(GK註)
本稿は第5試合:採石場 試合SSその1の第一稿です。
最終的に提出された試合SSでは、大幅な文字数削減が行われました。

 * * *

「早く大人になれたら良いのに」
「大人になんかなりたくないと思っちゃうけれど」

幼馴染の少女は女主人の否定的な発言に目を丸くした。なぜ大人になりたくないのかと華奢な身体から伸びる腕を二度三度と振り回し、小さな握り拳を突きつけ親友の顔を睨み据える。きつく結ばれた唇は綺麗な「への字」を描き、僅か膨らむ頬は血色の良い朱色に染まっている。仕草から表情に至るまで実に子供らしいことだと、女主人は目を細めた。

「だって、やりたいことも出来なくてつまらないじゃない」
「でも格好良いでしょ」

小首を傾げた少女のなだらかな首筋、(うなじ)がチラと目を惹く。女主人は少女の肩に手を伸ばし、幼子をあやすよう折り返った制服の襟を直してやる。継いで胸のリボンを整えようと伸ばされた腕は少女によって押し留められた。またそうやって子供扱いをしてと幼気(いたいけ)な少女は頬を一層に膨らませた。

「どうすれば早く大人になれるかなぁ」
「盛華は大人になっても子供っぽいまま変わらなそうだけれどね」
「あっ! 酷い!」
「そうね。少なくともタネのある西瓜を食べられるようになったら大人じゃないかしら」
「もう! またそうやってからかうんだから!」

幼馴染の名を呼び、からかい、その度に跳ね返る軽快な反応に、堪え切れず女主人は腹を抱えて空を仰いだ。目尻に溜まった涙で滲む視界に映るのは白一色の空。焦点も合わせられぬ無地のカンバスであった。大口を開け喉から吐き出された笑声は一面の「白」に向けて放たれ、残響も無く消えた。

空も地面も、地平に並ぶ山々も周囲に建ち並ぶ街並みも無く、床も天井も壁も無い、白色に埋め尽くされた世界。二人が居るそこは時の流れすらも曖昧な空間であった。虚無の中心から広がる女主人の声は、舞台に誤り置かれた書割の如く異質で明るい。

「御免なさい。御免なさいね。あんまり可笑しくって。でもね、本当に大人なんて良いものでもないのよ」

涙を指先で拭い、口元を手で隠し再び笑う。釣られ幼馴染も笑い出す。それはいつまでも続く二輪の花競べであった。女主人はまた思った――ああ、自分は夢を見ている、と。この白い世界は女主人にとって慣れ親しき寝床。日々折々、夜闇に童心を遊ばせる場所――変哲もない夢であった。

今や創作料理店の女店主がかつて一人の女学生であった当時、睦まじき親友と未来を語り合った記憶。その残滓が大人となった女主人の胸で煮詰め濾され、そこに少量の願望が浸され出来た透明なスープ。ここは飽きもせず女主人が啜る甘露に満ちた食卓であった。だが、こと今日に限っては、女主人はここに長く座す訳にいかなかった。

「大人って何なんだろう」

溜息と頬杖を同時についた幼馴染が掌で片頬を押し潰し、決まり文句を口にした。曖昧で半端な夢であれ、この可憐な花の隣を離れるのは、女主人にとって日常における全ての労苦と比してなお難事であった。だが、この日ばかりは夢幻に耽溺する以上の重大事が女主人にあった。

「そうね。私が思う大人って何か、帰ってきたら教えてあげるわ」

ここは夢の戦いに赴く前の、ただ儚い泡沫の夢。泡沫の慰みを永遠の歓びに、いつか明ける夜を醒めぬ瑞夢に変えるため女主人は歩き出さねばならなかった。

「御免なさいね。ちょっと用事を思い出しちゃって。すぐに帰ってくるから」
「ええ? いつも急なんだからぁ」
「ね。待っていてね」
「仕方ないなぁ。うん。それじゃいってらっしゃーい!」

世界から音が消える。目眩を起こしそうな「白」を背に浮かぶ幼馴染が手を振る。女主人は残像を引き摺り遠ざかる幼馴染へ小指を軽く差し伸ばし、虚空で指切りをした。そして微笑みを返す。それを最後に女主人の意識は夢の中からもう一つの夢の中へと沈んでいった。



