裸操埜八見割折牙プロローグ


夢を見た。
色も形もない、けれど意志だけがある夢を見た。
無色透明な嵐の中、僕は誰かの何かを聞いて、ある筈のない瞼を開いた。
言葉の意味は分からなかったし、伝える意味も知らなかったけれど。
ただ戦えと、そう教えている事だけは理解できた。



「じゃあ、そいつをなんとかして殺せと」

赤い野球帽を被った目つきの悪い女が言った。
昭和を感じさせる内装の埃っぽい室内に存在する4人の内の1人である。
傍らのソファに座すホスト風の男……『斉藤』は黙して語らず、もう1人の仕事仲間はどこかの影の中だろう。
残る1人――40半ばの禿げかかった男がホワイトボードの前で曖昧な笑みを浮かべながら答える。

「ええ、まあ、端的に言えばそういう事になります。困難な仕事ではありますが、そこは一つ、皆さんのお力で」
「分が悪いよな」

組み合わせていた手を解き、指先を合わせて拝むような姿勢でいたホスト風の男が、女の言葉に返すように口を開いた。

「まずリスクが高すぎる。死んでも死なないタイプの魔人を相手にした事はあるが、大体一筋縄じゃいかない。既存の戦法も通じない事が多いし」
「リスクの話すンならさぁ、そもそも『裸繰埜』だろ、そいつは」

女がスプリングを軋ませてソファの背に寄り掛かる。大仰な口調と態度からは『関わりたくない』という本音がありありと読み取れる。
隣の同僚を盗み見れば、両の人差し指を交互にくるくると回転させている。女は深くため息をついた。

「モチベーションが上がらないんだよね。あたしらもプロだし、受けた仕事はきっちりやるけど、その分内容は選ぶから」
「ええ、ええ、わたくし共としましても、極めて難度の高い依頼である事は重々承知しております。
しかし無理は承知の上で報酬を上乗せに上乗せ、こうしてお頼みしている次第でありまして――」
「いいじゃないの」

低く嗄れた声が唐突に場を打った。野球帽の女は不快げに天井を見上げ、
スーツの男は既にこの会話に対する興味を失ったように手遊びに没頭している。
室内を照らす照明の脇――蛍光灯とその土台が産み出すほんの僅かな光の死角から、何かが影を押し広げて部屋を見下ろしている。

「やれるでしょ我々なら。でも斉藤の言う通り分が悪いの確かね。お金倍くれるならわたしやるよ」
「お前さあ、あたしの役割分担計算に入れてないだろ。やるなら1人でやれって」
「俺がやるって言ったらどうする?」

突然の離反に女が斉藤の金髪を眇めた。両肘を膝の上に乗せ、芋虫のように背を丸めて両中指を回転させる様からは
心変わりの要因を見出す事は出来ない。加えて今回の依頼者……厚木と名乗る男の喜色を隠そうともしない表情も女の苛立ちを加速させた。

「いやさぁ、今もう断る流れだったじゃん。いいだろもう、こんなヤマ踏まなくても」
「報酬倍額なら話は別だよ。それならリスクと見合うようになる」
「2対1ね。諦めるよ鈴木」
「ああもううるっせえお前田中、いっぺんあたしと仕事代わってみっか!?ハラワタかき回されて同じ事言えるかコラ!」
「ええ、と……では提示した報酬の倍額で受けていただけると、そう認識しても?」
「いいよ」

『鈴木』はいっそ睨み殺さんばかりの形相で天井を見上げていたが、斉藤が事も無げに承諾すると、
脱力して背もたれに身を預け、なげやりに両手を持ち上げた。
淡褐色に色あせた蛍光灯から、くつくつと軋るような笑い声が漏れた。
低い笑声も露骨な舌打ちも意に介さず、斉藤は3本指を立てた。

「必要なものがあります。現場の詳細な地図と、リアルタイムで確認可能なターゲットの動向と、経費。
 それからタスクの成否に関わらず前金を頂きます。報酬と別にこれらを用意してくれるならやります」

