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遠吠え

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遠吠え
 その路地裏には、大抵の物が転がっている。
 鉄パイプ、雑誌、車のタイヤ、ビニールのはがれたソファー、ネームプレートのはがれた犬小屋、パソコンのディスプレイ。
 駅の北口を抜けて徒歩五分。再開発の進む南側とは対照的に、見捨てられた迷路と揶揄されるビル街。無計画に建てられた建造物の隙間には、至る所にデットスペースが存在している。
 そんな中の一角に『相談所』と呼ばれる彼の住処はあった。
 排煙にまみれた朝の空を見上げながら、彼は今日も相棒を待ち続けている。
 ――この街にあるものは、あっと言う間に風化するんだよ。
 口癖のように彼はそう繰り返していた。
 建築途中で打ち棄てられたビル、聞こえなくなった子供の声。この街で夢や希望という言葉を耳にしたのは、一体いつのことだったか。
 すっかり変色したソファーに寝そべりながら、彼は退屈そうに欠伸をしていた。

「また随分汚らしい所に住んでらっしゃるのね」
 まどろみの中にあった彼の意識は、甲高い声によって現実へと引き戻された。
 また相談客か、ため息をつきながら重い瞼を上げる。フリルのついたピンクの服に身を包んだ妙齢の女が、『相談所』の入り口である通路に立っていた。
「ここにくれば悩みを聞いてくれると聞いて来たのだけれど」
 いかにも面倒そうに彼は頷く。その態度を彼女は気にいらない様だったが、咳払いを一つして口を開いた。
「最近うちの主人が冷たいのよ。昔は休みの日には一緒に散歩に行くのが決まりでしたのに、最近は一人で行ってこいと放り出されますの。散歩は私の生きがいといってもいいものですのに」
「……俺も散歩は好きだよ、マダム」
「そうでしょう? まあ貴方のような身なりだと、散歩と言うより徘徊といった方が正しいのでしょうけれど」
 見下すような視線を向ける彼女に、彼は腹を立てる事は無かった。寧ろその通りだと自嘲していた。
 雨に打たれ、泥にまみれ、そして年老いた。今の俺を見た相棒は俺だと分かってくれるだろうか。その事を考えると、彼は少しだけ寂しさを感じる。
「それで、その主人をどうにか懲らしめる方法は無いか考えていますの」
「マダム」彼女の言葉を遮る様にして、彼は口を挟んだ。
「はじめてご主人抜きで散歩に行った時はどうしてたんだい」
「先ほども申し上げました通り、私は散歩が好きですから、走っていきましたわ。主人が後ろにいないと気がついたのは、しばらくしての事だったかしら。まったく、酷い話だと思いません?」
「マダム」よくある話だと、彼は欠伸を噛み殺す。「あんたのご主人は心配になっちまったのさ」
「心配?」
「そうさ。あんたが散歩に行くのが好きなのか、それともご主人と一緒に散歩に行くのが好きなのかってな」
 不満顔だった彼女は、いつの間にかぽかんと口を開けていた。
 それが当たっているという確証は、彼には無い。どちらでもいいのだ。少なくとも、あんな服を買ってもらう彼女が愛されていないって事は無いだろうから。
 結果的には彼女は満足したのだろう。彼に一礼をすると、軽い足取りで相談所を後にしていた。
 その後姿が角を曲がって見えなくなるのを確認すると、彼はまた欠伸をする。待ち人は来ない。風化していく自分を感じながら、目を閉じた。

 二度目の目覚めは昼過ぎの事だった。物音で目を開くと、見知った顔がパソコンのディスプレイを覗き込んでいるのが見えた。
「よう兄弟、お目覚めかい」
「……お前さんのお陰でご機嫌な目覚めになったよ、ジョン」
 そうかそうかと笑いながら、ジョンはモニターを鏡代わりにして身だしなみをチェックしている。
「相変わらず『相談所』は繁盛しているらしいな、兄弟」
「……そりゃ皮肉か? 俺は日がな一日寝ている方が性にあってるんだぜ」
 きっかけは友の相談を聞いた事だった。それを続けていくうちにどういう訳か噂を呼び、尾ひれがつき、今では彼の住処は立派な『相談所』となってしまっている。ついでに言えば、最初の客はこのジョンだった。
「兄弟、それが嫌ならとっととこんな所から移っちまえばいいのさ。飯場が近くて屋根のある所くらいなら紹介してやれる」
「ジョン」彼にしては珍しく、怒気を含んだ声だった。「それは、駄目だ」
 やれやれと、ジョンはため息をつく。
「そりゃ意地かい? それとも懐旧か?」
「強いて言えば」錆びかけた記憶を引っ張り出しながら、思う。「義理だ」
「……今時そんなのは流行らないぜ、兄弟」
 それは、いつも繰り返されるやり取り。
 頑固な彼がここから動かない事は、ジョンにだって分かっているのだろう。だがジョンは『相談所』に通う事をやめない。そんな友を嬉しく思いながらも、脳裏に浮かぶ遠い日々の情景は消えてくれない。
 幼い頃の事だ。彼は捨てられていた。ダンボールの隙間から覗く空から雨が降っていたのを思い出す。
 悲しいとか、何故捨てられたのかとか、そんな事を思う暇は無かった。ただ寒くて、お腹が空いていて、そしてただ、寂しかった。
 どれくらいそうしていたのかは分からない。
 そんな彼を救い上げたのは、当時の彼と同じくらい小さな手だった。
 少年は彼に住処と食事と、そして名前をくれた。彼は少年に感謝していたのに、少年はいつも悲しそうに笑っていた。ごめんねと繰り返すのを止める事ができなかった。
 路地裏の迷路を、彼は少年とよく走っていた。名前を呼ばれるのが嬉しかった。草の臭いのする少年が、彼は好きだった。
 だけど、いつしか少年は来なくなった。
 そして彼に残ったのは、少年の最後の言葉だけ。ここで待っていて欲しいと、寂しそうに笑いながら。
 それから段々と、この街は静かになっていった。
 いくつかの冬が過ぎて、彼の体は好きだった小屋に収まらなくなっていた。
 止まった街。転がっている様々なモノは、ただ静かに風化していく。
 もう、少年のくれた名前すら、思い出す事が出来ない。

「なあ、兄弟」
 寝そべったまま動かない彼に、ジョンは語りかける。彼がそのソファーから降りている所を、ジョンが見なくなって随分になる。
 彼はただ退屈そうに、聞いているかどうかも分からない様子だった。耳はぱたんと倒れている。あれは機嫌が良い時のポーズだったなと思い当たり、ジョンは続けた。
「今度は俺も相談に来るつもりだよ。頑固な友を説得するにはどうすればいいかってな」
 ジョンは少しだけ彼が羨ましかった。待つ人がいた事、そしてそれを信じ続けられた事。
 最後の言葉は、彼らしい言い回しだったとジョンは思う。頑固で意地っ張りで、そのくせ素直に自分の感情を表現できないのだと、長い付き合いで知っていた。
 だからと、ジョンは空を見上げる。排煙の混ざった青は、いつの間にかオレンジへと変わろうとしていた。
 思い切り息を吸う。色褪せないように、風化してしまわないように。
 その遠吠えは路地裏を抜けて、どこまでも響いていくかのように思えた。
<了>

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