 * * *



何故ならそれは、社会――『地獄』を耳触り良く表した場所――の隷属者なのだから




濃緑色の山々が遠く近く重なり、山肌に並ぶ常緑樹に空を渡る雲が影を落とす。一幅の日本画を思わせる景観は、橙に燃える夕日が膨らみ揺らぎ急き立てられるように西の山へ姿を隠し一変した。白く煙る山並みは濃紺と黒の影絵へ。刻々と色彩を移ろわせていた空は今や一面の墨化粧となり、満月だけが温度の無い青白い光を山中に抉り出された採石場に差し落としていた。

月明かりを弾き煌めく黒の岩陰と濃紺の岩肌が、墨の乾き切っていない二色版画さながらの舞台。そこに睨み合う四人の人影が屹立していた。石切り場の角ばり巨大な花崗岩を背に立つ男が二人。森を背に立つ女が一人。その二点と併せ結び三角形を描く位置、森の中に立つ最後の一人の男。それは今、正に夢の戦いの最終幕が上がった瞬間であった。

寂尊(じゃくそん)ッ! まず警官を殺れッ!」

開幕の音頭、第一声をあげたのは茂木箍一郎であった。彼は両手から勢い良く「焦燥」「悔恨」「疑念」といった感情を煙として吐き出し、血を溢れさせる左腿の痛みに耐えた。油断していたのか。伏兵も考慮していたつもりだった。そういった後悔も反省も後回しに、茂木は第一に為すべきこと、敵の打倒に頭を切り替えていた。

ここから先、夢の戦いの決着まで時間にして一分足らず。三発の銃弾と三振りの豪腕豪脚で終わりを迎えた。





「夢の戦い」。夢の中で命懸けの殺し合いを演じる、避けようの無い悪夢のようなそれは、勝者に「見たい夢を見る権利」を、敗者に「恐ろしい悪夢」を与えるという、都市伝説じみたものであった。実在を怪しまれていたそれに茂木が巻き込まれたのは、やはり何の因果も無い偶然でしかなかった。

「私達のデビューには丁度良い舞台だ。そう思わないか? 空海。いや――」

だが茂木は夢の戦いに巻き込まれた後、その災難に動じること無く、隣に立つ男へ声を掛けた。

「寂尊!」
Aaow(ポーウ)!」

そこに立つ僧形の男こそは茂木の実験の産物。彼が比叡山延暦寺に赴き行った「脳死状態の男に感情を吹き込み再び蘇らせる」倫理の禁忌たる所業の忌み子。歌唱とダンスで80年代日本の仏教シーンを塗り替え続けた男、"三代目 J soul 空海"――またの法名(本名)を寂尊。

茂木と寂尊。彼ら二人は信念を引き継ぐ実験の果て、今や80年代日本を沸かせた伝説のアイドルグループ、ローラースケートを使い踊りと歌を同時に見せるパフォーマンスで一世を風靡したかの伝説的歌唱舞踏集団「EXILE」の魂をその身に宿す存在となり、二十一世紀を席巻する新たなムーヴメント、脳科学とダンスの融合を以って茶の間に家族団欒の一時を提供しようと企み、捨て身のドサ回りに日々を費やしていた。

言葉も思い出したように時々しか喋ること無く、古風なホラー映画に登場する怪人のようにツギハギだらけの血色悪い禿頭の老爺――寂尊のその外見が仇となり、二人の芸能活動は暗礁に乗り上げていた。それでも二人は「EXILE」である。諦めを知らず、信念に燃えて一日を暮らしていた。

その二人の志とは何ら関係の無い夢の戦いである。茂木にとって夢の戦いの褒賞はどうでも良い物であった。しかしながら、「寂尊と二人なら何でも出来る」を合言葉に芸能界へ科学のメスを走らせよう身として、科学者として、「実証」は重大事であった。

「二人なら夢の戦いにも勝てる――証明しましょう」
Aaow(ポーウ)!」

斯くして茂木は夢の戦いに赴いた。足に履くは当然「EXILE」の正装たるローラースケート。寂尊もまた「EXILE」の初代猊下"J soul 空海"こと空海から引き継いだ一足を履いた。新たなシーンを切り拓く決意を込め過去の肩書を捨て、"三代目 J soul 空海"ならぬ一個人となった寂尊ではあったが、そのスタイル、意志、想い、信念、魂は確かに「EXILE」を継ぐ者であった。