こうして、交渉は極めて民主的かつ平和的に解決された。契約がこじれた際の面倒を思えば、
これは実際最善と称して不足の無い結末であったと言える。
仕事を受けた彼等がこれから辿る道程と比すれば、それは尚更であった。




裸操埜八見割折牙は冬眠から目覚めた熊のようにのそりと身をもたげた。
当座の根城としている建設途中で放棄されたビルは隙間風がひどく、都会の寒風は山育ちの身にも応える。
少女は長い肢体を折り畳み、ボロ布を寄せ集めてしっかり身体に巻きつけると、一つ大きなあくびをした。
妙な夢を見た。何の印象も残らない、しかし確信めいた予感だけを抱かせる夢。
それは今日の晩、見た事のない誰かと、訪れた事のないどこかで戦うという確定した運命を知らしめた。
誰が何故そのような事を教えたのかは分からないが、少女は深く考えようとはしなかった。
折牙にとって大切なのはその時を楽しむという事であり、その条件さえ満たしているならおおよそ充足を得られるからだ。

ふと、夜も明けきらぬ廃ビルに小さな足音が響いた。
イヌ科の動物が度々そうするように、折牙は天井を見上げて鼻をひくつかせた。
季節外れの肝試しに来た若者か、己と同じく寝床を求めて彷徨い込んだ浮浪者か。
足音は特段遠慮する風でもなく、徐々にこちらへと近づいてくる。
折牙はボロ布を払いのけ、爪先に穴の空いたスニーカーを脱いで寝床の傍らに並べた。
衣擦れも靴の音も室内では存外響くものだ。今こうして獲物が自分の位置をおおっぴらに知らせているように。
折牙は張りのある肝臓の滑らかさや歯ごたえのある心臓、
そこから溢れ出る温かな鮮血の塩味を思い浮かべ、静かに唾を飲んだ。
身を屈め、四つん這いの体勢を取る。しなやかな身のこなしが体重を効率的に分散し、480kgの質量を無音で運ぶ。
獲物を狙う蜘蛛のように静かに迷い無く、捕食者は行動を開始した。




迷宮のようだと思った。
廃ビルの内部はあちこちが崩落し、かと思えば鉄骨の橋が架かり、唐突に行き止まり、
迂回を繰り返す度に侵入者をより奥へと引きずり込む。明らかに尋常な建物では無い。
こんな所を自在に動けるのはこの立体迷路を作り出した張本人か、
あるいは地形を無視して移動出来るような膂力を持つ者だけだろう。
ふとした想像が脳裏を過ぎる。クレタ島の迷宮に住まう牛頭の怪物、
その住処に放り込まれた生贄とはこんな心境であったろうか。
怪物に差し出された贄と今の自分に然したる違いは無い。鈴木は文字通りの『生餌』である。
斉藤と田中と自分のスリーマンセルでこれまで数多の魔人を狩ってきた――とは言え、
何度やってもこの役回りに慣れる事など無い。死に慣れるのは死人だけだ。

地形に沿って歩く内、誘い込まれるように広い部屋に出た。ワンフロア丸々ぶち抜いた、
要するに360度から襲われる可能性がある部屋だ。
野球帽をかぶり直す。恐れを気取られぬよう、慎重に注意深くその場に座り込む。
何も知らずに迷い込み、疲れ果てて休息を取る無軌道な若者を装う。
この役割を幾度と無く繰り返す内、身に付いた物がある。
敵意、殺意、悪意、害意、あるいはそれら全て。仇為す意志の発露、その形となる瞬間を察知する。
あまりにも短すぎて何に役立つ訳でも無い、身構えるのが精々の僅かな猶予。
しかしその一瞬が死という絶対的恐怖からギリギリの所で精神を守ってきた、
小さな防波堤である事は疑いようも無い。少なくとも彼女自身はそう信じていた。

故に、鈴木は一瞬にして二度死んだ。




大型の肉食獣が獲物を捕食する際の心境とはどのようなものだろう。
鋭い牙を剥き出し、狂猛な瞳に殺意を灯して、一切の容赦無く血肉に喰らい付く。
そのようなイメージは幻想であると斉藤は知っている。
わざわざ動物園に出かけて餌やりの時間を待つまでも無い。
絶対強者と恐れられる者共との戦いは彼にとって日常であるからだ。
だから解る。獲物を前にした捕食者はとても静かだ。殺意も敵意もありはしない。
人が食事に際して殺意を剥き出したりしないように、その女もまた静粛に捕食を開始した。

