられないことだろう(北原 62)。
花時計による演説を熱心に聞く女性達についての記述。彼女たちが、何故愛国女性になったのか、その理由についての記述。これ自体は善いのだが、やはり「憐憫」の関係にあるように見える。


文芸評論家の加藤周一は『日本人とは何か』(1976)の中で、「日本人以外の人間と一切関係がない時に、日本人が何かということは意味をなさない」と書いている。ドイツとフランスの両国民は、相手の眼のなかに映った自分の姿を観察することに歴史的に慣れている。他人の眼は自分自身が何であるかを知るための鏡だと記している(だがもはや他国民との比較の問題ではなく、何を欲するかという意志が明確ではないところに問題があるのではないか、とも)。屁理屈かもしれないが、在日に対してすべてにおいて「真の日本人であるための同化」を求めてしまったとしたら、自分を映す鏡がなくなってしまうのではないだろうか。たとえ同じ地平の上に立ちながらも、異である者同士が互いを映し出していくことで、それぞれの存在する意味を確認しながら、ぼんやりとした輪郭をシャープなものにしているのではないか
私は多分これからも日本で生き続け、そして目の前の世界を慈しみながら日々を送っていくだろう。そのことへの覚悟こそが、帰化なのかもしれない。でもそれでも、根本的には異であることにかわりはない。おそらく私は、彼女のいうところの「真の日本人」には死ぬまでなれないかもしれない。だがなりたいと思う誰かの魂や、なろうとする誰かの魂の道の上に立ちふさがるつもりもない、一方でたとえ対象が自分ではなかったとしても、異を排除する空気には単純に恐怖を感じる。理解したい。でも今はしきれない。近くにいるのか、遠いのか、分からないまま向かいのサヤカを見つめていた(朴 :82)。
ここでの「真の日本人」であるための要件は、「真の日本人でありたいと思うこと」という精神性を指す。

「あなたが暴力を受けたことと、自分が欲望を持つことは、まったく別のこと。あなた自身の欲望を否定することはないのだと、それを伝えるためのワークショップ」(北原:87)
北原が韓国で運営した、性暴力被害者に対して、バイブを並べて、使い方の説明をし、女の欲望やオーガズムについて語るという、一般的にはタブーとされるであろうワークショップについての記述だが、確かにその通りである。

「9条賛成」も「賠償金要求」も、きっと絶対「正しい」。でも、さっきの女たちの、「20万人もいるのに、目撃者は一人もいないんですよ~!」のわかりやすさに比べて、この「左翼的」なシュプレヒコールはなんだろう!つまらない上に、変わらなすぎる!私たちがなぜ歩いているのか、伝える言葉はないのか?なぜ、闘いと正義の言葉になってしまうのだろう?(北原 95)

男と共に生きるなら、国と共に生きるなら、女はそこで言葉を飲むべきだ。それがこの国の女の戦い方なのだ。彼女たちは私にそう突きつけてきたのだ。それは直視するにはあまりに辛い「加害の国の女」の現実に思え、それが私にはとてもとても、怖かったのだ(北原 103)。
反・従軍慰安婦活動を繰り広げる女性達に関する言及である。慰安婦問題は、朝鮮人だけが被害者ではなく、日本人女性も、満州・朝鮮からの引き上げ時に、ソ連兵による性暴力に晒され、慰安婦となったのである。しかし彼女らは声を上げなかった。そのような抑制的態度こそ、大和撫子の態度として、賞賛されたのだ。「フェミニズムは、被害者意識が強いから嫌い」(北原 102)というある女性の言葉が、端的なものである。北原はこれを日本フェミニズムの責任としていることにも、注目しなければならない。

マジョリティの無理解な無神経の言動に触れて、鎧を厚くせざるを得なくなった人生は、確かに存在すると思う(111)
まあ、そうだろうな。

『人数が少ないから逃げ場がない分、かなり濃い人間関係を味わっていると思うんです。人数が少ないのは決していいことではないと思うけれど、多分どんな環境でも問題はあると思うし、むしろ友達がいるありがたさを、実感できているのではないでしょうか』(128)
少人数学級をとる朝鮮学校に二人の子どもを通わせる母親の発言。「人数が少ないのは決していいことではないと思う」にWHY?がつくが、おおむね賛同する。

「愛国を頭ごなしに拒否し、右翼的言説を危険思想と切り捨て、日本人戦争被害女性の無言を放置し、靖国神社をタブーにするような、ある種の「思考停止状態」に、私たちが決別しなければいけないことを、意味しているのであろう(北原 213)
ふむ。

(2018/06/04)
最終更新:2018年06月05日 04:00

*1 こういうやり方は結構良いやり方だろう。「はじめに」と「おわりに」というものは、その本がいかなる目的を持ち、何を語ろうとしているのかが示される。大抵の共著本や編著本の場合、誰か代表者が一人で書く場合が多いのだが、九分九厘、各筆者との認識には一定のズレが存在する。各筆者が何を書こうとしたのかを、一人の筆者が代わりに語ることなど、できはしない。流石に各筆者の意図と大きく外れる場合、原稿の段階でケチがつくことになるため、我々の手元に届くものは、「大体」筆者全員の意図に合致しているのだが、完全に一致することは、ほぼない。このような形態をとると、本一冊の中の統一性が薄れてしまうというデメリットもあるが、試みとしては高く評価すべきである

*2 在日朝鮮人ではなく、在日コリアンと呼ぶべきだ、という議論はあり、実践している人々もいる。ただし、ここで俺が在日コリアンという呼称を使うのは、そういった議論を踏まえているわけではない。俺が普段から、中国人をチャイニーズ、韓国人をコリアンと呼んでいるのである。そう頻繁ではないが、日本人をジャパニーズと呼ぶこともある。「○○人」という言葉が嫌いなのだ。「○○人」という言葉を使うと、文化的・社会的・精神的要素が抜け落ちる気がするのだ。

*3 この手の「リベラル」の別称にカタカナ書きの「サヨク」という言葉があるが、俺は使いたくない。

*4 花時計についてはググっていただきたい。