「寂尊は前衛。私は後衛でブレーン役をする」
Aaow(ポーウ)!」
「私が死にそうになったら人命最優先で」
Aaow(ポーウ)!」
「イザとなったら寂尊は肉壁役を宜しく」
「ちょっと待っとくれ。ワシゃ齢じゃから肉体労働キツくて」
「黙れジジイ! ゾンビ化してりゃ痛みもないでしょ!」





およそ仄暗い月夜に血塗れの僧衣を纏いツギハギだらけの禿頭を光らせる皺だらけの老人が眼前に現れたらば腰を抜かさぬ者がどれだけ居ようか。両腕で胸を抱き、不安からか青ざめた顔で足取りも危うく採石場を歩いていた女主人は、フランケンシュタインの怪物との出会い頭に悲鳴をあげ腰砕けになっていた。

運動能力――並。左手を庇う動きが不自然――刃物を隠している。武器を所持しているからには破壊力のある魔人能力所持者の可能性――低。寂尊を攻撃する素振りは無かったので遠距離攻撃手段――恐らく無し。或いは敵対の意思が無いか。夢の世界で対戦相手との初対面時、岩場にへたり込む女主人を見て茂木はそう考えていた。

普段は破天荒な言動でお茶の間はおろかTV番組の共演者すら混乱と混沌の坩堝に追い落とす脳科学者、茂木であるが、そこは流石に脳科学者。巫山戯ていなければその頭脳は明晰であった。夢の戦いにおいても、脳が発する感情、身体に表れる脳からの命令を見逃さず情報分析し、初邂逅にして相手の戦闘能力を精確に把握していた。

――もしも彼が戦場である採石場の洞窟に目を奪われ、

「まったく、洞窟といえば地底世界! 鍾乳洞! トロッコ! ドワーフのギルド! コレ必須事項でしょう?」
Aaow(ポーウ)!」

――地下神殿や地底世界を夢想し、

「わくわくドキドキ、ポロリもあるよ! の夢体験を期待して潜ってみれば無人とは! 嗚呼なんてこったい!」
Aaow(ポーウ)!」

――脳を活性化させる最高の要素、新体験を求めていなかったならば、

「伝説の聖剣も手に入らないですしアハ折り損のくたびれ儲けですよ! アーハン?」
Aaow(ポーウ)!」

この夢の戦いも、日が暮れる前に決着がついていたかもしれない。

だが、その徒労も夢の戦いには無影響であった。少なくとも、茂木はそう判断した。何故ならば、茂木は女主人の傍へと姿を現し、間近で見る弱々しいその女には戦闘能力が無いことを既に確信していたからであった。これならば我々二人が負けることは無い。横に控える寂尊はこれで身体能力は高いのだ。

「貴女が女主人さん。どこかの店主さん? ゴメンねぇ、驚かせてしまいましたか」
「……あ、脳科学の……茂木先生? 道理で相手のお名前が……」
「イエス・アイ・アム!」

まして、相手が敵対行動の意思を持たないならば尚更である――茂木はそう判断していた。対戦相手が自分を知る人間であり、言葉遣いやこちらを見上げる所作から好意的な感情を脳が発していることも見て取れた。故にこの時までは穏便な形で夢の戦いを収める方向も視野に入れていた。だが――

「あの、手を貸して頂いても? そちらの方に驚いてしまって」
「いいですともマドモアゼル――なんて言うと思ったかッ! アハッ! 茂木汁ブシャーッ!」

茂木は優秀な脳科学者であった。だから気付いてしまった。目の前の女主人が右手を差し出した時、脳科学者でなければ見逃す程度の僅かな差異だが、所作に攻撃の意思を含ませたことを。こちらに敵意を持って触れようとした以上、相手は接触型の魔人能力者である。