天井の裂け目からぬるりと這い出してきたかと思った瞬間にはバネ仕掛けのように跳躍し、
鈴木の延髄に不可逆なダメージを与えた。目の前に転がった鈴木の頭を見て、
斉藤は少々気の毒な気持ちになった。心構えをする間も無く殺されてはそんな顔もしたくなろう。
鮮血を噴出して傾く鈴木の身体を鷲掴むと、切り口から背骨に沿って指を入れて捌く。
熟練の板前を想わせるような惚れ惚れする程の手際。一秒に満たない時間で開きにされた
鈴木の身体になおも手を入れ、まさぐり、腑分けていく。
人の臓器がどのように収まり、どうすれば上手く外れるのかを熟知しているのだろう。
その手付きにはおよそ迷いが無い。肉を掻き分ける粘質の音が広い室内に響く。
筋線維を断つ音、脂肪を裂く音、骨を外す音、臓器を剥がす音。

ぶつり、と。茹でたてのソーセージにフォークを突き立てる音を十倍重くしたような異音が混じった。
つまり、田中のナイフが標的の喉元に突き立った音だ。
女の顔にまず浮かんだのは怒りや苦痛では無く疑問の表情だった。
気配を断ち、死角からの奇襲で獲物を仕留め、周囲の安全を確保した筈の今、何故攻撃されているのかと。
もっともな反応である。鈴木の体内に潜んでいた田中はもとより、
鈴木の前方5メートルの位置に腰を下ろしていた斉藤の姿さえ、彼女には見えていなかったのだから。
その能力の名を斉藤は知らない。彼が能力について知っている事は三つ。
鈴木の半径10メートル以内に鈴木が仲間と認識する人間が一人でも居ればその間は
何があっても死なないという事、能力が発動している間、鈴木に攻撃する意志のある者は
鈴木しか目に入らなくなる囮のような効果があるという事、そして鈴木が攻撃されてから
対象が何らかのダメージを受けると“囮”の効果は解除されるという事だけだ。
単独では何の役にも立たない、チームありきの能力である。
いかにしてこのような能力が発現したか、斉藤がそこに興味を抱く事は無い。
重要なのは、攻撃手如何によってはこの上なく暗殺に適した能力となるという点だ。
それは例えば田中のような、およそ影と認識される領域にはどこにでも潜り込めるような能力者を指す。

「キヒッ」

顔面に巻かれた真黒な包帯から怪笑が漏れると同時にナイフがより深く捻じ込まれる。
ごぼりとくぐもった水音が少女の喉から溢れた。細い腕――見かけに反して恐るべき怪力を秘めている筈だ――がナイフを握る
田中の手首を掴もうとしたが、影の反応は素早かった。一瞬の判断でナイフを引き抜き、再び鈴木の体内に潜む。
この場の誰しも、この程度で標的が死ぬとは考えていない。

「ア――」

少女が右腕を振り被る。狙いは鈴木と田中だろう。戦闘型魔人と言えどあの手傷でまだ反撃する意志があるのは驚嘆に値する。

「でも、あんまり壊されても困るんだよな。直すの大変なんだから」

右腕は盛大に空を切った。目測を誤った訳では無い――どころか、その手刀は田中の潜む腎臓を的確に狙っていた。
外れた理由は明快である。位置がずれたのだ。より正確に言えば突如床が変形し、少女の座る場所を山なりに“持ち上げた”。
同時に天井の一部分が凹み、少女の体を挟み潰した――かに見えた。