即座に茂木は差し出した右手から「疑心」を噴出した。そのまま車輪の力と煙の推進力で女主人から距離を取り、煙に咳き込む女主人に荒事を為すと即決した。

「……茂木先生! 何をいきなり」
「この世に格言あり! 『脳は全ての心の母』! ンンー良い響きだ。今考えたとは思えない出来の良さ!」
Aaow(ポーウ)!」
「待ってください、私、争いごとは駄目なんです」
「なんと白々しい! アハッ!」

相手が勝ちを目指す意思を示す以上、きっちりと殺ることをやる。ついでに夢の世界などと珍しい事態なので面白そうな実験も併せて行う。

「夢の解明は脳科学の発展! 実験しよう! 夢を見ている脳を夢の中から観察だ!」
Aaow(ポーウ)!」
「丁寧に開頭しましょう! いけっ! 寂尊!」
Aaow(ポーウ)!」

こうして会話のドッジボールを終え、ここに茂木と寂尊と女主人、三人の夢の戦いの火蓋が切って落とされた。





開戦と同時――聴こえる音といえば三人の声しか無かった山奥の採石場に、乾いた破裂音が鳴り響いた。

「アハッ!?」
Aaow(ポーウ)!?」

女主人から距離を取り、数瞬の間その動きを止めた茂木の隙を突いた一撃。それは避けられよう筈も無い。何せ、茂木にとって直前まで予想だに出来ぬ方角――夢の戦いの戦闘領域外である森からそれは放たれていた。茂木の左腿から夥しい血が滴り落ちていた。

「婦女暴行の未遂で現行犯逮捕だな」

ざわめく茂木陣営を尻目に、その男は大樹の陰から姿を現した。手には年代物の細長い狙撃銃。銃口から黒い煙が薄く立ち昇っていた。

「店主さん! 大丈夫ですか?」
「ええ。ええ。ありがとう! 川口さん!」
「お安い御用です!」

それは15年来、女主人の店の常連客となっていた男。ガンマニアが昂じて警察官になったという、川口と呼ばれたその男は奇しくも魔人警察官であり、昼間に女主人から夢の戦いの相談を受け、市民を護るのは警察の勤めと銃を引っ提げてこの戦いに飛び入り参加した最後の――第四の男であった。

そして、夢の戦いのルールには「同伴者の場外負けに関するペナルティが無い」事実に目をつけた女主人の案により、開戦から数時間、森に潜み場外からの狙撃作戦を展開していたのであった。

「痛いの痛いのトンデケーッ! そんでもって――」

茂木は両手から勢い良く「焦燥」「悔恨」「疑念」といった感情を煙として吐き出し、血を溢れさせる左腿の痛みに耐えた。油断していたのか。伏兵も考慮していたつもりだった。そういった後悔も反省も後回しに、茂木は第一に為すべきこと、敵の打倒に頭を切り替えていた。

ダメージを負った状況は芳しくない。だが女主人には接近しなければ良い以上、実質二対一。二人なら勝てる。

「寂尊ッ! まず警官を殺れッ!」
Aaow(ポーウ)!」

森の陰から姿を見せた敵の脅威を認識した茂木は、寂尊に素早く指示を下した。森の狙撃手、川口も狙撃用の銃を放り投げ、ホルスターから拳銃を引き抜き迎撃姿勢を整える。

「来てみろ馬鹿野郎共! 俺の見せ場を作れよ!」

ここから先、夢の戦いの決着まで時間にして一分足らず。三発の銃弾と三振りの豪腕豪脚で終わりを迎えた。





互いの出方を伺う一瞬の静寂を破り、男達の影は同時に動いた。

Aaow(ポーウ)!」

川口の拳銃が火を噴き、鋼鉄の牙が夜風を致死の螺旋に変え突き進む。だが牙は空を噛む。寂尊は掛け声も勇ましく、重力を感じさせぬ、かつ淀みなき、然して弾丸にも劣らぬ鋭さで背面へ向かって水平移動し、回避動作を終えていた。これこそ彼が世界を震撼させた驚異のローラースケート術――その名も「月面歩行」。

Aaow(ポーウ)!」

第二の銃弾が間髪入れず放たれる。青白き月明かりの舞台に赤々と燃える火の槍が扱かれる。だが槍の穂先は届かない。月面歩行は予備動作も無い縮地術。血塗れの法衣が闇にはためき金糸が光を飛ばす。寂尊は禿頭を両手で一撫で。片膝を妖艶に折り曲げ、一糸乱れぬ直立姿勢で背面へと星の海を泳ぐ。それは正に往時のスターたる彼の姿。

Aaow(ポーウ)!」

第三の銃弾が発射される。マズルフラッシュの照り返しで浮き上がった川口の表情に確かな焦りの影が彫り込まれていた。その一矢もまた夜の陰影に呑まれた。花崗岩の銀盤を踊る寂尊は地を蹴っていた。天高くへと。空を泳ぐが如く。月面宙返り――空海の名を継ぐ者が必修とする J soul ダンスの基本にして極意。既に距離を詰めていた寂尊は格闘技を修める者の弱点、頭上からの猛撃を放った。

――坊主と警官。勝敗を分けたのは彼らの選んだ道の違いであった。川口は寂尊が跳んだと同時、即座に腰から警棒を引き抜いていた。空を舞い蹴る寂尊の脚を潜り抜け、刹那の後、伸び切った胴体を横薙ぎに切り払った。密着した状態ならば回避も不能。宙に浮かぶ影絵が二つに切り離され、黒い血飛沫を散らし冷えた大地へ転がった。

「そしてスターたる者――人の目を惹きつけてナンボじゃからな」
「アハッ! 寂尊サイコー! ナイス・デコイ!」

坊主の仕事は人死の後が本番とは誰が言ったであろう。川口は前方に転がる老爺の首が発した嗄れ声と、背後からの陽気な声を同時に聞いていた。

「アハッ! 寂尊サイコー! 茂木サイコー!」

その時既に川口の腹部には砲弾を受けたような風穴が開いていた。川口の瞳から生気が抜け落ち、膝から崩折れ倒れた。二人の物言わぬ死体を見下ろし、仁王立ちするは天然フラクタルパーマの巨影。全身を筋肉で膨張させ、ギリシャ彫刻も平伏す肉体美となった茂木箍一郎であった。





もし川口が寂尊の姿に気を取られていなければ、強烈なアハ体験ブーストを経て徐々に細身の科学者からゴリラの如き巨漢へと移り変わる茂木の姿に気付いていただろう。片足を痛めようと両手からジェット噴射させた憤怒の煙で急加速し、拳を打ち込んできた茂木の襲撃に対応出来たかもしれない。だが、どう仮定を重ねようとも起きた現実は変わらない。例えそこが夢の中だとしても。

「さて店主さん! 貴女の秘策も終わりですね! 勝負アリです。一分程遅くなりましたが実験の開始ですよ」

フラクタル頭の金剛力士像があらゆる感情を捨て去ったアルカイックスマイルを浮かべ月夜に立つ。その足元は羅生門。余りの光景に女主人は青ざめた顔を更に蒼白へと染めながら――覚束ない脚を震わせ、それでも冷や汗に濡れた喉でその言葉を放った。

「ええ。私には戦う術はありませんから。何も出来ません。ですが勝負ありです。……私の勝ちです」
「……アハッ?」
「ありがとう川口さん。痛かったでしょうけど。お陰で……私は勝てました」
「……えっ? ホントだ負けてる!? ワタクシ敗けちゃってる!? ウッソー!? ナンデ!?」

女主人と茂木はその時、明確に認識していた。女主人は自分が夢の戦いの勝者である事実を。茂木は己が敗者となった現実を。脳内で姿無き声が高らかに宣言したのだ。

採石場、夢の戦い。勝者、女主人――と。

茂木は変わらず混乱したままであったが、女主人の目から見れば至極単純であり当然の帰結であった。茂木が今、立っている場所は――川口が潜み銃口を構えていた場所は、採石場の外。夢の戦いの戦闘領域外であったのだから。





「それでは触りますね」
「アアーッ! 妙齢の女性が太腿を誘うように焦らすように撫でるッ! 貴女の想いが私の肌を粟立たせるッ!」
「あの……」
「あっ気にせず続けてどーぞドーゾ?」

疑問を残したままでは科学者としておちおち昼寝からも目覚められないと主張する茂木に、それではと女主人が胸を抱き続けていた両腕を初めて解いた。左手には果物包丁が握られ、白刃が鮮血で濡れ輝いていた。その血は他でも無い、女主人自身のもの。彼女の左手小指は第一関節から先、切り落とされ無くなっていた。指の付け根を紐で縛られた小指は赤紫に染まり、女主人が夢の戦いの始めから酷い顔色であった理由を雄弁に物語っている。