「お、堅い」

思わず呟いた斉藤の両手の間には、半透明の糸によって編まれた箱型の立体図がある。
箱は今、あやとりの要領で上下から器用に挟み潰され、横から見れば丁度ボウリングのストライクを表す図形のようになっている。
己が室内であると認識した空間を糸で編んだ箱に対応させ、縦横無尽に地形を作りかえる……それが斉藤の能力だ。
鉄骨でもコンクリートでも破壊を伴わず滑らかに変形出来る為、攻撃、防御両面で幅広く応用が可能である。
本来であれば圧死させる所だが、少女の体が材質の耐久力を上回っている。豆腐で人を挟み殺せないのと同じ理屈である。
だがいまや標的は胴体を床と天井に挟まれ、さながら俎板の上の鯉。
喉から流れていた血が煙のように蒸発し、傷は治癒しつつあるが、この体勢に陥った時点で打つ手は無い。
斉藤は傾斜に従って己の足元に転がって来た鈴木の身体をどう回収するか思案しつつ言った。

「抑えられてる内に殺しきってくれよ。奥の手が無いとは限らないんだから」
「心配性直らないね斉藤。少しは楽しみ覚えないと早死にするよ」

凹んだ天井の曲面上、標的の真上からナイフを握った黒い手が伸びる。
夜という巨大な影が支配する時間、室内であれば移動出来ぬ場所は無いと言っても良い。
先程より赤みがかった髪の隙間に狙いを付け、刃を刺し込んだ。
田中の能力は生物の体内にも入り込めるが、その為には対象の許可が必要となる。
殺す為には使えないし、彼自身がそれを望まない。彼は獲物が恐怖し苦悶する様を見る事を生き甲斐としていた。
だからこそ今回の標的は最高の玩具だった。動きを封じた獲物をたっぷりといたぶる事が出来るのだ。
あと何度刺せば死ぬかと心を躍らせながらナイフを引き抜いた瞬間、田中はふと違和感に気付いた。

「え、」
「あ」

斉藤と田中が声を上げたのはほぼ同時だった。
少女は右腕をぎりぎりまで後ろへ回していた。頭上の田中を捉えようとしての行動では無かった。
引き絞られた矢のように力が解放され、右腕が少女の腹の下……己を抑えつける床をごっそり抉り飛ばした。
それによって生じたスペースを利用して身体を回転させつつ、遠心力を付与した貫手で田中の肩を貫いたのだ。
反応する暇もありはしなかった。廃ビルを震わせる程の絶叫を他所に、裸繰埜八身割折牙は力任せに“獲物”を巣から引きずり出した。

「あー……ダメだこりゃあ」

口調とは裏腹に斉藤の行動は早かった。スーツのジャケットを広げると鈴木の肉体を拾い上げ、
風呂敷よろしく包むと、吹き抜けているビルの外壁に向かって脱兎の如く駆け出した。
折牙に組み敷かれた田中が目を剥いた。恐らく呪詛の類を口にしようとしたが、
言葉が形になるより先に、少女の両手が優しく頚椎をへし折った。

(南無三、成仏してくれよな。これもアンタのサディズムが招いた結果だ)

斉藤は振り返る事も無く、心の中で念仏を唱えながら夜の海へとダイブした。





「うん、うん。そう、僕を狙ってたっぽい。プロ?多分プロだと思うよ、プロだと思う。うん」
「うん?三人だよ。三人、うん。え?一人だよ、捕まえたのは。えっ、ダメなの?全部殺さないと?」
「うーん、じゃあ今度からそうする、そうするよ。捕まえた人?今食べてるよ、今食べてる。情報?知らない」
「……んー、なんかそれ裸繰埜っぽくないって思う。思うよ僕は。食べたい時に食べる、遊びたい時に食べる。
 本能にチュージツなのが裸繰埜の良い所だって、僕は思うけど。かーちゃんもそんな事言ってたし」
「うん、うん。分かった分かった。なるべく電話するって。そんなに怒んないでよ、怒んないで」
「あ、そだ。僕、今日の夜はダメになると思うから。え?アレ、なんか白い夢。白い夢?なんか色の無い……」
「だってそうとしか言えないんだもん。そうとしか言えないよ。だから今日だけ守って欲しいなって」
「……ああ、多分それ。噂になってるの?ふーん。良いじゃん、楽しそうだし」
「じゃあそういう訳だから、今晩はよろしくね。うん、よろしく。それじゃ」
最終更新:2016年01月25日 20:53