「これで思い出したでしょうか。茂木先生の脚を撃ったのは、私の指だったんですのよ」

女主人の右手が、指先が茂木の脈動する筋肉繊維に触れた。直後、茂木は目玉を抜け落とさんばかりに見開き肩を震わせた。女主人の能力が条件を満たし、茂木は全てを理解した。

「………………アハッ」

前装式の銃(マズルローダー)は、銃口に入るものであれば何であれ銃弾に変えると言われる。事実、過去の実験によりタバコの吸殻さえ射程内ならば充分な殺傷能力を得られることが証明されている。女主人は予め自らの小指の先を切り落とし、銃弾として川口に渡していた。その弾丸は狙い通り茂木の脚を撃ち抜き、その瞬間、夢の戦いに欠くべからざる必須要素を一つ茂木の記憶野から打ち砕いていた。

「ア、アハハハーー! アハ! アハァ! 分かりましたァーー! これは凄い! ナイス・アハ!」
「ええ。ええ。……私の能力で、『場外負け』のルールを忘れてもらいました」

薔薇は手折られたとて薔薇の名を失わない。余人ならばいざ知らず、花を愛で日々生きる女主人には――何事も花を優先する価値観の下に生きてきた彼女には、切り離された自分の指先もまた、変わらず己の指であった。

「こんなずるい勝ち方で御免なさい。茂木先生みたいにTVで活躍して、社会を自ら牽引する強い人には分からないでしょうけど、私みたいに弱い人間が四十も生きているとルールの穴ばかりが視えてしまって。そこを突いてしか生きられないものだから。私も茂木先生みたいに強い大人になれれば良かったのだけれど」

同伴者の場外判定の穴だけではない。今、女主人が指を切り落としたまま長時間意識を保てているのも自ら育てた植物から得た脱法ハーブの興奮作用のお陰であった。そのハーブの服用を管轄外だからと苦笑いで目を瞑った川口の行動も、彼が夢の戦いに積極的だったのは憚らず銃で人を撃てるためだからという理由も、女主人の勝利を築いたあらゆるものが大人の欺瞞により成り立っていた。

「何をおっしゃる! ナイス・アハ・アンド・ビクトリー! これできれいサッパリ! 思い残しナシ!」

それら全ては茂木にとって些末事であった。重度のアハ体験中毒者である茂木にとって、女主人に強烈なアハ体験をさせられた、それだけで万事が許せた。故に、彼が夢の戦いの感想戦で選んだ最後の行動は彼がTVで茶の間に届けるお約束。迷える者への激励であった。彼は両手でピストルのポーズを作り、女主人の未来を指した。

「店主さん、もっと自信を持って! 貴女は世界に一つだけのアハを咲かせられる! ご安心なさい。貴女の脳力は素晴らしい。そんでもって、たかが見たい夢のために指を切るだなんて、貴女の行動力に茂木、ビックリ! ナイス・アハ体験! 根拠のない自信を持て! それを裏付ける努力を貴女は出来る! アハッ! チャオ!」

脳内麻薬が最高にキマッたスマイルはプライス・レス。女主人を残し、茂木の姿は夢の世界から掻き消えた。





夢の戦いは終わり、採石場の姿も朧気に歪み闇に溶ける。消え行く世界で、残すは勝利の褒賞を求めるだけとなった女主人であったが――ことここに来て、彼女は強い思いで臨んだ筈の、夢の戦いの勝者への望みを口に出せずに立ち尽くしていた。

「ああ……でもどうしましょう?」

勝者の瑞夢は見たいだけ。望むならばいつまでも見続けられるという。女主人には自分というものが分かっていた。もし己が望む世界を夢見られたならば、恐らく二度と目覚めることは無いであろうと。

「私が目を醒まさなければ、店の花(あの子たち)は誰が世話するのかしら。お店も綺麗にしないと駄目になっちゃうし。私の情けない姿を警察の人達にも見せちゃうわね。寝たきりの私はどうなるのかしら。お客様もがっかりしちゃうかしら……」

現実を捨てるつもりであった。望む夢にいつまでも溺れられるならば本望と、夢の戦いを乗り越えた。

「駄目。駄目ね。本当に。大人って嫌だわ」

だが、茂木が女主人に残した言葉は今一度、彼女に現実というものの存在感を覚えさせてしまった。――或いは茂木の「疑心」が為した技か。

「折角、夢が叶う時なのに。今が夢を叶える時なのに。こんな痛い思いをしてまでやっと掴んだチャンスなのに。そんな時にまであれこれと考えちゃって。しがらみに縛られて。世間体なんか気にして。夢が叶うその時にまで、夢を叶えない為の言い訳ばかり考えちゃってるわ。ああ、本当に嫌。どうして私、こんな大人になっちゃったのかしら」

失血が酷くなったか、ハーブの幻覚作用がピークに達したか、女主人はこめかみを抑え膝を折った。口をだらしなく開き、舌を垂らし、うずくまったまま唸り声をあげ続けた。

「ああ……困るわ。困ったわ。どうしましょう……私は……」

不意に、糸が切れたように女主人の全身から力が抜け、顔面が消えかけの地面にぶつかる。岩と砂利と、口の中から滲み出た血の味を舌でねぶり、そこで彼女の身体はピタリと震えを止めた。

「――せいか」

譫言めいた不明瞭な言葉を何か一つ、彼女は呟いた。

「決めたわ。妖精さん」

女主人は身を起こし、膝を払い、立ち上がった。顔を丁寧に拭うと脳内に語りかける声に向かい、決然と宣言した。

「私の見たい夢は『大好きな花と好きなだけお喋りできる世界』よ」

それは夢の戦いに臨む前から抱えていた彼女の変わらぬ願い。

「私はもう、嘘は吐かないわ。もう二度と、あの日を繰り返さない。世間なんて知ったことじゃないわ。社会なんて知らないわ。私は私の夢を見るのよ。夢だってこと、忘れてやるわ。もう二度と私がやりそうにないことと一緒に、もう二度と思い出さないように忘れてやるわ。何も残さず、夢の中で幸せに暮らすの」

女主人が幻視する景色は15年以上前のあの日の記憶。全ての歯車が狂い、どうしようもなく彼女自身を社会構造から弾き出したパンドラの箱が開いた日。女主人は身を震わせ、決別する現実へ別れの弔問を叫んだ。

「幾千の針を呑む日を送ろうと、幾万の殴打を浴びせられる日を暮らそうと、分別があれば、自省が、自律があれば、社会を生きよう者ならそれが正しい解答だったのよ! 彼女を祝福し、あの人を言祝ぐ私は、あの日、確かに正しいことをしたわ! けれども、けれどもね! 私は彼女の頬へ祝福のキスを落とした時にあの人の事を忘れさせなかった! あの人を言祝ぎ握手を交わした時に彼女の事を忘れさせなかった! それが正しいことだから! だから私は……あの日に……嘘つきな大人に成り果てたのよ」

女主人の左手小指からは――嘘つきの証たる切り落とされた小指の断面からは、未だどれだけ抑えようと悔恨の涙が零れ、彼女の両手を真紅に染め上げていた。胸奥の鍵をかけた小部屋に隠し続けた醜さの塊、己が本音を余さず吐き出した惨めな女は顔を上げた。逆手に持った包丁を握る左手に力を込め、柄尻を右手で包む。

景色が溶け落ちる世界が一瞬、全ての時の流れを止めた。荒い筆致の油彩画の、中心に描かれた女主人はその時確かに蒼白の相貌に一際紅く艶めく唇をふわりと緩めていた。その唇から発せられた声音は童女のように柔らかく穏やかであった。

「ゆーびきーりげーんまーんうーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます――」

刃は過たず女主人の喉笛を刺し貫いた。



 * * *



「ほらぁ! 起きてー起きてー!」
「……盛華?」

耳をくすぐる聞き慣れた声が女主人を夢の世界から掬い上げた。机に突っ伏し寝ていた女主人は驚いて上体を起こし、机の天板の凹凸を律儀に複写してしまった腕の痛みに一瞬顔をしかめ、しかし自分を覗き込む幼馴染の顔を間近に捉えるとすぐに眼尻を下げた。

「御免なさい。寝ちゃってたのかしら」

女主人は腕をさすりながら周囲を見渡した。都心から少し離れた山間のベッドタウン。そこに造られた新興住宅街の野趣溢れる緑地公園。その広場の一角に設えられたこの休憩所は、女主人と幼馴染と、二人の胸に秘す秘密基地であった。小手をかざし、日除けが作る日陰から外を眺める。真昼の明るさに瞳孔が収縮する音を耳奥に、白い世界が徐々に色を結ぶ。

綺麗に刈り揃えられた芝生は陽光を浴び暖かな大地の匂いを湧き立たせ、緩やかに波打つ緑の草原を仕切る木立を遠目に見やれば桜が葉の繁った枝を張り、光の粒が枝の隙間から幾筋も伸びている。天然のスポットライトに照らされ、幾何学模様に植え込まれたサツキやツツジが黄緑と深緑のグラデーションを作り、その迷路の陰を子供達の黒い短髪と伸ばされた白い腕が走り抜けていった。突然の小さな嵐に驚いた蝶が舞い上がり、木陰に隠れた。

このベンチは、長閑の概念を世界中の玩具箱から収集し整然と並べて魅せる精巧精緻のジオラマ鑑賞の特等席であった。特に、幼馴染と二人で並び座す時においては。幼馴染もまた隣で同様の思いを抱いていたのであろう。間延びした声で感嘆を言葉にした。

「いいお天気だねぇ」
「本当にね。これじゃあ眠くなっちゃっても仕方ないわよね」
「そうだけどー。今日はお店に入れた新しいお花を見せてくれるって約束でしょ?」
「ええ。そうね。そうだったわね」

女主人は立ち上がり、うんと声をあげて伸びをした。共に立ち上がり、身長差から斜めに親友を見上げる形となった幼馴染がその声につられ白い喉を晒して欠伸をし、慌てて口元を手で抑えた。顔を見合わせた二人は暫く黙り、やがて互いに笑い合った。

「それじゃあ、行きましょう」
「うん! よーし! しゅっぱーつ!」

肩は並ばずとも歩調を合わせ、二人は芝生を踏み分け並び歩きだした。段ボールをソリにして遊ぶ子供の突進を幼馴染が慌てて避け、傾いだ肩を女主人が支え、また互いに笑い合い小高い緑の丘の向こう側へ歩を進める。

「そうそう。約束といえば。大人って何だって話の途中だったわね」
「あれ? うーん、そうだったっけ?」

最後に、大切なことを思い出したと女主人は足を止め、小指を差し伸ばし指切りの仕草をしてみせる。眉根を寄せる幼馴染へ、女主人は花咲く笑顔を返した。幼馴染から大輪の白薔薇と賞賛されたその笑顔は、他の誰も知ること無い、常に唯一人の為に向けられるものであった。

「私にとって大人っていうのは――そうね。よく言うでしょう? アレよ」
「アレ?」
「――子供らしさが死んだ時、残された死体を大人と呼ぶのよ」
「何それぇ! 聞いたことないよー?」
「盛華はそれでいいのよ。ええ。ええ。やっぱり、貴女は大学を卒業しても変わらなかったわね」
「ちょっとぉ! よく分からないけど私を馬鹿にしてるでしょー!」
「そんなことないわよ。本当。本当よ」

肌を撫でるように吹く初夏の微風が幽かな音を立て草木を揺らす。緑の芝に銀色の彩が流れる。風に乗り、二人の姦しい声は丘の上から長く梢の葉を震わせ続け、やがて子供達の遊ぶ喧騒に紛れ消えた。人影の無くなった丘の上。葉陰に隠れていた一匹の白い蝶がひらひらと舞い降り、二人の残した花と土の薫りに誘われ丘の向こうへと姿を消した。

この後、女主人は夢の中でどう暮らしたか。花と戯れ過ごす世界で幸福を得られたか。いつか、夢の舞台裏で死に続ける己が死体の夢を見るか。きっと幸せに暮らしたと、或いはいつか目を醒ましたと信じてみたいかもしれない。だが、彼女の未来を追い続けるに、ここは余りに紙幅が足りない。
最終更新:2016年05月14日 15:09